Preserved flower
立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花。正に彼女は花のような人だった。その儚さを纏った笑み、しゃんと伸びた背中、その仕草一つ一つが一輪の花を彷彿とさせた。誰もが彼女を羨んだし、憧れもした。ただ、どんなに美しい花もいつかは枯れる。彼女に限って枯れるのが早すぎただけだ。
私と机を挟んで弁当を食べている彼女は名前を杏子といった。私とは中学からの親友で、毎日一緒に下校するくらいには仲がいい。
「ねぇ秋海、そのお肉ちょうだいよ」と私のおかずをねだる。「対価はなに」そう聞くと杏子は自分の弁当を覗き込む。「うーん、このイチゴでどう? 一番大きいの」「よし。寄越せ。等価交換」私が取引に応じると彼女は「やった」と小さな歓声を上げにっこりと笑った。その美しさ、眩しさに同性ながらドキッとする。
中学に入学して最初に杏子を見たとき、思わず「綺麗……」と声が出てしまった。彼女は非の打ち所がない美人で、隣にいると平凡な顔をしている私は引け目を感じてしまう程だった。
「お肉、取るよ」彼女をぼんやりと眺めていた私は急に声をかけられてハッとする。私の生姜焼きがひょいと摘ままれて行ってしまった。さらば、私の生姜焼き。「じゃあイチゴもらうよ」私も同じように箸で杏子のイチゴを口に運ぶ。大ぶりのイチゴはとても甘くて、生姜焼き味の口にとって口直しにちょうどよかった。「今日のその紫の花、何て言うの」杏子の頭を指さす。「これ? パパが今朝撫子くれたの」
杏子は幼稚園の頃に母親を事故で亡くしており、今は花屋を営む父親と2人暮らしをしている。杏子の父親には何度か会ったことがあるが、娘が高校生とは思えない程若く、お兄さんのように見えた。とても物腰柔らかな人で、家にお邪魔した時の2人の様子を見ても仲は良さげだった。彼は毎朝違う花を一輪杏子にプレゼントし、彼女はそれを髪にさして学校に来ているのだという。母親を亡くした一人娘への愛は、自然と深くなるものなのだろう。生花で出来た杏子の髪飾りは作り物のそれよりも一段と鮮やかに見えた。
「あ、そうだ。帰りにうちに寄ってってよ。パパが秋海に渡したいものがあるんだって」ホームルームが終わって荷物をまとめていると、杏子に声をかけられた。「杏子のお父さんが? 全然予想がつかないな」「私もわからない。前みたいにお店で余ったお花とかじゃない? 」このまえ彼女の家に初めて遊びに行ったときには、お父さんからお店で売れ残ったという黄色いガーベラをもらった。その花は今も玄関に飾ってある。
杏子と自転車を押しながら ゆっくりと歩く。もう九月なのに、残暑が厳しい。自然と汗が噴き出る。一方隣を歩く杏子は涼しげな顔で街並みを眺めていた。こちらを向いた彼女とふと目が合う。 さぁっと風が吹き抜けた。何か話しかけてくるのではと思ったが、彼女は何も言わず小さな笑みを浮かべながらまた別の方向に目を移した。その一つ一つの挙動に私は目を奪われる。こんな感じで、彼女といると妙に疲れてしまうのだ。
