29 懺悔の道
「たまに考えんだけどさ……どっか田舎にでも隠れてりゃよかったかな~なんて」
「それな、実は拙僧も思ってた」
鈍い剣戟の音が鳴り、血と泥の匂いが鼻を刺す。一体どうして自分はこんな所にいるのか、金剛寺と玄間は後悔に苛まれていた。
原因はなんだ。
いつどこで何を間違えた。
貴志瑛士という恩人に借りを返すためか。
貴志瑛士というカリスマの熱に当てられてしまったせいか。
魔法という奇跡を得て調子に乗ってしまったせいか。
「聖騎士つよいじゃーん!! おら、やれ! そこだ! たたッ斬れ!」
「聖女様、それ以上前に出ないでください! お願いしますから!」
否、やはり悪いのはあそこで騒いでるチビ女のせいだ。――金剛寺と玄間は心をひとつにして首を振った。容姿と声だけは天使のように愛らしいが、中身は人を唆して地獄へ導く悪魔であると。
「いつ見ても同じ高校の生徒だったとは思えん」
「まぁ今はロリだし?」
「そういう意味ではなく」
金属の塊で殴り合う鈍い音、苦痛に喘ぐ悲鳴、敵を殺さんと叫ぶ罵声が耳に届く度に恐怖が心身を支配する。自分には関係のない争いだ、早くこんな場所から逃げてしまえと本能が訴える。
しかし、逃亡する選択肢はない。
聖都ラポルタで起こした教会への破壊行為、聖女を殺そうとした過去は消えない。金剛寺達もラウラの恩赦を受けて仮初の自由を与えられているだけの罪人。敵前逃亡などしようものなら、即座に指名手配犯へと扱いが変わる。筋肉魔法と覚醒魔法は強力でも、世界中にいるミラルベル教徒から隠れて生きていくなど不可能なのだ。
せめての救いは、聖騎士団の強さのおかげだろう。彼らが戦場を押しているから、玄間達にはまだお呼びがかからない。
女神ミラルベルに命を捧げた者。神の求めし世界の探求と実現、その守護者たらんと己を鍛え続けてきた者達。その屈強さは帝国兵やゴブリンと一線を画す。
戦慣れ――という意味では、近隣諸国との諍いや国内でも領地同士の争いのある帝国兵、弱肉強食の野生を生きてきたゴブリンに分があるはずだった。
聖騎士が本気で命の奪い合いをする機会は、神聖ミラルベル教国の庇護下にある小国からの魔獣討伐依頼が大半を占める。他国の戦争を抑止する示威活動の一環として出動を要請されることはあっても、教国の介入ともなれば、実際に剣を振るう事態にまで発展しない。帝国軍人の中には所詮お飾りの軍だと蔑む者さえいる。
だが、そんな帝国兵の期待を裏切り聖騎士団は強かった。
大盾と片手剣を装備した聖騎士。彼らの守りは何よりも堅い。慣れないはずの雪上、重い鎧と毛皮を着こんで動きは鈍くなっているはず――それなのに、薬物により死兵となった帝国兵やゴブリンの突撃を冷静に受け止め、いなし、躱す。そしてその隙に、指揮下にある従騎士が槍で突いてくる。
小隊同士の連携も帝国兵とはまるで違う。帝国は国土こそ広くとも土地の恵みは貧しい。そのため職業軍人はさほど多くない。その職業軍人も、食い扶持を増やすために鍛錬より畑に適した土地を探したり、狩りをしている時間が長い。
戦術の練度という点において、数百年に亘り常時争いに備えてきた聖騎士団は、他国の遥か先を行っていた。
「自分が戦った方が被害を抑えられるのはわかってるけど……手を出せないのはやっぱりオレが卑怯者だからなのかな……」
「拙僧達の役目は争いの無駄を言葉で訴えることだぞ」
「でもラウラ様の言うように戦いは向こうからやってくるじゃん」
「ならば安全な場所まで逃げればいい」
「その安全地帯だって誰かが勝ち取ってくれたものだろ」
玄間は高校へ入学したばかりの頃を思い出していた。
私立緋龍農業高等学校。関東全域から集められた不良の巣窟。地元にいられなくなって関西や九州から逃げてくる者も少なくない。中には少年院、少年刑務所を出ている者すらいる。それがどれほど恐ろしいことか、玄間の父親は理解もせずにただの更生施設だと思って息子を入学させた。
