37 煉獄
「もぉおお! 燃えちゃえ! 燃えちゃよおおおおぉ!」
油小路は高見からお願いされるがままに呪文を放つ。その度、炎が氷の壁とぶつかっては霧散して消えていった。
青木は初め、氷山の如き巨大な氷で炎を阻もうとしたが、溶かされる早さが異常だった。青木の冷却魔法と油小路の火炎魔法ではレベルにかなりの差がある。そこで青木は冷静に戦略を切り替えた。
分厚い一枚の氷から薄い氷の壁に変えて何度も張り直す。魔法の炎でも炎は炎だ。質量のない炎には貫通力が伴わない。燃やす対象を失った魔法は、周囲の物に延焼させなければ、あとは爆風さえ防いでしまえばいいのだ。
そうした攻防を何度も繰り返す内、氷を打ち破る前に油小路の極度に太った喉が悲鳴を上げた。駄々をこねるような叫び声は息切れに変わり、氷を溶かそうとする炎の攻勢が弱まる。
「氷の壁を作る……? そんな魔法があったとは」
「やるじゃねェか」
「あれは冷却魔法。いつもクールに、涼やかに、カッコよく、スタイリッシュに! って魔法ですわ、うへへっ」
一面炎と化した肌がひりつくような熱気から一転、全身を冷気に襲われてラウラ達は体を震わせる。
青木はラウラと幽村の窮地を見事救ったわけだが――救援のタイミングを計っていたことを鮫島にバラされて冷や汗をかいていた。ラウラの機嫌を窺うように卑屈な笑みで揉み手をしている。
「基の願いがよくわからん。整頓魔法と似た感じの魔法でしょうか」
「たぶん油小路だな、赤面症とか多汗症で悩んでたし。そもそも魔法って願いってより全部トラウマから生まれてんじゃねーの? まともなの少なすぎんよ」
「全部トラウマ? あー、その可能性もありますね。魔法自体あのくされ天使の仕組んだことですし」
「青木のクセに鋭いじゃねェか」
「アア? クセにとはなんだクセに……って、さっきから態度デケー部外者がいると思ったら、おまえ幽村かよッ!? なんで牧師の恰好してんの!」
ラウラの隣にいた法衣の男が幽村だと気づき、青木が仰け反った。
ヘタレな青木にとって評判最悪の幽村は非常に苦手な相手である。
「オレの服装がテメェと関係あるか」
「ないですすんません!」
「そーゆーコントはいいから状況を説明してください。どうして博士がついていてこんなふざけた登場を……ん、博士は?」
「あたたかい……光が……私を呼んでいる……」
「おい待てこら」
輪島は青ざめた顔と凍りついたようなぎこちない動きで、炎の方角へ向かおうとしていた。全員で慌てて輪島の体を掴む。
「なんでこいつ壊れてるの。またカフェインの離脱症状?」
「ちゃうちゃう、博士は空飛んだ後は毎回こうなんねん」
「そうなんですか。まだ鮫島便で長距離移動したことないので楽しそうとしか思ってなかったんですけど」
火竜化していた鮫島の背から降りてきた青木と輪島。だが、輪島の方は極寒の空の旅で肉体も精神も限界に来ていた。目の焦点も合っておらず、意志の疎通もできそうにない。強引につれてきた鮫島も「近くの町へ置いてくるべきだったか」と頬をかいていた。
「………………ところで鮫島さぁ」
「だから何度も説明したろ」
「さっきから普通に話しちゃってるけど、この子が本当に番長? かわいすぎだろ」
青木は興味津々で八方からラウラを眺める。
「青木が疑いたくなる気持ちはよくわかります。正直、わたしもカワイくなりすぎて世界中の女子に申し訳なく思っている。わたしのせいでカワイさのランキングを一つ下げさせてしまった」
「あっ、このおもくそ不遜な感じは双一さんだ」
「せやろ。法衣より地雷系ファッション着せてみたいよな」
「その感じわかる~。つーかどんな魔法使ったらアレがコレになんの?」
