09 腐ったみかんの魔法
「病は前世の罪にあらず。傷は今世の罰にあらず。罪を通して死を返すなど女神の定めし秩序にはなし」
聖堂奥に置かれた祭壇の前、ステンドグラスから差し込む朝日を背に、ミラルベル教助祭である幽村悟が立っていた。
幽村は過去、癒しの聖遺物を以って世界を疫病から救ったという聖人の言葉をすらすらと諳んじていく。教会に集まった信者達は、幽村の言葉を聞きながら配られた聖典を目で追いかける。
「善因善果、悪因悪果はあらほましけれど、人世に定めし法は人が敷きし人の道。あらぬ結びで自己を縛ること違わず、己が内の信なる心に身を重ねるべし。さすれば汝の行く末は健やかなりけり」
聖人の言葉を祈りの如く繰り返す曇りのない澄んだ声だ。
ただ、本人は信者達へ優しく微笑んでいるつもりのようだが、その笑顔は猟奇的で悪魔じみていた。
多額の治療費を喜捨としてせびる詐欺か、はたまた治療を謳いながら信じてきた者を痛めつける悪質な暴力か、一体どんな不幸が自分を待ち受けているのか――最初の治療を待つ女性信者は顔を青くしていた。
「幽村は毎日最低3時間は鏡の前で笑顔の練習をした方がいいですね」
「ぷーくすくすっ、信者がカス村見てきょどってんのマジウケるんですけどー」
「騙されて黒魔術のミサに連れて来られた生け贄の顔をしておる」
「ちょっとラウラさんっ! あなた方もっ!」
一部、壁際で口を押さえて震えている集団も見受けられるが。
「ご婦人、その隠しておられる腕をお出しください」
「ひっ」
野次や嘲笑が聞こえているのかいないのか、幽村は動じない。
聖典を閉じて治療を求める信者へ患部を出すように促した。
ここでもやはり幽村の表情は受け入れがたいものだったようだ。信者は小さく声を上げて一歩下がる。しかし、尻込みする信者の肩をバンデーンが優しく抱きとめた。
「バ、バンデーン様……」
「安心なされよ。この者はいづれは聖人へと名を連ねるであろう、私が最も篤き信を置く者である」
枢機卿司教ともなれば、バンデーンの顔は広く知れ渡っている。そして枢機卿とは、教皇の補佐にして次期教皇へ立候補を許された最も徳の高い位である。バンデーンの微笑みに安らぎを覚えると女性信者は幽村へ向けて腕を差し出した。
他人に見られないようローブで隠されていた女性の腕は、しなる弓のように大きく湾曲していた。前腕から手の甲にかけて歪な弧を描いている。以前にした骨折の治療時、添え木をせずに放置してしまったせいで曲がったまま骨が繋がってしまったのだろう。
骨の歪みは神経の圧迫により痛みや脱力発作を引き起こす。それだけでなく、女性であれば外見的な美しさを損ない心を病んでしまうこともある。
幽村は女性の腕を手に取り、わずかに眉根を寄せた。少しでも早くその傷を癒してやろうと急ぎ、されど女神への感謝と祈りを丁寧に込めつつ呪文を唱える。
「我、女神様の御力を借りて、正しき姿、あるべき姿を汝に取り戻さん」
幽村の手から美しい虹色の光が発せられた。
聖女の護衛たらんとするポーネットが、金剛寺と玄間の首根っこを掴んでさりげなくラウラの前に立つ。
幽村の魔法が実際にはどのような効果なのかは不明であり、魔法の光を浴びることは魔法をもらうことと同義である可能性を考慮しての行動だった。
「ポーさん、じゃまじゃまー」
「ラウラさんっ、そこは、やめっ、くすぐったいですわ!」
もっとも、ラウラは視界を塞ごうとするポーネットの腰にしがみつき、脇の間から幽村の魔法を覗いてしまっているので意味はなかったのだが。
「お、おお……これは……腕が……手が、動く……」
虹色の光を浴びた女性信者の腕が変形していく。否、変形していた腕が正しい形へと戻っていく。光が収まった時にはまっすぐに伸びた右腕があった。女性信者は信じられない様子で何度も右手を開いては閉じてを繰り返す。
「ああっ……ありがとうございます神父さま。これでちゃんと我が子を抱けるようになります」
