海底
「いっっぎ、がぼぼごがぎごがぼ」
ロックが驚いて声をあげると、音は響かず大量の空気の泡が目の前を昇っていくのが見え、同時に肺に大量の海水が雪崩込んだ。
吸った海水が鼻を強烈に刺激して痛みを覚え、錯乱するように両手両足をばたつかせるが、海中のどこにも手足を付ける様子はなかった。
視界は深く暗い青一色。塩の味が口一杯に満たされ、少しずつ意識が遠くなっていく。右肩に誰かの手が触れたような気がしたが、何も変化がなかった。
ロックが白目を剥いて気絶しそうになりかけた頃、背中に強烈な一撃をくらって海中を流され、海面から空気中に放り出され、固い床に叩き付けられた。
「う゛お゛え゛っぼ、ごほげほがはっ! はぁ、はぁ……」
「大丈夫か」
口から潮水を吐き出し、何とか空気を肺に送り込む。背後から背中をさするような手の動きを感じた。ウィラードだった。
「いきなり海に放り込むやつがあるかよ……」
「けっ」
ゼイゼイとなんとか息をしながら、ロックは隣に降り立った全く濡れてない使い魔をしゃがみながら見上げて睨み付ける。
連れてきた仕返しとでも言わん限りの使い魔の態度に苛ついたが、強く言い返してこなかったのでロックは無視することにした。
「なん、だこれ、うわぁ」
ピチャピチャと水を滴らせる音を立てながら、ずぶ濡れのジェイドが反対隣で驚愕の声をあげる。その声に釣られてロックが視線を前に向け、口をあんぐりと開けた。
ロックが海面だと思って突き抜けてきたのは、この空間の天井だった。
まるで巨大なクラゲのような横に広い球状の泡に、黒い石で出来た四角い箱の家が立ち並ぶ町が包まれていた。
所々天井からは、滝のように水が噴き出して、せせらぎの音を立てながらタイルのような黒い石の床を濡らしている。
太陽光も届かないような海の底なのか、水面が広がる天井からは青い色しか見ることは出来ず、所々に設置された緑に光る石が、薄暗い空間を神秘的に照らしていた。
「亀裂が広がっている。あまり時間はないようだな」
天井を見上げながら、ウィラードが呟く。ロックとジェイドが目を凝らしてみれば、確かに泡の膜にわずかな亀裂がそこかしこに広がり、滝だと思っていたところは、穴が開いたところから水が吹き込んでいるためだった。
「避難した後って感じかな、人気が全然ない」
ジェイドの指摘にロックが視線を泡の天井から壁に辿れば、細く長く別の場所に続いている通路のような長い空間があった。
そこを辿って、すでに住民は別の泡の空間に逃げたのだろう。青い天井を見てもここは陸地から遠い。
万一途中で全ての泡が消えた場合を考えて、生存率を上げるために陸に近い場所に避難しているはずだ。
「うーん、やっぱりロックには俺の魔法通用しないかー」
海水を空気魔法で吹き飛ばしたジェイドは、同じようにロックにも試そうと腕を向けたが、掃除機のように風が全部ロックの体に吸い込まれていった。
「あれ、でもそれじゃあこの空間にロック来て平気なのかな?」
「叡智王エルフ族の魔法道具だ、対抗措置はデフォルトでしてある。問題ない」
先を歩き始めたウィラードが、誰に言うでもなく低い位置で呟いた。
ロックはびしょ濡れのまま諦めてジャバジャバ音を立ててその後に続く。後ろからジェイドの気の毒そうな視線を感じたが気にしないように努めた。
「マリアージュ、主人くらい乾かしてやれ」
「えー」
「マリアージュ」
少し間を置いた後、唸るような声を出して項垂れながら、マリーが腕をロックに向ける。
夏の熱風にあてられるような温かい風がロックを包み、瞬時に海水がジュワッと乾いて冷えた体も温かくなった。
「……ウィラードさんの言う事はきくんだ」
「うるさい」
物珍し気な表情で呟いたジェイドに、マリーは睨みながら噛み付いた。
そういえば確かに、先程の救援方針の会話の時も、嫌々ながらも言う事を聞いていたとロックは思い出す。
純粋な魔力はマリーの方が上らしいが、立場的な力関係はウィラードの方が強いのかもしれない。だからウィラードが起きたと知った時あれほど苛ついていたのだろうか。
「んなーもう! ついてこんといってっていうとるやろがー! こっちきーひんとってー!!」
ロックが思考の波にハマりかけた時、唐突に別の方向からの訛った叫び声が聞こえた。
四人が足を止めて声の方向に目をやると、ロック達と同じ歳くらいの少女が何かから逃げるように少し先の黒い路地に飛び込んできた。
少女がロック達とは反対側の通りに向きを変えて走り始めた時、漆黒の四角い家を破壊して、翼竜の骨が現れた。
「新型の!? ここにもかよ!」
「あぁ、背を押した、か」
ロックとジェイドの気付かぬところでウィラードはマリーに疑惑の視線を向けたが、マリーはピューッと口笛を吹いて無視した。