納得した風に答えるが、火竜なんていう怪物に変身する鮫島の変化よりも信じられないと言いたげだ。ラウラの魔法がどういうものなのかにも興味を示す――だが、疑問を解消するより先に幽村がキレた。
「オイッ! 気持ち悪ィやり取りしてる場合じゃねえってわかんねェか! オレは早く高見を殺してェんだよ! くっちゃべってるヒマがあったら、その魔法で高見を氷漬けにでもしてこいや!」
「ムリっす! つかそろそろ壁が破られそうっす!」
油小路の起こした熱気の中で氷の壁を生成するには無理があった。何度も張り直していた氷の壁が徐々に近づいてきている。
幽村も魔法で防御に加わるが、二人がかりでも完全には防ぎきれない。次々と飛んで来ては爆散する炎の槍に魔法を焼かれ、後退を強いられる。
火炎魔法は単純に物を燃やすだけの魔法でも、戦闘においては無類の強さを発揮する。攻勢に転じるためには早急に打開案が必要だった。ラウラと幽村は合った動きで首根っこを掴むと、溶けだした氷の壁ギリギリの距離まで輪島の体を突き出す。
「熱いッ!? 顔がっ、眼鏡が皮膚に焼きつくッ!?」
意識を取り戻した輪島は、ラウラと幽村の手を振り払って地面を転がり逃げた。眼鏡をかけ直して自分を炙った二人組を見てあんぐりと口を開けた。
「バカな、鬼畜が二人に増えたですと……」
「鬼畜は炎の向こうにいる高見ってやつです。いつまでも放心してないで何か手を考えてくださいよ、頭の良さしか取り柄ないんだから」
「この天然サド娘が! 私の体は君のようなチート製品と違って繊細なのですぞ!」
「なんですか、肩でも揉んで労ってほしいんですか」
「うひぃッ、それは遠慮しますっ」
輪島は再び顔を青くして遠ざかる。ラウラの褐色の肌が近づくと、青木に閉じ込められた地下冷凍庫で、多々良双一に化けた全裸の鮫島に抱きしめられて暖を取った記憶がフラッシュバックしてしまうらしい。
「うーむ……幽村君と青木君の二人がかりで防御に回ってもジリ貧。鮫島君が化けた火竜の炎はまったく効かず。私と多々良君は遠距離火力の撃ち合いでは役立たず……相性が悪い。一度撤退しては?」
「ダメです。高見を逃がすのは危険すぎる」
「ダメだ認めらんねェ。高見はここで殺す」
輪島が現状をまとめる。しかし、寒さで震える人間を炎で炙って解決する凶悪コンビは声を揃えて否定する。
高見の魔法は記憶への干渉を主としている。炎の向こう側から呪文を使ってこないところから、忘却魔法も直接接触を必要とするタイプだと推測できる。ラウラと同様に遠距離の戦闘で役に立たないが、見逃してどこかへ潜まれた場合、その脅威は一変する。
精神系の魔法は隙を突かれたら、たった一回の呪文で勝負がついてしまう。そして洗脳の方法によっては、これから新しく敵が増える可能性もある。能力が判明した今、高見を逃す選択肢はなかった。
「一度撤退してから、あの二人が帝都に帰ったところで鮫島君が空から都市ごと焼き払うとかどうでしょう。油小路君はたぶん火炎魔法の影響で耐性があるから炎や熱は平気でしょうし。帝都にいるであろう皇帝、高見君、戸波君、藤沼君、みんなまとめて殺せて一石四鳥ですよ」
「一石四鳥ですよ、じゃない! 他の犠牲も考えろ!」
「手軽に大量虐殺で済ませようとすんなボケ!」
ラウラと幽村に睨まれても輪島は素知らぬ顔だ。人の心情を読むのが苦手、というより初めから空気を読む気がない男は誰を前にしても遠慮がない。
「お二人の口からそんな善人の様な言葉が出るとは意外ですな」
「このサイコ野郎が」
「一番のサイコパスは多々良君でしょうに」
「ハッ、なんも分かってねェな輪島。こいつは単に自己中なだけだ」
「ハハハ、分かってないのはどちらですかな。まあ今は目の前のことに集中しましょうか」