20分ほど歩くと、杏子の家に着いた。「ただいまー」杏子の声が暗い玄関に響く。少しして電気がつき奥から色白の男性が現れた。いつ見ても美男子だな、杏子のお父さん。「あぁ、お帰りなさい。秋海ちゃんも来てくれたんだね」リビングに通される。クーラーの効いたリビングは色とりどりの花と鮮やかな配色の絵画で飾られていて、天国に来たみたいだった。「絵を集めてるんですか」杏子のお父さんには花屋という印象しか無かったのでこれだけの絵が置いてあるのは意外だった。「画家を目指していたことがあってね。自分の作品の中で気に入っているものは取っておいてあるんだ」それらの絵には画面いっぱいに黄色いユリやアザミ、月桂樹などが咲き乱れていた。「昔から花が好きだったんですね」そう聞くとお父さんは懐かしむような目で「昔から美しいもの、綺麗なものに目がなくて、いつも気が付くと美を探していたんだ。そうしているうちに花こそが世界で最も美しいことに気づいてね。綺麗なものに囲まれて生きていきたい。それが今花屋をやってる一番の理由なんだ」生き方までかっこいい人だな。お父さんが出してくれた冷えた麦茶を一気に飲み干す。
「パパ、秋海に渡したいものってなぁに? 」杏子はお父さんと話すときだけ甘ったるい声になる。余程お父さんのことが好きなんだろう。ファザコンというか、愛されてるなぁ。「ちょっと待ってね」そう言ってお父さんは奥の書斎のような部屋に引っ込んだ。しばらくして彼は一冊の本を持って出てきた。「この本、二冊あったから一冊秋海ちゃんにあげようと思ってね。女の子ってこういうの好きでしょ」そう言って手渡された本の題名には「想いを贈る花言葉事典」とあった。…花言葉か。前から興味はあったし、杏子との会話のきっかけにもなりそうだ。「いいんですか? ありがとうございます」「喜んでくれて嬉しいよ。花一つ一つには意味が込められているんだ。だから、大切な人に花をプレゼントしたいときにはその本を参考にしてみてね」
大切な人……。母の日にはカーネーションを贈るけどわざわざ事典を使ってまで花を贈る人がいるだろうか。本から顔をあげるとそこには杏子の透き通った瞳があった。杏子は花屋の娘だし、私から花なんてもらったところで嬉しくないだろうな。第一、彼女は毎日お父さんから花をもらっている。杏子の誕生日は九月二十九日。あと一か月もない。プレゼントどうしよう。
「あ、パパぁ、あの問題秋海にも出してよ」私が一人で悩んでいると杏子がそう言った。問題ってなんだろう。「あぁ、せっかくだし秋海ちゃんにも考えてもらおうかな」杏子のお父さんは私の瞳を捉えた。「花が一番美しい瞬間って、いつだと思う? 」
杏子のお父さんが言うには、どんな花にも一段と美しい瞬間が平等に訪れるのだという。彼は小さい頃の杏子にその問を投げかけたきり、まだ答えを教えていない。「秋海も一緒に考えてよぉ。幼稚園のときからずっと気になってるの」「うーん、見当がつかないな。ヒントをくれませんか」お父さんは顎に手を当ててふふっと微笑む。「それを言っちゃうと簡単だからなー。まあ、気長に考えてみてよ。わかったらいつでも教えてね」
帰り道も私はその答えが気になってしょうがなかった。なんだろう。朝日を浴びた瞬間?蝶と戯れている時?ありきたりな答えしか浮かばない。こんな普通の解答はすでに杏子が出し尽くしているだろう。結局答えは出ずに私は杏子の家を後にした。
だんだんと街はうす暗く曖昧になっていく。街灯がひとつ、またひとつと灯る。夕方の住宅街を自転車で滑るように駆け抜けて家に着いた。食卓には揚げたての唐揚げが並んでいる。「いただきます」唐揚げをほうばっていると母親に話しかけられた。「ねぇ、杏子ちゃんと最近どう? 仲いいの? 」なんで急にそんなことを聞くのだろう。母は神妙な顔でこちらをみた。「杏子ちゃんの噂、聞いたことある? 」「え」杏子について何か悪い噂が飛び交っているのだろうか。「知らない。どんな噂? 」そう返すと母は「杏子ちゃんのお父さん、若いでしょ。実は高校生のときに杏子ちゃんが産まれてそのまま奥さんと結婚したらしいよ」と真剣な顔で言った。なんだ、そんなことか。俗に言う「できちゃった婚」。私は人の家の事情にははっきり言って興味がない。親がどんな人間でも杏子が魅力的な女性であることには変わりない。それに杏子のお父さんは素晴らしい人格の持ち主だ。そうして私はまたひとつ唐揚げをほうばった。
