28 神は不幸を見守っている
皇帝と第二皇子が裏で牽制し合っている間に、ヒトキメラを洗脳するための薬物研究所をぶっ潰す!――と息巻いていたラウラだったが、吹雪に足を止められたせいで、帝都を出発したのは二週間後だった。
「うおおお、さっぶ! 雪山並に寒い! あんのクサれ侯爵! 先触れ出したら返事も寄越さずいきなり逃げ出すとかおかしくない!?」
「ついに顔を見る前に人が逃げるようになったか、感心するよ」
「うむ、こんな辺境まで悪名が広まっているとは流石だな」
「これじゃ裏がありますって白状してるようなもんでしょ、侯爵ばかなの!?」
「聖女様。全部隊、準備整いましてございます」
「うぃ、ごくろう!」
聖騎士団の各隊長から陣形を展開する準備が完了したとの報告が上がった。
ラウラは予定が遅れたせいで、まだムッツリと頬が膨らんでいるように見える。だが、その可愛らしい声に聖騎士達は秘かに和んでいた。実は声オタでラウラのロリ風アニメ声に惚れている玄間が、仲間を見つけた喜びで聖騎士達へニッコリと微笑む。
「こら玄間、作戦前ににやにやするんじゃない」
「なんでオレだけ!?」
「理由は笑い方が気持ち悪かったからです」
「ひどいっ」
現在地は帝国の北端。
ダガート・エルリン侯爵が治める領地まで来ていた。
領地は北の海と隣接し、帝国内でも数少ない港を持つ。しかし、その港は晩秋から春先にかけて氷に覆われ、夏の短い期間しか沖まで船を出せない。そのため、港の維持費ばかりが嵩み、常に貧しい生活を強いられている。
「なんと厳重な柵」
「中の建物も馬鹿みたいに巨大な……、とても牛舎には見えません」
「これでは戒座の刑務所だ」
「あの経済力、予想が当たりましたな」
今年最後の大雪が解けはじめていた。どんよりと暗い重厚な曇り空は相変わらずだが、冬の澄んだ空気が遠方に広がる牧草地の景色を鮮明してくれる。
目の前には、門を固く閉じ、鉄杭と鉄条網で作られた凶悪な柵を何重にも敷く牧場がある。外からの侵入者も内からの脱走者も許さない様相だ。厳重な刑務所と化した土地を牧場と呼んでいいのは不明だが。
エピクロスがデモクリスに対抗するために用意していた戦力は、想定していたよりも大きかったようだ。こうなると吹雪で出発が遅れたことは却って幸運だった。そのおかげで、帝国へ連れてきた聖騎士団の半数近くがこうしてラウラの下に集っているのだから。
正式な叙階を得た聖騎士50名、それに仕える準騎士350名と非戦闘員の小荷駄隊など、総勢500名余りが牧場前に陣取る。
「ったく、ミラルベル教の聖女を門前払いって許されていいんですかね」
「そうですな。吹雪の中、聖女様に野宿をさせるなど、それだけで武力行使してでも乗り込む口実となりましょう」
侯爵は聖騎士団の強制捜査を避けられぬと悟るや否や、聖女を迎える事もせず牧場へ駆け込んだ。この困難を小細工ではなく力技で乗り切ろうとしている。最北の地では、食料の備蓄がある建物で、寒波を凌げる立て籠もり側が有利だと理解しているのだ。
「あーあー、テステス。……この地は皇帝陛下が治めしルパ帝国である。ミラルベル教といえど他国で無法は赦されぬ。即刻、我が領地より退去せよ」
誰の人影かも判らぬ遠方から、エルリン侯爵のものと思われる勧告の声が届いた。焚火を囲んでいた一同が牧場へ顔を向ける。
「ささ、聖女様どうぞ」
聖騎士の一人がラウラの前に跪き、相手と同じく拡声の魔導具を構えた。最近開発された物を皇帝経由で帝国から譲られたらしい。
敵に塩を送られたようで少し気持ち悪いが、ラウラは差し出されたマイクのような魔導具の前で大きく白い息を吐いた。
「わたしは聖女ラウラ。女神ミラルベル様に仕え、女神様の御力を悪用せし者を裁く使徒座の執行者です。此度、魔人と認定された五百年前の転移者の被害者である人々の子孫が、この地で不当な扱いを受けていると報告がありました。エルリン侯爵、ただちに施設を解放し、我々の調査を受け入れなさい」
「その様な事実は存在しない。繰り返す、即刻我が領地から退去せよ」
双方、主張は譲らず。これでは平行線だ。
