表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

短編小説

夫に手酷く裏切られた妻が離婚して幸せになる話

作者: あんこ

読んでくださりありがとうございます。

数年前に書きかけの話が出てきたので、最後まで書いてみました。長いです。

 愛情のまるでない結婚よりもっと悪い結婚がひとつある。それは愛情があっても片方だけの場合である。――オスカー・ワイルド



***



 夕日が差し込むリビングに佇み、辻口理穂子は室内を見渡した。自分の荷物は少しずつ新居に移していたので、残った荷物は小さなボストンバッグひとつ。


 ――十一年。

 長いような短いような、結婚生活だった。とはいっても、この一年半はとても夫婦と呼べるような状態ではなかったので、結婚生活は実質十年間ということになるだろう。

 苦しんだ時間は長く、終わりは驚く程呆気ない。


 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 この一年、毎日のように考えた答えのない問いが、頭の中をぐるぐる回っている。


 何が足りなかった?

 何がいけなかった?


 どうすれば、自分は晃との結婚生活を守れたというのだろう。今更考えてもどうしようもないというのに、頭に浮かぶのはそんなことばかりだ。


 良い時もあった。ふたりで笑い合い、これからもずっとこうして過ごしていきたいと思えるような、そんな幸せな時間も確かに存在した。辛いだけでの結婚生活ではなかったはずだ。


 けれど、淡い期待を抱いては日々裏切られ続けたこの一年半は、それまで積み重ねてきた思い出たちすべてを帳消しにしてしまうくらい、理穂子の精神を傷付け消耗させていた。

 このままでは、自分が自分でいられなくなると思った。

 晃との生活を続けていこうと思うのならば、晃を壊すか、自分が壊れるか、選択肢はそのふたつしかなかった。理穂子に出来ることは、晃の元を去ること――それだけだった。


「理穂子さん、大丈夫?」


 野本香織が心配そうに理穂子に声をかける。

 香織は大学時代のサークルの後輩、野本修司の妹だ。ショッピングモールで偶然再会した修司は、理穂子が晃との関係に苦しんでいることを知り、力になってくれていた。弁護士を紹介してくれたのも修司だ。


 理穂子が実家の家族とあまり上手くいっていないことを知っている修司は、自分は仕事で行けそうにないから、と引っ越しの手伝いに妹の香織をよこしてくれた。勿論、これ以上迷惑をかけるのは忍びないと遠慮した理穂子だが、意外にも押しの強い香織に押し切られ、引っ越しの準備を手伝ってもらうことになった。


 修司から何度か名前を聞いたことはあるものの、実際に会った香織は生命力の漲った、明るい女性だった。自身の兄から事前に、晃が理穂子にした仕打ちを聞いていた香織は憤慨しており、ボルテージマックスの状態で理穂子の家に突撃してきた。どちらかというと大人しい気質の理穂子は些か面食らったものの、話をしてみると正義感に溢れた素直ないい子で、すぐに好感を抱いた。

 

 その香織が、眉を下げてしょんぼりした顔で理穂子を見ている。


 これからひとりで生きていかなければいけないというのに、年下の女の子にこんな顔させてしまうようではいけない。

 理穂子は無理矢理に笑顔を作ってみせる。


「いけないわね。つい、感傷に浸っちゃって」

「そんな……そんなの、当たり前です」


 真剣な眼差しの香織が、今の理穂子には眩しい。

 自分にも香織のような時期があったのだと、理穂子の中の大人になりきれない部分が叫んでいた。


「さ、あとはこれだけだから、香織ちゃんは向こうで休んでいて。手伝ってくれてありがとうね」

「理穂子さん……。私が言うのもなんですけど――本当に、いいんですか」


 目の前に積まれた写真の山を見て、複雑そうな顔をした香織が問いかける。


「何も、写真まで捨てることは……」

「いいの」


 小さなテーブルいっぱいに積み上げられた写真の山が、十一年の結婚生活――付き合っていた頃から数えたら十五年の月日だ――にしては多いのか少ないのか、理穂子には判断がつかなかった。

 ここ最近では写真を撮る機会もめっきり無くなっていたので、ここにあるのは新しいものでもせいぜい二、三年前のものだ。写真の中で微笑んでいる自分は、鏡に映る現在の自分とはまるで別人のよう。理穂子はおもむろに写真の束を手に取り、シュレッダーに差し込んだ。


「こうしなくちゃ、駄目なの」


 自分でも上手く説明出来ない。ただ捨てるだけでは駄目だった。どうしても、こうしなければいけないと、そう感じる。


「もう私たちは、二度と夫婦には戻れない。だからこんなもの、もう必要ないの」


 付き合い始めた頃の写真。サークルの仲間と一緒の写真、北海道旅行、結婚式、遊園地――写真はどれも、不仲になってしまう前の仲睦まじい理穂子と晃が映っていて、現在のような未来など微塵も感じさせない、幸せそうな笑顔を浮かべている。


 初めて出会った日のこと。初デートした日のこと。告白された日のこと。初めて喧嘩した日のこと。初めてキスした日のこと。プロポーズされた日のこと。沢山の人に結婚を祝福された日のこと――出会ってから今日まで、結婚前から数えて十五年の間、色々なことがあった。そのどれも、今でも昨日のことのように思い出せる。


 ずっと隣にいたかった。

 支えあって生きていきたかった。

 寄り添って歩み、共に年を取っていけたのなら、どんなによかっただろう。


 次々と写真をシュレッダーにかけていく理穂子の背中を、香織はただ何も言わずじっと見守ることに決めたようだった。



***



 理穂子と夫の晃が出会ったのは、大学のテニスサークルだった。

 入学してすぐのオリエンテーションでたまたま隣の席に座っていたのが晃だ。

 

 人見知りな性格が災いして、理穂子はまだ友達の一人すらいなかった。突然隣に座って来た晃は、何故かあれこれ話しかけて来て、理穂子を昼食に誘った。

 流されるまま食事をして、気付けば同じテニスサークルに入ることになっていた。


 長身で流行りの俳優のように整った顔をした晃は、その明るい性格も相まって男女問わず人気があったが、理穂子の何処を気に入ったのか、不思議と声をかけられることが多く、晃が隣にいるのが自然になった。

 そのお陰で、理穂子にも友人が出来た。運動はあまり得意ではないと思っていたが、高校までの体育の授業とは違い、仲のいい仲間と軽口を叩きながらの練習は楽しく、運動自体が嫌いだったわけではなかったのだと知った。


 一年の夏、サークル仲間と出掛けた合宿で晃に告白された。皆には内緒で理穂子を夜の海に呼び出した晃は、理穂子が告白を受け入れると喜びのあまり、叫び声をあげながら夜の海に飛び込んでびしょ濡れになった。危ないと、咄嗟に手を差し出した自分を晃が引っ張り、結局二人してびしょ濡れになったのはいい思い出だ。

 翌日、実はホテルの窓から二人の逢瀬が丸見えだったことを知ったときは赤面したが、仲間はからかいながらも祝福してくれた。

 

 付き合い初めてすぐの頃、どうして自分に話しかけてくれたのか聞いたことがある。

 何事にも物怖じしない晃が珍しく耳まで真っ赤に染め、小さな声でぽつりと教えてくれた。一目惚れだと。


 晃のような素敵な男性が自分を好きになってくれるなんて信じられなかった。きっとすぐに醒める夢だと。

 それでもいいと思った。例え一時でも、宝物のような時間を過ごせるならそれで。


 そんな理穂子の予想とは裏腹に、晃は理穂子から離れることはなかった。訳あって一人暮らししていた理穂子のマンションに頻繁に泊まり込み、大学の後半には半同棲のような生活を送っていた。

 いよいよもって大学を卒業し、晃は有名商社の営業、理穂子は地元の中堅企業の事務員として勤めることになった。


 周囲には就職を機に別れるカップルも多かったが、晃と理穂子の仲は順調だった。相変わらず半同棲のような毎日が続いていた。平日は穏やかに過ごし、週末になると二人であちこち出掛け、夜は情熱的に愛を交わし合った。

