虚構と科学と僕の世界(後半@完結済み)
「はっはっは、テラ忙しい時期に入ってきてしまったな、坊や」
「あんまり調子に乗ってると、僕、労基に駆け込みますよ!」
最上は秋月の元で下働きをすることになった。
数日間働いてわかったのだが、常識を遥かに超えた労働量だ。
最上は秋月に連れられて、青空テレビ局内を行ったり来たりしていた。すでに丑三つ時に入っており、草木も休む時間帯なのだが、最上は秋月と共に働いている。昼間は常に人が行き交う局内にすでに人気はなく、廃校になった高校にいるかのような静けさがあった。
「いいじゃないか、一日二十二時間労働くらい」
「言っときますけど、僕じゃなかったらたぶん死んでますからね?」
「坊やが人類最強だからこの重労働に耐えられるって? 残念ながら私がその反証になってやるぜ」
「……秋月さんもDマンじゃないんですか」
「私は正真正銘、ただの人間だぜ」
オリンピックが二週間後に迫るこの時期、テレビ局内はもはや戦場と化していた。休む暇もまるでない。何人か救急車で運ばれているのを見たが、それは熱中症ではないだろう。
「ま、深夜手当やら残業手当やら特別手当やら口止め料やらは全部出すから安心しな坊や。時給換算で3500円はいくぜ? これほど割のいいバイトはない」
「命と人権の保証はない、って条件が付きますがね」と、恨みがましく言う最上の言葉は秋月に無視される。
「妹さんに、いや、彼女さんに5Kテレビでも買ってやりな。その子テレビ好きなんだろ?」
「朧火め……また余計なことをべらべらと。僕とソフィアはそういう関係じゃない」
「その子とは良い酒が飲めそうだぜ。おっと、喜べ、十分休憩がとれそうだ」
秋月と最上は休憩所に移動する。壁際に自動販売機が並び、中央には椅子が並んでいる。
休憩所で最上は水筒に入れて持ってきた人間の血を飲む。
「ほら、これも飲んどけ」
きんきんに冷えたエナジードリンクを秋月は最上に渡す。
「秋月さん、絶対に長生きしませんよ」
昨日から彼女はこれしか飲んでいない。
「なら、短く太く生きてやるまでよ」
一昔前のロック歌手のようなことを秋月は言って、自分の分のエナジードリンクを一気に飲み干した。
また十時間ほど働いて、仕事がひと段落したので伊吹荘へ帰れることになった。
今回は実に二日ぶりの帰還だった。
まだ日も出てない早朝の庭で、朧火が菜園にじょうろで水をやっていた。血圧の高い老人みたいな奴だ。
「お、生きてたか」
「知っててあの人の元に送りやがったね」
「忙しい時期の秋月の下働きは一日と持つやつがいなかったからな」
「おいおい……」
「嫌ならやめればいい。まぁ、オリンピック過ぎたらさすがに普通の会社より少しきついくらいに落ち着くがな」
「……続けるよ」
虚構科学研究所にいた頃と、追われていた頃に比べれば、楽なものだった。
(むしろ、疲れている自分の方に違和感覚えるんだけどな)
この伊吹荘に住み始めて、最上の体に変化があった。はじめこそ気のせいで済む『変化』だった。以前、穂野ノ坂学校で新神と戦った時も感じた。最近では生活のあらゆる場面でその『変化』を感じる。
「なぁ朧火」
「なんだ? ああ、稽古か。お前もついに俺の稽古が恋しくなってしまったか」
「違う。てか、この二日で三時間も寝てない人間に、稽古をつける気?」
最上の言葉を聞かず、朧火は一度伊吹壮に入って取ってきた竹刀を投げ渡してくる。
「その程度なんともないだろ」
「……そうなんだけどさ。と、言えてたんだけど、実際は少し疲れてるんだ。前、新神ちゃんと戦った時も思ったんだ。僕、弱くなっているんじゃないかって。楽に勝てていた新神ちゃんに僕は苦戦した」
受け取った竹刀を最上は振ってみる。電柱を振り回すのにすら抵抗を覚えなかったのに、かすかだが、竹刀を振るのに重さを感じた。
「ああ、そうだな。最上は弱くなってる」
朧火は土を踏み込み、竹刀で面を打ち込んできた。最上はそれを難なく受ける。
「原因を知ってるの? というか、朧火たちが原因を作ってるとしか思えないんだけど」
「逆に、お前が今まで気づかなかったことに俺は驚きだよ。どれだけ底知れない強さ持ってたんだよ」
「……なにしたの」
「お前、血しか飲んでないだろう? 原因はそれだ」
「おん?」
「自分とソフィアちゃんについて虚構科学研究所でいろいろ教えてもらわなかったのか? 前々から思っていたが、やっぱりお前は自分やソフィアちゃんについて知らなさすぎだな」
朧火の竹刀を押し返し、反撃の小手を打つ。最上と朧火は話しながら竹刀を振るいあう。
「化物プロジェクトの不死性における傑作なのにな」
「僕は非協力的だったからね。信用されてなかったんだ。自分にされてきたことは知ってるけど、目的とか、実験の意味とかはあまり知らないからね。もちろんわかるのもあるよ。肉体の耐久度テストとかね。工場のプレス機にかけられたことがあるんだけど……」
「話すな。お前なら余裕で耐えたんだろうが、朝飯がまずくなる。二人について俺が知っていることを順を追って説明するか。化物プロジェクトの目的を知ってるか?」
「不老不死の人間を作るってことかな」
「そうだな。無理難題に挑むバカな組織だ」
人間が想像できることは、人間が必ず実現できる。そういう名言の元に作られたグループで、思想自体は立派だとは思うのだが、実験される側としてはとんだ大迷惑だ。
「不老不死の人間を作るのに、化物プロジェクトって計画名はおかしいと思わないか?」
朧火の言葉に、最上は小さく頷く。
「一応意味があってな。ソフィアちゃんについて、最上はどこまで知ってる?」
朧火の話はふらふらしていて、着地点である最上の弱体化の話に繋がる気がしない。けれど、最上は根気よく答えた。
「僕と同じプロジェクトの出身で、食人体質ってこと。これくらい」
「ソフィアちゃんがファミリーに来て、血をもらってから調子はどうだ?」
「以前より元気になったよ」
「俺たちがいつも、最上とソフィアちゃんに上げてる血の量はそれぞれどんな感じだ?」
「僕がコップなみなみ一杯分に対して、ソフィアは一口だけど」
さすがに最上も違和感を覚え始めた。
「量が少ないはずのソフィアが元気になって、僕が弱くなってる」
「さぁ、おかしいな。最上はなぜか弱体化してる」
「もったいぶらずにさっさと全部話してよ」
「わかったわかった。簡単だ。二人とも食人体質ではあるが、細かい部分が違うんだ。人間の肉は最上、人間の血はソフィアちゃんが合っていたってだけだ」
竹刀を薙いで朧火は続けた。
「で、ここで出てくるのが化物プロジェクトの『化物』の部分。これは最上も知ってるだろうが、虚構科学研究所のコンセプトは『人間が想像できることは、人間が実現できる』ってやつだ。つまり、人間が考えた伝説上の化物も作ってしまえるとやつらは考えたわけだよ。化物の中には不老不死の輩がうじゃうじゃいる」
竹刀を振るいながら、最上は黙って朧火の話を聞いていた。
「つまり、プロジェクトで産まれた人間は、何らかの化物をモチーフにしてるんだ」
朧火の竹刀の先端が最上を指す。
「お前はグール」
次に、ソフィアがいる三階の部屋を指す。
「ソフィアちゃんは吸血鬼がモチーフだ」
さて、と朧火は続ける。
「この二種類の化物が一般的に食料にしているとされるものは?」
「グールは人の肉で……吸血鬼は、血」
「ご名答。これが答えだ、最上。食材との相性だよ」
「……」
「お前は人の肉を食わない限りは弱体化し続けるだろう。放っておけば前のソフィアちゃんみたいに立つことすら困難になるだろうが、お前の場合は元が強いから相性が悪くても人間の血を摂取していれば強さはほとんど残らないにせよ、日常生活に困ることはない。今の経過を見たところ、筋力、瞬発力、動体視力とかはかなり下がるだろうが、基礎体力は割と残ると思うぞ」
「体力がいくら残っても、弱くなったらソフィアを守れないだろう」
「だから、こうして戦い方を教えてるんだ」
「……こんなんで足りるかよ、人類二番目ごときにすら勝てない」
もうすでに殺したとはいえ、新神は強さの基準になりえた。
世界一の銃使い、傭兵、格闘家、殺し屋……。虚構科学研究所の刺客の中には、色々な熟練の技能を持った奴がいた。正直、最上は戦い方をあまり知らない。けれど、彼らを退けて生きてきた。圧倒的な力は、どんなに優れた技能も押しつぶす。戦い方を知らないままに、真正面から敵を食い破ってきた最上が一番それを知っている。
「人間兵器の新神に『ごとき』って、お前なぁ。確かに俺が教えてる戦闘技術は、一般人よりちょっと優位に立ち回れるだけの物で、これを使ったとこで、弱体化した最上だったら新神には手も足も出ないだろうがな」
「全然ダメじゃん。……強さを維持するには、僕は肉を食べるしかないんだよね」
「それだけはやめとけ」
「なんでだよ」
「寿命が縮む。お前、人類最強のままだったら、二十歳いく前に死ぬぞ」
断言する朧火。
「各国の実験結果で、人間を超える、強い力を持つDマンは短命の傾向にあるのがわかってるんだ。命をろうそくに例えるのはベタだが、炎が強かったらろうそくはすぐに燃え尽きる。最上は普通の人間が持つロウソクより長く太くできているだろうが、それでも最大火力で燃え続けてたら、早死にするのは明白だ」
「……」
Dマンが平均的に短命な傾向があるのについては人それぞれ意見がある。
人間の寿命は医療の発展とともに伸び続けていたが、それは必ずしもいいことだけではない。長くなったからと言って生活の質が維持できなければ生きている意味がない。本当の幸せはただ長く生きることか、少し短いが質のいい時間を生きるか。
これについては議論が絶えず、結論が出ない。結局は、個人の意思主張に委ねる形になる。
「ちなみに、虚構科学研究所の不死の定義は、『地球上の何者よりも強い』だ。全開のお前は、まさに不死の完成体だろうが、不老じゃあない。老いでは死ぬぞ」
弱体化すると知っていて、最上に肉を与えなかったのには理由があったようだ。
「……僕には、大切な物を守るために人類二番目を圧倒する強さが必要なんだ。あいつに勝てる力があれば、誰にも負けない」
「よくそんなむずかゆくなる言葉を吐けるな。いや、単純で純粋だって意味ではいいんだろうが」
朧火は肩をすくめて見せる。
「別に人類二番目に勝てなくたって最強で居続けられるだろうが」
「いや、どう考えても無理でしょ」
「お前はもっと学べ、汚い大人の強さを」
「……それで、最強で居続けられるのかよ」
「いられる」
珍しく朧火は茶化す様子もなく、真剣に答えていた。以前、西天がソフィアに話していた朧火の真剣な表情が、今のこれなのだろうか。
「というか、ソフィアちゃんと最上を守るためにファミリーがあるんだぞ。別に強くなくてもいいだろ」
「ぶっちゃけ、僕一人より弱いだけにめちゃくちゃ頼りない」
「ほんとぶっちゃけるなお前! まぁ、戦闘面で言えばまったく否定できないんだが。お前の戦闘力は異常だよ。不死の完成点なだけはある」
「僕が不老だったら、化物プロジェクトは完成していたわけだ。けど、強い人間をつくるより、不老の人間を作る方がよっぽど難しいよね」
「……まぁな。不老なんて無理だ。無理無理。存在するはずがない」
「だろうね。僕もさすがにそう思うよ。で、僕が確認しておきたいのは一つだけ、本当に僕は最強でいられるのか? これは念を押して確認しとくよ」
「いられる。秋月さんから色々学べ」
「わかった」
「……」
なめくじのような気持ち悪い生き物を見るように、朧火が最上を見ていた。
「なに?」
「いや、俺が意図的にお前を弱らせたのを聞いてもキレずに話を聞くし、アドバイスも素直に聞くし、なんだこいつ気持ち悪っ、て思っただけだ」
「おい、朧火の中の僕のイメージが今ので大体わかったよ」
「人の話を聞けるようになったのは、心に言わせれば成長か……」
「だから子ども扱いするな」
朧火の稽古はここで終わった。話し込んでいたせいもあり、結果として稽古の時間は十五分を遥かに超えて夏の朝日が顔を見せていた。