これまで麻痺が残り力の入らなかった手を握りしめて、震わせた手で目から溢れる涙を拭う。振り返った女性の先に、教会の長椅子に並ぶ信者の中には赤子を抱く夫もいた。赤子を抱きながら幽村へ向けて頭を垂れている。
「バンデーン様、この方の御力は奇跡です、この方は既に聖人として崇められるべき御人かと存じます」
「いえ、私など偶然女神様の御力を貸していただいているにすぎません。人間としてはまだまだ修行中の身ですので……」
ここまで来ると流石に、女性も幽村を恐れるような無粋はしなかった。女性に手を握られて感謝される幽村は照れ臭そうに頬をかいた。こうした仕草はまだ純情な十代の少年のようだ。
席に戻った女性は綺麗になった右腕を見せて自慢する。幽村がバンデーンの主張する通りの人物になるのであれば、これはただ治療を受けただけにならない。ミラルベル教において、現代に現れた聖人を通して主の恩寵を頂いたことになるのだ。
あらかじめ順番は決められているのに、我先にと幽村の下へ治療を望む者が殺到した。幽村はそれに応え、ひとりずつ丁寧に呪文をかけていく。
「さすがですね。サトルとの出会いを女神様に感謝いたします」
この日、定められていた治療を全て終えた幽村にバンデーンが声をかけた。
「もったいないお言葉です」
「疲れてはいませんか。信者の皆さんも大事ですが、あなたの体も大事なのですから自らも労わらなければいけませんよ」
「私は大丈夫ですが……そうですね、気をつけます。ところであれは……」
幽村の視線の先では、ポーネットの影から聖女が魔法による治療をずっと見つめていた。まばたきもせず穴が開きそうなほどに。
しかし、他の信者や聖職者同様に幽村の魔法を見て感動しているわけではなさそうだった。かわいらしい顔を歪めて、ギリギリと歯ぎしりの音が聞こえてきそうなほど悔しそうな眼でにらんでいた。
「申し訳ございません、私が何か気に障ることをしてしまったようです」
「いえいえ、サトルは何も悪くありませんよ」
聖女の嫉妬と思わしき感情とは対照的に、バンデーンは愉快そうに破顔させた。
「癒しの力、それは最も尊き神の奇跡。使徒座の小娘……巫女の中ではテレスラーダの一派が祭壇型の聖遺物を持っていますが、人の心さえ癒してしまうサトルの魔法にはほど遠い。君が支えてくれるのなら、私は教皇となりこの世界をより良い姿へ導けると確信しています。……ところで、彼らの聖女様を見る目はどういう風に理解すればよいのでしょうか」
途中、次代の教皇へ向けての権力争いに燃える司教の顔を漏らしてしまったことに気づいたバンデーンは強引に話題を変えた。
バンデーンが気にかけるべき人物は、聖女よりも幽村と同じく転移者である金剛寺と玄間だった。二人は歯ぎしりをする聖女へ向けて、敬愛とも畏怖とも取れる奇妙な視線を送っている。
「彼らとはあまり親しくなかったのですが……たしかそう、彼らは美少女を見るのが好きなのです」
幽村は高校の教室で美少女ゲームの話題で盛り上がっていた金剛寺達の姿を思い出して答える。
「美少女をスケベな眼で見るのが好き、の間違いではないかな」
「彼らの名誉にかかわるので沈黙をお赦しください」
「君は本当に固いな。まぁ私の知り合いの話によると聖女様も露出の気が、ん゙ん゙っ、人の視線というか尊敬を集めるのが好きらしいから心配はいらぬだろう」
「バンデーン様、フォローになっていませんよ」
使徒座へ潜入させたシスターからは、ラウラに対して良い噂を聞いていないらしく、バンデーンは少し気まずそうに咳き込んでから足早に去っていく。
「まだ色を知らぬこども、見目の美しい若いシスターを用意させ……しかし、あの聖女とポーネットに目が慣れてからでは手遅れに。外見のカリスマ性は侮れない。急ぐ必要があるな」
――――――――――
「すばらしい! あれこそ女神様の御力にふさわしい在り方です!」
魔法による治癒という奇跡を目の当たりにしたポーネットの興奮は、夕方になってもまだ冷め止まない。