次の日、私は朝から昨日の問について考えていた。花が最も美しい瞬間はいつなのか。気になって授業に全く身が入らない。昼休みになっても私はなんとなくぼんやりとしていた。朝からしとしとと雨が降り続いているため、昼休みの教室はいつもよりにぎやかだった。「秋海、どうしたの? なんか元気ないよ」向かいで弁当をもぐもぐしながら杏子がこちらを覗き込んでいる。「いや、何でもない。ただ昨日の問題が気になって」杏子はくすりと笑って「あんなの少し考えたくらいで答えがでるわけないじゃない。パパも言ってたけど、気長に考えたほうがいいよ」それもそうだ。いくら考えても何も出てこない。いつの日かぱっと閃くのを待ったほうが賢いのかも。少し落ち着こう。
ふと見ると、今日の杏子の頭には鮮やかにマリーゴールドが咲いている。「そうそう、秋海、突然なんだけどお泊り会しない? 」あまりに急な提案にお茶を吹き出しそうになる。「え、いつ? 」動揺を隠せない。「早ければ早いほど良いな。次の土曜とかどう?その日はお父さんいないんだ。」「次の土曜って明日じゃん」動悸が早まるのを感じる。教室の喧騒がさあっと消えてしまったような感覚に襲われる。「じゃ、明日5時にうちに来てね」杏子の言葉が切れると同時にチャイムが鳴った。しばらく私は呆然としていた。
結局土曜日は待ってくれなかった。部活が終わると私はその足で杏子の家に向かった。雨がひどかったので傘をさして歩く。ついこの前まではうんざりするような暑さだったのに、急に肌寒い。秋雨に震えながら彼女の家までやってきた。チャイムを鳴らす。ピンポーン。「はーい」と元気な声。ゆっくりと開いたドアの先にはエプロン姿の杏子が立っていた。その可憐さに息をのむ。「ちょっと待ってね、もうすぐご飯できるから」そういって彼女はぱたぱたとキッチンへ戻っていった。
私はずっと胸の高鳴りを抑えられないでいた。外から帰ってくる私をご飯を作って待っているなんて、まるで結婚しているみたいじゃないか。赤くなった顔を隠すためにどうしてもうつむき加減になってしまう。「秋海ってアレルギーとか無いよね? 」キッチンから声が飛んできた。「うん、大丈夫」こちらも精一杯声を張る。「え、なんてー? 」換気扇が回っているためか、聞き取れないらしい。「大丈夫ー」半ば叫ぶようにして返す。すると杏子がキッチンから出てきたので、直接伝えた。「最初からこうすれば良かったね」「確かに」そうして二人で笑った。
出てきたのは唐揚げで、しかも冷めていた。そしてお世辞にも美味しいとはいえないものだった。唐揚げを避けてレタスのサラダばかり食べていたが幸い杏子には気付かれなかった。食事中の会話はいつもの昼休みと変わらない内容で、課題が多いとか最近気になる洋服とか女子高生等身大の他愛のない話をした。
その後は先に入っていいよと言われたのでお風呂に入った。杏子の家のお風呂は想像していたより広くて、のびのびと湯に浸かることができた。最近こうやってぼーっとできる時間に考えることは決まっている。「花が一番綺麗な時……」無意識に口から言葉が零れ落ちる。あんなに魅力的な問題を考えるなという方が無理があると思う。考えたところで答えは出ないのだが。