伊吹荘に入ると、ロウソクと燭台に似せた電灯が等間隔で並んでいる廊下で、西天にばったり出会う。浴衣のような緩い服装は、彼女のパジャマだ。
「おかえりなさい。大丈夫? 仕事頑張るのもいいけど、あんまり無茶したらだめよ?」
おせっかいになりすぎない程度に、最上の身を心配しているようだった。最上が常人にはない体力を持っているのを知っているので、無理しているのか自発的にやっているだけなのか、判断は難しいだろう。
「大丈夫大丈夫。嫌ならとっくに秋月さんをぶん殴ってやめてるよ」
「そう、よかったわ。なら、早いとこソフィアちゃんに会ってあげた方が良いわ。あの子、最上くんが帰らなくてずっとそわそわしてたわよ」
言ってから西天はふわぁと、大きくあくびをした。最上が帰ってきたのに気づいて、わざわざ起きてきたのだ。
西天の言う通り、最上は自室に向かう。
「た、ただいま」
部屋に入るとともにした挨拶がぎこちなくなってしまった。
返事はない。
「そりゃあ、寝てるよね」
ベッドの上でソフィアはすやすやと寝息を立てていた。タオルケットで身を包み、枕を抱いて顔に押し当てるようにして寝ている。
「って、なんで僕のベッドで寝てるんだよ!」
起こさないように気遣いをしてやるつもりだったが、最上は思わず寝ているソフィアにツッコミを入れてしまった。
「ん……むぅ、かな、た……かなたッッ!」
タオルケットにくるまっていたソフィアががばぁっと身を起こす。
「かなた、朝帰り!? ボクを差し置いて朝帰り!?」
赤い瞳にぶわっと涙が溜まる。
「変な勘違いしないでよ!? 仕事だって仕事」
「うぅ……よかったぁ。ドラマでよく見る、家庭を顧みない仕事一筋のお父さんの帰りを待つお母さんの気持ちがよくわかったよ……」
ベッドから降りると、がしっとソフィアが最上にしがみついてくる。身長が低いことに若干コンプレックスを感じている最上は、女の子のソフィアとほとんど変わらない身長がわかってしまうこの体勢があまり好きではなかった。けれど、ソフィアが寂しがっていたのもよくわかったので今日は何も言わなかった。
最近、ソフィアにも自立性が出てきたなと思っていたけれど、根本的な部分では最上に依存しているようだ。
「……ソフィア、けっこう髪伸びたんだな」
ぽつりと、最上は思ったことをつぶやく。二日会わなかったせいか、今まで気づかなかった変化を見つけた。
「そうかな?」
最上から離れて、ソフィアは自分の髪に指を通す。
(髪が伸びるだけで、大人っぽく見えるもんだね)
本人に言えば調子に乗るので、口にはしない。
一日休みをもらっていたので、最上は寝支度をして、そのままベッドに沈んだ。起きたのは夕方になってからだった。久しぶりに伊吹荘で過ごす。と、言っても仕事がなければ相変わらず手持無沙汰になってしまう最上だった。
「趣味がないってのは、けっこう困るんだね」
「かなたもテレビを見ようよ」
部屋にある液晶テレビをベッドに寝転がりながらソフィアは眺めていた。朝方のパジャマ姿ではなく、今はいつものゴシックロリータだ。
「生で見るならともかく、テレビは僕には――あれ?」
人間としては当たり前なのだが、テレビ画面には動画が動く画として流れていた。今までの紙芝居のようなつぎはぎ感がまったくない。
(……動体視力が落ちてるのか)
「どったの、かなた?」
「いや、なんでもないよ。僕も見てみようかな」
「うん、かなたもこれを見て予習すればいいよ」
テレビで見たドラマの内容は、お腹が膨れるようなべたべたの恋愛ものだった。日常的な作品を好むソフィアらしいチョイスではある。
(って、予習ってなんだよ)
テレビを見るのは小説を読むのとは違った感覚で、受動的であっても内容が頭に入ってくる。
「あー面白かった」
「普通でしょ」
「テレビ局の下働きになってから辛口批評家になっちゃったかな?」
「あー、秋月さんが作る番組が頭一つ抜けて面白いから目が肥えてるかもね」
「秋月さん!? 秋月さんって、あの秋月綾乃プロデューサー!?」
(あ、しまった。これ言うとめんどくさそうだから、黙っとこうと思ったのに)
「かなた、秋月さんのそばで働いてたりしてるの!? ね、ね?」
目をきらめかせてソフィアが最上に詰め寄ってくる。
「今、言ったからね! 絶対言ったからね! 秋月さんの番組作りいつも手伝ってるみたいな言葉!」
最上が危惧した通り、ソフィアの食らいつき方は尋常ではなかった。昔からミーハー気質があるのは知っていた。
根負けした最上は、普通に話してもさして面白くない秋月についての話を聞かせたのだけど、ファンのプラス補正がかかっているのかソフィアはうんうんと面白そうに聞いた。
「秋月さんのサイン、もらってきてね!」
彼女自体芸能人でないのだけど、サインに価値があるのだろうか。
「……どうせまた明日会うから別にいいんだけどね」
結局、最上はソフィアのお願いに折れたのだった。
青空テレビ局に出勤した最上は秋月に言われた。
「坊や、今日は記者会見に行くぞ」
「誰のですか?」
「防衛大臣、西天賢治のだ。オリンピック間際の国防に関するお話だ」
「賢治さんか……」
「坊やの愛しのママのお父さんだな」
「なにが愛しのママ、ですか。まったく……別に僕はファミリーの人達のことを家族だと思ってないですし」
「照れるな照れるな。さて、移動するぞ」
秋月が運転する車に乗って、最上は中央区の記者会見の会場になるビルに移動する。どうやらホテルの会場の一つを記者会見の場として使うらしい。ロビーには見上げるほど高い天井にシャンデリアが吊るされ、足元にはレッドカーペットが敷かれている。一泊するだけで最上一人の一か月分の食費くらい平気でかかりそうなホテルだ。
バスケットコート二つ作れそうな会場に秋月と最上は移動する。すでに他の局の記者たちが集まり始めていた。
綺麗な列になるように椅子が並べられていた。前には今日の主役が立つ演説台が置かれ、サイドはカメラで埋め尽くされている。
「坊やは私と一緒に最前列から手持ちのカメラで撮ってもらう。アングルとかはあんまり気にするな。後方で一台カメラ回してるから、練習と思ってやればいい」
「わかりました」
冷房が効いていて、会場は夏の暑さとは無縁だ。35度の炎天下からこの部屋に入ってくれば、気が緩みそうなものだけれど、記者たちの雰囲気はぴりついていた。
「縄張りを守るのに必死なだけだぜ。カメラは場所取りが命だからなぁ」
「そんなもんですか。というか、秋月さんプロデューサーなのに、取材なんてするんですね」
「自分の目と耳で聞いた方がいいことがあるんだぜ。ま、今回はかわいいかわいい私の専用の部下の指導も兼ねてだ。坊やは幸せだなぁ、私に愛されてて」
「愛してるなら労働基準法守ってください」
「愛は甘いだけじゃないんだぜ。さて、最前列予約済みだからな。私たちは場所取りなんて泥臭いことせずに優雅に行くぜ」
一番前に並べられたイスの左端二つが予約席らしい。最上と秋月はそこに着席した。
秋月から手持ちのカメラを渡された。後方からもう一グループ、三脚を使わなければならないくらい大きなカメラを使って撮ることになっている。
最上がカメラをいじって機能を確認しているうちに、記者会見がはじまった。
その主役ともいえる西天賢治が入り口から入場する。
会場の人間が息を飲むのがわかった。
筋肉の鎧を身にまとった政治家。はちきれんばかりの胸を張って西天賢治が視線の中を闊歩する。賢治が放つオーラが、ざわついていた会場を黙らせた。
(……前で会った時とは雰囲気がまるで違う。鉄のように……冷たい)
最上に優しく笑いかけてくれた賢治とは、もはや別人に見えた。
賢治が演説台に立った。その巨体のせいで台が小さく見える。
「今日の記者会見を開いたのは言うまでもなく、オリンピック間際の国防についてだ」
それから賢治の堂々たる演説がはじまった。
特に最上の気を引いたのは、この部分だ。
「……最近、国内では過激な事件が多発している。国道一号線爆破事件、穂野ノ坂学校テロ事件。オリンピック開催前に、国内に乱れが見られる。統率の取れた行動から、何らかの組織が関わっていると思われる。不穏分子の排除のために、我々は全力を挙げている。具体的には――」
自衛隊と警察が連携して調査を進めていることを賢治が述べる。
世間的には、穂野ノ坂学校の占領事件は謎のテロ組織による事件されている。虚構科学研究所の関係を疑う人間もいないではないが、圧倒的少数派だ。
数値にこそ出ていないが、第三次世界大戦の最中には大量の武器が日本に流れた。銃刀法に関しては、戦争が終わった今でも機能しているとは言い難い状態にある。日本は一度侵略されかけ、護身用の武器を家に置かざるを得ない状況に陥った。その状態がだらだらと続いているのだ。一般市民に武器が流れれば、それ以上に裏の世界にそれらが流れ込む。日本は昔ほど安全と言われず、テロ組織もいくつか確認されている。
先の穂野ノ坂学校の事件に関しては、新神定理の死体は回収され、それ以外の面ではただの武装した集団がいたくらいの痕跡しか残らなかったのだ。虚構科学研究所の撤退の手際は実に鮮やかで、包囲網の弱い部分を突き、逃亡。残ったのは新神定理を除いた物言わぬ死体だけだった。
「――だから、国民の安全、観光客の安全は我々が絶対に守るので、安心していただきたい」
後にも賢治の演説は続いたが、十分ほどでそれは終わった。
「では、質問があれば聞こう」
待っていたかのように、秋月が最上に耳打ちしてきた。
「面白そうだから、坊や、質問しな。質問はそうだな――、適当に『外国人の間に不安が広がっていると思いますが、そちらはどう対処なさいますか?』で、いくぜ。身内が公の場で質問したときにあの『鋼鉄』がどんな反応するか、私は興味がある。カメラは私が持つ。GOだ」
なんて自分勝手な。
秋月が最上を連れてきた理由を遅まきながらに最上は悟る。カメラを持たせるためではなく、この質問をさせるために最上を連れてきたのだ。
いくら秋月の意志を看破しても、立場上上司である秋月の指示には逆らえなかった。最上がはじめて上司と部下を意識させられた瞬間だった。
カメラを秋月に渡して、しぶしぶ手を上げると、賢治の存在感によって空気状態にされていた司会の人間に質問を許可された。
「外国人の間に不安が広がっていると思いますが、そちらはどう対処なさいますか?」
賢治の目が最上の方に向いた。
(……冷たい目だ)
最上には、今の賢治の目に見覚えがある。過去に虚構科学研究所の刺客としてやってきた殺し屋の目だ。人を殺すことにすら躊躇がない人間のそれに、類似している。
これが本当に西天賢治なのか、と最上は再び疑問を覚える。
「私にできるのは、原因を排除して不安を取り除く。それだけだ」
「チッ、だめか」と、隣で秋月がつぶやいた。
秋月が期待したような、面白い反応なんて欠片もなく、ただ一人の防衛大臣として、賢治は答えたのだった。
記者会見から帰った後は、最上はいつも通りの常人離れした仕事をこなすことになった。
(これは……今日も帰れそうにないね)
労働基準監督署もびっくりのブラック企業だ。基礎体力だけは衰えたとはいえ人の何倍も残っているのが幸いだった。
日が変わる頃、一時間の休憩が取れる。
大半の人間が帰宅し、誰もいない休憩所で最上は秋月と休憩をとる。
ジュース用の自動販売機が二台、カップ麺の販売機が一台、それとスナック菓子の販売機一台が横並びになっている。最上はカップ麺の販売機に新鮮さを覚えて、カップ麺を一つ買ってみた。
秋月は相変わらずエナジードリンクだ。彼女が着るよれよれのワイシャツと目の下のクマを合わせてみると、この仕事の過酷さが浮き彫りになる。
「ふっ、何日も私の仕事についてこられるやつははじめてだぜ」
「逆ですよ。僕が少し疲れるくらいまで働ける秋月さんが異常なんです」
「はっはっは、活きの良い坊やだ」