 そうして就職し三年が経った頃、晃からプロポーズされた。「一生守る、だからどうか俺を選んでくれ」と。

 家族というものに飢えていた理穂子は、二つ返事で了承した。


 結婚を機に、理穂子は勤めていた会社を退職した。

 晃はまめな男だった。結婚してからも、結婚記念日や誕生日は欠かすことなくプレゼントや花を送り、愛を囁いてくれた。専業主婦だから、とすべての家事を理穂子に押し付けるようなことはせず、休みの日には洗濯や掃除も率先してこなしてくれた。

 ふたりでの生活は順調だったが、ただひとつ問題があった。

 結婚してからも、ふたりの間には子供が出来なかったのだ。密かに病院を受診した理穂子は、自分が子供が出来にくい身体だと知った。

 離婚を覚悟で打ち明けると、晃は別にそれでもいいと言ってくれた。子供は授かり物だから、と。

 子供がいてもいなくても、理穂子がいてくれるだけで幸せだと。


 こんな素敵な人と結婚出来た自分は、なんて幸福なんだろうと思った。生涯続くことを願ったその幸せな日々は呆気なく崩れ去った。


 始まりは晃の態度が妙に素っ気なく変わったことだった。仕事柄、残業や飲み会も多い晃だが、以前よりその頻度が増えた。そして帰って来た晃は、知らない香りを漂わせていた。

 まさか晃が、と見て見ぬふりをした。真実を知るのが怖かった。この時きちんと晃と向き合っていれば、未来は変わっていたのかもしれない。

 けれど理穂子は抱いた疑念に蓋をした。


 段々と夫婦で過ごす時間は減り、会話は少なくなった。

 その内、事前の連絡さえなく外泊することが増えた。休日も仕事と偽って出かけていく晃を、引き留める術を理穂子は持っていなかった。

 近頃ではもう、晃は相手の女性の存在を隠すことすらしなくなった。家政婦となんら変わりない存在になり下がった自分が惨めで悔しくて、一人声を殺して泣いた。


 もう駄目だと思った。これ以上は耐えきれないと。何度も荷物を纏めて出ていこうと思った。その度に、まだ心の奥底に残っていた晃への愛情が、自分を引き留めた。

 

 一縷の望みを託して、一度だけ告げたことがある。彼女と別れて欲しい、と。

 十年目の結婚記念日の前日だった。浮気がばれていることに焦るわけでもなく、謝罪するわけでもなく、晃は特に反応せずいつも通り出社していった。

 その夜、晃が帰ってくることは無かった。

 


***



「香織ちゃん、今日は本当にどうもありがとう」


 ついでとばかりに、新居まで車で送ってくれた香織に理穂子は深々と頭を下げた。


「いーのいーの。ちょうど帰り道だしさ」

「香織ちゃんと修司くんには、本当になんとお礼を言っていいか分からないくらいお世話になって……力になってくれてありがとう。また後日、改めてお礼に伺います」

「ちょっとちょっと、理穂子さんやめてよ」


 香織が慌てた様子で理穂子の身体を起こす。


「でも、本当の気持ちだから」

「理穂子さん、大袈裟。こういう時は、目いっぱい他人に甘えたっていいんだよ。理穂子さんは頑張りすぎ」


 屈託のない顔で香織が笑う。香織といい修司といい、この兄妹といると、不思議と心が休まる。


「ありがとう……」

「うん」


 言った理穂子の頭を、香織が撫でる。


「よしよし。なんてね。なんか、理穂子さんて年上なのにこうしたくなっちゃう。放っておけないっていうか……理穂子さん理穂子さん言っているお兄ちゃんの気持ち、ちょっとわかるな」

「私、頼りないから……香織ちゃん見習って、これからはもっとしっかりしなくちゃって思っているんだけど」

「違う違う!そういう意味じゃないよ。悪く取らないでね。なんて言ったらいいのかなぁ」


 慌てた様子で、香織がフォローする。


「可愛い、って、こういう人のこというんだな、って」

「私が、可愛い……?」

「うん、理穂子さん可愛いよ」


 可愛い――そんな風に誰かに言われたのは、いつぶりだろう。

 思いがけない言葉にどんな反応を返していいかわからず、理穂子は困惑した。四十も目前になると、他人から可愛いといわれることなど、そうはない。お世辞だとしても、ありがたく受け取っておくべきだろう。


「あの……ありがとう」

「あっ、その顔は信じてないでしょ!?」

「お世辞でも嬉しいよ」

「もー。理穂子さんってやっぱ放っておけないタイプだわ」


 香織が大袈裟に溜息をついてみせる。香織がやけに明るく振る舞うのは、必要以上に空気を重苦しくしないためだと分かっている。


「本当にありがとう。ふたりには何かお礼したいんだけれど、何がいいかな」

「ふたりって、私とお兄ちゃん?」


 理穂子が頷く。


「お礼なんていいよ。理穂子さんが元気になってくれることが一番」

「それじゃ私の気が済まないの。お願い」

「うーん……そう言われてもな――あ」


 何か思いついたというように、香織が表情を明るくして笑みを浮かべる。


「じゃあ、私、理穂子さんの手料理が食べたいな!料理上手なんでしょ、理穂子さん」

「えっ……普通だと思う」

「んーん。お兄ちゃんが言ってたもん。理穂子さんの料理、すごく美味しい、毎日食べたいくらいだって」

「修司くんが……?」


 大学時代や、就職後サークルの仲間で集まった時に何度か皆に料理を振る舞ったことはあるが……その時も別に、大した料理は作っていない。晃はここのところずっと、理穂子が作った料理を食べることすらなかった。

 そんなことでお礼になるだろうかと逡巡する理穂子に、香織は口の端を持ち上げニヤリと笑った。


「ってことで、OK?」

「う、うん。本当にそんなのでいいなら……」

「わーい!じゃ、お兄ちゃんには私から連絡しておくね!」


 満面の笑顔で手を振り再び車に乗り込むと、香織の車はあっという間に通りの向こうへ消えていった。

 風のようだった。自由に自分の行きたいところへ行き、周りの雑音など瞬時に吹き飛ばしてしまう、一筋の風。


 香織の消えた方向をじっと見つめる。

 胸に抱いたその気持ちが憧れであることを、その夜、真新しい布団の中で、理穂子は初めて自覚した。



***



 野本修司は緊張していた。今日はお礼という名目で、大学時代のサークルの先輩――理穂子の家で妹の香織とふたり、夕食をご馳走になる予定だ。

 修司は複雑な心境で鏡に映る自分の全身を見つめた。


 理穂子にとって自分は、単なる大学時代に所属していたサークルの後輩であり、元夫である晃の友人である。今日の理穂子からの招待にお礼以上の特別な意図が無いであろうことは、修司が一番よく分かっている。


 それだというのに、昨日の夜は緊張で中々寝つけなかった。まるで初めて好きな女の子の家に招待された中学生のようだ。

 情けない気持ちで溜息を吐きながら、修司はスーツを脱いだ。散々何を着ていくべきか、クローゼットの中と睨み合いをした結果――無難にスーツを着てみたのだが、休日に友人宅を訪れる服としては相応しくない堅苦しい雰囲気だ。

 理穂子にとっては、離婚に向けての手助けをしてくれた自分たち兄妹に対してのお礼というそれだけなのに、妙な気合が入っていると思われたくはなかった。


 瞼を閉じると、理穂子の顔が浮かぶ。


 自分が理穂子にしたことは、本当に正しいことだったのか――?