事実、入学直後は酷いものだった。入学初日にはもう恐喝や意味のない暴力が横行していた。警戒して財布を隠していなかった者は全財産を奪われた。不良の横を通るだけでも顔が気に食わないと殴られる。寮で出される食事も奪われて、いつも空腹に腹を鳴らしていた。入院沙汰になるような大怪我を負わなければ教師も助けてくれない。
息を潜めてひっそりと空気のように日々をやり過ごす、それだけでも地獄なのだ。イジメの標的にでもされたら最悪死ぬかもしれない。父親に勘当されてでも学校を退学した方がいいのではないか。――いつもそんな事を考えていた。
「あの頃も自分達は顔を知る前から番長に守られてた。学校なんていう小さな枠組みの中ですら戦わなきゃ居場所のない人間もいる。帝国の揉め事だって、ラウラ様も巻き込まれただけだ。なら力を得た今、自分達も戦うべきじゃないのか。聖騎士より自分らの方がずっと強いんだから」
「……ゲンゲンよ。おぬし、ラウラ様に言いくるめられておらんか」
玄間の言い分は、自責思考へと誘導されて生まれた卑屈さから逃れようとする強弁である、そう言って金剛寺は親指で司令部の方を示した。
「聖女様が槍を持って飛び出したぞ!」
「総員連れ戻せ!」
「はなせー! わたしが戦い方を教えてやるって言ってるでしょー!」
暴れる聖女が両脇を抱えられ司令部へ連れ戻されていく。
ラウラは二人とは違う。必要に迫られて暴力の渦に身を投じるのではない。悪と定めた相手を自ら裁き排除しなければ気が済まない性格なのだ。
「しばらく観察して少し見えてきたが……、ラウラ様は己のルール、己の善悪に従うのみ。そこに同情や慈悲はない。云わば善意なき善人だ。我々のような凡人はあやつの言葉や行動を理解しようとしていかんと思うぞ」
「じゃあ、自分らはどうすりゃいいんだ」
「そうだな、我らはただここで念仏を唱えよう」
「それ現実逃避じゃん」
「うむ、現実逃避でなにが悪い!」
――――――――――
薬物で狂った帝国兵とゴブリンの叫び声が、依然として戦場を支配していた。しかし戦闘が継続されるにつれ、それは間違いだと気づかされる。
恐怖を捨て狂戦士となった兵は、過去のどの帝国軍よりも強かった。陣形も武器も戦術も関係ない。腹を裂かれても痛みに怯むことなく剣を振り回す。槍で足を地面に縫いつけられようと首だけで敵の喉元へ喰らいつく。その姿に怯まぬ敵はいなかった。
エピクロスにとって狂戦士部隊での実戦はまだ三度目だが、その勝利を疑う理由などひとつもない。ところが味方の死体が一方的に積み重ねられていく。思考を放棄してしまうほどに呆然としてしまう。
「教会の聖騎士とはもっと慈悲深い者達ではなかったのか……? これも奥にいる聖女のせいなのか……」
「殿下、このままでは徒に兵を減らすだけです。彼奴等を放ちましょう」
「だがエルリン侯爵、我らの真の戦いはこの後なのだぞ」
「ここで多くを失えば元も子もありません」
震えた声がエピクロスに進言する。
エルリン侯爵は、エピクロスの実母の出身であるゴラウス公爵家の古い盟友である。恵まれない土地の領主だけあってか、ミラルベル教徒でありながら帝国内でも信仰の浅い人物だった。故に、ミラルベル教の聖女を相手するには最高の貴族だろう。
しかし、信心を持たぬ人間は裏切る時もあっさりとしたものだ。生き残るためには手段を選ばない。
「……そうだな、ここで消耗することはできない」
この戦いの後に続くデモクリスとの契約は自身の望みでもある。
正しく皇族であるために。
帝国の本来の形を取り戻すために。
負けることは許されない。
「戦は勝ち続けなければ意味がない。一度の敗北で全てを失う。ならば優先すべきは目先の勝利か」
「では殿下、よろしいですな」