エナジードリンクの栄養が全部まわっているのではないかと思える胸を揺らしながら、秋月が笑う。
実際のところ、秋月の人間性には難があったけど、最上は嫌いではなかった。短期バイトの時に、陰湿な嫌がらせをしてきた輩に比べれば、秋月の豪快な性格は、ずいぶんやりやすい。人の嫌がることを平気でやるけれど、不思議と後腐れがない。
「そうだ、今日は秋月さんに色々と用事があるんです」
「ん? なんだい?」
「まず一つ。サインください」
来る途中に雑貨店で買ってきた色紙とペンをカバンから持ち出して、秋月に渡す。
「お? なんだ、ついに坊やも私のファンになっちゃったか? 惚れちゃったか?」
「違いますよ。ソフィアが秋月さんのサインが欲しいって言ってきたんです。一応、あなたのファンですから」
「そうかそうか。かわいい子だぜ。ぜひ会ってみたいものだ。あれだろ? 坊やと同じ、Dマンがまだ存在しないはずの年齢の子なんだろ?」
「そうですけど……」
日常を荒立てないために、あまり大っぴらに話して欲しくない話ではある。秋月は口が軽そうに見えるので、最上は常にひやひやしている。もちろん、今は会社にほとんど人がいないから口にしているのだろうが。
「んふふ、良いネタになるねぇ。坊やも自分の立場を大っぴらに世間に明かしたくなったら私に言うんだぞ。間違いなく大スクープになるから、すぐに特番組むぜ」
「そんな日は永久にやってこないと思います」
「ツレないねぇ」
とは言うものの、秋月はそれ以上踏み込んでこなかった。朧火の言う通り、強要はしてこない。
「で、もう一つのお願い、というか聞きたいことなんですけど、秋月さんは新神に勝てますか?」
「なに言ってるんだい坊や」
最上の問いがあまりにもとっぴだったせいで、秋月は一瞬問いを理解できなかったようだ。
「新神って、あの人類最強か? 勝つって、私が殴り合いでか?」
「はい、そうです。朧火が言ってました。秋月さんから強さを学べって」
「……あー、なんか朧火が言ってた気がするな。英才教育してくれとか。英才じゃなくて愚才教育になるのは間違いないってのに。ちなみに、私が新神と殴り合うって想定だと一秒で肉塊になってる自信がある」
エナジードリンクを飲み干して、秋月はその空き缶をゴミ箱に放った。
「ちなみに、私が教えられることなんて、ほとんどないぜ」
「いいですよ」
「なんというか……私としては坊やの純粋さ単純さバカさを奪うのは心苦しいな」
馬鹿にされているのがまるわかりだけど、最上はあえて何も言わなかった。
「けど、坊やがこのまま社会に出たらカモにされるだけか」
諦めたように秋月はため息をつく。
「坊や、まず私が思う力ってのは、つまるとこ権力だ。政治家がよく振りかざすあれだよ」
「……」
「汚物を見るような目で見るなよ坊や。これでも私も昔は正義を信じていた人間なんだぜ」
秋月は苦笑いを浮かべる。
「信じられませんね」
「だろうねぇ。私がこの業界に入ったのは、マスメディアなら日本に渦巻く汚れた不正を暴いて正せるっていうありふれた志望動機なんだが、不思議と誰も信じてくれないんだぜ。まったく不思議だ」
「秋月さんは正義とは無縁の存在ですからね」
「ま、そうだな。そんな正義は半年で見切ったぜ」
一瞬だが、秋月が過去の自分を見つめるように遠くを見た。彼女の話が本当なら、見切ったのではなく、諦めたのかもしれない。
「話が逸れたな。で、私が力と考えている権力だが――一般人は、世の中に影響を与えられるほどの権力なんて持ち合わせてない。私もせいぜいテレビ局内で通用する物しか持ち合わせてないわけだ。そこで、他人の力を借りることになる。より偉い人間から、より大きな権力を持つ人間から」
「虎の威を借りる狐ってわけですね。けど、実際に役に立つんですか?」
「坊やのいた世界は、人間関係が坊やとソフィアちゃんで完結してたから、わからないんだろうね。実際のところかなり役に立つぜ」
たとえば、と秋月はワイシャツの胸ポケットからタブレット端末を取り出す。
「今日の夕方に私のところに来た、腹が出た中年のおっさんを覚えてるか?」
「ああ、いましたね」
似合いもしない白いスーツに身を包んだ男だ。秋月によれば、大手化粧品メーカーの社長らしい。
「確か、スポンサーになるからオリンピックの特集の間に、十五分宣伝番組を入れろってごねてましたっけ」
「そうだな。あれを受けなかった理由は簡単。まずオリンピックとあまりにも関係ない商品の宣伝だ。もっといい条件のスポンサーも十分すぎるほどいる」
「でも、秋月さん、断り切れなかったみたいですけど」
その社長は押しが強く、秋月がいくら首を振っても粘り続けた。最終的には秋月が『考えておきます』と言って終わった。
「秋月さんならすっぱり断ると思ってたんですけど」
ぺこぺこしている秋月を見るのも、最上にとっては新鮮だったが違和感もあった。
「私にも事情があるんだ。あいつの場合、別の番組でスポンサーなら、宣伝と言う条件を加味しても合う物が多い。強く断って仲が悪くなるのは不利益ってわけだ。立場的には、相手が上なんだよ」
局内は禁煙のはずなのだけど、秋月は片手でたばこを取り出して、くわえてから火をつける。タブレット端末を持っているのに器用なものだ。この休憩所の壁が心なしか黄ばんでいるのは彼女のせいではなかろうか。
「さて、相手は是が非でも宣伝してほしいらしい。私は断りたい。けど、相手の方が立場が上だ。さぁどうする?」
「僕なら……きっと直接断るでしょうね」
「そこが坊やの可愛いとこでもあるんだが、単純すぎる」
秋月はタブレット端末に手慣れた様子で指を滑らせて、耳にそえる。
『おい秋月。今何時だと思ってるんだ』
端末から洩れてきた声は、朧火のものだった。
「私と朧火の仲だろう? 時間も関係ないし、呼ぶときは綾乃でいいと言っただろ?」
たばこを口にしたまま彼女は器用に話す。
『おい、やめろ。俺に熟女趣味はないし、勘違いする人が出てくるだろうが。心だからこれ違うって! 秋月の嫌がらせ! おい秋月、用件を手短に言え! 俺が心に殺される前に言え!』
「引退した化粧品メーカーのじじいに話を付けてくれ。そいつの後釜がうちのテレビ局でいろいろごねてな、めんどくさいから上の方から止めて欲しい」
『オーケー、で、対価はなんだ?』
「お前のとこの坊やの情報を、無理やり吐かせないでいてやる。その口止め料ってことで」
(堂々と僕を人質に取りやがった……)
『とんでもないぼったくりな上、口約束で保証なしかよ。まぁ、いいけどな』
「それじゃ、頼んだぞ。ああ、もちろん私が頼んだとわからないようにな」
『わかった。あー三蔵のやつまだボケてないといいんだがな』
「キレ者で堅物の古谷三蔵は死ぬまでボケないと思うぜ」
『それもそうか。用件は終わりだな、切るぞ』
「まぁ待て、察しろよ。私がお前と話したくて話題作ってるのを」
『だからそういうのやめろって! 心、ちがっ――』
そこでぶちっと通話が切れた。秋月は満足気に笑い、タブレット端末をポケットに戻した。
「ま、こんな感じだぜ。これで明日にはうるさい社長さんも黙ってくれるだろう」
「やり口が汚い気がするんですが……」
「最初は私もそう思ってたが、残念ながらこういうのが有効なんだよ、坊や。より力を持った人間を間接的に利用する。大事なことだぜ?」
「……」
最上の望んでいた答えとはまるで違っていて、納得がいかなかった。
「別に私の教えなんて聞かなくていいぜ。私は純粋で単純な坊やがなかなか気に入ってるし」
最後に、と秋月は付け加える。
「あと一つ、力って言うなら有名なあの言葉、筆は剣よりも強し。これは現代社会ではだいたい当てはまる。権力者を利用するほかに有効なのは、筆の力で人の数の力を得ることだ。これを上手く使えば、内閣総理大臣だって潰せるから、覚えておいても損はないぜ」
ゆらゆらと先端から煙を出すたばこを秋月は美味そうに楽しむ。
大人の陰謀や策略が行き交うのを虚構科学研究所にいた最上は嫌というほど目にしてきた。もしかしたら、それは虚構科学研究所だけならず、最上が知らなかっただけで、社会というのはそういうものなのかもしれない。
(うんざりするよ、ほんとに)
たばこを一本吸い終わり、秋月は吸殻をミニポーチに入れ、「しかし朧火は妙な奴だぜ」 と、唐突に切り出した。
「ただのロリコンクソ野郎ですよ」
「はっは、けど、そのロリコン変態クソ野郎は、ただ者じゃなくて、妙に人脈を持ってるんだよねぇ。さっき出てきた引退したっていうじじいだけど、そいつはキレ者だが生粋の頑固者で、若い奴に厳しい人間らしいぜ」
「……あのへらへらした朧火が、その、古谷さんでしたよね? 仲がいいんですか?」
「友達らしいぜ。いったいぜんたいどんな魔法を使ったのか」
最上自身、朧火は出会った時から妙なやつだとは思っていた。
「私もあいつの経歴が気になって調べてみたんだがな、五年遡るのが限界だった。それ以上は何をしてたのか、さっぱりだ。一応、西天家とは関わりを持っていたり、他にもいくつか繋がりは見えてくるんだが、繋がりが見えるだけでそれ以上はよくわからん」
秋月の並はずれの調査力と執念をこの数日で最上は目にしてきた。それだけに、彼女にお手上げだと言わせる朧火の異常ぶりがよくわかる。
「なにかやましいことを隠してるんじゃないですか。たとえば児童ポルノ法に違反したとか」
「はは、かもしれんな」
はじめてであった時に感じた影のような掴みどころがない男だというイメージが最上の中で再燃した。
徹夜で仕事を片付けて、朝になって最上はようやく伊吹荘へ帰れることになった。夕方に集合がかかっているので、寝て起きたらすぐに青空テレビ局に向かわなくてはならない。
伊吹荘の玄関をくぐると、うっすらみそと醤油の香りが漂っているのに気づいた。最上は厨房に向かう。すると案の定、西天が大きな鍋でみんなの朝食を作っていた。
「あら、おかえりなさい」
ただいまを言って、最上は湯気を立てている二つの鍋を覗いた。片方は味噌汁だ。
「珍しいね、おかゆ……?」
「そうなのよ。どうもソフィアちゃんが昨日から調子悪いみたいでね」
まったく意図しなかった西天の返答に、最上は眉をひそめた。
「――血の不足とかじゃないよね?」
「違うわ。風邪じゃないかしら」
「ソフィアは自室にいるんだよね?」
「そうよ、寝てるわ」
居ても立っても居られなくなって、最上は厨房を飛び出して自室に向かう。ドアノブを引くと、強い抵抗が返ってきた。鍵が閉まっている。二人で共用のこの部屋でカギを閉めるのは、最上とソフィアが二人とも部屋にいる時だけで、それ以外は開けっ放しだ。それが今日は閉まっていた。
「ソフィア、ソフィア!」
風邪だとわかっていても、最上はドアを叩かずにはいられなかった。
「……かなた?」
少しして鍵が開いた。パジャマ姿のソフィアは、夏に使うにしては厚い毛布を頭から被っていて表情がわからない。くるりと最上に背を向けると、ソフィアはずるずると毛布を引きずって自分のベッドに戻っていく。
「だ、大丈夫?」
「……うん、大丈夫だよ。ただの風邪。寝てれば治るよ」
と、言って毛布で全身をくるみ、芋虫みたいになってベッドで寝転がってしまった。
「本当にただの風邪?」
「本当だよ。それよりさ、鍵、閉めといてね」
「わ、わかった」
いつもの元気がまるでなく、異様にそっけなかった。最上に背を向けて寝転がるソフィアに、声をかけるのに躊躇してしまう。
「ソフィアが風邪なんて珍しいね。弱ってる時ですらかからなかったのに」
「うん」
「西天さんがおかゆ作ってたし、持ってこようか?」
「……いらない。食欲ない」
「血は?」
間があった。
「……かなたの飲ませて」
「ぼ、僕の?」
「うん」
「なんで?」
「聞かないで」
「わ、わかった。別にいいけど」
最上がベッドのへりに座ると、ソフィアが顔を上げた。
目の下に薄いクマができているのを最上は見つけてしまった。
(風邪なのに、寝てない? 本当になにがあったの?)
