スラム街「天楼」
本土南東部に位置する絶海の孤島「天楼」。
またの名を「監獄島」ともいう。
わずか二百メートル四方程度の面積に、老朽化した高層ビル群が密集する、薄暗い貧民街だ。
今を遡ること三十余年前の戦後混乱期、本土に併合されはしたものの、もとは敵国における自治区であったことが長らく尾を引いて、この島では今なお治外法権がまかり通っている。
法が及ばないとなれば、理不尽な悪が蔓延るのは避けられない。
そんなわけで天楼は、魔王軍と呼ばれる黒社会組織に牛耳られているのだった。
彼らは暴力によって天楼を支配し、民衆から力ずくで金銭を搾取していた。
人々は経済的困窮によって天楼を出て行くこともできず、かといって本土政府からはすっかり腫れ物扱いなので何の支援も見込めない。
天楼はまさに八方塞の監獄なのだった。
そんな絶望の最中に、勇者にまつわる預言はもたらされた。
伝説的預言者リャンリャン──。
その昔、神からの預言によって周辺諸国からの侵略を回避したという逸話を持つ彼女は、天楼における守護聖人のような存在だった。
彼女による預言は、民衆をも蜂起させた。
リャンリャンに名指しされて勇者に祭り上げられた俺、ソウエ・マンライは、民衆たちの希望を一身に背負い、ついに魔王に戦いを挑み、そして完敗した。
あれから一年──。
*****
あなたは変態じゃないし、バカでもアホでもクソ野郎でもない。だからこんな扱いをされるのは不当だし理不尽そのもの。
……頼むから、誰か俺にそう言ってくれ。お世辞でもいいから、唯一無二で最高の男だと言って慰めてくれ。俺の人格と存在と尊厳を、どうか認めてくれ。
この一年間、俺は胸中でそう喚き続けてきた。
今日も相変わらず重い気持ちを引きずって、俺は天楼の細い路地をくぐり抜ける。
我ながら似合わないアロハシャツ&サングラスを着用して(でもこれはこれでちょっと悪い感じが嫌いじゃなかったり)、紫煙をくゆらせながら。
俺、十八歳にして咥えタバコ=不良の証。
もう勇者でも正義の味方でもなんでもない。
中二病をこじらせすぎたマントと鎧とカラコンは、一年前のあの日に捨てた。
今は素性を隠すために、胡散臭いチンピラをテーマにコーディネイトしている。
ただでさえ薄暗い天楼だが、サングラスをかけると、視界はもはや四六時中ミッドナイトだ。
だがそんな陰鬱ムードも、今の俺にはお似合いというもの。
路地は建物の隙間を縫うように複雑に入り組んでいて、日差しはほとんど届かない。
ビルとビルの間に貼られたネットにはゴミ袋がてんこ盛りで、ダストシュート代わりとなっていた。
年がら年中生臭いのだが、もうじき夏が来れば、鼻がひん曲がるほどの悪臭を放つようになる。夏の風物詩のようなものだ。
……ぐしゃり。
その時、何かを踏んづけた。
見やれば、勇者時代の俺のポスター。
調子づいて笑っている俺の鼻の穴には、爆発的なちぢれ鼻毛が落書きされていた。
頭部から頭部から飛び出したフキダシには「ちかんだーいすき」との走り書きがあった。
あの決戦の後、勇者から変質者へと成り下がった俺に、民衆たちはあっさりと手のひらを返した。
ネットに書き殴られた罵詈雑言。
メールを開けば、死ねとか殺すとかいう物騒な文字が画面いっぱいに広がった。
天楼新聞では完全嘘っぱちの盛りに盛ったネタがスクープとして取り上げられ(天楼における痴漢犯罪はすべて俺によるものだとか、全然見知らぬ露出狂じじいを激写して、実は整形前の俺だとか)、しかもそのネタを売ったのは俺の勇者活動(街頭演説や握手会、ラジオの出演だとかCDデビューだとか色々あったのだ)を熱心に支えてくれていたはずの取り巻きだった。
炎上というものを身を持って体験した俺は、絵に書いたような人間不信に陥った。
まじで殺されると思って、ずっと外に出られなかった。
引きこもりから抜け出したのは、まだつい先月のことだ。
もちろん完全に自業自得だ。アホなのは俺だ。悪いのも俺だ。胡散臭い預言を真に受けて調子づいたバカも俺だし、中二病をこじらせすぎたのも俺だ。
だがそう自覚する一方では、俺を祭り上げた挙句に叩き落したやつらを恨まずにはいられない自分がいる。
俺だって負けたくて負けたわけじゃない。
勝つためにあえてリスクを冒して痴漢拳まで振るったのに、それがこの仕打ちって。
人生ってこんな無理ゲーなの?