 修司は葛藤していた。あのままの状態で良かったわけはない。

 理穂子が前に進むために、晃との決別は必要なものだった。それは間違いない。


 そう思う一方で、理穂子が晃と別れることを、理穂子ではなく、自分自身のために望む気持ちが全くなかったか、というと、それも否定しきれない。


 遙か昔にけりをつけたはずだった想い。

 しかし今、どうしようもないほど理穂子に惹かれている自分がいるのは隠しようがなかった。


「おにーいちゃん♪」

「うわあ」


 呼ばれて顔を上げると、いつの間にか香織が部屋の扉を開けて、顔を覗かせていた。修司の様子を観察していたらしい。その顔には意味ありげな笑みが浮かんでいる。


「なんだよ、驚かせるな」

「何度も声かけたってば。お兄ちゃんが鏡に夢中で気が付かないみたいだったからさ」

「……見るなよ」


 修司は努めて平静を装った。


「何の用だよ?」

「気合い入りすぎに見えるから、スーツは止めた方がいいね」

「……わかってるよ」


 シャツを脱ぐ修司を香織がじっと見つめている。


「なんだよ。自分の兄の着替えを覗くのがそんなに楽しいか」

「うん」


 香織が恥ずかし気もなく笑顔で頷く。


「ひとりでファッションショーしてるんだもん。こーんな真剣な顔で」


 そう言って、香織はわざとらしく眉を寄せる。どうやら修司の真似をしているつもりらしい。


「う、うるさいな。なんの用だ」

「私が服、選んであげよっか?」

「いいから。用件は」

「えー折角理穂子さんが惚れちゃうような服を選んであげようと思ったのに」

「香織、馬鹿なこというな。理穂子さんは離婚したばかりだぞ」

「だから何?」


 香織がきょとんとした顔で修司を見つめる。


「何、って、お前……」

「好きな人が傷ついているんだよ。放っておく方がいいっていうの?」

「好きな人って、俺は別に……」


 真っ直ぐな香織の視線に、修司は思わず目を伏せた。

 理穂子を好きだと、そう言葉にしてはいけないような気がしていた。


「とにかく、何の用だ。約束の時間まではまだあるだろ」

「ま、いいか。今日のことなんだけど」

「どうした?」

「私、急な仕事が入っていけなくなっちゃった」

「何っ!?」


 修司は驚きに目を見開いて香織を見つめた。香織は目を細めてにやついている。


「だから、とぉっても残念だけど、お兄ちゃんひとりで行ってきてね」

「おまっ……!どういうつもりだ」

「ふふ、いい妹でしょ?」


 香織が修司に向かって片眼を瞑る。


「あのなぁ!」

「とにかく、理穂子さんには私から後で連絡入れて謝っておくから。気を付けて行ってきてね、お兄ちゃん」


 修司の肩を叩くと、香織は軽い足取りで階段を下りていく。


「おい、ちょっと待ていっ……!」

「行ってきまーす」


 振り返らず、後ろ向いたまま手を振る香織の背中を唖然として見つめながら、修司は暫くその場に立ち尽くしていた。



***



「こんにちは」

「こ、こんにちは。今日は、お招き頂いてありがとうございます」

「いえ、こちらこそわざわざお越し頂いて……あら、香織ちゃんは?」

「あー………それなんですが、アイツ急な仕事が入った、とかで出掛けてしまって」

「そうなんですか」


 心なしか、理穂子の表情が曇った。


「本当にすみません……。あの、女性の一人暮らしの家に俺ひとりで上がり込むのは悪いですし、俺、やっぱり帰ります」

「いえ、気にしないで下さい。仕事なら仕方ないです。元々どうしてもお礼がしたいと私が無理を言ったからで、忙しいのにご迷惑おかけしてしまってすみません」

「そんなことありません!アイツ、なんか勘違いしていて……」

「勘違い?」

「あ、いえ……なんでもないです」


 ごほんごほん、と空咳で誤魔化す修司を、理穂子は不思議そうに見ていた。


「折角ですし、良かったら料理食べていってください。その、修司くんが嫌でなければ」

「嫌なんてことはありません!むしろ楽しみすぎて眠れなかったくらいでっ」


 叫ぶように言って、自分が何を口にしたか気付いた修司は、あわあわと慌て、違うんです、あの、その、これは違うんです!と顔を真っ赤にする。

 変なことを口走ってしまったと内心で落ち込んでいたが、理穂子がくすくすと笑ってくれたので、精神的ダメージは帳消しになった。


「とりあえず、どうぞ中に上がってください」


 お邪魔します、と呟くように言って室内に上がろうとした時、左のポケットで、携帯電話が小さく震えた。開いた画面を見て、修司は思わず固まる。


≪女日照りのお兄ちゃんのために念の為プレゼントを仕込んでおいたよん♪上着の左ポケットを確認されたし!こんなチャンスは二度とないゾ☆ 健闘を祈るd=(^◃^)=b 優しい妹より≫


「誰が女日照りだ、誰が」


 小さくごちながら慌てて左ポケットを探る。

 カサリと手に当たったそれを取り出してみれば、モテる男であれば財布にでも常備してあるであろう、薄さとフィット感が大事なアレだった。


「あっ、あいつ……!」


 それが何かを理解した瞬間、出した左手を瞬時にポケットに突っ込んだ修司を見て、


「修司くん、どうかしました?」


 理穂子が不思議そうな顔で覗き込む。


「アイツ……帰ってきたら説教してやる」

「え?」

「い、いや、なんでもないです。あ、そうだ。これよかったら……ささやかですが、引っ越し祝いです」


 冷や汗をかきながらも、何とか手に持ったワインと花を差し出す。もっと気の利いた差し入れでも出来ればよかったのだが、色々考えすぎた挙句に無難な選択になってしまった感は否めない。

 しかしながら、それを受け取った理穂子は思いの外嬉しそうに笑った。


「わぁ、わざわざありがとう!お花貰うのなんて、何年ぶりかしら……」


 何気なく呟かれたその最後の言葉に、晃との辛い結婚生活が伺える気がして、修司は複雑な思いで花瓶を探す理穂子の背中を見つめた。



***



「ううっ、お腹いっぱいです」


 理穂子の家を訪ねて二時間後――修司はすっかり満腹になったお腹を撫でていた。それを理穂子がにこにこして見ている。


 理穂子が用意してくれた料理は、どれも素晴らしいものだった。

 サーモンと玉ねぎのサラダ、トマトの蜂蜜漬け、揚げ出し豆腐、筑前煮に蛤のお吸い物、土鍋で蒸した鯛めし、デザートには苺の添えられたミルクプリン。

 大したものではない、と理穂子は謙遜していたが、どれもレストランのように色どり鮮やかで美味しかった。

 何より嬉しかったのは、どれも過去修司が好きだと言った食べ物ばかり並んでいたことだ。偶然かもしれないが、もしも理穂子が自分の好みを覚えていてくれたのだとしたら、と考えるだけで頬が熱くなった。


「修司君。改まっていうけど、本当にありがとうございました。貴方がいなかったら、私、晃と離婚する踏ん切りがつかなかったかもしれない」


 理穂子は頭を深く下げた。


「や、やめてくださいよ理穂子さん。俺、理穂子さんが辛い時になんの力にもなれなくて……」

「そんなことないわ。あの時修司くんが声をかけてくれなかったら、私、ここにいないから」


 普通なら、離婚して一人暮らししているこの状況のことだと思うだろう。けれど、理穂子の言葉のニュアンスにどうも違う意味合いを感じて、修司は眉を寄せた。


「私ね、死のうと思ってたの。あの時」

「え……」

「家の居間で首を吊ろうと思って、遺書を書いて、いざ細長い物を探して……ネクタイやベルトじゃ長さが足りなかったの。シーツも上手く結べなくて、仕方なくロープを買いにショッピングモールへ出掛けたのよ」


 さらりと告げられた理穂子の言葉に、修司は固まった。


 死のうとしていた……?理穂子さんが……。


 そういえば、とあの日の理穂子の姿を思い出す。卒業以来、久しぶりに見かけた理穂子の顔色はあまりにも青く、懐かしい気持ちや苦い恋の記憶が蘇るより先に、思わず心配になって気付けば声を掛けていたのだ。なんとか笑って欲しくて、生気の無い理穂子を強引にカフェに誘い、ケーキを食べさせた。帰り際に薄っすら微笑んだ理穂子を見て、ほっとした。