「ああ、ただ……あれを見た帝国民が悪夢にうなされなければよいが」
侯爵の指示を受けた兵が奥の巨大な施設へと走る。しばらくして、地響きのような音が辺りを揺らしはじめた。
――――――――――
「こら空気読めハゲ! 戦場で念仏唱えてたらテンション下がるでしょが!」
厚手の手袋をはめたラウラの手がハゲ頭を叩いた。
獣が唸るような低い声でぶつぶつと不気味な呪文を唱える一団が戦場にいたら、嫌でも士気が損なわれる。
しかし、何度頭を叩かれようと金剛寺は一心不乱に念仏を続ける。目をぎゅっと瞑り千切れんばかりに数珠を擦りまくる。ひと言でも耳を傾ければ、自分も戦場に駆り出されると頭の中の警鐘が知らせてくるからだ。
「ぬおおお! 南無阿弥陀仏ドーマンセーマン悪霊退散!」
「陰陽師まじってるぞクソ坊主。てかマジであれ見なさいって、ヤバいんですよ。あのクソガキ、とんでもないやつを、ブサイクを出してきましたよ!」
「悪霊退さ――いまなんと?」
ラウラの意味不明な言葉が念仏を唱える集中力を遮った。
とんでもないブサイク。どんな敵だ――気になってちらりと目を開ける。すると、優勢だった聖騎士団の陣形が巨大な怪物によって崩されていくところだった。
真っ黒な肌に角と巨大な一つ目を持った巨人。
雪山で戦ったゴーレムに似ているが、れっきとした生物だ。
オークがかつて破れた大鬼と呼ばれるヒトキメラだろう。
個体差が大きく身長は3~5メートルほど。膨れ上がった筋肉の上に鎧と兜を装備している。目の前に立たれた聖騎士は、どう攻めれば倒せるのか見当もつかないだろう。それが怪力任せに丸太のようなこん棒を振り回してくる。鍛え抜かれた聖騎士でも、複数人でどうにか一撃受けるのがやっとだった。分厚い筋肉と硬い皮膚に阻まれて、従騎士達が槍で突いても深く刺さらない。
投入された数が少ないおかげで勢力はまだ拮抗しているが、体力でも大鬼が上を行くはずだ。逆転されるまでの時間が残されていないことは、戦に詳しくない金剛寺でもすぐに予想できた。
「うわっ、やばいですよブサイク、ブサイクめちゃつよです! なんですかねアレ、いろいろ融合しすぎて遺伝子ぶっ壊れた奇形種でしょうか」
「とりあえずだが、拙僧とゲンゲンの顔を見ながらブサイク連呼するなッ」
「だってブラックサイクロプスって言うと長い」
「ブラックいらねぇしサイクロプスでいいじゃん、わざと言ってるだろ」
「うん、バレたか。とまあ冗談は置いといて……念仏やめてとっとと戦いに行かんか、このヘタレども」
ラウラがケツを蹴っ飛ばすと、ちょうど弾き飛ばれた聖騎士の盾が玄間のいた位置に突き刺さる。
ここで念仏を唱えているだけでも巻き込まれて死ぬ、玄間の顔が青くなった。巨大戦力が加わったことで、もはや安全地帯はなくなっていた。
「立場上、護衛であるおまえ達が先に出ないとわたしが出れないんですよ」
「でもゴブリンの百倍怖いんですけど」
「魔法のない聖騎士が戦ってるのにチート野郎が逃げ腰で恥ずかしくないんですか。ほらほら、玄間は弓で全体のサポート。金剛寺は一つ目野郎とタイマンな」
「拙僧の負担大きくない?」
「金剛寺と玄間が出ます! 聖騎士団は帝国兵と小鬼を中心にあたりなさい!」
「無視しないで」
ラウラの叫び声に応え、聖騎士達が陣形を変えていく。
女神の力を授かった転移者の参戦である。既に聖都ラポルタの聖域では、頭が悪い上に自制の効かない犯罪者として有名になってしまった金剛寺と玄間だが、存在そのものが普通の人間とは違う。転移者とは本来、世界を導く聖人として招かれた者だ。共に同じ戦場で立てる事に大きな期待が寄せられる。
逃げていられるのもここまで。鈍感なフリをして目を逸らそうとすることはできない。金剛寺もようやく戦場に立つ決意を固めた。
「玄間の技術なら、あのデカ兜の隙間から目を狙えますか」
「んーたぶん」