のろのろと起き上がり、ソフィアが甘い香りと共に最上によりかかってくる。
「かなたちょっと汗臭い」
「仕事帰りなんだよ、僕は」
「でも、安心するにおい。食べ物を持って帰って来てくれたとき、いっつもこんな感じだった」
細い腕が妖しく最上の体に絡みついてくる。ソフィアの口は最上の首筋へ。熱っぽい吐息に最上の心臓が速く脈打つ。
ソフィアが最上の首筋をぐにぐにと甘噛みした。
「あは、かなたの首筋ばくばくしてる。緊張してるんだ」
「さっさと飲めよ」
ソフィアのおしゃべりが少しだけ戻ってきたみたいだ。
「んっ」
じくっとした痛みがした。ベースが吸血鬼なのだが血を飲むのが下手だ。歯で肉に穴を開け、吸うのではなく出てきた血をベロで舐めとっている。くすぐったいけれど、ちょっと気持ちいい。
「ちょっと……しょっぱい、汗の味がまざってるよ……けど、おいしい……」
「いちいち言わなくてもいいよ」
「かなたがボクの肉を食べてさ、ボクがかなたの血を吸う。これだったら誰の手助けがなくても生活できるかな」
「バカなこと言うなよ。僕がソフィアの肉を食えるわけがないだろう」
「かなたになら、食べられてもいいんだけどな」
最上は頭をなでるふりをして、ソフィアの体温を確かめてみる。
(正直、熱があるとは思えないな)
自分の体温が上がっているのを加味しても、ソフィアの体温は風邪をひいて熱を出しているほど高くない。
「ソフィア、なにか隠し事してない?」
「……してない」
そう言われれば、それまでだった。追及はできない。
ソフィアに血を与え終えてから、最上は一度部屋を出て、風呂や歯磨きなどの寝支度をする。そのついでに西天に今のソフィアの状態を話しておく。部屋に戻ると、ソフィアは寝息をたてて眠っていた。
(やっぱり寝てなかったんだ)
ソフィアが嘘をつく理由を考えていると、最上もだんだん眠くなってきて夢へと落ちていった。
やがてカーテンの隙間から差し込んできた夕日で最上は起きたが、ソフィアはまだ眠っていた。
また青空テレビ局に行かなくてはならない。
ソフィアを起こすか迷った。
明らかにソフィアは悩みを抱えている。今まで自分で解決できないことがあれば、最上を頼ってきた彼女だけど、それをしてこない。
(自分で解決できるレベルの悩み……なのかな)
学校の友人関係に悩むとか、そういう可愛い問題であればいいと最上は思う。
悩んだ末、やはり放っておけなかった最上はソフィアを起こすことにした。
「ソフィア、ごめん、ちょっと起きて」
「うぅん……?」
ソフィアは寝相が悪い方で、パジャマの第一ボタンが外れて右肩が露わになっている。目のやりどころに困り、壁の方に目をやりながら最上は言った。
「もうすぐまたテレビ局に行かないといけないんだけど、風邪は大丈夫?」
あくまでソフィアの嘘に付き合うことにした。その上で、ソフィアを一人にしていいかどうか判断する。
「かなた、忙しいもんね。うん、ボクは大丈夫……だよ」
「一人にしてもいい?」
間があった。
「……うん」
悩みの種を言う様子がない。
ファミリーの面子から距離を置いているのは、朝のソフィアの様子から最上にもわかった。これは一つの推測材料になり得るだろう。
わずかに考えたが、ソフィアの嘘に付き合いながら気遣うなんて器用なことができないのを悟り、「ソフィアは話したくないようだけど……」と切り出す。
「もし、話してもいいと思ったか、何かあるようだったら青空テレビ局に来て。僕がいるから。どんなに忙しくても、ソフィアの話は聞くから」
「……かなた」
「なに?」
「ついて行ってもいい? 仕事の邪魔しないからさ」
最上に風邪が嘘であるのがばれているのは、ソフィアは承知のようだった。
「いいよ、別に」
局内は基本的に一般公開されているから、見学の体でいけば別に問題ない。
「なら、まだ早いけどさっさと準備して出発しようか。ちょっとくらいなら見学に付き合える」
「うん!」
やはり風邪は嘘で、ソフィアはベッドから元気よく飛び出し準備を始める。その中に着替えが含まれるため、気を利かせて最上は廊下に出ておく。すぐに彼女の外出用の服装と言ってもいいゴシックロリータを着て出てきた。学校に行きはじめて常識が身に着くと思ったけれど、趣味嗜好はまるで変わらないみたいだ。
西天や朧火に見つかったら言い訳するのがめんどうくさいので、食堂のテーブルに書き置きで出かける旨を伝える。これはソフィアがファミリーの人間を避けていることへの気遣いでもあった。
外に出ると、「家出って、こんな感じなのかな」と、ソフィアがつぶやく。
「なに言ってるの。どうせすぐ戻るでしょ」
「あ、うん。ごめんね。変なこと言って」
やはり妙だった。
電車を乗り継ぎ、東京をまたぐようにして東京湾のすぐ近くに建つテレビ局にたどり着いた。赤く染まった海には白波がたち、奥の方に目をやればビルの灰色がかすんで見える。
「噂通りいい景色だね!」
伊吹荘が遠のくにつれて、ソフィアがいつものテンションに戻るのがわかった。伸びてきた白い髪を海風に揺らしながら近くにあった桟橋の先まで駆けていく。
「あんまり時間使ってると、テレビ局内を一人で回るはめになるよ」
「あと二分!」
桟橋の根元の方で、潮風のしょっぱいにおいを吸い込んで待っていると、後ろから肩を叩かれた。
「お早い出勤だな。関心関心」
振り返るとそこにいたのは巨大な二つの肉の塊の持ち主、秋月だった。いつも通りのよれた服装に、たばこを口にくわえていた。
「おはようございます」
「ん、おはよう。しかし……おおぅ、これは良い絵だな。坊やが見とれるのもわかるぜ」
桟橋の先にいるソフィアを見て、秋月はタブレット端末を取り出しかしゃりかしゃりと数枚の写真を撮る。
「なに勝手に撮ってるんですか」
「ん、まぁいいだろ。本人にばれなければ」
「僕がばらしますよ」
「おん? 知り合いか?」
「あの子がソフィアですよ」
「あーなるほど。雪みたいな髪の色、夕日のような目の色……確かにDマンらしい。変わってるぜ」
たばこをふかせながら秋月は一人うんうんと頷く。
「で、坊や。なんで彼女さんをここに連れてきたんだ? 可愛いあの子を自慢するためか?」
「僕はソフィアの彼氏でも、自慢するために連れてきたわけでもありませんよ。いろいろ勘違いしすぎです。実際のとこ、ソフィアがここに来たいって言った本当の理由は、僕もまだ知らないんです」
「ふぅん」と秋月は形だけの相槌を打つ。
秋月と話していると、ソフィアが戻ってきた。
「あっ、あっ……」
秋月を見て、ソフィアが固まる。
「秋月プロデューサー!?」
「だぜ」
ソフィアが秋月のファンであるのは、本人も知っていたので過剰な反応にも驚かなかった。
「裏方の人間である私のファンなんて変わってるねぇ、ソフィアちゃんも」
「いえっ、そんなことないですよ! いっつも見てます!」
動画中毒であるソフィアは、ほっぺたを紅潮させて興奮している。最上にはミーハーの気持ちはよくわからないのだけど、ソフィアが元気になるならそれでいい。
「ふっ、ありがたいぜ。だが、今はプロデューサーとしてじゃなくて坊やの彼女として見てくれ」
「だから秋月さん、朧火の時と言いなんで誤解を招くようなこと言うんですか! ソフィア、真に受けない! 泣くな! 嘘だよ嘘! 大嘘!」
「いやなに、仲のいい男女を見るとついつい間に入っていじめたくなるんだぜ」
「最低な人ですね!」
最上は秋月が上司であるのを忘れて叫ぶ。
「褒めるな褒めるな。それより坊や、ここに早く来たってのは、仕事がはじまる前に局内を見学するためだろう? 早くした方がいいぜ。私は時間にシビアだ」
「遅刻魔がよく言いますね……。ほら、ソフィア、行こう」
「う、うん」
ぺこりと秋月に一礼して、ソフィアは最上についてきた。最上はもうすっかり見慣れてしまった局内だが、ソフィアにとっては目新しいらしくきょろきょろとせわしなく辺りを見渡す。
ソフィアは動画についてはやたら詳しいけれど、現物を見る機会に乏しかった。動画で見られるのはあくまで人が切り取った部分であり、映らない部分はどう頑張っても見えない。
「かなたは本当にここで働いてるんだね。秋月さんとも知り合いだったし」
「まぁ、こき使われる立場だけどね」
秋月以外の職場の顔見知りも、何人かできはじめた。とはいっても会えば挨拶をかわす程度の間柄だが。
普段から局内を歩きまわっているので、どこに何があるか最上は把握していた。ソフィアが喜びそうなところをチョイスして案内する。収録するところを見せてはわーきゃー言って、案内のしがいがある打てば響くような反応をしてくれた。
あっという間に仕事の時間がやってくる。
「そろそろ僕は仕事に行かないといけないんだけど、ソフィアはどうする? もう少し見学してから帰る?」
「……かなたの仕事が終わるまでここにいたらダメかな」
「朝までいるってのは、さすがにまずいかな」
バイトの身分である最上に、テレビ局に無関係の人を一晩置いていいかなんて図々しいお願いを通す力はない。
「見学できる時間が終わったら帰った方がいいよ」
「……」
ソフィアは急に押し黙って、泣きそうなくらい瞳をうるませた。
「ボクね、なにが正しくて、なにが間違ってるのか、わからないんだ」
そして唐突にこう切り出した。
「ボクは、お母さんやお父さん、ファミリーのみんなが大好きだよ。けど……見つけちゃったんだ。そのせいで、ボク……なにが正しいかわからなくなって……」
ソフィアの悩みの種。悩みぬいた末にそれを明かそうとしているのがわかった。
「かなた、これを見て。部屋を掃除してたら出てきたんだ……」
彼女は一枚のコピー用紙を、持ってきていた黒いポーチから取り出した。最上はそれに目を通す。
報告書:『化物プロジェクト』について。
化物プロジェクトは、現在も朧火を中心として進行中。
同プロジェクトの当面の目標であった不死性は、最上彼方をもって完成とする。
これにて、プロジェクトは次の段階に移る。
不死性と不老性の融合である。
注意事項:最上彼方は、人間の肉を摂取せず弱体化している模様。
2020年7月2日
「これは――」
混乱する頭を整理するために、大きく息を吸って吐く。
朧火が化物プロジェクトの中心にいる?
ファミリーは虚構科学研究所と対立する組織なのではないか?
沸点に達した水が気泡を吐き出すように、次々と疑問が浮かんでくる。
そのすべては、一つの質問をするだけで解決する。
お前たちは、実は虚構科学研究所の人間なのか? と、朧火に聞けばいいのだ。
だが、聞けるはずがない。嘘偽りなく「違う」と言ってくれれば、それが一番いい。けれど、この資料が事実であった場合、敵にみすみす隙を晒すようなものだ。ソフィアもそれがわかっていたので、誰にも言えず、最上にすら心配をかけたくないと思い黙っていたのだろう。
(僕を弱体化させたのは、寿命云々なんて建前で、管理しやすくするためじゃないか?)