幽村が魔法を使い熟せていないため、四肢の欠損や失明、不治の病とされる重病は治療できないが、この日治療を諦めていた信者達の目に確かな光が戻ったことをポーネットは称賛し続けていた。
「拙僧らは望んで筋肉魔法やら覚醒魔法を得たわけではありませんし、カス村も治癒魔法を得たのはたまたまの偶然でありますが」
言い訳をする金剛寺に冷めた眼が向けられる。
「一体どうすればあのような御力を女神様から授けていただけるのでしょう」
「運ですよ運。あいつが引き強なだけ」
「これからはラッキーカス村にあだ名を変えるか」
「いいえ、あなた方はあなた方の人間性にあった力を与えられたのだと思いますわ」
さもしい人間性、故におかしな魔法を与えられたのだ。
ポーネットからそう言われてしまえば、金剛寺も玄間も反論はできなかった。家が仏教徒であるため、多くの教えを学んではいるが、二人には人徳も信仰心も向上心もない。
しかし、個人の人間性によって適した魔法が引き寄せられるのならば、最も神聖なる力といえる治癒魔法が幽村に与えられるのはおかしいのではないか。金剛寺達は難しい顔で腕を組んだ。
「……ポーさん、まだ幽村の所は人が集まっていろいろ話しているみたいですし、混ざってきたらどうですか。元の世界でどう生きてきたのかとか、聖職者として参考になるかもしれませんよ」
「それはいい考えですわね! あっ、ラウラさんもご一緒に?」
「わたしは他人から学ぶ精神性など何もありませんので」
「もうっ」
真なる奇跡を前にしても不遜な態度を変えないラウラに、ポーネットは呆れと感心の混ざった溜め息を返してから部屋を出て行った。自覚なきスパイの背中に期待をかけつつ、ラウラも細い息を吐く。
「にしても、わたし達と幽村の魔法でそこまで違いがありますかね」
魔法が元2-Aのクラスメイトの願望から作られた力だとして、本当にその魔法はランダムで配られたのだろうか。アザナエルから言われた言葉をどこまで鵜呑みにしてよいものか疑問は残る。
しかしラウラが頭の中で、ポーネットがこれまでに遭遇し、彼女がその魔法を実際どのように理解しているのかを思い返してみれば、。
貴志瑛士の破壊の力。
金剛寺観世の肉体を強く作り変える力。
玄間一星の努力を省いて才能を開花させる力。
楠井初郎の堕天使からお告げを聞く力。
鮫島巧斗(多々良双一)の他人に化ける力。
鳩山一二三の動物を従える力。
中馬矩継の法で人を縛る力。
安照の金を生み出す力。
各務蓮也の欲望を解放させる力。
――と、ナルキ村を襲撃した賊の皆殺しから始まり、教会荒らし、ガイア理論テロリスト、異端者集団による国家の乗っ取りとロクな出会いがない。ロクな人間がいないともいえる。人間性と魔法に密接な関係があると疑われても論理的に反論できる材料がなかった。
「うーん、見事に終わっている。ミラルベル教と接触した転移者がわたし以外全員クズとは……」
「聖女様もたいがいだと思いますけどねぇ!」
「然り、所詮我らは元2-A、幼少より腐ったみかんと呼ばれて育った悪童よ」
「だははははははッ」
三人のバカ笑いが重なった。しかし、すぐに部屋は静かになる。
三人とも自分勝手で他人に迷惑をかけずに生きられない自覚は持っていたようだ。
「まーなんにせよ、絶対に裏があるはずです。腐ったみかんの代表格であるカス村が善意に目覚めて聖職者になるなんてあるわけがない!」
「聖女様が言うと説得力ある」
「うっせ!」
声を揃える二人の脛を蹴ってから、再び腕組みをして深く座り直した。
「そもそも、わたしはまだヤツの魔法が“治癒魔法”だと認めていないわけですが」
「でも怪我を治してたし、病気の人もうつ病の人も元気になってたぞ」
「というかそこは重要なのか?」
「わたし達の戦いにおいて最も大切なものの一つは、相手の“魔法名”を知ることです。治癒魔法と治癒が可能な魔法では全然違うんですよ」
ラウラが引っかかっているのは、イネスとキスキルから逃げようとした時に、ラウラの前を遮った見えない壁だ。