新型の魔物は、そのまま少女の後を追うように飛んだり走ったりしながら向きを変える。
「くんなっつっとんやろがー!」
甲高い声が苛つくように叫びながら走る。ロックはポケットに手を突っ込んで、新型の魔物に向かって投げる。
空になった財布が上手く後頭部に当たり、新型魔物の注意はロック達四人に向く。
「とりあえず一体だけっぽいな、ロック!」
ジェイドが両手をかざして空気魔法を送り、羽を広げていた魔物は風に煽られて転倒する。
ロックは剣を腰から引き抜いて強く柄を握り、ガチンと切り替える。
「おうっら!!」
そのままロックは叩き付けるように上から魔法の刃を振り下ろす。黒いタイルに円状のひびが入り、斬撃で真二つになった新型魔物はそのままザラザラと崩れていった。
「わぁお、あんさんらごっつ強いんやな。やー助かった助かったー」
物陰に身を潜めていた少女が、低くした腰を戻しながらロック達に近寄ってきた。
白に赤のメッシュが入った短髪。つなぎのような作業着に似た緑の服装をして、頭にゴーグルをつけた、骨格の良い快活そうなそばかすの少女だった。
「うちヤコっていうねん。助けてくれておおきに。あんさんら見ん顔しとっけど、どの地区からきはったん?」
ゴーグルを掴みながら軽いノリで礼をしてきたヤコは、物珍しそうな表情で四人を一人一人眺める。
「陸からきた」
「へー、陸からかー……陸から!?」
ヤコと名乗った少女は、ウィラードの言葉にノリツッコミして後ずさる。青褪めて両手を左肩の方に上げたまま固まった。
「うわぁ、マジやん。そのカッコずっと伝説に聞いてた魔法使いのやつやん。なんなんこれ、怪物から逃げられた思たのに今度は魔法使いに殺されんの?」
「いやいやいや殺さねーし。助けてから殺すとかねーし」
剣を鞘に戻したロックが、肩を落として左手を何度も横に振って否定する。
「この空間維持してる魔法道具、こっちの事故で壊しちまったから直しに来たんだよ」
「あーそうなん? あれ事故やったん? そりゃ助かるわー。もううちらも手に負えへんくってな」
ロックが続けた言葉に、ヤコはコロッと表情を変えて世間話のように明るく答えた。
てっきり警戒されると思っていた面々は、面食らって身体を傾ける。
「……否定した俺が言うのもなんだけど、簡単に信じすぎじゃね?」
「うちこれでも人を見る目はあんねん。そこんおねーさんはごっつヤッバい感じ? しはるけど――」
といいながらヤコはマリーの方を上半身横に傾けて眺め、元に戻して続ける。
「――あんさんら男達は、ええ奴やって直感したわ。実際助けてくれはったし」
「そ、そうか……」
「このあたりうろついとんのは場所分からへんからか? それならそこまで案内するわ」
「いいのか?」
「丁度そこ行くとこやってん。どうせもううちとオトンしかおらんし、みんな修復諦めて逃げはった。まぁ命は惜しいやろからな、責められんで」
ヤコはそう言って親指で背後を指さした後、ロック達を案内するように先を進み始める。
ロックとジェイド、ウィラードは互いに顔を見合わせて頷き、その後に続く。マリーは視線すら合わせようとしなかったが、後ろから滑るように浮遊してついてきた。
「みんな逃げたって言ってたけど、ヤコは逃げなかったのか?」
「うちとうちのオトンはあの魔法道具の整備しとんやけどな。オトンが何とか道具を直そうとそこから動かへんねん。オトンはうちに逃げろ言うけど、うちだけ逃げんの気分悪いやん」
「どれくらい壊れているかは分かるか?」
「大陸兵器並みのなんか知らん攻撃魔法が直撃やで? 防御魔法が働いて何とか全壊はのーなったけど、それでも日に日にヒビ入って砕け散るんも時間の問題なんや」
ヤコが先導し案内されたのは、先程の新型魔物に破壊されたのと同じように、破壊されて瓦礫が散乱している黒い建物のような場所。
ただ、先程の建物と違い、瓦礫の数がやけに多いように見えた。
「ここ元は塔やってん。でも攻撃魔法で落ちてもう他の民家と見た目大差ないな? 魔法道具諸共瓦礫ごと落ちてきてん。よう壊れんかったわ」
塔の上を攻撃されたので、直撃は免れたものの瓦礫は当たったらしい。一階部分は壁こそ黒い石は無傷だったが、入口を抜ければ天井があちこち破壊されていた。
「おとーん、やっぱ直らへんねんか? 直せるってやつが来たけん付いてきてもろたんやけんど」
「はあ?」
現れた大柄な、傷だらけの丸刈り男に、ロックは目を見開いた。
忘れもしない、あの幼少の頃。父の亡骸を前に剣を抱き抱えたままポイズンワイバーンに囲まれた絶体絶命の瞬間。
突如として現れポイズンワイバーンをなぎ倒し、ロックの命を救った男。
名前も知らない命の恩人である通りすがりの魔導士が、ヤコから父親の魔法道具技術者と紹介された。