ソフィアの疑念が最上に伝染する。
考え、見極めなくてはいけない。
朧火が、西天が、ファミリーが、最上達の敵であるかどうか。
それまでいかにソフィアを守るか。いや、それだけではない。最上も今はずいぶん力を失っている。戦っていないからどの程度衰えたかは判断できないが、相当弱っているに違いない。今朝、ソフィアに血を与えた時も、ソフィアの歯で体に穴が空けられるほど弱っていた。銃弾を受ければ、今の最上は簡単に死ぬだろう。ソフィアだけでなく、自分の身も守らないといけない。
少なくとも、まだ朧火たちは、ソフィアが情報を掴んだことに気づいてないだろう。ならばまだ様子を見るべきだ。情報を集め、見極める。
伊吹荘にソフィアだけを帰らせるのは、今となってはさすがに抵抗があった。
「秋月さんに、ソフィアがここにいられるように頼んでみる。今日は帰らないってことにして、僕は秋月さんから朧火たちに関する情報を聞き出すよ。ソフィアは朧火と西天さんとメールでもして、さりげなく探りを入れて欲しい。探ってることがばれたら、すぐにここを引く」
対策を組み立てた最上は、さっそく秋月にソフィアが居残れるようにお願いをする。『ソフィアの写真を数枚取らせろ』という条件を出してきたが、秋月は案外すんなりと首を縦に振ってくれた。とりあえず、これで今晩のソフィアの居場所を確保した。
最上はソフィアと分かれ、秋月と仕事をはじめる。
ほぼ秋月専用と化している編集室が、二人の仕事場であることが多かった。編集用の機器はあまり使われることがなく、資料を置くための机になっていた。壁には液晶がいくつも並んでおり、他のテレビ局の番組を垂れ流しにしている。音声も流れており、最上は気が散るのだけど、秋月はそうではないらしい。黙々と資料を読み込んでいる。
前に『見ないなら消しましょうよ』と、最上が以前言ったことがある。だが、秋月はちゃんと内容を聞いて情報を仕入れているのだと言い張った。
オリンピックの資料をピックアップする作業の合間で、手を動かしながら最上は秋月に尋ねた。
「そういえば、秋月さん」
「なんだ?」
「ファミリーって、秋月さんから見たらどんな組織ですか?」
根本的な疑問。最上はファミリーに入ったばかりのころ、やましい部分がないか調べまわった。その時見つけられなかったけれど、秋月の物に対する調査の徹底ぶりを知った今では、調べが足りなかったように思える。
「んー、正直私でもよくわからんぜ。捨てられたDマンの保護をしてる組織だってのが表面だな。私は裏側を見るのが好きだから、一度、Dマン保護組織に隠された裏側! みたいな番組組めないかって思って、ファミリーの裏側を嗅ぎまわってみたんだが、全部朧火で行き詰る」
「ファミリーを調べて、朧火で行き詰る?」
「そうだねぇ。西天については裏表全て調べがつくんだが、西天の持つ裏は、表面同様ネタにもならない綺麗で真っ白な情報ばかりでつまらないぜ」
話していながらも、秋月の眼球は絶え間なく資料の上を走る。
「ただな、あそこの組織は何か隠し事をしてるのは間違いないんだ。組織というか、朧火か。気になる点もあるしな」
「なんです、それは?」
「金の話だぜ。いやな、ファミリーってのは今でこそ知名度ある組織だが、はじめは当然無名だったわけだ。西天と朧火が立ち上げた組織で、最初から伊吹荘やら、都内にある私立学校やらを買い揃えてしまったらしいぜ。都市部の学校を買うのにはめまいがするくらいの金を払わないといけない」
「賢治さんの力を借りたんですかね?」
「もちろん私も調べたさ。けど、西天は極力父親の手は借りないようにしてるんだよねぇ。父親からお金を引っ張ってきた形跡はないし、なんらかのコネを使った形跡もない」
「つまり、朧火が全部出したと?」
「その通り。かといって、朧火がその時期、なんらかの資産を持っていた形跡がない。そもそも朧火には籍が存在しないんだ」
お手上げだと言わんばかりに秋月は肩をすくめる。
西天がいつか朧火には名前がないという話をしていたのを思い出す。日本においてこれはあり得ない。
「しかし今日の坊やはやけにおしゃべりだねぇ。なにかあったのか?」
ぎょろりと秋月の眼球の視線が資料から最上へと移った。秋月は勘が鋭い。ここらが引き時だ。
「別になにもありませんよ」
「ふぅん……」
秋月は面白そうな物を見るような目つきをしている。最上は自身が失敗したこと気づく。遅かった。踏み込みすぎた。
「今日に限っておしゃべりで、ファミリーや朧火のことを気にしている。さらにソフィアちゃんを連れてきたねぇ。さすがに見えてくる物があるぜ」
紙吹雪のように資料が舞う。最上の体は勝手に動いていた。右手が秋月の首を掴み、握りつぶそうとする。危ういところで最上は自制した。
「ファミリーに信頼を置けない状況に陥った、くらいは推測できるぜ」
絞首台の縄を首にかけられているのと変わらない状況なのに、まるで動揺を見せずに秋月は言う。
「なにがあったかはさすがにわからないが、安心しな坊や。私は坊やの家出をわざわざ朧火にちくることもしないぜ。むしろ私を今みたいに情報源として使っときなって」
「……何を考えてるの?」
「私は面白そうな物を作るのと同じくらい、見るのが好きなだけだぜ。坊やの家出は、なかなか見ごたえがありそうだからな」
信用していいのだろうか。けれど、彼女の協力を得られれば強力な武器になるのも確かだ。伊吹荘を空ける理由を作れるし、ファミリーについての調査も、うんとしやすくなる。
ここで秋月を殺さなかった場合の最悪のケースは、ファミリーが虚構科学研究所に通じていて、さらに秋月が最上を裏切って朧火に報告した場合だ。
(……ここで秋月さん殺したら、ファミリーが何の裏もない組織だったとき、帰れないよね)
最上は自分の思考に驚いた。
最上達がファミリーを勘ぐっているという情報が、朧火や西天に流れるのを防ぐには、秋月を殺した方が確実だろう。ファミリーに入って間もない頃の最上なら、秋月を殺す選択肢を迷わず選んでいた。けれど、今はファミリーへ帰れることに、保険をかけたがっている自分がいる。
「わかったよ。僕も秋月さんが傍観者でいてくれるっていうのならありがたい」
「よし、じゃあさっさと仕事に戻るぞ」
何事もなかったかのように、秋月は仕事を再開する。それはそれで居心地が悪かった。
「ところで最上、ファミリーで何があったかは聞かないが、仕事が終わったら帰る気か?」
「いや、帰りませんよ」
「どうする気だい?」
「……隠れ家を使います」
隠れ家と言うだけなら、もし裏切られた場合も問題ないと最上は判断する。
「あー前はゲームセンターの下に隠れてたんだっけな」
その通りだ。朧火が秋月に話したのだろう。けれど、今回最上が言った『隠れ家』はそちらではない。
「ゲームセンターの下の居住施設なんて、そんなの、誰が用意したんだ?」
日ノ出キキ。ファミリーとかかわりを持たない頃、最上の唯一の支援者だった。素性は一切わからないが、堅気の人間ではない。最上は一度、その人から『とても簡単な荷物運び』を頼まれた。六十キロを超える荷物が入ったカバンを背負って、富士山の頂上付近に捨ててきてくれ。というものだ。
(中身は見ていないけど、あれはたぶん人間の死体だったかな)
依頼の最初から最後まで、手紙や代理人を通してやりとりをしたため、日ノ出キキには会ったことはない。けれど、その依頼のおかげで、最上は複数の隠れ家を手に入れた。
「なに、言いたくないなら言わなくていい」
日ノ出キキから譲り受けた、誰にも使われることのないビルの空きオフィスに最上とソフィアは身を置く。元々何かの事務所だったらしく、ほこりを被ってはいる豪奢な机や、ふかふかのソファが残されていた。ソフィアの生命線とも言えるテレビもある。半透明のガラスの仕切りで区切られている中には水道と二つのガスコンロ、それに冷蔵庫まである。寝るにはソファを使えばいい。わがままを言わなければ生活できる環境だ。唯一風呂だけは外のシャワールームを使わなくてはいけない。
「ここも久しぶりだね」
そう言ったソフィアは、ほこりを払ってからソファに座った。
最上とソフィアがここに来たということは、つまるところファミリーにいるのを危険と判断したからだ。
(朧火には裏がありすぎる。とてもじゃないけど、信用できない)
それに加えて、朧火を中心にして進んでいるという化物プロジェクトの文章を見つけてしまったのだ。朧火が危険でないと判断するほうが無理だった。
だから最上は決断した。伊吹荘には帰らないと。
「また二人ぼっちだね」
ソフィアのつぶやきに、最上は肩をすくめる。
敵を警戒する生活を最上とソフィアは再開する。二日と半日たった。テレビ局が忙しいのはわかっているが、最上は仕事を休んでいる。秋月との直接的な接触は、念のためできるだけ避けたい。
(……一生こんな生活が続くのかな)
ファミリーに属する前だったら別になんとも思わなかった。普通の生活を知らなかったからだ。
ソフィアと一緒に何も考えずテレビを見るのも、西天が作った料理をみんなで囲って食べるのも、朧火と喧嘩するのも、振り返ってみれば嫌いではなかった。
(親が子の幸せを願うのは当然とか、とんでもないことを西天さんは言ってたけど)
ファミリーに誘うときに西天は、幸せな生活を約束すると言った。
(確かに、幸せだったかもしれないね。仮初でも、嘘でも)
少し悔しいけれど、きっとソフィアも同じことを考えていると思う。世界で一番大事な人はソフィア・クラウディであるのには変わりないが、二人だけで完結する世界は、それは意外と寂しいものだった。
事務所にあるテレビの音が流れるだけの日々は、空白の時間はすぐに壊された。
ソフィアはソファの上で丸くなって眠り、最上は座ったままいつでも起きれるような浅い眠りを繰り返していた。
それは、道路に走る車が一台もいなくなる深夜の出来事だった。このビルに出入りする他の人間は、深夜まで残らない。警備員の類は雇ってなく、夜の十一時には管理人がビルのドアをロックすることにしている。だから、みんなそれまでに出ていくのだ。
なのに、足音が廊下に響き渡る。
最上の意識が完全に覚醒する。その足音に耳を澄ますと、確実に最上達がいるところに向かってきていた。
豪華な机の引き出しが二重底になっていて、そこに年季が入った拳銃一丁と市販のスプレー缶のような形をしたスモークグレネードが仕込まれているのを最上は知っていた。これでも日ノ出キキがまともな人間でないのがわかる。
弾は合計八発。
(拳銃使ったことないけど、至近距離なら当てられるかな)
ここの居場所は誰も知らないはずなのに。ここ数日、外を出歩くことはあったけれど、尾行は絶対に確認していた。
(誰だ?)
出入り口のドアの傍の壁に、最上は背中を張り付けて外の様子をうかがう。拳銃の撃鉄を起こしておく。右手に拳銃を、左手にスモークグレネードを。拳銃を片手で扱えるくらいの筋力は、まだ残っているはずだ。足音はまさに最上のいるドアの前で止まった。
最上はドアを開け、目の前の人間の額に銃口を突きつける。シングルアクションの拳銃は、引き金が軽いので暴発の危険もあった。
「何の用だよ、朧火」
自分でも驚くくらいに声が熱さを纏っている。ドアの外に立っていたのは、黒ずくめの衣装を身にまとった朧火だった。
「何の用もって、お前らを迎えに来たんだよ。心がめちゃくちゃ心配してんだぞ」
「帰れるわけないでしょ!」
「……なにがあった?」
最上の強い拒絶に、朧火は想定していたより状況が深刻なのを感じ取ったらしい。
「朧火は化物プロジェクトの中心にいる人間なんだろ! そんなやつ信用できるかよ!」
唯一にして最大の疑念を朧火に突きつけた。
バカなやつ。そんなわけがないだろう。
そうやって朧火が最上の言葉を、いつものへらへらした笑みを否定してくれることを願っていた。
「ちょっと待て、最上。お前、それをどうやって知った」
「否定……しないんだ」
だが、朧火の反応は苦々しい物だった。
最上はためらわずスモークグレネードを使う。部屋に煙が溢れ、それに反応した火災ベルが鳴り響く。
「待て! 話を聞け!」
最上は拳銃をしまい、すでに起きていたソフィアを窓の傍まで誘導する。ここは三階。今の最上が飛び降りたら骨が折れるのはわかっていた。あらかじめ作っておいたカーテンのロープを使う。ソフィアが落ちないように最大の注意を払いながら、それを伝って降りた。
大通りを避けて、電灯がないトンネルの中のように真っ暗な小道を駆ける。
(……まだ隠れ家はあるけど、使えるんだろうか?)