……ああもう家に帰って部屋に引きこもりたくなってきた。
思わず舌打ちをして安物の腕時計を見ると、午後三時五分。
すでに遅刻だった。
嫌々ながらも足を速め、間もなく到着したのは、路地裏にひっそりと佇むオンボロ喫茶店だ。
軋む扉を開くなり、ぴしゃりとした声が飛んできた。
「ソウエ! あんた、家の手伝いだからって遅刻するんじゃないよ!」
母親だった。
父親はのんびりタイプなので何も言ってこない。
俺は返事もしないまま、厨房に入った。汚れた皿とグラスが溜まりに溜まってる。
先月からはじめた仕事は、両親がやってる連れ出し喫茶の雑用だ。
ただし喫茶店とはいっても、アルコールもあるし酒の肴もある。
ちなみにメインメニューは女の子。それも、連れ出し可能な。
つまりこの店はもぐりの売春斡旋屋なのだった。
元勇者の実家は風俗業というわけである。
両親と常連客のじじいがカウンター越しに会話している。
「おたくんとこの息子さん、今と昔じゃありゃ別人だね」
うるせえな。俺の話題なんかすんじゃねえよ。じじいのくせにこんな店に入り浸りやがって。
俺は苛立ち紛れに、あえてガチャガチャと音を立てて皿を洗う。
「まあねえ、あの頃はヘンテコなコスプレなんかしちゃってたからね」
母親は俺の勇者ファッションをコスプレ呼ばわりだ。だが事実なので、なんの反論もできない。
ちなみに俺は勇者時代に「ゼウス」と名乗っていた。その方が格好良いから。でも今となってはすべてが黒歴史。
「まあ今も昔もバカなのは変わらないけどね。うちの息子が勇者なんて、親のわたしたちが一番信じてなかったんだから」
母親はいかにも肝っ玉母さんの口ぶりで笑い飛ばした。
一方、父親はため息まじりに苦笑いして、
「勇者なんて重責をいきなり背負わされて、全うできる人間なんていやしないよ。ましてやうちの息子はまだ十八歳。落ち込む必要なんてどこにもないんだけどね」
未成年のガキひとりにすべてを背負わせてしまうほどに、民衆たちが追い詰められているのは間違いなかった。
両親なりに俺をフォローしてるのは痛いほどにわかるが……なんつうか、わかりすぎてもはや傷口を抉られてる気分。
両親にとって俺はかわいそうな息子。頭が足りないばっかりにアホをやらかした、同情すべきバカ息子。
俺はあの時の自分に言ってやりたい。
俺みたいなしょうもないクソ野郎が魔王打倒なんてできるわけねえだろ、思い上がりもいいとこだって。
一方、常連じじいは、両親の話をぶった切るように盛大なため息をついた。
「息子さんが本当に魔王を倒してくれていたら、どんなに良かったかねえ。魔王軍にくれてやる金なんてもうないんだよ」
……こういう言葉を聞くと、俺の胸中はぐちゃぐちゃになる。
民衆たちは皆、魔王軍に金銭の支払いを義務付けられている。
魔王軍のやつらは税金だなんて呼んでいるが、民衆たちには何の還元もないのが実情だった。魔王軍が私腹を肥やしているだけなのだ。
「そうそう、魔王軍っていえば、あんた、美少女兵器の噂話は聞いたことあるかい」
母親はあからさまに話を変えた。
これ以上、引きこもり息子を刺激するような話題は避けたかったんだろう。
「美少女兵器?」
常連じじいが不思議そうに繰り返す。俺も初耳だ。
「兵器とはいっても人間で、目を疑うほどの美少女らしいんだよ。魔王直属の特殊部隊に所属する、究極の戦闘要員なんだとさ」
「なんだそりゃ」
「なんでも微笑みひとつで相手を骨抜きにして、KOするんだってさ」
「へええ。そんな美少女がいるってんなら、微笑まれてみたいもんだよ」
「魔王軍なんか辞めて、ウチの店に来て欲しいくらいだね」
……口裂けババアと似たような都市伝説じゃねえか。アホらし。
つうかそんな女が実在して、しかも兵器だっていうんなら、こんな出口のない毎日も、クズみたいな俺のことも、いっそブチ壊してくれよ。
俺は毎晩、眠りにつく前に祈ってる。朝起きたらぜんぜん別人の、ぜんぜん別世界の住人になってますようにって。
神様どうか俺を異世界転生させてください、できればハーレムもさせてください、とうぜん無双もおねがいしますって。
冗談とかじゃなく、心の底から本気で嘆願してる。頭おかしいって自分でもわかってる。
でもそんな奇跡でも起こらない限り、俺の人生もう八方塞だよ。
その時だった。
店の扉が軋んだ音を立て、見知らぬ女がひとり顔を出す。