「入るよー」脱衣所から杏子の声が聞こえた。入ってくるのか?私がいる風呂場に?あったまってほんのり染まった顔がさらに赤くなる。がらがら。顔を上げると当然そこには一糸纏わぬ杏子の姿があった。が、私は彼女の裸体を見て緊張するのでもなく恥ずかしがるのでもなく、一種の恐怖を覚えた。彼女の肩から下には大小さまざまの青黒い痣が散りばめられている。杏子の瞳はうるんでいた。「これを見てほしかったの」そう言ってざぶざぶと湯舟に身を沈める。「誰に……やられたの? 」恐る恐る尋ねる。「もう一人の、パパ」半泣きで答える杏子。すすり泣く声は聞こえるが、立ち昇る湯気で顔は良く見えない。彼女には私の知らないもう一人の父親がいたのか。「そのこと、私の知ってる方のお父さんは知ってるの? 」杏子は小刻みに首を横に振る。「パパは一人。でも中に二人いるの」
杏子のお父さんは二重人格だった。昔杏子のお母さんが亡くなってから、数週間に一度杏子を人が変わったように殴るという。そして最後には「ごめん、ごめん」と泣きながら彼女に謝るのだ。若くして一人で娘を育てることへのストレスで、壊れてしまったのかもしれない。「杏子を一人にできないって、警察に行こうとしないの。ねぇ、一緒に説得してよ。」どうやら私をお泊り会に招待した理由はこれらしい。何とかしないと杏子が死んじゃう。使命感に駆られた私は「うん、どうにかして納得してもらおう」気がつくとそう答えていた。
お風呂から上がって私たちは言葉少なにベッドに寝ころんだ。杏子のベッドは二人で寝ると少し窮屈だったが、寝心地は悪くなかった。どぎまぎする余裕なんてどこかへ行ってしまった。杏子を、守るんだ。私は静かに心を燃やしながら、深い眠りについた。
夢を見た。凛として咲く一輪の花の夢だ。その花が杏子を指していることはすぐに分かった。一生懸命に光へ向かって背を伸ばすその薄桃色の花びらをむしる影がいることに気づく。一枚、また一枚と小ぶりな花びらがむしり取られていく。私はその様子をただ眺めていることしかできない。そして最後の一枚がちぎられたとき……。
目が覚めた。物凄い量の汗をかいていた。悪い夢を見ていたらしい。隣を見ると杏子はいなかった。朝ご飯の支度をしているのかな。リビングへ向かう。
リビングのドアを開けようとしたとき、中から誰かがぼそぼそ呟いているのが聞こえた。背筋が凍る。意を決してがちゃりとドアを開けると、そこには色白で痩せた男が立ち尽くしていた。杏子のお父さんだった。入ってきた私に気づくと、目をかっと見開いて止める間もなく一目散に部屋から出て行ってしまった。リビングに取り残されたのは私だけ。ではなかった。視界の隅に壁にもたれかかるようにして座る杏子の姿が映った。私はすぐさま駆け寄って声をかけようとした。出来なかった。端的に言うと、彼女は死んでいた。うつろな目をかっぴらいたまま、首が変な方向に曲がっていた。いくら名前を呼んでも、叫んでも、返事はなかった。
彼女の亡骸の隣に一冊の本が転がっていた。拾い上げると、それはあのときの花言葉事典だった。一枚のピンクの付箋が貼ってある。そのページを開いてみる。ページの右上に大きなカタカナで「アンズ」と書いてある。「花言葉:臆病な愛」
ページの端に走り書きの汚いメモを見つけた。涙を拭って目を凝らす。「花は、散るときが一番美しい。」そうあった。
もう一度私は杏子の傍に寄った。深呼吸をして今一度彼女を見つめる。
その青白い横顔は、悔しいくらいに美しかった。
花言葉事典
・秋海棠:片思い、恋の悩み
・アンズ:臆病な愛
・イチゴ:幸福な家庭
・撫子:純愛
・ガーベラ(黄色):親しみやすさ
・ユリ(黄色):偽り
・アザミ:報復、振れないで
・月桂樹:裏切り
・マリーゴールド:絶望、悲嘆
・レタス:冷たい人