 晃との関係で憔悴していることは伝わってきたが、まさか、理穂子が死のうとまでしていたとは、思ってもみなかった。


「あの日、結局ロープは買えなくて、そのまま家に帰った。次の日、修司くんは連絡をくれた。その日も私はロープを買わずに済んだ。その次の日も、その次の日も。ほんの一言だったけど、その言葉に私がどれほど救われたか。修司くんのおかげで、死ぬくらいなら何でも出来るんじゃないか、って段々と考えることが出来るようになった」


 理穂子の告白はあまりに重く、修司は言葉に詰まった。心配八割、下心二割のメッセージが、理穂子にとってそれほど重要な意味を持っていたとは知らなかった。


「こうしてひとりで生きていく決意が出来たのも、修司くんのお陰。だから、本当にありがとう」


 少しずつ理性を取り戻した理穂子は、晃との離婚を決意し、弁護士を雇い、引っ越し先を探した。

 仕事はまだ見つかっていないが、暫くは貯金でなんとか食い繋げるので、その間に探すつもりだった。

 もっと早くこうすれば良かったのだ。冷静になってみて、そう思う。

 けれどあの裏切りに苦しんだ一年半の間は、頭に靄がかかったようでまともに物が考えられなかったのだ。修司の存在が無ければ、今もまだあの苦しみの中にいたか、あるいはもうこの世にはいなかったかと思うと、ぞっとした。


 窓の外を見つめていた理穂子に、修司が意を決したように呟いた。


「ひとりで生きていくなんて、言わないでください」

「え?」

「俺がいます。俺が、貴方を支えます」


 握りしめられた修司の拳は震えている。あまりに真剣なその瞳に理穂子は息を呑んだ。


「ずっと好きだった。ずっと好きだったんです」

「え……」

「こんなタイミングで言うなんて、卑怯だと我ながら思います。でも俺――こうなる前からずっと、理穂子さんのことが好きでした。大学生の頃、興味ないテニスサークルなんて入ったのは、理穂子さんがいたから。あの頃ふたりの間には俺が入る隙なんて全くなくて――でも、晃のせいで理穂子さんが泣いている時、本当はいつも、俺のことを好きになればいいのに、って、そう思っていました」

「修司くん……」


 思いがけない告白に、理穂子は動揺した。

 修司には好意を持っている。頼りない先輩である自分にも、人懐こく接してくれる可愛い後輩だと思っていた。今回のことで、頼りなることも知っている。誠実な人であることも分かっている。

 今すぐには無理でも、このまま共に時間を過ごせば、自分はきっと修司を好きになるかもしれない。けれど――。


「私……修司くんには感謝しています。私なんかのこと、好きって言ってくれてとても嬉しいです。でも……今はまだ、恋愛とかそういうの考える余裕がないです。それに、私に貴方は勿体ないです。私よりずっといい人が沢山います。修司くんに似合う、素敵な人が。だから、ごめんなさい」

「それでも……構いません。離婚したばかりで、俺と付き合うとか……そういうの考えられない、っていうのも分かります。だから、それでいいです。でもこれからも電話したり、会ってたまにはこんな風に食事したり、どこかに遊びに行ったり……そういうのは、駄目ですか」


 絞り出すような声。初めて聞く修司のそんな声に、理穂子は息を呑んだ。


「それは、私ばっかりずるいです……」

「ずるくないです」

「ずるいですよ……。私、修司くんのことは大事に思っています。あなたは私の恩人です。だから、そんな風に利用したくない」

「利用、してくれませんか」

「い、いやです……」

「俺のこと、嫌いですか」

「……嫌いな人を家に呼んだりしません」

「そうですか、安心した」


 おろおろと目を泳がす理穂子とは裏腹に、長年の片思いを告白した修司は開き直っていた。

 理穂子が自分を()()()()()()として見ていないのは分かっていた。離婚したからといって、すぐ次を探すような女でないことも。


 それでも言わずにはいられなかったのだ。もう後には引けない。いや、引かない。

 学生の頃、理穂子に抱いていた気持ちとはまた少し違う。

 自分の輪郭を保とうと必死に戦っている目の前の彼女を、心底愛おしく感じる。自分が守ってやりたいと思う。


「理穂子さん。俺と、また会ってくれますよね?」


 懇願するような修司の目を、理穂子は拒絶することが出来なかった。



 ***



「理穂子」


 誰もいないリビングで、辻口晃は妻の名前を呼ぶ。

 その呼びかけに、振り向いてくれる人はもういない。


 晃は子供だった。四十を目前にした中年のオヤジだというのに、いつまでも自分中心でしか物事を考えられない、ガキそのものだった。


 付き合って五年、結婚して十年。晃はいつの間にか、理穂子が晃のために時間を使うこと、晃のために何かを諦めることを、当たり前のことだと思うようになっていた。

 俺が養ってやっているのだから当然だと、感謝の言葉ひとつ、ねぎらいの言葉ひとつ掛けたことがなかった。それどころか、すっかり所帯じみた理穂子を、ことあるごとに心の中で浮気相手の明美と比べては蔑んでいた。


 付き合い始めた当初、花のように明るく美しかった理穂子が、連れて歩くだけで周囲の男たちから羨望の眼差しを集め誇らしい気分にさせてくれた理穂子が、その辺を歩く冴えない三十路過ぎの女の一人に成り下がったことに幻滅していた。


 自分は周囲の同年代の男と比べて腹も出ていないし、ハゲてもいない。平均以上の容姿を保っている自負がある。それに比べて理穂子のなんとみすぼらしいことか。

 隣を連れて歩くのが恥ずかしいとさえ思った。結婚前と比べてすっかり地味になった服装や、必要最低限の薄化粧。長い間美容院に行っていない艶のない髪。


 ――こんな女が妻なんて、恥ずかしい。


 一度そう思うと、止められなかった。理穂子のやることなすこと全てが晃をイラつかせた。自分は妻にする女を間違えた、と思った。

 こんな所帯じみたつまらない三十路女になると分かっていたら、プロポーズなんてしなかった。

 こんな女を養うために自分は朝から晩まで働いて、あと何十年も過ごさねばならない。途端に自分をこんな惨めな気分にさせる理穂子がうらめしく思えた。

 だから、浮気することにした。都合の良いことに、自分と同じ部署に異動してきた入社二年目の明美は分かりやすく()()をつくり晃に色目を使ってきた。

 後になって知ったことだが、明美は新卒社員として入社した直後に、配属先の部長や取引先の社長など複数の男と不適切な関係を結び、相手の奥方に会社に乗り込まれるトラブルを起こしていて、それ以上トラブルを起こせば後がない状態だったらしい。時期はずれの異動に、聡い人間はその背景を敏感に感じ取り、最初から明美と距離を置いていた。

 そんな疫病神(明美)に「周囲の人が冷たい」「頼れるのは辻口先輩だけ」と相談を持ちかけられ、優越感に浸っていた馬鹿は自分だけだった。


 浮気相手に明美を選んだのは、顔の造りから性格まで、理穂子とは正反対のタイプだったからだ。

 明美という女は、金のかかる女だった。理穂子とは真逆の派手な化粧とファッションに身を包み、常にブランド品を好む。エステだネイルサロンだと、美容やファッションに湯水のように金を使い、奔放な言動と我儘で男を振り回す。頭の中は空っぽだが、浮気相手に知性など求めていなかったので問題なかった。

 大事なのは、性に奔放な彼女が、妻には口に出せないような己の肉欲を満たしてくれる――それだけだった。


 明美と過ごす時間はすべてが刺激的で、堅実で慎ましい理穂子との生活に飽き飽きしていた晃には眩暈がするほど魅力的だった。あっという間に明美にのめり込んだ。

 残業と偽っては毎日のように明美との情事に溺れた。最初の内はラブホテル、次は明美のアパート、果ては車の中や時には屋外で――狂ったように連日明美の身体を貪った。理穂子にはとても出来ないような要求に積極的に答えてくれる明美にひどく興奮した。


 周囲の人間の中には、晃と明美の関係に気が付き、大事になる前に清算するよう勧めてくる人間も少なからずいた。学生時代からの友人で理穂子とも面識のある修司は特に、晃の裏切りを非難した。久々に連絡してきたと思い会ってみれば、何処で知ったのか、浮気相手(明美)と別れるよう説得してきた。