「よし、じゃあやれ。金剛寺は新しく呪文を唱えられないなら、正面から殴り合いで勝とうとするな。素早く懐にもぐり込んだら、ひたすらローキックです。あんなもん体勢を崩せばただの的になりますから。そんじゃ出撃!」
まずは玄間が弓に矢をつがえた。
威力がある分、引くに硬く、狙いは難しいとされる長弓。自分の背丈よりも長いそれを、器用に関節へ力を分散させながら引いていく。ゆっくりと弦を肩の位置まで引き絞り、狙いを定めて放つ。
矢の軌道は鋭く、サイクロプスの大きな一つ目へ吸い込まれた――かのように見えたが、直前で首を振ったサイクロプスは兜で受けてみせた。
「やっぱ無理か、あとこの弓くっそ重いんですけど! 一回引いたたけで指すげぇ痛いし肩外れそう!」
「普通の弓だと届きませんが、前線まで出ます?」
サイクロプスの兜は、人間の首では耐えられない厚い鉄板で出来ており、弓で貫けるほど柔な作りをしていない。飛距離を稼ぐために弓なりに矢を飛ばしても、兜についたツバに防がれて目には当てられない。
しかし、いつ隙をついた帝国兵やゴブリンに斬られるかも分からない戦場の真っただ中に入っていく度胸もない。ここで頑張らせて頂きます、と玄間は痛みに唇を噛みながら次の矢をつがえた。
長弓でサイクロプスを仕留めることはできなかったものの、その成果は確かにあった。巨人達は玄間を標的にしたらしく、ラウラのいる戦場の奥地へ戦意を向けた。だが、足下にはまだ聖騎士達がいる。巨人が意識を外した隙に下半身へと剣を突き立てる。
巨人の進撃が緩んでいる間、金剛寺はのんびりと戦場を闊歩していた。
手に持っているのは自作の警策だろうか。座禅の時に和尚が人をぶつ棒だ。念仏を唱えながら、経文を彫った鉄芯入りの棒で敵を叩いている。
金剛寺の怪力で殴られた敵兵は、鎧や兜の上からでも一撃で悶絶させられ動けなくなる。だがやはり暴力に対する抵抗があるせいか、金剛寺は先に敵に一発攻撃をさせ、それを受け止めてから反撃するというスタイルを取っていた。
それはレベル1の呪文で強化された金剛寺と同等以上の力を持つ巨人との殴り合いでも続いた。一発殴られては、一発殴り返す。相手の罪を受け止め、相手にその罪を教えるように、やらせてはやり返すを繰り返す。
「タイマンとは言ったけど、んなバカ正直に……」
昭和の不良の我慢比べかとラウラは目を疑った。サイクロプスの数は全部で10体。新たに魔法を使わなければ途中で力尽きるに決まっている。
「素晴らしい、あれこそ男の戦いだ」
「いや、あれぞ聖人の戦いよ」
「ええー……」
ラウラとは逆に、聖騎士達は金剛寺の戦い方に感銘を受けていた。
ラウラも高校時代にはさんざん手加減してケンカをしてきたが、こんな戦場でやることじゃないだろうと顔を歪ませていた。驚きを通り越して呆れるしかない。
実際、金剛寺と玄間の活躍で士気は上がったが、どちらも巨人を倒すには至っていない。巨人が投入されてから戦況は押されたままだ。
「どっちも思った以上に仕事しないなー」
「そんな!? 聖女様、お言葉ですが、彼らは数年前まで暴力とは無縁だったと聞きます。それがああして、我々聖騎士以上の活躍をしているのですよ。やはり彼らは聖人に並ぶ素質があります」
「あれが聖人に? あはははっ、あり得ません。いいでしょう、そろそろ女神の力がどういうものが見せてあげます。どの道このままでは、わたしが出ずに勝ち目はなさそうですから」
ラウラが前に出ようとし、再び聖騎士が立ち塞がる。
聖女ラウラが体内に宿すとされている聖遺物が違う物であれば、聖騎士も戦場に出ることを止めなかっただろう。戦闘向きの力を発揮できる聖遺物に選ばれた巫女、ポーネット、メイア、ピリカ、キスキル、イネス……本気になった彼女達に傷をつけられる者は一人もいないのだから。
だが、聖騎士団に伝えられているラウラの力は種類が違う。