しかし、牧場の内部からざわめきが伝わってくる。神聖ミラルベル教国から聖女が出張ってきているとは聞いていなかったのだろう。それに、他にも共有できていない情報はまだありそうだった。
「あなた達が鬼と呼び、非道にも悪魔の薬と鞭を与えている者達は人間です。繰り返します、その者達は女神ミラルベル様により人間と認められた、我々と同じくこの大地に生きる人間なのです。即刻、解放しなさい」
「その様な事実は存在しない。繰り返す、即刻我が領地から退去せよ。凍死する前に帰りたまえ!」
「嘘で罪を重ねるのはやめなさい! 神に門を閉じることは許されませんよ!」
ラウラは言葉を強くして警告しなおす。
だがやはり侯爵は牧場の門を開けない。返事は同じ、ミラルベル教は帝国から退散しろだ。
小鬼を洗脳して兵士にしているなど認めれば、ミラルベル教から人道を外れた大罪人の刻印を打たれる。帝国貴族だろうと人生の破滅だ。今は帝国貴族として大義名分を得ている本人とて、正式に断罪されれば罪の意識からは逃れられない。
「効いてる効いてる。もうチョイゆすってやれば離反者も出るでしょう。ふへへ、宗教国家ナメんな~」
「聖女様」
「おっと突入はまだです、我々はまだ動いてはいけません」
「ですが敵は聞く耳など持ちませぬ。交渉など時間の無駄です」
「敵とは誰ですか。あの牧場には事情を知らぬ者も大勢いるでしょう。あなたはその剣で何を切り裂くか、しっかりと認識できていますか」
ラウラは指示を待つ聖騎士達をなだめる。
聖騎士は、己を律し極限までその肉体と技を磨こうと、剣を抜く機会は滅多にない。それが、エルリン侯爵が必要以上に抵抗した事で、巨悪を討つ聖戦という大義名分を得てしまった。そのせいで、どうしても気持ちを昂らせてしまう。
しかし、今回は人間対人間。それも大人数による戦闘だ。これは必ず悪しき前例となるだろう。
被害は教国側にも必ず出る。聖騎士達の興奮も全てが終わった後には必ず冷める。一時の気の昂ぶりや戦場の空気に流されるのでなく、正当かつ確固たる理由を持たせてやる必要があった。
「敵は洗脳した小鬼族を使ってきます。我々が救おうとしている者達です。それはどうしますか?」
「そ、それは……」
「ではもう一度、作戦会議で伝えたことを確認します」
牧場で陣を張る前、帝都を出て最初に集合した際に、聖騎士達にはやるべき事を伝えてある。だが、実物の小鬼を見ていない者には、これから向き合う現実がリアルに想像できていないだろう。
ラウラほど物事をすぐに割り切れる人間は少ない。目的のためならと犠牲を許容できる人間も少ない。兵を預かる身として、戦闘の後のケアまで考えなければならなかった。
「わたしの宣言の後でも向かってくる者は斬りなさい。それが人であっても。小鬼であっても。薬物で深くまで根付いた洗脳は解けません。であれば、罪なき民が罪を犯す前に、より苦しむ前に、慈悲なる死を与えなさい。そして、女神の子であるあなた達の命も何より大切だと忘れてはいけません」
俯きかけた聖騎士達が顔を上げる。
「わたしが赦し、わたしが命じます。聖女の名の下でのみ、剣を振りなさい。さすれば全ての剣は、女神様の祝福を受けた聖剣となるでしょう」
ラウラの声に応えて聖騎士達が盾を打ち鳴らす。聖歌の内容を少し変え、女神と聖女を讃える歌を牧場へと響かせた。
本物の聖騎士団が帝国へ来ている。女神の使徒、その代表たる聖女がこの最北の地まで来ている。自分達を裁くために。――牧場に立て籠もる人々のそんな動揺が、離れた聖騎士団の陣地にまで伝わってきた。
金剛寺と玄間は、司令部の中心から少し外れたところで、盛り上がる聖騎士団の様子を、どこか呆れたように感心するように眺めていた。
「神器争奪戦から早々にドロップアウト宣言した連中の気持ちがわかるなぁ」
「二年の初めに新入生歓迎会でやらされてたスピーチを思い出した」
「あーアレか……。ゴミは息を殺して下を向いて生きろとか、性根の腐ったクズは俺が殴って矯正してやるからかかって来いとか、暴言吐きまくったのに梅田以外の教師スタンディングオベーションだったもんな」