それから、一時撤退からの帝都を氷漬けにして油小路の神気を尽きさせる消耗戦なども提案されるがそれも却下される。そもそも青木の神気はライガル湖での鮫島との戦闘からさほど回復していない。
防御に専念していても無駄な消耗にしかならないため、完全な退却ではないが距離を取る。すると、あっさり油小路の攻撃が止んだ。太りすぎて歩行もままならない油小路の足では、追撃をかけるにも距離の制限があった。馬車へ戻るだけでも何分も時間がかかる。どちらも決め手がないまま、炎と氷の軽い呪文の撃ち合いへと状況が変わった。
「そういやバツイチどこ行った。連れてこなかったんですか」
「バツイチ……ああ、提橋君ですね。実は滞在していた町で偶然、金剛寺君達と会ったのですが、その場で鮫島君と乱闘になったため氷漬けにしました。務めを放棄した脱走者の言葉を信用していいのか分からなかったので、ここへは連れて来ず見張りをしてもらっています」
「おおぅ、まさか連中がそこに繋がるとは。というかサメと仲悪いの?」
「なーんか昔から目の敵にされてんのよね~」
「とにかくそのおかげで多々良君の居場所を予測できたわけです」
提橋の悪食魔法であれば、距離さえ詰めれば不意打ちで相手の魔法を封じる手段があった。しかし、ラウラが金剛寺と玄間に逃げていいと言った手前、提橋が来ていないことを責められない。
「だーっもう! どいつもこいつも魔法なんかに頼りやがってうざったい! クソ高見め、何企んでもいいけど男ならコブシで来んかい!」
「脳みそ筋肉族がキレたぞ。博士、早く案を出すんだ」
「自分だって裏で悪だくみしてるくせに勝手な……。しかし、提橋君の酸欠攻撃なら幽村君の整頓魔法で再現できるのではありませんか」
「酸欠攻撃ィ……?」
と話を振られた幽村が解説を求めて睨みつける。
幽村の学力はバカ揃いの元2年A組でも最低ランクだった。
「人は酸素濃度6%以下の環境で呼吸をすると意識を失うのです。だから整頓魔法で大気中の酸素だけを相手の周りから移動させてやればいい、という攻撃方法ですね」
「よくわかんねェけど、人間がそう簡単に気絶するか?」
「いえいえ、実際には呼吸の仕方で死腔の残り酸素量なども変わりますし、一呼吸で確実に~とはまいりませんが意外と簡単。人を拉致する時とか、練炭かドライアイスでガスを溜めた大きめのポリ袋を背後から頭に被せてやればすぐおねんねしてくれますよ。適切に蘇生処置できないと死にますがね、ふひひひ」
輪島は高校時代、ケンカを売られた不良にどうやって報復していたか、丹念かつ楽しげに語って聞かせた。
「何を隠そう、不良を病院送りにした数で多々良君、鉄君の次に多いのが私です。えっへん」
「……こいつ普通にヤベェんだけど、仲間にしてていいのかよ」
「博士は昔からマジやべーやつでしたけど、同じ教室にいて気づきませんでした?」
「知らねェよンなこと……」
「モルモットにされたパイセン達が輪島には手を出すなって噂にしてましたからね。こいつ痛みに弱いくせに執念深いし。それより幽村、実行できそうですか」
「難しいな。青木一人で油小路の気を引きつけてられんなら……けど、ソイツそろそろ限界だろ?」
親指で示された先には、言葉数が減り表情も失いかけている青木がいた。
魔法の撃ち合いが続くにつれ、冷却魔法と火炎魔法の違いが顕著に表れる。
冷却魔法に精神が呑まれた場合、使用者の精神活動は徐々に沈静させられていく。強く願うことが魔法の発動条件であるため、冷却魔法は最初の一発が最大出力であり、あとは魔法を行使する度に威力が下がっていくのだ。
対して火炎魔法はその真逆だ。文字通り気炎。呪文で何かを燃やす度に、炎の魅入られた心は熱く燃え上がっていく。より高い威力の呪文を、高位の呪文を何度でも使用できる状態となる。