 けれど、晃は耳を貸さなかった。それどころか、明美の関係に否定的な人間とは連絡を絶ちどんどん疎遠になっていった。明美との関係にのめり込めばのめり込む程、周囲の人間は離れていった。


 明美と初めて関係を持ってから半年経つ頃には、毎晩惰性で送っていた理穂子への残業を偽るメールすらしなくなり、明美との情事の痕跡を残したまま、平気な顔で帰宅するようになった。

 当然、明美を抱くようになってから、理穂子との夫婦生活は全くない。慎ましい理穂子は結婚してからも自分から積極的に誘ってくるようなことは無かったから、晃が求めなくなればそうなるのは当たり前だった。

 最後に理穂子に触れたのがいつのことか、今ではもう思い出せない。


 それでも、晃が帰宅するまで風呂にも入らず、夕食を作って待っている、いじらしい理穂子の存在が鬱陶しくてたまらなかった。これ見よがしにダイニングテーブルに置かれた、ラップしてある夕食を見てうんざりした。

 もうずっと晃に抱かれていないのに、将来の子供のために、と結婚当初に始めた貯金を止めようともしない理穂子が惨めで価値の無い女に思えた。


 あんなに愛していると誓ったのに。

 一生守るから、とプロポーズしたくせに。

 いつからか晃は理穂子を傷付けたくてたまらなかった。


 どうかしていた、と、今はそう思う。


 けれど、あの時は本当に、心の底から理穂子が憎かった。自分の人生を台無しにする邪魔な存在としか思えなかった。


 理穂子への愛情が冷めれば冷める程、それに比例するように明美と過ごす時間は増えていった。残業や飲み会と偽っては帰る時間が次第に遅くなり、そのうちに朝帰りを繰り返すようになった。酷い時には何日も家に帰らなかった。

 たまに帰宅しても、理穂子が作った夕食も朝食も食欲がないからと嘘を言って食べなかった。お昼に、と持たせてくれる弁当は会社のごみ箱に捨てていた。

 あの時は、理穂子の作ってくれた食事を口にすることを、明美への裏切り行為とさえ思っていた。明美が晃にまともな手料理を振る舞ってくれたことなど、ただの一度もないというのに。


 そんな肉欲に溺れる生活を続ければ、家庭生活は崩壊する。当然、明美との関係はすぐに理穂子の知るところとなった。

 いつ、どんな風にして理穂子がそれに気が付いたのかは知らない。理穂子も馬鹿じゃない。晃は明美との浮気の事実を隠そうともしていなかったので、それを理穂子が知ったところで別段驚きもしなかった。


 理穂子は晃を責めなかった。それをいいことに、晃はどんどんと調子に乗った。


 ある日、珍しく会社から真っ直ぐ帰宅した晃に、理穂子は静かな声で一言呟くように言った。彼女と別れて下さい、と。

 気づいていたのか、とわざとらしく訊いた晃に、小さな声で理穂子は、相手が誰かも全部知っています、と答えた。その声は震えていた。

 晃は「そうか」とだけ答え、夕飯を食べ続けた。理穂子はそれ以上何も言わず、黙って晃の向かいに座っていた。

 多分、縋るような目をしていたと思う。その視線を感じていながら、晃は最後まで理穂子と目線を合わせることはせず、席を立った。

 その夜以降、理穂子がその話をすることは無かった。


 翌朝起きると、いつものように朝食と弁当がテーブルに置かれ、シャツとスーツが用意されていた。うんざりすると同時に、安堵した。晃はいつも通り、食べない弁当を持ち、朝食を残して、今日も遅くなると言い残し家を出た。

 ただひとつ、いつもと違ったのは、家を出る晃の背中に向かって「なるべく早く帰って来てくださいね」と震える声で理穂子が言ったことだった。


 その夜、晃は明美に会って「妻に俺たちの関係がバレた」と告げた。

 正直なところ、明美を前にして尚、晃はこの関係をどうするか決め兼ねていた。明美の晃への要求は次第に大きくなってきており、それを可愛い恋人の我儘だと素直に思えなくなってきている自分もいた。


 けれど、むっちりとした肉感的で男の欲望を掻き立てる魅力的な明美とのセックスをあっさり手放すのも惜しい。今更明美と別れ理穂子とやり直したところで、自分はもう理穂子との単調な夫婦生活に満足できないだろう。


 妻にバレたと告げたら、明美はどんな反応をするのか。


 晃には想像がつかなかった。考えても仕方ないので、そのまま告げた。明美はふーんと興味なさげに呟くだけだった。


「で、どうするわけ」


 明美が晃の顔を覗き込む。


「あたしと別れる?」


 胸元の大きく開いたレースのキャミソールから、零れ落ちそうな胸の谷間が覗いている。ごくりと喉を鳴らし、キャミソールの中に手を差し入れ、豊満な胸を揉みしだく。頼りないキャミソールの紐が明美の肩から滑り落ち、裸体が晒される。露わになったそこに舌を這わせると、明美の口から甘い吐息が漏れた。


 ほんの一瞬、理穂子の顔が頭を過った。けれどそんなものは、滑らかで欲望を掻き立てる明美の肉体を前に、あっという間に忘れてしまえた。


「勿論――俺は別れる気はない」


 そう言って、明美の首筋に唇を吸いたてた。


 この瞬間、俺は理穂子との未来を捨てた。理穂子のくれたチャンスを、いとも簡単にドブに捨てた。


 明美の喘ぎ声が、脳に甘く響く。僅かに残る理穂子への罪悪感は、明美との情事への絶妙なスパイスとなって、跡形もなく溶けて消えた。


 俺がこんな風になったのは、すべてお前のせいだ。浮気した俺が悪いんじゃない。浮気されるお前が悪いんだ。

 すべてはお前に魅力がないせいだ。だから俺は家に帰りたくないんだ。お前を抱きたくないんだ。


 そんな言い訳にもならない言い訳を何度も何度も心の中で呟きながら、晃は明美を抱き続けた。


 翌朝遅く帰宅した晃に、理穂子は何も言わなかった。予想通りだった。

 ふと目に入った玄関のカレンダーの小さな印を見て、昨日が結婚記念日だったことに気が付いた。わざわざ結婚記念日の前日に不倫の清算を要求してきたのは、晃との夫婦関係をどうにか再構築していこうという、理穂子なりの意思の表れだったのかもしれない。

 それに気が付かず明美とのセックスに溺れた昨夜――理穂子は、どんな思いで帰宅しない自分を待っていたのだろうか。

 想像すると、後ろめたさが頭をもたげた。


 この時、素直に理穂子に謝り、きっぱりと明美との関係を清算していたら――晃の隣には、今も理穂子がいたかもしれない。


 けれど晃は、それをする代わりに卑怯な言い訳を自分にし続けることを選んだ。


 どうせ理穂子だって、結婚記念日なんて覚えていないに決まっている。明美との関係の精算を結婚記念日の前日に要求したのは偶然に違いない。


 それに――どうせ理穂子は自分から離れられない。

 事実、あの夜以降、理穂子は晃に何も言わない。理穂子に晃を捨てる覚悟があるはずがないのだ。

 大学を出て僅か三年で寿退社した理穂子は、ロクに働いたこともない。この不況下に、資格も職歴も無い三十過ぎの女の就職先がそう簡単に見つかるはずもない。

 おまけに実家は両親の介護を引き受けた姉が婿に取った夫とその子供と暮らしており、出戻るわけにもいかない。近所とも、世間話をする程度の人間関係はあっても、頼れる友達はいないだろう。夫の浮気を相談出来るような学生時代からの友人とは、結婚を機に疎遠になってしまっているはずだ。

 結局、夫の浮気くらい大目に見て、大人しく専業主婦をやるしか理穂子に選択肢はないのだ。


 理穂子が浮気の事実を責めないのをいいことに、晃はますます開き直って、おおっぴらに明美と付き合うようになった。平日だけでなく、土日や祝日も、休日出勤とバレバレの嘘をついて明美との逢瀬を楽しんだ。総ての時間と金と労力を明美に費やし、家に帰らない日が増えていった。たまに顔を合わせた日には、必要以上に理穂子にキツく当たった。