あの後、ラウラはイネスとキスキルから聖遺物で確認したが周囲に人はいなかったと聞いている。空気の壁を作ったのは幽村の魔法で十中八九間違いない。
治癒魔法は他人の肉体へ作用する魔法。
仮に生体電流をも操れる魔法というなら、空気の壁に行く手を遮られたと誤認させることも可能だろう。しかし、治療とは関係なく使えるその力を“治癒魔法”と呼ぶことにラウラは抵抗を覚える。
「遠距離から援護が可能な協力者でもいないと、あいつの魔法は汎用性が高すぎる。もしもあれが治癒魔法でないとしたら……」
ラウラが考えている魔法は、全てを可能にする魔法だ。
個人の願望から生まれた魔法――もし、“魔法を使えるようになりたい”という願望が女神の力で再現された場合どうなるのか。口にしたことを全て現実にする言霊を可能にしてしまうのか。
「治癒魔法を行使し続けてきたにしては威力が弱い。しかし魔法は汎用性の高さに応じて威力が下がる傾向にある。可能な事象を広げるには魔法のレベルを上げるしかない。そう考えるとやっぱり……ん~?」
「自分はカス村が治癒魔法を持ってんのには結構納得してるんだけどな」
「むん?」
玄間が思考に耽るラウラを止めた。
「だってアイツが善人の演技なんてできるわけないじゃん。あんな煽られる前に秒でキレてるって。アイツさぁ、治癒魔法に呑まれてマジモンの善人になっちまったんだよ」
「ふむ、百理ある。ゲンゲン、天才じゃったか」
「だろだろ?」
金剛寺は頷き、ラウラは小首を傾げた。
治癒系統の魔法には恐らく二種類が存在する。
自分だけが健康でいられる願いと他者を癒したいという願いだ。
前者の魔法には善意がない。
しかし、後者は善意で出来ていると言って過言はない。
純粋に他人を癒す魔法の持ち主がどういう人間になるかと言えば、思い遣りに溢れ心穏やかで謙虚な、それこそ聖人と崇められるような人間になるだろう。
「アレは……すぐナイフに頼るし弱いしバカでクズですが、根性だけはあった男ですよ。このわたしが何度殴ってやったと思ってるんですか。その幽村が委員長や楠井のように易々と魔法に呑まれますかね」
「疑心暗鬼はお主の悪い癖だぞ」
「つか番長の魔法根性論が間違ってるだけじゃね」
「そこはほぼ確信に至っているので疑っていません。……が、あいつも異世界に来て一人で弱っていた心の隙を突かれた、という可能性もあるには……やっぱりわからん」
ラウラも認めざるを得ない多々良双一と幽村悟にあった共通点。
それは、見た目がとんでもなく怖い、という所だ。
女性の落としたハンカチを拾えば風俗スカウトのヤクザと間違われ、重い荷物に困っている老人に手を差し出せば強盗と間違われ、迷子の子供に親はどこかと聞けば誘拐だと叫ばれる。
幽村も根性の入った不良といえど、多感な少年時代をそんな風に歩んでせいで歪んでしまっただけだとしたら。ミラルベル教というこれまで触れた事のない優しさに大きな影響を受けてしまうかもしれない。
「番長は優しい人と会っても骨までしゃぶり尽くすことしか考えないのにね」
「カス村はただの不良だが、聖女様は巨悪なのだ。そこが緋龍高校番長の地位まで登れた人間とその他の有象無象との差よ」
「おい、悪口を言うならもっとひそひそ話しなさい。聞こえてます」
金剛寺と玄間はふくらめた口を、指でバッテンを作って押さえた。
猫被り系のバーチャルアイドルがファンに答えられない質問をされた時のような仕草だ。
「なにそのポーズ、なめてんですか、このクソオタが」
「粗暴ななんちゃって聖女様にkawaiiを理解させてやろうという拙僧達の気遣いだが?」
これで本人達には挑発の意思はなく、素で反省しているジェスチャーなのだから、ラウラを余計にイラつかせる。
「はぁ、この調子だとバカ二人が使えないせいで後手に回りそう……今、一番起きてほしくないこと……早めに援軍を使いますか」
ラウラは二人を部屋から追い出すと、暗号で手紙を書きはじめた。