しかも、油小路の精神状態は高見が忘却魔法でコントールできるという差もある。このままでは青木の限界が先に来てしまう。
「ラウラ様も高見みたいに精神ブーストかけられん?」
「たぶんですけど、冷却魔法ってマイナスじゃなくて安定状態に向けて力を奪う魔法でしょ。冷却魔法の影響を物質から精神に置き換えて考えると、絶対値が下がった状態は感情の起伏を失った無感情になるから、反転させても意味ないと思います」
「私も多々良君の読みと同意見ですな」
「マジかー、聖女様使えなーい」
「うっせ!」
「こらこら仲間割れしない。しかし、このままでは…………よし、警戒される前にデカイので一発勝負と参りましょうか」
輪島が思索顔をやめて手を鳴らした。全員に素早く指示を飛ばす。
まず、ラウラが火竜に化けた鮫島の背に乗って空へと飛んだ。高見は聖女を危険視しているらしく、標的を変えるよう油小路に指示を与えた。
かすめた炎の槍が鮫島の翼を焦がす。しかし、上空へ攻撃を逸らすことが輪島の狙いだ。鮫島はあえて炎が届くギリギリの高度を保って飛ぶ。
二手に分かれて地上への警戒が下がった隙に、青木は特大の呪文を唱えるための準備に入っていた。その特性上、激情と冷静さのバランスを取らなければ強い呪文を使えない冷却魔法は厄介である。飛んでくる炎を幽村が防ぎながら時間を稼ぐ。
呪文を唱える。青木の前から特大の氷の矢が飛んだ。
実際には矢と呼ぶにはあまりに太い。まるで氷山の先端だ。
大質量の出現に気づいた油小路が、特大の氷塊に対抗してこれまでで最大の炎を放った。氷と炎が衝突し爆発にも似た余波が生じる。幽村はその灼熱の風を魔法で防ぎ、鮫島は上空へ逃げるように全力で翼を羽ばたかせた。
「無事ー? 落チテナイヨネー?」
「それどころじゃない! 博士の野郎やりやがった!! 高見は生け捕りにする予定だったのに!」
褐色の肌を赤く焼く熱風も、鮫島の心配も気にせず、ラウラが叫んだ。
眼下では白い雲が生まれていた。分厚い水蒸気の波が爆発的な勢いで地表を呑み込んでいく。
「アイツラ何シタンダ」
「炎の反撃を利用した超高温の蒸気で広範囲に自爆攻撃をしかけたようです」
「特攻? 博士達ハ無事ナンダヨナ」
「三人と油小路は……だけど、あれじゃ高見は助からんですよ」
だんだんと蒸気の雲が晴れて地面が見える。ラウラが心配したように、地上では真っ赤に熱せられた高見が倒れていた。明らかに人間がしてもいい肌の色ではない。さらに、全身表面に重度の火傷を負っただけでなく、肺の中まで蒸気で焼かれているのだろう。仰向けに倒れたまま胸も動いていなかった。完全に呼吸が止まっている。
だがこの時、ラウラが注意を向けるべき相手は高見でなく油小路だった。
人の肉体から瞳を焼くほどに眩しい光源へと変化した油小路が、巨大な炎の人間へと変身する。
「わ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙ぁ゙」
絶叫と共に炎の腕が空まで届いた。
火竜に化けた鮫島へ伸びる。
「おわわわ! 来た来た来た避けろサメ!」
「イキナリハ無理ヤッテ! クッソ変身解除ォ!」
鮫島は旋回での回避が不可能だと判断し、その場で竜化を解いた。ジュウと音を鳴らし、落下するラウラと鮫島の体を焦がす。しかしそれでも、変身を解いて強引に進行方向を変えたおかげで、炎はかすっただけで済んだ。鮫島は落下しながら再び火竜へ変身してラウラを捕まえる。
「わたしの珠のお肌が焦げたぞこらぁ!」
「文句ナラ油小路ニ言エヨ!」
火竜を取り逃すと炎の巨人は地団駄をはじめた。持ち上げた足が地面と接触する度、凶悪な炎の波が波紋を描き地上に広がる。大地に残っていた白い雪は瞬く間に蒸発し、大地が黒く焼け焦げていく。