聖女は悪意で穢れた人の心を浄化する。
罪人を裁く者にこれほど適した聖遺物は存在しない。
恐らくは聖遺物の中でも最も高い神性を持つという話だ。
しかし、そこに物質的な戦闘能力はない。
聖女ラウラは聖騎士団にとって、魔人と呼ばれる転移者への切り札であり、守るべき幼い貴人でしかないのだ。帝国内での活動における意思決定者ではあっても、戦場へは出せない。
「わたしなら犠牲を増やさず戦場をひっくり返せますよ」
「我らの死は我らの責任。それ以上は我々聖騎士への侮辱になるとご理解ください」
「その自尊心は嫌いじゃないんですけどねぇ……」
やがてラウラがにっこりと笑みを浮かべ、ちょいちょいと手招きする。
ようやく立場を理解してくれたかと聖騎士が膝をついて顔を寄せる。気づくとその首に細い指が這っていた。すぐに血管を押さえられていると気づいたが、どういう訳か体の自由が利かず、その場で崩れ落ちる。
「聞いていませんでしたか。聖遺物なしでもわたしは強い。教国でも本気でわたしに勝てる可能性があるのなんてポーネットとピリカとイネスぐらいです。……ってあれ?結構いるな」
残されたもう一人の聖騎士が、ラウラの言葉に呑まれて一歩下がる。
「まぁいいや。理解したら下がって見ていなさい。転移者を参入させてなお、こちらが劣勢なのです。わたしが出ても言い訳は立つでしょう」
ラウラが小声で呪文を唱え、両手に黒い光が灯る。
ミラルベル教において神聖とは真逆、穢れとされる色の光は、見るだけで潜在的な恐怖を呼び起こす。
聖女は天の女神に代わり現世の穢れを背負う、故に尊い。残された聖騎士は、その歩みを見送ることしかできなかった。
――――――――――
ルパ帝国にとって最大の恩人であり、最大の仇敵でもある聖女。
その後継者に向けるべき感情は何か。
「ククク、大鬼には手も足も出んか。当代の聖女は義母上の言うほどでもないらしい」
エピクロスはサイクロプスの隔離施設に作られたバルコニーから戦場の流れを監視していた。
今双眼鏡のレンズに映るのは、最奥に建てられた司令部にいる聖女の姿だ。小さな影が周囲の男と揉めている。大鬼部隊を投入してから、聖騎士達は翻弄されて兵や小鬼を押さえられなくなっているのだから当然だ。
聖女を追い詰めたことに、くつくつと笑うエピクロスの周りでは、補佐として付いてきた貴族子息子女が不安げにしている。
「どうした、聖女は帝国貴族にとっても敵だと説明しただろう」
「ですが彼女は先代聖女と関係ないのでは……」
「それにまだ子供ですし……」
「莫迦を言うなッ、教国でも把握していなかった特級聖遺物の適合者がこのタイミングで偶然出てくると思うのか! 先の一族も時代の影に隠れてひっそりと牙を磨いていた。あの女もその生き残りに決まっている! 幼いからと侮るな!」
エピクロスの叱責を受けて、若い貴族達は黙るしかない。義母と慕うメナスの言葉を何でも信じてしまうこの皇子に、論理的な説明を求めても無駄なのだと皆知っている。それでも帝国の未来を憂う皇子の心は本物だ。だからついて行くしかない。
聖騎士団は切り札と思われる転移者を出してきたが、それでも大鬼の軍団は止められない。
恐るべき技量の弓使いと怪物と殴り合う異教の僧侶。どちらも脅威といえば脅威だが、伝説に謳われる聖人達の力と比べれば、評価は各段に落ちる。エピクロス軍の優位が揺らぐ様子はない。
教国の巫女を束ねる聖女に弓を引いて敗北は許されない。貴族達はこのまま何事もなく終わってくれと祈りを捧げる。
「ややっ! 殿下、あれを!」
エルリン侯爵が興奮の声を上げた。
敵陣営の最奥、聖騎士と思われる影がひとつ倒れ、もうひとつが膝をついている様子が確認できた。誰かが暗殺を成功させたのか。エピクロスとエルリン侯爵が歓喜の表情を浮かべる。