 それでも、理穂子は自分から離れられない――。

 晃はそう、高を括っていた。

 それが大きな間違いだと気が付いたのは、すべてが手遅れになった後だった。



 その日のことは、今でも鮮明に思い出せる。


 なんてことない朝だった。目覚ましの音で目が覚め、顔を洗いリビングに向かうと味噌汁の匂いが立ち込めていた。テーブルには焼いた鮭とだし巻き卵、ホウレンソウのお浸しが並べられていて、その隣に弁当箱が置かれていた。

 いつもなら弁当箱だけ無言で掴んで出勤するところだが、この日は何故か、久しぶりに理穂子の手料理を食べたくなった。


 何も言わず席についた晃に、理穂子が黙って味噌汁とご飯を用意する。黙ってそれを食べながら、晃は記憶を辿る。


 こうなってしまう前、最後に夫婦で向き合って朝食を食べたのは、いつだっただろうか。

 もう思い出せないくらい昔のことだった。


 かちゃかちゃと食器の音だけが響く、静かな時間だった。晃の中で一体どんな変化があったのか、何がそうさせたのか――自分でもよくわからない。


 夫婦の会話らしい会話もなく、ただ黙ってご飯を食べる。

 それだけの時間を、不思議とどんな時間より心地よく感じている自分がいた。


 その時晃は初めて、自分がとても疲れていることに気が付いた。

 もうずっと、何カ月も休まっていなかった心が、解れていくようだった。


「ご馳走様。旨かったよ」


 何故か、そんな言葉が自然と口から出た。憑き物が落ちたような気分だった。そろそろ、家庭を顧みるべきかもしれないと、そんな自分勝手な考えが頭に浮かんだ。


「今日は、早く帰るから」


 出掛けにそう言うと、理穂子が驚いたような顔で此方を見て、それから困ったような微笑みを浮かべた。その微笑みに、付き合い始めた頃の、まだ幸せだった頃の理穂子の面影を見た。


 そして、同時に気が付く。


 あれ、こいつこんなに痩せていたっけ――。


 久々にまともに見た妻の姿は、自分の記憶の中の姿より随分とやつれて、頬がこけ、元々華奢な身体が更に小さくなっていた。心なしか、顔色も悪く見える。あれほど憎いと思っていた気持ちが、嘘みたいに急速に萎んでいくのが分かった。

 今自分の目の前にいるのは、付き合っていた頃から数えて十五年間もの間、良い時も悪い時も、いつも自分の傍にいて支え尽くしてくれた唯一の女だった。


 家を出てから会社に着くまでずっと、何故自分があんなにひどい仕打ちを理穂子にしていたのか、考えていた。どうかしていた。


 ――明美とは、別れよう。


 そう決心して帰宅したその日の夜、晃を待っていたのは、灯りの消えた人気のない家と、テーブルの上に置かれた離婚届だった。



 理穂子が出て行った。


 テーブルの上に置かれた白紙の離婚届けが意味するものを理解するまでに、どのくらいの時間を費やしただろうか。全身の血が抜けていくような感覚だった。予想外の出来事に、目の前が真っ白になる。


 帰宅するちょうど二時間前、明美に電話をして、別れを告げた。勿論、頑固で我儘な明美が電話での一方的な別れ話に素直に頷くわけもなく、後日話し合いをしなければならないだろう状況ではあったが、自分としてはこれで区切りをつけたつもりだった。


 帰り道にふと開いた携帯の画面で、今日が結婚記念日であることを思い出した。去年の結婚記念日――晃が理穂子を顧みず、明美と過ごしたあの夜から、もう一年が経っていた。


 晃は理穂子と過ごした結婚生活を思い返してみる。


 この一年半、明美との関係が始まってからというもの――理穂子のことなど気にもかけず、自分のやりたいように暮らしてきた。

 独身の男と同じように女と遊び、金を使い、全て自分の思い通りにしてきた。

 それなのに、不思議なもので幸せな日々について思いを巡らせると、まだ理穂子と仲睦まじく暮らしていた、穏やかで取るに足らないあの日々のことばかり思い浮かんだ。


 もう一度、夫婦としてやり直すのにちょうどいいタイミングだと思った。駅前のフラワーショップとケーキ屋に寄り、小さなブーケとケーキを買った。ブーケの花は、いつだったか結婚前に理穂子が好きだと言っていた花だった。ケーキには、理穂子の好きな苺が飾ってあった。花とケーキを買って帰るなんて、新婚の時以来だ。


 これを渡したら、理穂子はどんな顔をするだろう――。


 帰り道、理穂子のことばかり頭に浮かんだ。この一年半、自分が彼女にした酷い仕打ちも忘れて、勝手に生まれ変わったような気でいた。


 けれど、現実は甘くなかった。家の前に来て、違和感を抱いた。何かがいつもと違う。玄関の扉を開けようとして、つんのめる。いつもなら開いている扉に、鍵がかかっていた。理穂子は今まで一度も晃が帰るまで施錠したことはなかった。

 不審に思いながらも、鍵を取り出す。暗くて鍵穴がよく見えない。


 その時、ふと違和感の正体に気が付いた。

 玄関の灯りがついていない。

 鍵といい灯りといい、理穂子の奴、どこかに出かけているのか――?


 この時になっても未だ、晃は暢気にそんなことを考えていた。


「理穂子ー?帰ったぞ」


 靴を脱ぎながら呼びかけるが、返事はない。妙な胸騒ぎを覚えながら、リビングの灯りをつける。テーブルの上には、緑色の紙が一枚、置かれていた。

 俺はそれを手に取る。

  

 ――離婚届。


 初めて目にするそれは、羽みたいに軽いのに、鉛のように重かった。


「なんだよ、これ……」


 震えた声が、静かな部屋に響く。


「理穂子、どこだよ」


 晃は踵を返して、家中を探した。寝室。洗面所。風呂。トイレ。どこを探しても、理穂子の姿はない。


 ――まさか、理穂子に限って。


 震える手で、クローゼットの扉を開く。左半分――共有で使っていたクローゼットの、理穂子の洋服は綺麗さっぱり無くなっていた。

 気が遠くなりそうになる自分を叱咤しながら、急いで家の中を確認する。

 洋服だけではない。バッグや靴、アクセサリーに至るまで、理穂子のものは一つ残らず、綺麗さっぱり消え去っていた。

 唯一残っていたものは、パールのネックレスと小さなダイヤのピアス、カシミヤのストール、銀細工のついたオルゴールに白いワンピース――どれも晃がその昔、理穂子に贈ったものばかりだった。


「嘘、だろ………」


 今朝、久方ぶりに見た理穂子の微笑みがフラッシュバックし、膝から崩れ落ちる。


 十一年目の結婚記念日を迎えたその日。


 晃は自分が取返しのつかない愚かな罪を犯したこと、そして妻が自分の元を去ったこと――そして、失って初めて、自分がこれほどに妻を愛していたということを知った。



 翌日、急病と偽り会社を休んだ晃は、その番号に電話した。理穂子の指定した、弁護士事務所の番号だった。


 リビングのテーブルの上には、離婚届の他に封筒が置かれていた。理穂子の私物が全て消えていることを確認し、動転した晃がそれに気が付いたのは明け方のことだった。

 封筒の中には、結婚指輪と理穂子からの手紙、そして弁護士の名前と事務所の電話番号が書かれた名刺が一枚入っていた。


 理穂子からの手紙にはごく短い文で、もう晃との結婚生活を続けていけないこと、晃の浮気が原因での有責離婚になること、財産分与や慰謝料など離婚に関する話し合いは今後全て弁護士を通すことなどが事務的に書かれていた。そこに、晃への恨みや文句は一言もなかった。