炎は幽村と青木でどうにか防いでいたが、輪島が慌てた様子で手を振っていた。これまでの攻撃以上に火力が上がっている。隙を見て急降下した鮫島が三人を回収して空へと駆け戻る。
「輪島のバカ! 油小路は高見に洗脳されてるって教えたはずです! 親友だと思ってる相手が目の前で蒸し焼きにされたらキレるに決まってるでしょ!」
「面目ない。私としたことがとんだ失態を、ハハハハ」
「こいつ反省してねェぞ」
「高見君は御影一派の人間なのでしょう。早めに処分した方がいいと思いまして」
「ハァ、これだから2-Aのアホ軍団と組むの不安だったんだ……」
「私ほどの天才を捕まえてアホとは失礼な」
「おまえも貴志と同じでIQ高いだけのアホですよ! もう少し自分のことを理解しろ!」
輪島は自身の願いである鑑定魔法を持つ一色を殺された件を根深く恨んでいた。ラウラは輪島の倫理観の低さと殺意の強さを読み違えたことに頭を抱える。
五人はそのまま上空を飛びながら、油小路の次の行動を待っていた。攻撃してくるのか、怒りのまま無作為に暴れ出すのか。後者であれば、どうにかして油小路を止めなければならない。
「ふむ、火炎魔法の終着は炎との一体化? それにしても、ここまで来ると世界に終末をもたらす巨人といった感じですな。やはり全ての魔法は世界を崩壊させるだけのポテンシャルを秘めていると見ていいか……ところで誰かアレを止める手段はありますか」
輪島の質問に答えられる者はいなかった。
実は純粋な戦闘行為に転用できる魔法はあまり存在しない。特に、火炎魔法は単独で戦争を起こせるほどの威力を持っている。この場にいない金剛寺、玄間、提橋も含めて、ラウラの仲間に油小路を止めるすべはない。
「神気切れまで待つしかないか」
「それも難しいですね。神気の獲得方法が感情に乗って移動するという博士の仮説通りなら、今この戦場中から猛烈な勢いでマナが移動しているはず。燃料切れまでに帝都が滅びますよ」
「ちくしょうッ! 打つ手なしかよ!」
そびえ立つ炎の巨人を見下ろしながら、すでに出ている答えを否定しようと必死に方法を考える。しかし、五人が何か答えを出す前に油小路が動きをみせた。炎の巨人は声にならない悲鳴をあげる。
「……こっちに攻撃してこないな」
「なにしてんだアレ」
「もしかして……油小路は高見の死で憤ってるわけじゃない?」
「じゃあなにが理由で暴れてんだよ」
「そうか! 高見の野郎、死ぬ直前に油小路の記憶を戻しやがったな!」
炎の巨人がこぶしを握りしめて天に咆哮する姿は、友を失った怒りをぶつけているように見える。しかし、燃え続ける炎が大気を振動させて伝えてくるものは油小路の慟哭。後悔と絶望だった。
油小路の悲しみは、罪のない異世界の人間を殺してしまったことだ。この戦場だけでも数十では利かない数の死傷者を出している。
逃亡生活を続けながら誰かが日本へ帰る道を見つけるまで待つだけのつもりだったものが、高見に捕まり悪事に加担させられてしまった。善良な油小路は自分のしてきた悪逆非道な行いが心に蘇り、押しつぶされそうになっていた。
「おや、だんだん体が小さくなっている? 多々良君、アレは神気切れが原因だと思いますか」
燃え続ける油小路を観察していた輪島が呟いた。
100mを超す炎の巨人となっていた油小路だが、僅かに背丈が低くなっている。
「新たに獲得したマナを神気へ再変換する速度が消費に追いついていない、って話なら違うでしょうね。油小路は火炎魔法に呑まれたようです」
「そりゃどういう意味だ」
