恐怖
魔王が作り統治した、魔物による魔物の為の魔王国に、千年前の戦争が終結してから初めて人が足を踏み入れる。
転移魔法用の魔法陣は、戦争前から人との交流があったため残ってはいたものの、千年近く使用されていなかったそれはかなりガタついてボロボロだった。
ラパスとガザルガを筆頭に魔王国側のグランクロイツ魔導学園勢は、どこか城の中を思わせる、円柱状の石造りの部屋に転移していた。
蜘蛛の巣が張り、絨毯のような埃が足元に降り積もっている様子から、長い間使われていなかったことが伺える。
上位魔物はそもそも自力で転移魔法が行えるため、この魔法陣はそもそも人間用に戦前に設置されたもの。手入れされていないのは当然だ。
「手一杯でここまで来れない、ということか」
周りを見渡して、ラパスが呟く。
学園側から援護申請を行い、返事が返ってきたのは事実だが、魔導学園勢が来たことに対する出迎えが来る気配がなかった。
転移してからというもの、地面の方向から地響きが走り、パラパラと埃臭い壁を揺らして塵が頭に降りかかっていた。
「相手は鉄鋼蟲だ。無闇に突撃することは避けたい。出来れば現状を確認したいが」
「私が連絡を取ります」
三年の列から、アルフレッドが手をあげて提案する。魔王と直接戦闘し、信頼関係を築けている彼ならば、と他の魔導講師も同意した。
アルフレッドが通信魔法を行うと、戦闘中なのか、剣を振り回しながら魔法を放っているオブティアスが、無残に崩れた城跡のような背景に映し出される。
『手は出すな! 殺すんじゃない! 余計襲い掛かってくるぞ!』
「おいブティ聞こえてるのか!? 援護の為に転移してきた、今どこにいる!」
『アルか! 転移ってことは転移塔だな。ずっと下だ! 気を付けろ、城中埋め尽くされてる!』
オブティアスは通信を続けようとしたが、蟲の背板のようなものに、大量の尖った足の生えた巨大な何かが覆うように横切り、通信が切れてしまう。
通信の様子を聞いていたラパスとガザルガは塔と呼ばれたその場を見渡すが、石造りの壁ばかりで窓が見当たらず、外の様子を探れない。
転移したときから見つけて警戒するように見張りを付けていた出入り用の木製の扉を、全員が武器を構えた状態で、ガザルガがそっと開く。
扉の向こう側は円柱の外周に沿って続く石造りの螺旋階段となっていた。
魔王国は他の国とは異なり魔物が跋扈するその環境から、空気中の魔力濃度が高く、その影響で黒い雲に覆われていることが多い。
分厚い雲に覆われながらも通り抜けた僅かばかりの太陽光が、うっすらと窓から伸びるように石階段に影を落としていた。
「窓に注意しろ。出来る限り近付かないように」
魔導講師数人を万一に備えて撤退用に魔法陣付近に残し、武器を携えて警戒しながら一歩一歩降りていく。
かなりの大人数で降りているにも関わらず、全員が耳を研ぎ澄ませ、足音と共に気配を消し、緊張から無意識にくる吐息の音だけが、地響きの続く静寂に響いている。
足を進めてしばらく経つと、下の方から、鋏を合わせる様な金属音に、カチカチと石を叩く音がうっすらと響き始める。
「……っ」
背後の隊列にいたアリアナが、離れた窓から下の様子が目に入ってゾッとした。
窓からはるか下に見える茶色い地面と思われていたものが、階下に降りるにつれて黒光りする蟲が、敷き詰められるように蠢いているものだと分かったのだ。
隣にいたヨハンも、アリアナの声にならない悲鳴に反応して外の様子を見てしまい、顔を真青にして絶句した。
こんな途方もない量の鉄鋼蟲を相手に、殺さないようにどう対処すればいいのだろうか。
地面から蟲が湧きだしている穴を塞げばいいのだろうか、無理だろう。
そもそも地中を齧り掘り進んで出てきたのだ。一つ穴を塞いだところで別の場所に穴が開くだけで、塞いだ場所もまたすぐ穴をあけられる。