「あの学校の教師の苦労もわからんではないが……そうか、人の弱みを見極められるということは、人の望むものがわかるということか」
だから、どこにいても人を従え群れのボスになってしまうんだなと。他の転移者との役者の違いを、聖女という揺るがない存在を背中に得た聖騎士達の顔が物語っている。
聖騎士へ檄を飛ばし終えたラウラが、他人事のように眺める金剛寺と玄間のところへやってくる。
「ふぅ、気遣いのデキる女はツラいぜ」
「いま何タイム中?」
「離反待ち中です。…………さて、サクっと侯爵の共犯を暴くつもりが戦闘になってしまいましたけど、二人ともラウラクルセイダーズの一員として、聖戦に参加する覚悟はできましたか」
「聖女騎士団から更にダサくなってるじゃねえか」
「名前を変えても私設騎士団は認められんぞ」
ラウラの冗談で少しだけ二人の緊張が緩んだ。
しかし、まだだ。
本格的な戦を前にして、二人の身体はこわばっている。
「二人は敵の帝国兵とは無理に戦わなくていいですよ。小鬼のが強くて厄介でしょうし、そっちだけ殺ってくれれば」
「ゴブリンか……それでも……うーん」
「まだなかなか覚悟が、な……」
オークと共にゴブリンと戦った際には、金剛寺も玄間もほとんど動けず役に立たなかった。意外と短気な玄間は適当に怪我を負うか追い詰められれば勝手にキレて暴れだすとして、金剛寺は本気で死にかけるまで念仏を唱えていそうだ。
「そんなに殺生を嫌うなら、こういう考えはどうでしょう」
仕方がない、とラウラはとある話をはじめた。
「元の世界でこれ言うと色んな団体がキレそうですが……脳科学的に見て、発達した知能を持たない生物は人間よりも不幸になり得ません。不幸は脳が造り出す幻想。知能の高さがより深い悲しみや苦痛、絶望を生むのです。ですから知性を失った鬼という生き物を殺したところで、人の命と同等に心を痛める必要はありません」
「またとんでもない暴論で来たな」
「本物の鬼でもそんなひどいこと言わない」
「でも科学的根拠のある思想は少し気が楽になるでしょ?」
これで納得して戦えるよね?とラウラが首を傾げる。
しかし、金剛寺達は苦痛の大小で殺生を嫌っているのではない。この理屈で納得できる人間なら、最初から生物の命を奪うことに強い抵抗を持たないだろう。
「宗教的観点から見たって、人類が争いや飢餓から救済されないのは、全能な神から見た人類は、まだ救うに値しない程度の不幸しか背負っていない未熟な生き物だからでしょ。上位存在は下を理解せず見捨てる。ほら、神の選択と同じです。神は命は不平等だと認めています。二人は神を否定するのですか」
「救って欲しかったらもっと苦しめなんて神様いねーよ」
「神を否定しましたね? 神の加護より生活保護を求める愚かな日本人よ。あなたには神罰が下るでしょう」
「救済しないけど罰だけはしっかり与えるのか、やっぱ神がいる宗教はクソだな」
「仏教に神はいないからな」
「おっと……どの宗教でもこれが一番しっくりくる神の価値観なんですけど、なるほど、仏教徒相手には例えが悪かったか」
であれば、とまた説得方法を変える。
「まぁ次に戸波や高見と会うまでに覚悟はしておいた方がいいですよ。いつまでも寝ぼけたコトぬかしてると、おまえらマジ死にますから」
「だから、アイツらのこと警戒しすぎだって」
「やつらはもう狂っています。わたしは既に同じ……同じ? ん?」
突然ラウラが口を押さえる。
記憶の奥で何かが引っかかった。
「なに急に、どうした」
「今、なんかこうビビビっと、すごく重要なことに気づきかけたような……。もう少しで、わたしの灰色の脳細胞がこの一ヵ月感じていた不安の答えを――」
「報告っ、聖女様、あちらをご確認ください!」
「あとちょっとだから待ってって」
聖騎士が双眼鏡を差し出してきた。一刻も早くととにかく慌てた様子だ。思考を切り替えて双眼鏡を受け取る。すると、エルリン侯爵と思わしき老人の隣に、豪華なマントをつけた少年が立っていた。
「あれは、どうして皇子がここに……?」
――――――――――
ラウラ達が帝都を発つ二週間前、
「何故だッッ!!!」
エピクロスが会議室で癇癪を起していた。