 眠れぬ夜を過ごした晃は、一晩中理穂子の携帯に電話した。メールもした。一度も繋がることはなかった。理穂子のいない自宅で朝を迎えるのは、初めてのことだった。


 晃は今更ながら、自分の愚かさを呪った。

 理穂子は毎日晃より早く起きて朝食と弁当を作り、晃が会社に出かけている間家事をこなし、家中を掃除し、夜は夕食を作り、晃が帰宅するまで風呂にも入らず起きて待っていた。晃より短い睡眠時間で、文句ひとつ言わず、我儘も言わず、ずっと支えていてくれていた。家はいつも清潔で、ビジネスホテルのように掃除が行き届いていた。食事はいつも栄養を考えて作られたバランスのいい料理ばかりだった。

 晃が我儘を言ったことはあっても、理穂子が我儘を言ったことはなかった。


 それなのに自分は、それを当たり前のことだと思っていた。ありがとうの言葉さえかけず、早起きして作ってくれた弁当をごみ箱に捨て見向きもしなかった。

 それどころか、服装や化粧が地味だの、女としての魅力がないだの、心の中で――時には実際に口に出したことさえあった――散々罵っていた。


 冷静に考えれば、結婚前と同じひらひらしたワンピースやスカートは家事に不向きで、毎日そんな恰好ばかりしていられるわけがないと分かったのに。

 ネイルサロンもエステも行かないのは、将来の子供のために貯金をしていたからだと知っていたのに。結婚して地味になったとはいえ、決して見られない容姿ではなかった。いつも小奇麗にしていた。ただ、結婚する前とは、方向性が変わった、いや変えざるを得なかっただけだ。理穂子は明美と違い、晃が稼いだ金で贅沢するような女ではない。そんなことは、分かっていた。


 本当は、誰より理穂子が頑張っていることを知っていたのに、晃はそれを見ようとしなかった。

 理穂子がクリーニングに出したスーツを着て、理穂子がアイロンをかけた糊のきいたシャツを着て、理穂子が選んだネクタイをして、理穂子の磨いた靴を履いて、理穂子が掃除した部屋で眠って、理穂子ではない女を抱いていた。自分はどうしようもない愚か者だった。


 やり直せるものなら、もう一度やり直したい。今度は絶対に間違わない。


 けれど、その機会はやってこなかった。晃は既に、理穂子のくれた最後のチャンスを捨ててしまっていたのだから。



***



 弁護士立ち会いの下、一度だけ理穂子と会うことが許された。あまりにしつこい晃に、理穂子の側が折れた。実際は、これ以上顔を合わせることを拒否すれば理穂子の身に危険が及ぶかもしれないと危惧した弁護士からのガス抜きの提案に、渋々やってきただけだったのだが。


「時間を巻き戻せるのなら、もう絶対にこんなことはしないと誓う。お前だけを愛する。だから、お願いだ。戻ってきてくれ……」


 恥も外聞もかなぐり捨てて、床に額をこすりつけた。理穂子が出て行って僅か数日ですっかり薄汚れ始めた自分とは違い、理穂子はかつての瑞々しい美しさを取り戻しつつあった。

 晃との結婚生活がいかに不幸だったか、見せつけられているようで、直視出来なかった。


「時間を巻き戻せるのなら、貴方となんて結婚しない」


 晃を見下ろす理穂子の瞳に、かつて相思相愛だった頃の熱は無い。激高するわけでもなく、泣くわけでもなく、その顔からは何の感情も読み取れない。


「時間を巻き戻してくれるっていうのなら、慰謝料なんていらない。お金なんていらないから、私の時間を返して。私の人生を返して。貴方と出会う前の私に戻して。でも、そんなこと出来ないでしょう。だから私、貴方に慰謝料を請求するの。わかる?」


 わかる。痛いほど、わかる。

 時間を巻き戻したいと誰より願っているのは晃だ。愚かな過去を変えられるなら、理穂子を失わずに済むなら、命を懸けたって構わない。


「嫌だ……どうしても、それだけは嫌だ。俺を責めてもいい。許せなくて当然だ。何でもする。何でもするから……離婚だけはやめてくれ……」

「どうしても離婚したくないっていうなら、どうして私を大切にしてくれなかったの。どうして私を裏切ったの。私は貴方に何度もチャンスをあげた。貴方はそれを全部ふいにした。貴方は私より、あの女の人を選んだの。私との結婚生活より、あの女の人といることを選んだの。だから私は、貴方とはもうやっていけない。本当に私に償う気持ちがあるなら、今ここで離婚に同意して。貴方が私のために出来ることは、もうそれしかない」


 震える理穂子の声を聞いて、強い意志の宿った瞳を見て、晃はもう、どうしようもないことを悟った。

 理穂子の隣に立つ権利は、永遠に失われた。



***



 理穂子と離婚して一年半――晃はすっかり社内で浮いた存在になっていた。明美との関係に夢中になっていた晃は気がつかなかったが、二人の関係は社内に知れ渡っていた。

 次の異動で、左遷されることが決まっている。部長直々に呼び出しを受けた際に告げられた。引き継ぎのため、と称して異動の内示も出ていない内から仕事は回って来なくなった。 

 まともな人間からは白い目で見られ、避けられる日々。

 あれほど自分と別れたくないとゴネていた明美は、理穂子のサポートが無くなりすっかりくたびれ、出世コースから外された晃にあっさり興味を失ったようだ。

 今は彼女持ちの営業部のエースにすり寄っているが、彼は密かにコンプライアンス室に相談しているようだ。前科もある明美が会社から不要の烙印を押される日も近い。

  

 休日、することもなく共に出かける人間もおらず、ひとり味のない食事をするのが侘しくて、近所の大型ショッピングセンターにふらりと出かけた。昼過ぎだった。


 その姿に気が付いた時、最初に思ったのは懐かしい、だった。かつて自分の妻だった女を、見間違えるはずない。

 久々に見た理穂子は、肌も髪も輝きを放ち、血色もよく、三十半ばとはとても思えない、遠くからでも目を引く美貌を放っていた。離婚する前のやつれきった姿からは想像もつかない。まるで、付き合いだした頃の学生の理穂子に戻ったようだった。


 思わず駆け寄り声をかけそうになって、次の瞬間、()()に気づいて晃は固まった。理穂子の腹部が、遠くからでもわかる程、不自然に膨らんでいた。

 あまりの衝撃に、晃はただその場に立ち尽くした。


「嘘だ……」


 名前を呼ばれたのか、理穂子が振り返り店の中に入っていく。暫くして店から出てきた理穂子の隣には、晃のよく知っている男が寄り添っていた。修司だった。


 身重の理穂子を気遣うように腰に手を寄せ、優し気に微笑んでいる。愛しそうに目を細めた修司の眼差しが、彼が理穂子をどれだけ大切に思っているか、如実に物語っていた。理穂子が不意に顔を上げて、修司に微笑み返す。


 とても幸せそうなふたりの姿とは反対に、血の気が引いていくのが自分で分かった。

 ふたりの薬指には、銀色に光る指輪が嵌められている。


 まさか、どうして修司と――。


 近くのベンチにへたり込んだ晃は、数ヶ月前、久しぶりに誘われた、大学時代のサークル仲間との飲み会で耳にした話を思い出す。




「あれ、そういえば修司は?来ていないのか」

「ああ、あいつ今回はパスだって。休みの日は家族サービスしたいんだってさ」

「家族サービスって、あいつ、遂に結婚したのか?」

「あれ、知らなかった?お前ら仲良かっただろ。てっきり知ってるかと思ってた」

「あ、ああ……ちょっと最近色々あって、暫く会ってないんだ」

「へー。ま、お前も離婚したり大変だったしな。理穂子ちゃんと別れるなんて、バカだなぁ、お前」

「……俺のことはいいだろ。修司はいつ結婚したんだ?」

「んー半年前くらいかな、結婚したって連絡貰ったのは。相手のことはあんまり話さなかったけどバツイチの人とかで、二人で相談して結婚式はあげないことにしたらしい」

「バツイチか……。あいつ初婚なのになんか勿体無いな」

「でも話によると、あいつの方がべた惚れみたいだぜ。離婚したばかりだからとずうっと断られていたらしいけど、押しに押しまくって漸く付き合えたらしい。今回来なかったのも、奥さんがお目出度だからなるべく側にいてやりたいんだってさ。ここだけの話、俺はあいつがやっと手に入った彼女を逃がさないために、わざと妊娠させたんじゃないかって思ってる」