不意に隊列が止まる。前列の見えないアリアナとヨハンからは様子は探れないが、カチカチと硬いものが擦れる様な音が大きくなっているのは分かった。
――違う。近付いた事で大きくなってきた音ではない。
気付かれたのだ。向こうからこちらに近付いてきている。
アリアナが武器の槍をぎゅっと握りしめたが、不意に腕に力を感じて引き寄せられる。
驚いてアリアナが振り向くと、音が大きくなってくる下ではなく、窓の方を見ていたヨハンが窓からアリアナを出来る限り放そうと引っ張り込んでいることが分かった。
そしてアリアナも気づいた。窓の外、壁伝いに同じ音が響いてきている。
下からも、外からも、蟲が近付いてきていた。
二人の様子に、後方にいた隊列も、窓から響く音に気付き、冷や汗を垂らして武器を握り締める。
前方からも魔法を放つような爆音が響き始めたので、接敵してしまったことが分かる。
おおよそ他の窓からも同じように蟲が入り込んでくるはずだ。
そして、何の前触れもなく、窓から巨大な蟲が雪崩込んできた。
黒い光沢のある骨のような固い外殻から、異様なほど細く長い脚が、その薄い背板の横から規則正しくびっしりと生えている。
それを波打つように規則正しく動かして窓から侵入してきたそれは、頭に長い触角が生え、その口の大きな鋏で噛み付こうと、蟲特有の素早さで這いずり回る。
あまりにもおぞましいその動きに、窓付近にいた生徒から思わずヒッと悲鳴があがった。
殺してはいけない。そうすれば何倍もの数で窓から飛び込んでくる。
その場にいる全員が理解しているが、蟲と対峙した者は恐怖からその事を忘れそうになってしまう。
殺して対処できるなら、どれだけ楽でよかっただろうか。
「アリアナ、しっかりして! アリアナってば!!」
ヨハンが恐怖で震えあがり始めたアリアナの肩を激しく叩く。
貴族出身のアリアナは鉄鋼蟲どころか一般的な小さい虫にすら遭遇したことが無い為免疫は人一倍低い。
「あぁもう! 鉄鋼蟲も昆虫でしょ、冬眠しててよ!」
そういってヨハンは弓の弦を引くと、魔法を仕込んだ新しい矢を放つ。
風を切る音共に、直撃を避けるように放ったそれは、階段に突き刺さると同時に凍り付き、周囲をダイヤモンドのように輝く白い氷が照らした。
刺さった階段から伝うように周囲を覆ったそれは、巨大百足の鉄鋼蟲の後ろ半身も凍り付かせた。
足を止められた百足は前半身を大きく反らせ、必死に動こうと階段に何度も叩き付け始める。
「氷魔法は君の十八番でしょ! 落ち着いて、アリアナが一番できるはずだよ!」
ヨハンは構えた弓を右手に携え、左手で落ち着かせるようにアリアナの背中をさする。
その行為にようやく目の前の状況に追いついたアリアナは、自身を落ち着けるように片手を胸にあてて深呼吸した後、槍を前方に構える。
密集している他の生徒に被害を出さないように、地面を伝わせて、アリアナは氷魔法を一気に展開し、窓から氷を這わせて外側の蟲を一気に凍り付かせた。
「なるほど、冷凍しとけば冬眠状態になるし、この程度じゃ鉄鋼蟲は死なないはずだな」
遥か前方からだろうか、ガザルガの感心したような声が響いてきた。
一時的ではあるが、とりあえず暴れる蟲を止める方法は今これしかない。
「ヨハン、ありがとうございます。私としたことが取り乱しました」
「いいよ、むしろあれ見て悲鳴上げないだけ強いよアリアナは」
ここにきている女性生徒の何人かは、鉄鋼蟲のおぞましさに何人か悲鳴を上げて気絶し、精神回復魔法を受けている。
「強くありませんわ、私は。弱いからこそ強くあろうと常に努力しているのですもの」
「そうできるだけで、僕は凄いと思うけどなぁ」
再び階下に向かって歩き始めた集団に従いながら、アリアナとヨハンは互いに顔を見合わせて笑った。