「提橋の願望は、炎に救済を求めていました。ゴミを燃やして冷たい世界に暖かな光をもたらす。それが提橋にとっての炎。先日藤沼が使っていた呪文のフレーズにも浄火という言葉が入っていたでしょう。つまり、あの姿は油小路にとっての罪の大きさであり、罪を焼いて浄化する煉獄の炎なんですよ。神気が切れて炎が消える時が罪の終わり、そして油小路の死です」
「そんな……死ぬ気かよ、油小路……」
幽村が火竜の背に膝をついた。
涙を溜めておくことのできない薄目の三白眼から光るものがこぼれる。
「でもこれ、ほっとけば戦闘は終わりなわけだよな」
「青木! ダチが死にそうになってるのに何言ってんだ!」
「あー……悪いな、今は感情があんまり働かないんだわ」
「テメッ!? なんでその魔法、なんなんだよ魔法って、クソッ」
冷却魔法の影響で冷血漢になっている青木を殴ることもできず、幽村は握った手のひらから血が滲むほどに爪を食い込ませる。
そして青木よりも冷静かつ冷徹な男、輪島は何か言いたげにラウラを見ていた。
「多々良君、質問しても?」
「なんでしょ」
「以前別れてから魔法のレベルは上がりましたか。聖女という非常にマナを集めやすい環境なら、実は聞かされているよりかなり高いレベルにいると思うのですが」
「……まあ、現状をどうにかするだけなら可能な呪文はあります。だけどそれは“気分反転”より遥かに強力な呪文です。そこまでして救うことは油小路のためになるか……」
怒りを言葉にできないまま青木と睨み合っていた幽村が輪島の質問に反応する。
「何を話してる」
「いえね、多々良君が名案があるそうで」
「おい聖女さま本当かッ」
幽村がラウラの肩を掴む。
「後悔を消すだけなら可能かもしれません。ですが、わたしの魔法はメリットだけを取れる優しいものじゃありませんのでどうしたものかと……。それに呪文をかけるにしても今の油小路に近づく手段がない」
「油小路を助けられんだな!? ヨシッ、鮫島、油小路の真上に飛べ!」
「話はちゃんと最後まで聞……待て、おまえまさかッ!?」
ラウラは逃げようとするが身動きが取れない。幽村の手を払おうとするより先に、整頓魔法で周囲の空間を固められていた。
「多々良、やっぱり最後に頼れるのはテメェしかいねえ。オレらのダチを頼んだぜ」
「むりむりむりむり」
鮫島が翼を羽ばたかせ、油小路の真上に到達する。高度1000m付近まで離れても、炎で直接焼かれているような熱さだ。
幽村は真下にいる油小路の痛ましい姿を確認すると、首を振るラウラを無視して――赤く燃える空へ突き落とした。
「この人殺しぃ!」
青木は慌てて冷気の防護膜をラウラにかけながら幽村を非難する。
「青木も分かってねェな。聖女さまならこんぐれェ大丈夫だ。前にも校舎の屋上から五点着地の練習してんの見たことあるし、何よりオレはアイツを信じている」
「この高度は五点接地で分散できる落下エネルギー超えてますけど」
「ほら見ろ! お前の信じてるほど信じられない言葉はねえ!」
「幽村ぁああアアアアア! 後で覚えとけえええええぇ!」
「な? 余裕そうだろ」
ラウラが絶叫しながら泣き叫ぶ炎の巨人へと落下していく。
冷気と整頓魔法により固定された空気の壁が障壁となり風も熱も感じない。しかし、炎に近づくにつれ、自身を守る魔法が勢いを増しながら焼き払われていく感覚が伝わってきた。地面へぶつかって死ぬ前に、ラウラは灰となってこの世から消えるだろう。魔法の行使を躊躇っている猶予はなくなった。
炎の巨人が空から落ちてきたラウラを飲み込んだ。
網膜に焼きついた炎の残像で視界全てが赤白く染まる。そして炎から身を守る魔法の障壁が消えた瞬間、ラウラの身体が黒く光った。
ラウラから発生した黒い光は炎の巨人へ吸い込まれる。紅蓮の巨人が闇の巨人へと姿を変える。黒く染まった巨人は大気を震わせる咆哮をやめ、黒い光の粒子となって空に散った。