「何故だ何故だ! なぜ皇帝直轄領に隠した転移者が兄上の屋敷にいる!」
蹴り飛ばされた椅子が壁に穴を開ける。父や兄と比べて線の細いエピクロスからは想像できない破壊力だった。どれほどまでに激怒しているのか、側近の文官達も恐れて諫めることができない。
それもそのはず。ずっと目障りだった転移者を、皇帝と義母の目を盗んでようやく誘拐できた。これからの作戦のために、何ヵ月もかけてようやく二人の近くにいる異常者を排除できたのだ。なのに、最後の詰めで横やりが入った。
「奪われてしまっては義母上との交渉に使えないではないか!」
当初、片方の転移者は“ついで”だった。
メナスの行動を監視している時に、宮殿で偶然見つけてしまった転移者。その男はミラルベル教の司教に怪しげな光を用いて意識を奪っていた。司教は何度も光を浴びる内、徐々に意志薄弱となり、皇帝の言いなりになっている様子だった。
エピクロスはその不思議な力を恐れた。
その力が母と慕うメナスへ及ばないかを。
また、メナスが庇護している別の転移者も、メナスに常識では理解できない影響を与えていた。一年前まで自分だけを見てくれていた義母はもういない。メナスの瞳に最も尊く映るのは、一年前に現れた憎き転移者だ。メナスはその転移者を女神と同等かそれ以上に崇めている。
「あの者の身柄だけでも交渉でもらい受けるわけにはいかないのですか。デモクリス殿下としても今は計画の大詰め、エピクロス様と決裂できないはず」
皇太子に選ばれるための継承権争い。しかし、その裏にはエピクロスとデモクリスの間で結ばれた密かな契約がある。その密約を持ち掛けたのはデモクリスの側だった。ならば契約を盾にすれば、と文官が提案するもエピクロスは賛成できなかった。
「兄上は異世界人が嫌いだ。しかし、義母上も嫌いなのだ。どういうわけか義母上を目の敵にしているし、奴の情報は掴まれていた。交渉は難しい……」
片方の転移者は死んでくれて構わないが、もう片方は生きたまま利用したい。
良い案が浮かばない内に時間だけが過ぎていく。部下と共に会議机を囲んでから数時間が経った頃、廊下からカツカツとヒールの音が聞こえてきた。
足音の主を悟ったエピクロスの顔に、少年らしい歓びの笑みと親の説教を恐れる引きつった笑みが同時に現れる。
「エピクロスっ!」
「義母上様……」
ああやはり、と今度は観念した顔に変わった。
「私に会いに来てくれたのですね。とても嬉しいです。しかし突然どうしたのですか。報せてくだされば、最高のもてなしを用意しましたのに」
「……教会の聖女があの御方を捕まえ、デモクリスに引き渡したと聞きました。でもあの御方の居場所を知っていたのはあなたしかいない。どうして私からあの御方を引き離すような真似をしたのです!!」
メナスが声を張り上げる姿を見るのは初めてだったのか、全員が息を呑んだ。メナスの怒りを悟っていたエピクロスでも、一瞬言い訳をしようと唇が動く。しかし、どうにか見苦しい行為を堪えた。
メナス=メレスに嘘は通じない。
帝国でも一部の皇族だけが知る彼女の能力。彼女の前で醜く稚拙な言い訳を並べようものなら、更なる怒りを買うことになる。
「ど、どうか怒りをお鎮めください。私は、あの男からも、人の心を覗いてしまうその呪われた瞳からも、義母上様を救いたい一心で……」
「あなたの使命は私を救うことじゃない。玉座につくことです。それに、きっとそれが私を救ってくれることに繋がるの」
聞き分けのない子供を諭すように、エピクロスの頬を優しく撫でる。
「義母上様、申し訳ありません。全てが終わった後には、必ず兄上からあの男を取り返しますから、どうか……」
「ほんとうに?」
「この命に代えましても、義母上様との約束を違える事はありません」
光を遮る黒いヴェールをめくり、奥から虹色の瞳が覗く。
人の心の内すらも視てしまうという教会の秘匿聖遺物“神眼”。一度でも適合者の眼と同化すれば死ぬまで外すことはできず、歴代の所持者が全員自ら命を絶っている曰くつきの聖遺物。
エピクロスはその力を知りながら、恍惚な表情で受け入れる。まるで赤ん坊のように全てを晒すことで快感を覚えている様だった。