 あの時は、それを聞いても何も思わなかった。修司は俺のように不義理を働く奴じゃない。きっと幸せな家庭を築くんだろう、と精々自分との落差に感傷的になって普段より酒を多く煽ったくらいだ。


 目の前が真っ白になっていく。理穂子が、自分の元に戻ってくるはずはないと分かってはいた。晃が彼女にした仕打ちは、それほど酷いものだったのだから。


 しかし、心の何処かで、いつか理穂子と復縁できる日がくるのではないかと――そんな淡い期待を抱いていたことは否定できない。

 ふらふらと歩いて、近くのベンチに座り込む。


 どうして、修司と理穂子が……。


 かつての自分の友と妻が結婚して、ましてや子供まで作っているとは、考えてもみなかった。修司に微笑み返す、理穂子の幸せそうな顔。


 離婚したばかりで、あの修司が強引にアプローチしてまで手に入れたかった女。

 そこまで聞いていて思い当たらなかった自分は馬鹿だ。


 かつてあの笑顔は、あいつの隣は俺のものだったのに――。


 結婚前、まだ理穂子と恋人同士だった頃、修司が理穂子に好意を抱いていることには薄々気が付いていた。鈍い理穂子はそれに微塵も気が付いていないようだったし、何より修司自身が理穂子を奪おうなどとは思っていない様子だったので、気にも止めていなかった。


 晃が理穂子と結婚した後、修司は修司で恋人が何人かいたのも知っている。晩婚化しているとはいえ、女にモテる修司が三十を過ぎてもまるで結婚する様子がないどころか、誰かと本気でつき合うことすらないのを見て、不思議に思っていた。性的嗜好を疑ったことさえある。


 まさか、あの頃から変わらず、ずっと理穂子のことを好きだったとでもいうのだろうか。


 修司は晃の一つ年下だったが、大学を卒業してからもそれなりに仲良くしていた。

 明美と関係を持ち始めてしばらく、久々に飲みに行った修司に酷く浮気を批難されたことを思い出す。

 それからというもの、会う度に明美と別れるべきだと主張する修司に嫌気がさして、次第に連絡を取らなくなっていったのだった。疎遠になる前、修司と交わした会話を思い出す。


「理穂子さんみたいないい女を嫁に貰っておいて、どうして他の女に走るのか、俺には理解出来ない」

「そりゃな。付き合っていた頃は可愛かったさ。だけど今じゃただの三十過ぎたおばさんだ。すっかり地味になっちまって、近頃じゃ抱く気も起きねぇよ」

「お前、理穂子さんのことおばさんだと思っているのか?本気で?」

「お前最近あいつに会ってないだろ」

「会ったよ。この間偶然買い物中に」

「へぇ、すっかり年くってただろ?」

「俺には昔と変わらず綺麗に見えたけど。だいたい、年くってるのはお互い様だろ?理穂子さんが年を取るってことは、お前も年を取っているんだぞ。いい加減目を覚ませよ」

「なんだ、お前やけにアイツの肩持つなぁ。そういえばお前、昔アイツのこと好きだったもんな」

「な……!」

「気づいてないと思ってたか?バレバレなんだよ、お前。ま、理穂子の奴は鈍いから全く気が付いてなかったけど」

「……もう、昔のことだ。今は関係ない」


 絞り出すように言った修司がどんな顔をしていたか、晃は憶えていない。


 はじめ、すべてを手にしていたのは自分だった。他人がどんなに望んでも手に入らない幸せを手に入れていたのに。

 すべてを壊したのは、愚かな自分だ。


 失ったものが、もう二度と手に入ることはないと知り、晃は押し寄せてくる後悔に押しつぶされそうだった。



***



 待ちに待った週末――愛しい妻と手を繋ながら歩く幸せを、修司は噛み締めていた。


 理穂子の部屋を訪れたあの日から、離婚したばかりだから、まずは自立したいのだと距離を置きたがる理穂子の態度にもめげず、かつてないほどの情熱を持って、修司は理穂子を口説きに口説いた。

 このチャンスを逃せば、自分は生涯後悔することになるだろうと思った。


 晃の裏切りに傷つき、自信を無くしていた理穂子の分厚い心の殻を溶かすには時間がかかった。

 決して理穂子に無理強いすることはせず、ぎりぎりの範囲を見極め、押して押して押しまくった。香織をだしに会う機会を設けたり、香織を使い遠回しに自分をアピールさせるという汚い手も使った。


 理穂子が次第に自分に好意を抱くようになったのは、修司には手に取るように分かった。学生の頃からずっと理穂子を見ていたのだ。何を考えているか、顔を見れば分かる。


 理穂子は修司への気持ちを認めながらも、一歩が踏み出せないでいた。自分は年上でバツイチな上に、多分子供が産めないから、と。

 そんなのは、全く構わない。理穂子を逃せば自分は多分結婚出来ない。生涯独身だ、と主張すると、理穂子は泣いた。


 晃と修司が全く違う人間なのは分かっている。それでも怖いのだ、と。

 一生守るといった晃。

 子どもなんて出来なくても構わないといった晃。

 その晃に手酷く裏切られた経験は、彼女を必要以上に臆病にしていた。


 いつか子どもが欲しいと思う日が来るかも知れない。その時、私ではその願いを叶えてあげられない。


 悲痛な声で泣きじゃくる理穂子から、根気よく聞き出してみれば、理穂子は全く妊娠出来ない身体というわけではなかった。

 それを知った修司は、ひとつの提案をした。


 俺との間に子どもが出来たら、結婚して下さい、と。


 戸惑う理穂子をなし崩し的に()()、貪ること二カ月――呆気ない程簡単に、理穂子は身ごもった。

 理穂子は信じられないと半信半疑だったが、こういうことは相性なのだろう、と修司は納得していた。

 つまり、晃と理穂子の相性はあまり良くなく――そして、自分との相性は抜群だったということだ!


 その日からずっと、修司はにやけがまらなかった。香織に、その緩みっぱなしの気持ち悪い顔なんとかして、と言われるくらいだ。


 諦めなくてよかった。理穂子と自分を繋いでくれた腹の子を、生まれる前から既に修司は溺愛している。


 愛する妻と、これから生まれてくる愛する子のための諸々を買いに出掛けた先で、修司はその人を見かけた。


 かつて自分の愛する妻を手酷く傷付けた馬鹿な男。

 修司はあえて、元サークル仲間たちには結婚したことは告げても、相手が理穂子だということは伏せていた。面白おかしく噂され、理穂子が万が一にも傷付けられることがあってはならないと考えたからだ。


 理穂子の姿を目にした晃の顔は傑作だった。

 久々に目にする晃は明らかにやつれ、最後に会った時より明らかに老け込んでいた。

 不倫がばれ、職場での居場所もなくしたらしいと風の噂で聞いている。


 大方、この一年半、いつか理穂子が自分に戻ってくるという有り得ない希望をかてに生きていたのだろう。

 その愚かな希望が打ち砕かれて、どんな気分だろうか。


 かつては友人として、先輩として、尊敬したこともあったが、そんなものはとうの昔に消え失せた。

 自分たちが直接何かすることはない。愛する人を手に入れられない苦しみを、修司は知っている。自分たちが幸せになることこそ、晃への最高の復讐になる。


 修司は理穂子がかつての男に気づかぬよう、さり気なく反対方向に誘導しながら、愛しい妻の柔らかい頬に口づけた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 素晴らしいです! 彼女や妻をやたらとざまぁしたがる大多数の作品の中見つけた、今までの鬱屈を払破するようなカタルシスが最後に待ち受けてました! 修司さん、よくやった!
[良い点] 素晴らしい。 ドラマを見ているような、最後もとてもいいお話でした。 すごい。 [気になる点] 明美にざまぁないのが気になります。 慰謝料請求出来そうなのですが、、
[良い点] 面白いです。性的描写も美しいし展開も素敵でした
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