朧火は数日とかからず最上の居場所を特定してきた。以前の隠れ家といい、今のビルといい、朧火はすぐに最上達の居場所を見つけてくる。
特定の場所に身をひそめない方が良いかもしれない。ネットカフェを転々とする方が安全そうだ。
(くそっ、なんで僕は引き金を引かなかったんだ! バカか! 一番大事なのはソフィアだろうが! 守るために引き金を引けよ!)
居酒屋の類がない夜のビル街はびっくりするほど人気がない。
「ちょ、ちょっと待ってかなた」
ぜぇぜぇと息を切らすソフィアに、最上は一度止まっていいと判断して足を止める。体力があまりない上に、服がゴシックロリータでとてつもなく走りにくいのだ。家出の期間、血も肉も口にしていない最上の弱体化は乗数的に進んだ。ソフィアを背負えればよかったが、今それをするとむしろ逃げる速さが遅くなるだろう。
「確定だよ畜生。朧火は研究の中心にいる」
明かりに乏しく足元が見えにくいが、ゴミが散らばっているのがわかる。今日は、夏にしては気温が低い。けれど、走ったせいで汗がにじんでいた。
(お先真っ暗だよ)
朧火が、虚構科学研究所が最上とソフィアを実験体として欲しているのか、邪魔者として殺そうとしているのかはわからない。けれども、どちらにせよ捕まったらおしまいだ。
日本全国探しても、最上とソフィアに逃げ場が見つかるか怪しい。
「かなた、ボク達、もうだめなのかな」
「……大丈夫、僕がいる」
人類最強でもない。敵に向けて引き金を引くことすらできなかった最上が。
(結局、朧火の手のひらで泳がされてたわけだ)
汚い大人の嘘なんて聞き飽きるほどに聞いてきたはずだ。なのに、信じてしまった。
(いよいよ人の肉を食べるしかないかな……。寿命なんて気にしてる場合じゃないよのかな)
……人並みでいいから生きたい。
そう思う気持ちが最上に人を襲うことを躊躇させた。
生きることはは意外と楽しい。最強であったが故に死を直視することがなかった最上だけれど、最近はそう思う。生きているのがどれだけかけがえないことか。死を知って人は産まれるのだ。
雲が隠していた月が顔を出し、路地の先を照らす。悪いことは連鎖するようで、そこに人影がぬっと現れた。
(まてまてまてまてまて、ここで君が出てきたらいけないでしょ!?)
動揺が隠せなかった。喉がからからに乾き、犬が舌を出して呼吸をするときのように息が荒くなる。路地の先に立っていたのは、四肢を切断し、心臓を抜き、脳みそを破壊し、肉塊にしたはずの新神定理だった。
「探したぞ。最上彼方」
女子にしては高いすらりとした体躯も、刃のような目も健在。何度殺そうとも、ことごとく生き返ってくる。
最上が銃口を新神の方に向けようとした頃には、懐に潜り込まれていた。最上には瞬間移動したように見えた。ちょうどへその部分に、熱い感触があった。
「カぱっ!?」
胃液と血が喉を逆流する。新神の腕が土から植物でも生えているように最上の腹に突き刺さっていた。がくんと体から力が抜ける。
「かなた! かなたぁ!」
「最上彼方、無力化完了」
崩れ去る最上に背を向けると、新神はソフィアの方に向かう。
「ま、て――」
最上の視界は赤く点滅し、ぐらぐら揺れていた。かろうじて新神のくるぶしを右手で掴む。ゴミを見るような目つきで新神が最上を見下ろした。
「ソフィアを、傷つける、な」
「それは私に言ってるのか?」
最上の右腕を、掴まれてない方の足で新神は踏みつけた。
「あぎッッ!? そう、だよ」
「人にお願いするときは、もっと媚びへつらうべきだろう」
「……」
「ほら、言え。お願いします、ソフィアを傷つけないでくださいって」
「お願いします……ソフィアを傷つけないでください」
新神の口元に三日月状の笑みが浮かぶ。
「次はそうだな、人類最強は新神定理ですと言え」
思い返せば、最上も自分の戦闘能力の高さにアイデンティティを持っていた。新神の人類最強にこだわる気持ちは少し理解できたが、同時に哀れに思った。腕っぷしの強さなんて、社会から見ればハリボテの強さだ。ファミリーや秋月と関わってきて、最上はそれを知った。現に、新神だって第三次世界大戦を一人で終わらせるほどの力を持っていながら、虚構科学研究所の言いなりだ。
「……新神定理が、人類最強だよ」
だが、ハリボテの力も人間関係を断ち切られ、助けを求める人間すら失った輩には効果的だ。
最上には新神に助けを請うことでしかソフィアを守れなかった。
「よく言えたなぁ」
ばぎんと最上の右手が音をたて、折れた割りばしのように折れ曲がる。
「あぎゃあああああああああああああああああああああああああああああ」
「すっかり弱くなったな」
「やめて!」
ソフィアが最上から新神を引き離そうとするが、構わず左手、左足、右足と続け様に骨を折られる。脳内物質のためか、徐々に痛みに対する感覚が薄くなっていった。
「鬱陶しいな。ソフィア・クラウディは持ち運びやすいように手足をもいでおくことにしよう」
最上のお願いなんてなかったかのように、新神の目がソフィアを見下す。
(ダメ――)
新神の爪先がソフィアの肩に食い込む。新神にとって、ソフィアの腕を切り落とすのは、豆腐を真っ二つにするくらいたやすい。
「痛ッ――」
「やめ、やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
狙いを定めた手刀が振り上げられる。
その時だった――。
「人の話は最後まで聞けって、最上」
この時間帯にまず人が通ることのない路地に、新たな声が響く。ソフィアの肩から先を裂こうとしていた新神の手が止まる。
ここに来るだろう人間は限られていた。
「朧火……不死鳥の欠陥品か」
最上達を追っていた朧火がそれに該当する。
路地の先に肩で息をする朧火が立っていた。月が照らす中でも、朧火の黒装束は夜の陰そのものだ。
「新神ちゃん、うちの家族に手を出されては困るんだが」
ファミリーと虚構科学研究所が結んだ協定の話を新神は持ち出す。
(……けど、新神が朧火に対してその話を振るってのはどういうこと? 二人はグルじゃないの? 朧火は虚構科学研究所に属してないってこと? 新神と朧火が協力して僕とソフィアを殺すなり連れ去るなりすればいいのに。けど、朧火が化物プロジェクトの中心的人物なのは確かなんだ。わけがわからない)
「ふん、上はもう約束なんてどうでもいいらしいからな。この二人を捕まえて来いというのが命令だ」
ソフィアを放り捨て、新神は朧火の方に向いた。事態は一向に改善していない。ただ、無駄に死体が出来上がるだけだ。全盛期の最上と数十秒殴り合えるのが新神。稽古で朧火の実力を把握していた最上には彼が絶対に勝てないことがわかった。確かに知識や技術は最上が戦ってきたプロフェッショナルにも劣らなかったが、新神の戦闘力はそういうのが通用する次元ではない。
(なんとかしないと)
思いとは裏腹に最上の体は全く動かない。それどころかどんどん意識が遠のいていく。
「おいおい勘弁してくれよ。人類二番目なんて相手にしたくないぞ」
「その呼び方、腹が立つ」
新神が朧火に肉薄して拳を放った。最上ですらわずかにしか見えなかった顔面を狙った拳を、朧火は完全に予測していた。それは見えていたのでは絶対にない。新神の思考を読み切って、先に動いただけだ。
新神の拳の軌道上にあった顔を逸らし、代わりに右手を軌道上に置く。朧火の行動の意味が分からなかった。コンクリートすらやすやす砕くその拳の破壊力を朧火は知っているはずだ。案の定、朧火の手袋を付けた右手は血をまき散らしながら、さながらシャボン玉のようにはじけた。
勝負がついた、いや、はじめから決まっていたと言うべきか。
「なっ!?」
新神が声を上げる。
イレギュラーが発生した。
炎。
燃え盛る炎が朧火と新神の間に巻き起こる。それが新神の意識を朧火から逸らし、視界を遮った。朧火はそれを見逃さない。原型がわからないくらいぐちゃぐちゃになった拳を、新神の口の中にねじ込んだ。普通ならボクシングの達人が拳を放ったところで新神は全て見切ってかわしてしまうだろう。意識を逸らしたからこそ、朧火の行動が成立した。
「がぼぼっ!?」
「忘れたのかよ、俺の体質。まぁ、俺が不老のDマンだってことしか興味ないか」
朧火が新神の口から手を引き抜く。すると新神の口から、ドラゴンが口から炎を吐くかのように火があふれ出す。声も上げられず、新神がもだえ苦しむ。肺や喉、内臓を直接焼かれている。タンパク質が焼ける臭いが辺りに満ちた。
「忘れてるようなら思い出させてやるよ。俺の体は発火体質なんだよ。くそ重い耐火性の服着て、発火しやすい部分を出さないように生活しないといけないくそ面倒くさい体質だ畜生」
火はまったく消える気配がない。新神がソフィアの体を強引に抱え込んだ。そしてそのまま人間離れした跳躍力で空を飛ぶ。
朧火はソフィアがさらわれることまで予定調和であるかのように新神を見送り、最上の元にしゃがみこんだ。彼の原型がわからなくなってしまった右手は、自身の発火体質とやらのせいか燃え盛っている。
「ちょっとは頭が冷えたか」
「そ、フィアが――」
「わかってるよ。けど、俺の一部位と引き換えに一人守れたなら十分だろ」
確かにそうだ。普通のDマンが新神を相手にして命がある時点で奇跡に等しい。
「朧火、一体何者なの――」
「ここを離れながらそれを話す」
耐火性の高いと言っていたズボンのポケットに朧火は右手を入れて消火する。そして西天に携帯で連絡を入れてから、最上を背負いあげる。朧火は十分長身と言える体格で、反対に最上は身長が低いので背負うのは容易だった。
「どうせならソフィアちゃんを背負いたかった。まぁ最上も軽いだけましか」
最上はほとんどされるがままだった。ソフィアをさらった新神を追おうにも、両手両足の骨は折れているし、体力を消耗しきっていた。
人気のない道を選びながら、朧火は歩く。
「俺について話しておく。お前ら、さっきまでいた事務所に残してあった資料を見たんだな?」
朧火が化物プロジェクトの中心と書いてある例の紙だ。
そうだよ、と最上は返事したつもりだったが、かすれてほとんど声が出ない。
「俺が化物プロジェクトの中心だってのは本当だ。間違いない。そもそもあれは俺が存在したから故に立った計画なんだ。さかのぼれば三、四十年位前からあった計画になる」
おんぶになれているのか、朧火の背中には安定感があり、謎の安心感もあった。意識が飛びそうになるが、最上は何とか朧火の話に耳を傾ける。
「さっきも種明かししたが、実は俺はお前に嘘をついていたことがある。前に『不老なんて存在しない』とかほざいたことがあるが、嘘だ。すまん。他でもない俺自身が不老なんだ。かれこれ百二十七年生きてる。今まで不死なのを教えなかったのも、お前らから憎まれたら嫌だっていう俺のわがままだ」
(あぁ、そうか)
最上はなんの違和感もなくそれを受け入れた。今まで、そうでもないと説明がつかないことが多すぎた。朧火がバブルの時に稼いだと言っていたこと。朧火の異常ともいえる人脈の広さ。資金力。若者に厳しい古谷三蔵と親友と言えるほど仲がいいことなど。
「化物プロジェクトの中心ってのは、俺の遺伝子を中心に研究が進んでるってことだ。化物プロジェクトの目的は不老不死。神の領域が与えた俺の不老の遺伝子に、不死を付加してしまおうって計画だ。計画で産まれた子供は、不老じゃなくなるか、定義的には不十分な不死性で産まれる。お前の持つ完全と言っていい不死性は、レア中のレアだ」
「……もしかして、僕やソフィアは」
「まぁ、なんだ。見てくれはまったく違うけど、遺伝子的には俺の子供だな」
西天が出会った時に言っていた『私たちの子供』というのは、嘘ではなかった。朧火の子供である最上とソフィアは、朧火の妻である西天の子供でもある。
自分を背負う男が、遺伝子レベルの父親。最上は何とも言えない複雑な気分になった。
「一回しか言わないが……ソフィアちゃんは言うまでもなく、最上、お前にあーだこーだ言うが、実のところ死ぬほど可愛い俺の子供だと思ってる」
「鳥肌が立った」