「……信じましょう」
「ありがとうございます。ですが、そのためには新たな問題が」
「わかっていますよ、聖女が邪魔だと言うのですね」
メナスの艶めかしい笑みが深くなる。
「聖女ラウラは、次にエルリン侯爵領へ調査に向かう予定です。そこであなた達の計画に必要な物を破壊するつもりでしょう」
「そんなっ!? このタイミングで教会と揉める訳には……」
「帝国の雪は深い。この国で勝手なことをすれば自然の怒りに触れる。珍しくもないことです」
エピクロスの顔が驚愕に染まった。
帝国の雪は深い。メナスが口にしたのは貴族がよく好んで使う暗殺の隠語だった。
「で、でもどうして。マ、義母上様はずっと教会には決して手を出してはならぬと言っていたではありませんか」
「今なら問題ありません。いいえ、今しかその機会はないと言えましょう。エピクロス、私のかわいい坊や。“私達”のために、聖女はいない方がいいと思わない?」
メナスは赤子をあやす様にエピクロスの頭をぎゅっと抱き締める。エピクロスは部下の手前、顔が蕩けぬよう顔面に力を入れてどうにか耐えていた。
世界で最も力ある国、神聖ミラルベル教国。その教国が正式に聖女と認めた尊き少女を手にかけるなど、本来許される行為ではない。皇子だろうと皇帝だろうと、世界を敵に回しかねない。
これまでだったら自分の言う事に疑問を持たなかったのに反抗期かしら?と内心で溜め息をついてから、メナスは言葉を続けた。
「大丈夫よ。教国の教皇や精霊達ですら知らない秘密があるの。この帝国にとって、聖女というのはね――」
耳元で自分にだけ聞こえるように囁かれた帝国と聖女の因縁。それはエピクロスにとって受け入れがたい歴史の真実だった。愛する義母に抱かれていることを忘れ、こぶしに力が入る。その血走った眼に映るのは、眼前にいるメナスではなくパーティーで一度会った聖女の姿だ。
「そう、彼女もあなたの本当の敵の一人。帝国を救うのはあなたよ」
エピクロスの反応に満足したメナスは「約束も忘れてはダメよ」と最後に念押しして出て行った。メナスを見送ったエピクロスは、誰の目にもつかないよう時間を空けず秘密裏に帝都を出発した。
――――――――――
「なにやらあの皇子、めちゃくちゃキレてるように見えるのだが」
双眼鏡いらずの金剛寺が、輪っかにした指の穴からエピクロスを覗いて呟いた。
「ラウラ様さぁ、誰彼かまわずケンカ売るのやめようよ」
「パーティー以降、一度も会ってないんですけど。研究を潰されそうなのを察知して先回りしたんでしょうか。やっぱり他国で隠密行動は難しいですね」
「とてもそれだけには見えんぞ」
数百の帝国兵と小鬼をその背に従えたエピクロスが、まばたきすらせず聖女だけを睨みつけていた。
帝国兵が縄で結ばれた者達を引きずってくる。ラウラに煽られて脱走しようとした兵士だろう。エピクロスは泣き叫ぶ部下へ言い訳も許さず首を刎ねた。
右手に握られた剣は大きく震えている。人を殺したことや寒さから来る震えではないだろう。抑えきれない怨讐が感じられた。
血を滴らせる剣を天高く掲げると、そのままラウラへ向けて振り下ろす。わずかだが、風に乗って「聖女を殺せ」と聞こえたような気がした。
帝国兵と小鬼から一斉に怒号が上がる。雪の解けた泥道をぐちゃぐちゃに蹴り上げて死に物狂いで駆けてくる。
「マジか、あのクソガキ。完全に殺る気じゃないですか。戦端開く前に使者送って交渉とか口上述べたりしねーのか」
「どどどどうすんのこれ!?」
「ラウラ様が強引に追い詰めたから!」
「悪いのあっちじゃん。おら、おまえらも覚悟決めろ!」
ラウラは法衣を掴んでくる玄間と金剛寺を蹴り飛ばして、聖騎士達と向き合う。
狂い叫ぶ敵兵にも慄く者はいない。既に準備はできている。後は聖女の指示を待つだけだと力強い視線が訴えていた。
「敵は悪しき薬に手を染め、言葉を捨てたケダモノと成り下がりました。もはや交渉の余地も懺悔を待ってやる事もできません! 正義は悪に屈しない。悪の刃で傷つく事も倒れる事も許されません! 正義のために磨いてきたその武勇を此処に示しなさい! さあ、聖戦を始めましょう!」