――――――――――
鮫島が地上に降りると、余計なものを燃やし果たしたのか以前と同じ程度の体型に戻った油小路の首筋にナイフを押しつけるラウラがいた。
中馬を廃人にした反転魔法の危険性を知っている輪島と鮫島はそれとなく理由を察していたが、事態を理解できていない幽村は怒りを露わに詰め寄った。
「何やってんだよテメェ!!!」
「……わたしが油小路から虐殺の後悔を消すために使った呪文は“善悪反転”と言います。名前を聞くだけで、油小路がどうなってしまったか想像できるでしょう。まず何がどう変わったのか確認しなければなりません」
激怒する幽村だったが、使われた呪文の説明を受けて黙った。
善悪反転。この呪文は文字通り善悪の基準や価値観を入れ替える。
悪人を善人に。
善人を悪人に。
元々善人だった油小路は、今間違いなく悪人になっている。親友である幽村にはその確信があった。
幽村から無言で恨みがましい視線が向けられる。しかし、反転魔法は特定の記憶を狙って消せるものではない。融通の利く安易な洗脳を可能にする魔法でもない。ラウラとしても友人の精神を悪い方向へ上書きしてしまうには抵抗があったが、自死を願うほどの後悔を止める呪文は他に覚えていなかった。
「ううん……」
気絶していた油小路が起きた。閉じていた瞼が持ち上げられる。
「んんー……あれぇ、きみだれぇ?」
「この姿ではわからないかもしれませんが多々良です。お久しぶり」
「多々良くん! やっぱり生きてたんだ、絶対また会えると思ってたよ」
油小路はラウラの発言をそのまま信じ、再会を喜んだ。ほんの数秒だけだが。
自分の首に冷たい刃物が当てられていると気づき息を飲む。
「油小路、おまえが捕まえてくれたおかげで転落死は避けられました。ありがとう」
「え、うん……」
「ですが、わたしの魔法を受けたおまえの心理状態を把握しなければなりません。これから聞くことに素直に答えてください。人を殺したことを覚えていますか」
ラウラが順番に用意していた質問を重ねていく。
油小路は高見に操られて人を殺めていた頃の記憶を完全に取り戻している。しかし、そこには後悔も反省もない。悪行を働いた意識がないのだ。
自殺しようという意思はなくなったようだが、今度は見過ごす事のできない悪人が生まれてしまった。放置すれば今回以上の災厄を招きかねない。
「多々良くんは、ぼくを過大評価しているよ」
「うん?」
今後、油小路をどう管理すればよいのか悩んでいたラウラに油小路の方から声をかけた。
「ぼくは君が思っているほど善人じゃない。善悪反転だっけ? その呪文を受けてもぼくはたぶん変わらない」
「何言ってんだよ油小路! お前は良いヤツだよ!」
油小路の助命を求めて幽村が叫ぶ。
「幽村くん……うれしいけど、今言ったとおりなんだ」
「そんなことねェ!」
「……あるよ。だって緋龍高校に通ってた頃、ぼくは先輩に絡まれてる君を助けたことがなかったでしょ。君は体を張って何度も助けてくれたのに」
「お前はいつも助けてくれただろ」
「違うよ。ぼくはボコボコにされた後の君を手当てしただけ。助けるっていうのは、ぼくと君が初めて会った時みたいなこと、今回ムリをしてぼくに会いに来てくれたみんなのことを言うんだ。……頭の中にある善悪の基準って意味なら、ぼくは善人寄りだったかもしれない。だけど、ぼくは学生の暴力にすら立ち向かう勇気もない腰抜けだ。決断力も行動力もない。だから頭の中が変わっても何も変わらないんだよ」
油小路は幽村の肩を叩く。同時に視線はラウラの方を向いていた。