「お前なぁ……。けどまぁ、安心しろ。俺と心が最上とソフィアちゃんを見放すことなんてない。ソフィアちゃんだってすぐに助けに行く。どんな手段を使っても助け出す」
「あと一つ、疑問があるんだ。どうして、僕とソフィアの居場所がわかったの?」
「それは簡単だ。俺が日ノ出キキだからだ。元日ノ出キキ、だな。二つめ……いや三つめの俺の名前だ。戸籍上ではもう完全に老いぼれじじいだから、日ノ出キキとして表で行動するのは不便なんだ。ヤクザを装ってたな。最上に依頼したことあったろ? 明らかに人間の死体が入ってそうな荷物を富士山に捨てて来いって。あれは隠れ家を与えるための口実で、中身はただの重りだ」
「……そうか」
朧火に対する疑念は、最上の中であらかた氷解していた。
「僕は……また間違ってたのか」
「いや、あんな資料見たんだ。ソフィアちゃんを守るためにした最上の対処は正しかった。今回は俺が悪い。俺がもっと俺自身のことを話しておけばよかった。後ろめたさとか、話したくないって思う俺自身の都合を優先してしまったんだ。すまない」
最上は意外に思った。いつもへらへら笑っていた朧火は、後ろめたさを覚えるタイプの人間ではないと思っていた。ただ、年を重ねて培った仮面が分厚くて本心が見えにくいだけなのかもしれない。
話すべきことは一通り話し終え、居心地の悪い恥ずかしさを最上は感じていた。
(ただ、回復するまでの間、もう少しおんぶされててもいいかな)
朧火にだけは自分から頼りにしたくないと思っていた最上だけれど、はじめてそう思えた。
路地の電灯の下に、灰色のワゴンカーがあった。その車から出てきた西天が駆け寄ってくる。カランカランとゲタの音が響いた。
「朧火くん、最上くん、だいじょうぶ!?」
西天の顔は、見ている方が心配になるくらい真っ青だ。
「大丈夫、俺も最上もぎりぎり生きてる」
「二人とも血だらけよ! ぜんぜん大丈夫じゃないわ……」
朧火はワゴンカーの後部座席に最上を押し込む。八人乗りのワゴンカーで後部の座席は二列になっていた。真ん中に最上は寝かされる。西天と朧火が一番後ろの列に座る。
「犬尾、車を出してくれ」
運転席に、もう一人、最上の知らない男が座っていた。サングラスに黒いスーツと朧火と同じ夜の闇に紛れ込むような服装だ。けれど纏う雰囲気は朧火よりも圧倒的に堅苦しく、大統領のガードマンのようだった。そんな彼だが、ここにいるということは、とりあえず協力者なのだろう。
「心、最上にあれを」
ワゴンカーが出ると、西天が最上の口元に茶焦げた物体をつまんで持ってくる。
「なに……これ?」
「赤ん坊のへその尾よ。少しだけ力が戻るわ」
人間の体の中で唯一不要になる部分。よく考えたものだ。人間の肉というのは、人を傷つけなければ得られないが、これは例外だ。
「力が戻ったら、寿命縮むかな」
「大人しくしておけば、影響ないレベルだ。俺の遺伝子を元にしてるから、実は最上にはまだ不老の可能性がある。が、不老でない可能性の方が高いけどな。どちらにせよ、力が戻ったからって無茶はするなよ。人類二番目に勝てるほど力が戻るわけじゃない」
「わかってるよ。……僕が不老不死なら化物プロジェクトは完成するわけだ」
「まぁな」
最上はへその尾を薬でも飲むかのように飲み込む。体に取りこんだ瞬間、胃の中でそれが溶けて全身の血管に染みわたっていくのがわかる。腹に空いた穴がふさがるのを、折れた手足の骨がくっついていく様子をイメージする。
全盛期とは比べものにならないくらい遅いが、確実に治っていくのがわかる。十分もすれば完治するだろう。
「これで最上の問題は解決だ。……で、次はソフィアちゃんだ」
朧火は自分のぐちゃぐちゃになった右手を西天から隠しながら言った。相当痛むはずなのだが、朧火はそれを欠片も感じさせない。
「虚構科学研究所の本部にさらわれたと見ていいと思うわ。新神ちゃんがそこに向かったって情報が入ってるの」
「りょーかい。ありがとう、心。交渉には俺が行く。虚構科学研究所の本部の一キロ半径内のどこでもいいから、車を止めてくれ」
「待ってよ朧火。今の虚構科学研究所が話を聞くとは思えない」
「かもな。けど安心しろ。勝算はある」
へらへらと笑う朧火がいう勝算を最上は探る。
実は交渉ではなくて、忍び込んで、ソフィアを連れ出す気だろうか?
いや、それはない。
忍び込んで不意を突くにしろ、今の虚構科学研究所には人類二番目がいるし、他の戦闘員だって待機しているだろう。自衛隊を二、三部隊突っ込んだって勝てない。人類二番目がいる以上、国家同士が戦う時に用意するくらいの戦力がいる。そんなところに単体で乗り込んで、戦うなんてもっての外だし、忍び込むのですら自殺しに行くのと同じだ。
なら、朧火の言う通りやはり交渉するとして、虚構科学研究所が話を聞くような用件はあるか?
最上は考える。
そのうちに、虚構科学研究所の本部付近にまでやってきた。東京ターミナルの近くの路上で停車した。
「心、無駄かもしれないが、虚構科学研究所との間を取り持ってくれた組織に連絡を取ってくれ」
西天も朧火を何度も止めたが、結局朧火が西天を言いくるめて彼は車から降りた。
「最上、ちょっと来い」
「……なに?」
すでに全身の再生をほとんど終えかけていた最上は、朧火について外に出る。
電灯がピカピカと辺りを昼のように照らしているのに、道路と歩道にはまるで人通りがない。夜空を穿つように建っているビル群には灯りが灯っておらずそこにもすでに人はいないのだろう。
昼の人通りが陽炎であったかのように、東京は静けさに満ちていた。
「まず、言っておくことがある。俺は、お前らが見たっていう資料が伊吹荘にあるってのを知らなかった。あんな報告書を送ってくるようなところはない」
「……ほんとに?」
最上はおかしいことに気づく。たしか、ソフィアは自分の部屋を掃除しているときに見つけたと言っていた。
過去を隠したがっていた朧火が、勘違いするような資料をソフィアが見つけてしまう可能性があるところに残しておくはずがない。誰かがわざと置いたということになる。
「意図的に、僕とソフィアをファミリーから引き離そうとした人がいるってこと?」
しかも、それは虚構科学研究所の人間ではない。いや、繋がりを持っている人物なのだろうが、少なくとも最上はそれを知らない。しかも、伊吹荘を自由に出入りできる人物だ。
「そうだ。そして、誰が置いたのかは俺にはわかってる。ただ、心には絶対に言うなよ。あの資料を置いたのは、間違いなく賢治だ」
最上の知らない第三者の名があげられると思っていたが、その予想は大きく外れた。
西天賢治。西天心の父親であり、防衛大臣。
「はぁ!? なんで賢治さんが西天さんの作った組織に攻撃するような真似をするの?」
「別に不思議なことじゃない。最上が国道一号線で虚構科学研究所と戦うはめになったことがニュースになったことがあるな。あれが国外で問題になっているのは知ってるか?」
「知ってる。オリンピック開幕直前で、日本の安全性を問われたんだよね」
秋月と一緒に西天賢治の記者会見に向かった時に、外国の人々から不安の声が上がっていると聞いた。
「これは一般にはテロ組織による爆破だということになってるが……もちろんこれは賢治が無理やり捻じ曲げた真実だ。銃弾や砲弾の跡が残っていたのに、爆破事件で片付けられるってのは圧力がかかったわけだ」
これも賢治が虚構科学研究所と関係を持っている裏付けになる。虚構科学研究所の行いを事件としてもみ消したのだ。
「その事件の原因を晒せってことで、最上とソフィアちゃんを捕まえる必要が出てきたんだ。テロ組織なんかではなく、全ての元凶がこの二人だと公表し、国内の安全は確保された、と世界に伝えるために」
「てことは……僕達は今、虚構科学研究所の研究のために狙われてたわけじゃないの?」
「そうだ。今仕掛けてきてるのは政府だな」
「でも、追ってきているのは虚構科学研究所のやつら……もしかして政府と虚構科学研究所を繋げているのが……?」
「あぁ、賢治だ」
朧火の言葉に、最上は目をパチパチとしばたたかせる。
「けど、おかしいでしょ。ファミリーと虚構科学研究所って敵対関係にあるんでしょ? その虚構科学研究所とかかわりを持っている賢治さんも敵だよね。なのに、敵同士の朧火と賢治さんは仲良くしてた。伊吹荘に来ることも看過してたし」
朧火と賢治の仲の良さは、最上も見た。昔ながらの親友で、子供っぽさすら表に出して笑いあえるくらいの特別な仲であるように見えた。
「公の場では敵ってだけだ。私的な場では俺と賢治は間違いなく親友だな」
人間は、そこまで公私を割り切れる物なのだろうか。最上にはできる気がしない。
けれど、朧火と賢治は出来てしまうかもしれない。心の片隅で、最上はそう思っていた。
片方は百以上の年齢を重ねた朧火。もう片方は公の場では『鋼鉄』の異名を持った政治家西天賢治。
朧火のふざけた面の分厚い仮面を、公の場での西天賢治の冷たさを、最上は両方知っている。
「西天さんは、賢治さんが虚構科学研究所とつながりを持ってることをしらないの?」
「そうだな。賢治も黙ってるし、俺も言う気はない。心はまだ若すぎるから、賢治が敵対関係の組織にコネを持ってるって知ったら、絶対に居心地悪さを感じる。俺も賢治も、それは嫌なんだよ。俺と賢治は心が大好きだから、何も知らないままでいて欲しいんだ」
朧火と賢治の関係を知れば、西天は気に病むだろう。二人のように割り切って人間関係を築ける人間は天然記念物並みにレアだ。
「前の学校襲撃で、虚構科学研究所は西天さんを殺そうとしていたよね。賢治さんはなにも思わなかったの?」
「そりゃ思うさ。が、政治家としての賢治なら、必要とあらば、たとえ、最愛の娘であっても殺されるのすら看過する。それが賢治だ」
「ほんと、頭が痛くなるよ」
人間と組織と思案が、絡まった何本もの電気コードのようになっていた。
けれど、納得できる部分もあった。伊吹壮を自由に出入りできる西天賢治なら、確かに最上達の自室に気づかれずあの資料を仕込める。
「うっし、話は終わりだ。最後に、これを渡しとく。もし俺がいなくなったときには上手く使え。朧火が『灰になった』って言えば、メモ帳に書いてあるやつらは力を貸してくれる」
黒い厚紙の表紙の片手サイズのメモ帳。その中を見てみると、人の名前と電話番号、それと詳細がずらっと並んでいた。朧火の人脈なのだろう。
朧火が虚構科学研究所から戻ってくる気がない。けれど、ソフィアは取り返す気でいる。最上は朧火の考えを看破した。
「やめなよ、朧火。自分自身を交渉の道具に使うなんて」
朧火は露骨に顔をしかめた。
化物プロジェクトの不老性のベースとなる朧火。そんな彼が虚構科学研究所に捕まることなく東京の地を悠々と歩けているのは、朧火がすでに必要ないからではなく、捕らえられないからではないか。戦闘力こそ、朧火は並みの人間に毛が生えた程度だけど、人間関係はどこまでも複雑で入り組んでいる。
最上は知った。権力とか、肩書とか、マスコミとか、そういう綺麗とは言いがたい力が世の中で幅を利かせているのを。最上にはどうやっているかはわからないけれど、朧火もきっとそういう力を利用して、上手く虚構科学研究所の魔の手から逃れているのだ。
「意外だな。俺がいなくなっても、ソフィアちゃんが助かるなら、止めないと思ってたが」
きっと一か月前の自分なら、ソフィアが助かるなら喜んで朧火を死地に向けていたと思う。否定しない。
「朧火がいなくなったら、ソフィアが悲しむ。それだけだよ」
「けど、俺は責任を取らないといけない。ソフィアちゃんがさらわれたのは俺のせいだからな。このままソフィアちゃんが戻ってこない方が嫌だろう?」
それはそうだ。
「お前が力を取り戻して、ソフィアちゃんを取り返すって方法はあるが、それはだめだ。寿命を縮める。お前には大往生してもらわんと困るからな。それ以外に方法はないんだろう? だったら俺に任せとけ。なに、百年もしないうちに虚構科学研究所も役目を終えて俺も自由になれるって」
最上が人類最強に戻り、ソフィアを取り戻す。結局、これがソフィアと朧火が二人とも残って、誰も悲しまずにすむ方法なのだ。
最上がこの世を早く去る可能性が高くなる。
(何か方法はないの……?)