しかし、小さな影はまだ動いている。一体どういうことかと固唾を呑んで窺う。すると、その影は戦場へと降りてきた。
聖女の力については、賄賂を受け取ったジャビス司教が冬の到来を報せるムクドリの如く煩いぐらいに吹聴していた。聖女の聖遺物に戦闘力はない。であれば、何をしに前線に出るというのか、敗北を悟り自ら首を差し出しにきたというのか。
一同が見守る中、聖女は戦場の中心へ向かって駆けだす。そして――聖女の通った後にできた道に、誰もが言葉を失った。
初めは、雪の妖精が舞っているかのような光景だった。
最も尊き聖者にしか許されない純白の衣を着た妖精が雪上を駆ける。彼女を汚すことは誰にもできない。飛び交う矢も、振り下ろされる剣さえも、彼女を避けているようだった。
命を奪わんと迫る凶器を踊りのステップを踏む様に避けては、帝国兵や小鬼兵の頭を優しく撫でるだけ。しかし彼女に触れられた者は次の瞬間、どうした事か自らの腹を剣で貫いていた。
聖女と邂逅するまで薬物と戦の熱で猛り狂っていた兵達が、一様に両膝をつき、血で穢れた剣を胸に抱き、自身の罪科を詫びるように頭を垂れていく。
「な、なんだあれは……なにが起きている……」
かろうじて言葉をひり出したエピクロスに応えられる者はいなかった。
そこに闘争と呼べるものはない。
聖女は交戦していないのだ。
なのに、戦場は赤く染まり、自害した死体が並んでいく。
己が死を以って償いとする懺悔の道が伸びていく。
「“凪の神器”は先代聖女の死と共に消失したはず。あの力は一体なんなのだ……あんなものが浄化の力だというのか」
五百年前の聖女がその体に宿したという聖遺物“凪の神器”。
それはあらゆる力を奪ってしまうものだった。彼女が近づくだけで、全てを灰にする火山の噴火も、氷山を割って荒れ狂う北海の波も、大地を白く塗りつぶす猛吹雪も、瞬く間に怒りを鎮めた。
そしてその力は人の命すらも止めた。異世界からの侵略者、王を名乗った七人の魔人達も、彼女と交戦した者は一切の抵抗も許されずに死んでいったという。
当代の聖女も同じだ。
戦場に舞い降りた聖者の姿はまるで神話の再現。
今を生きる人間に逆らうすべはない。
抗う気持ちなど抱かせない。
絶対的な奇跡の体現者なのだと理解させられてしまう。
いつの間にか、死者だけでなく聖騎士も剣を置き聖女に跪いていた。先に戦場へ下りた転移者も動きを止めている。薬を打たれた小鬼までもが戦意を失っていた。
唯一正気を保ち続けたエピクロスは、隣で同様に膝をつこうとした若い貴族の首根っこを掴んで強引に立たせる。
しかし、頬を張ろうと殴りつけようと、貴族達の脚には力が入らない。聖遺物の本当の力。本物の神の奇跡。それを知ってしまえば、人は畏怖を抱かずにはいられないのだ。若い貴族達の戦意は挫かれ完全に腑抜けてしまっていた。
「…………侯爵」
「承知しております。ここは私めに任せ、殿下は帝都に戻り役目を果たしてくだされ」
「よいのか」
「ふふ、意外ですかな? あの力の前では、信心を持たぬ蝙蝠とて神の意志を感じずにはいられませんよ」
聖女の力を前に戦場は覆された。
現存の兵力でまた更に逆転するすべはない。
聖女の打倒はエピクロスにとっての本懐でもない。
ヒトキメラを用意した理由。この後の戦いこそ重要なのだ。
エピクロスは軍を分けて脱出の指示を出す。
「聖女の御業で討たれるのであれば、この魂もまだ女神の胸に抱かれる機会が残されていると思ってよいのだろうか……」
「侯爵よ、何か申したか」
「いえ……。殿下、最後に例の実験部隊をいただいてもよろしいでしょうか。アレだけは帝都で使うわけにもいかないでしょうから」
「いい案だ。あの聖女の相手には丁度よさそうだしな」
エピクロスはわずかな鬼の部隊とエルリン侯爵を残し、軍を帝都へと向ける。
だが姿を消す直前、最も獰猛な部隊を戦場へと放っていった。