小心者の善人は善悪の基準がひっくり返ってもせいぜい小悪党にしかなれない。元々あった小さな悪い心から善良なものに裏返った部分もある。ならば生き方そのものは大して変わらない。
「なるほど確かに……その呪文を使って本当にヤバい事になるのは、大義に殉じて死ねるような人間でしょうな。多々良君のような」
「最後の一言は余計です」
しかしこれから油小路が何を望み、何を幸福として生きていくのかを、ラウラの呪文は間違いなく変えた。友人としてその苦悩を感じ取ったのだろう。自分を卑下する油小路の言葉は、ラウラに対する感謝と赦しでもあった。
「それでもここまでやった以上、もう自由は与えられません」
「オイ聖女さまっ」
「だから、おまえに二つだけ選択肢をあげます」
ラウラは詰め寄ってきた幽村を手で制して続ける。
「ひとつ。帝国の包囲を抜け教国での保護を受けること。魔法による洗脳を受けたという情状酌量の余地はあっても、火炎魔法が持つ危険性は見逃せる範疇を超えています。教会なら命は奪わないでしょうが、地下か塔で監禁という扱いになるでしょう」
今度は不安そうな顔をする油小路の肩を幽村が抱く。
「ふたつ。今後、人との接触を断つこと。魔の森、わたし達の転移してきた地点から少し離れた場所で貴志が生活しています。鮫島に送らせるので、そこで貴志と共に暮らしなさい」
「バンデーン様は“魔人キシエイジ”はお前が殺したって……」
「それは教会についた嘘です。ただし、こちらの条件は今後わたしの許可なく人と関わりを持たない事。そして魔法を使わない事。ルールを破った場合には、わたしがあなたを処分します。時間がありません、今ここで選んでください」
「…………じゃあ、後者で」
油小路はわずかに逡巡し、魔の森で生きていくことを選んだ。
自分が社会に残ることで誰かに恐怖や迷惑を与えることを危惧したわけではないだろう。今の油小路の内面は密かな悪意がくすぶっている。他人を気遣ったのではなく、いつ自分が小さな誘惑に負けて粛清されるかを恐れた故の選択だった。
「文明から隔離された生活は思いの外きついですよ」
「罰だと思ってあきらめるよ。それに……どんな記憶を奪われたとしても、多々良くんだったら高見くんの言いなりになるような事態にはならなかったと思うんだ」
「そうですね」
「いやここは否定しろよ。お前よくそれで聖女なんてやってられんな」
「うっせ! おまえこそわたしを落としたこと忘れてんじゃないでしょうね!」
幽村が蹴り飛ばされると笑いが起こった。
別れの握手を求めると油小路は少し悩んでから囁くように耳打ちをしてくる。
「油小路、ちゃんと救ってやれなくて悪かったな」
「いいんだよ。それより多々良くん、あまり生き急がないで」
「いきなり何の話ですか」
「火炎魔法の影響かな、人魂のようなものが肉体に重なって見えるんだ。君の魂は誰よりも、あのイカレた皇帝よりも激しく燃えている。まるで早く燃え尽きてしまいたいと願ってるみたいに……」
「灯滅せんとして光を増す、とか言いたいなら見当違いです。こんなナリになってしまいましたが、わたしの心は何よりも強い。目的のためなら百年でも千年でも、それこそ永遠にだって燃え続けてみせますよ」
「そう? まあ、ぼくなんかが多々良くんを心配するなんておこがましかったかな。最後に、御影さんの魔法なんだけど――」
ラウラはほんの一瞬驚いた顔を漏らしたがすぐに表情を消した。火竜に化けた鮫島高速便へ乗せる前に、別れを告げる時間を与えて集団から少し離れる。
油小路、幽村、青木が生きて再会できた喜びを分かち合い、また次に会う日まで達者でいるよう互いに元気づけあう。魔法に精神を蝕まれつつある男達だが、一見ごく普通の好青年の集まりのようだ。ラウラは、その光景を彼らとはまた違う複雑な気持ちで眺めていた。