ソフィアは誰よりも大切な存在で、朧火もファミリーにとって、家族にとっていなくてはならない存在だ。
消えた電光掲示板が最上の視界に入る。
(――一つだけ、あるかも)
最上は朧火の目を見て伝える。
「ソフィアは僕が取り戻す。朧火は行かなくていい」
「だからお前が寿命を縮める必要は――」
「違う」
最上は自分の考えを朧火に伝えた。
「……確かにそれなら可能性はあるが、いいのか?」
「僕のことは別にいい。けど、これをやるとまず間違いなく、西天さんが賢治さんと虚構科学研究所の関係を知る」
「……隠し通すのにも限界がある、か。構わん。心のことは俺に任せろ。好きにやれ」
「そうと決まったら、ほら、女を泣かすのは悪いことじゃないの?」
カーウィンドウに泣き顔の西天がべったり張り付いて最上達を見ていた。
「あー心、俺の作戦は中止だ! 泣かない泣かない!」
ワゴンカーのドアを開けて子供をあやすような調子で朧火は西天を慰める。
「ぐす……もう、帰ってこない気だったわね朧火くん!」
「ないないない! ばりばり帰ってくるつもりだって!」
ほんと、嘘つきな男だ。と呆れながら最上もワゴンカーに戻る。
「運転手さん、青空テレビ局にお願い」と最上はやくざばりの運転手に頼む。
アイコンタクトで朧火が運転手に出発してもいいとサインを出す。
最上がやろうとしていることは単純。
『鋼鉄』の異名を持つ西天賢治を人の数の力を使って叩き潰す。それだけだ。
ワゴンカーを青空テレビ局の駐車場に止めて、最上達は外に出る。潮のにおいが漂ってきた。
ほんの少しの間来なかっただけなのに、青空テレビ局がずいぶん懐かしいものに感じられた。長い夜が明けて、東京湾から見える水平線には太陽が顔を出し始めている。海から漂ってくる風は、最上のパンクしそうな頭を冷ましてくれた。
最上を先頭に、朧火、西天と続きテレビ局の建物に入っていく。
「秋月さんと連絡は取れたか?」
「今も徹夜でオリンピックに向けて準備してるってさ」
「相変わらず凄まじい仕事っぷりだな。けど、秋月さんが現場にいるならやりやすい」
「……朧火くん、やっぱり秋月さんとは特別な仲良だったりするのかしら? 確かに私にはない大きなものを持ってるけど……」
心配そうに西天がつぶやいた。
「あんな熟女俺が好きになるわけないだろう!」
大人としては残念な説得力があった。それでいいのだろうか、127歳。
最上は記憶をたどって秋月がもっとも居そうな場所を当たっていく。彼女は愛用の編集室にいた。いつもと違い部屋は暗くなっていて、テレビの画面が光源になっている。大きなクマを目元に作っている秋月が、資料を眺めているところだった。
「目が悪くなりますよ、秋月さん」
「久しぶりだねぇ坊や。家出は終わったみたいだな?」
三人を見て秋月は意地悪く笑う。
「ひっかきまわしてくれやがって。俺たちに最上とソフィアちゃんの面倒を見る、とか秋月さんが言わなければもっと余裕を持って迎えに行けたのにな」と、朧火が最上の後ろで毒づいた。
最上達について話さなければそれで十分だったのだが、秋月は朧火たちに対する隠ぺいまでしていたみたいだ。
「で、坊や。私になんのようだ?」
「虚構科学研究所の秘密を暴露します。だから、番組を一つ、貸してください」
「このクソ忙しい時期に、スケジュールを大幅に変えろって言うのか?」
「無茶な頼みとはわかってます。よろしくお願いします」
最上は秋月に向かってめいいっぱい頭を下げる。
最上の計画は、単純。西天賢治からソフィアを救うために、彼と虚構科学研究所の関係を、最上やソフィアにやってきた仕打ちを全国民に暴露する。そして、国民の声を借り、西天賢治に圧力をかける。そのためにはマスメディアの力は必須で、秋月の協力は必要不可欠と言える。
「すまないが、いくら私でもそれは無理だぜ」
やはり秋月でも厳しいか――。
また別の方法を考えなくてはいけないのか――。
「はっはっは、そんな顔するなよ坊や。すまんすまん、嘘だ、虚言だ、冗談だ! 私は待っているって言ったろう? 坊やが面白いネタを暴露してくれるのを」
ばしばしと秋月は最上の肩を叩く。
「朝のニュース番組でいいな? うちで一番視聴率が高い七時から七時半に時間をとってやるぜ。さて、事情をざっくり聞かせな」
「秋月さんはいつか人に刺されますよ」
はぁ、とため息をついてから最上はこれまで起きた出来事を頭の中でまとめていく
隠し事なしで全て話すつもりでいた。ちらりと西天を見てから、朧火に視線を送る。朧火は頷き返してくる。
「心も、最上の話を落ち着いて聞いてくれ。必要なことだ」
「……? わかったわ」
西天が気の毒だと思ったが、最上は余計なことを一切告げず、今回の騒動の一連の流れと因果関係を話す。当然、朧火と賢治が必死で隠してきた事実、西天賢治が虚構科学研究所と深く通じているというのも含めて。
最上の話を聞いた西天と秋月の反応は、対称的な物だった。
「……お父様」
「防衛大臣に喧嘩を売るか! 面白い。ネタとして最高だぜ。マスコミ冥利に尽きる」
西天心が賢治の子供であるのを知っているのだろうが、秋月は構わず笑い声をあげる。最上も朧火も秋月が気遣いのできる人間でないのを知っているので、いちいち注意はしない。
「悪いな心。今まで隠してて」
「……私に気を使って隠してたのよね」
「まぁな」
「……そう。お父様が。わかってるわ。お父様にもお父様の立場がある。私には私の立場が。今私が味方すべきがどちらかも、わかってるわ。大丈夫」
目じりが少し垂れた優しい瞳には、確かな決意が宿っていた。
「慰める必要もなかったな」と、朧火は肩をすくめる。
「オリンピックの方のスケジュールもさらに詰まるからな。帰ってきたらさぼった分も含めてお仕事増えるぞぉ! 楽しみだな坊や!」
「借りができたので埋め合わせはしますけど……絶対いつか訴えますからね」
「最上が丈夫だからってあんまり調子に乗るなよ。俺たちが見てるからな」
「そうよ。最上くんは私たちの子供なんだから」
「おーおー、親御さんがうるさいな」
四人が顔を合わせて小さく笑う。
「よし、やるべきことを確認するぞ」
朧火が切り出した。
「放送関係は最上と秋月さんに任せていいな?」
「あいよ」
「で、俺と心だが……心は情報の拡散を頼んでいいか」
「わかったわ」
「俺はテレビ局の防衛に尽力する。これでいいか?」
報道を止めようとした賢治が強硬手段に出る可能性はある。それを止める役割はいるだろう。
「けど、朧火は怪我してるでしょ」
「なに、防衛に当たるのは俺だけじゃない」
おそらく、穂野ノ坂学校がテロにあった時に使っていた傭兵部隊を使うのだろう。それでも、怪我をしている状態で最前線に立つのには変わりなかった。
「やめとけよ。朧火はもう休んだ方が良い」
最上の言葉に西天も頷く。
朧火はずっと右手をポケットに入れている。ワゴンカーでこっそり応急手当をしていたが、それだけでは到底足りない怪我だ。不老で発火体質のDマンである朧火だが、最上のように人並み外れた再生能力を持っているわけではなかった。
「大丈夫だって。ほら、それによく言うだろう? 体を張って家族を守るのは父親の役目だって」
「……」
反論の言葉が最上の口から上手く出てこなかった。この男を、父親として、認めてしまったのかもしれない。
「そういうわけだ。大丈夫。俺は死ぬ気なんてさらさらないって。俺たち家族全員が生き残るために必要なんだ」
「……お願い。朧火くん」
「いいの、西天さん?」
あっさり認めた西天に、最上は声を上げざるをえなかった。
「自分を含めたみんなが無事にこれを乗り切るために必要だからやるの。だったら、私は朧火くんを信じるわ」
「そういうわけだ。とは言っても、最上、お前の責任が一番大きいのは間違いないんだ。頼んだ」
朧火と西天は部屋を出ていった。秋月と最上だけが部屋に残る。
「坊やたち、仲良いな」
「そうでもないです」
「照れるな照れるな。ほら、とっとと準備するぞ。とりあえずまずその恰好からどうにかしていくか。いや――逆にそのままでいいか。悲壮感が漂ってる。最上がうちに駆け込んできて、助けを求めた。で、急遽知られざる日本の闇を語る――、ふむ、こっちの方がよさそうだ」
目的は一つ。
虚構科学研究所が最上やソフィアに行ってきたを暴露し、西天賢治がそれに関わっていたことを晒し上げる。そして、国民の支持を得て虚構科学研究所からソフィアを返さざるを得ない状況を作る。西天賢治が政治家である限り、国民の力を免れ得ない。味方によっては汚いやり口かもしれないが、彼のウィークポイントを狙う。
朝のニュース枠を取っ払って準備を進める。当然、様々な問題や反対の声が出たが秋月はそれらをねじ伏せ、黙らせた。その光景は圧巻と言ってもいいくらいで、青空テレビ局における秋月の力の強大さがうかがえた。
西天はネットを中心に青空テレビで放送されようとしている大まかな内容を宣伝していく。最上が本来存在するはずのない十六歳以上のDマンであることと、それにまつわる虚構科学研究所と政府の因縁を中心に宣伝を行っていた。もはや最上が特殊なDマンであるのを隠す必要もなく、逆に興味を引っ張る材料として使っていく。
とにかく数が必要だ。『鋼鉄』の異名を持つ西天賢治が尻込みをするくらいの。
朧火は青空テレビ局の周辺に防衛線を引いていた。ありとあらゆるコネクションから日本に隠れ潜む武闘派の人間を集め、青空テレビ局をぐるりと囲ませる。マシンガンやロケットランチャー、はてにはどこに隠していたのか、重戦車まであり、平和を謳う日本では考えられない部隊が揃っていた。第三次世界大戦があり、一時期日本にも武器が流れた。そのどさくさに紛れて裏でそろえた武力なのだろう。
相手にはあの新神がいる。これでもまだ足りないくらいだ。できるのは時間稼ぎくらいだろう。
どたばたと放送室で人が行き交う中、秋月が最上に問いかけた。
「坊や、台本についてリクエストはあるか?」
「台本なんて作るんですか」
「何の用意もなしに国民の心を揺さぶれるほど坊やは演説のプロではないだろ」
「そうですね。けど、用意された台本を読むってのは……芝居くさいというか……」
「読むだけならそうなるだろうな。正直、それは最悪だ。が、やっぱり台本はいるんだ。参考にするくらいの心構えでいい」
「……わかりました」
「素直でよろしい」
放送については、秋月に従った方がいい。年季が違う。
最上がカメラと向かいあうことになる場所は、飾りっ気がない。マイクが立てられた演説台があり、背後の壁は白一色。これからはじまるのはニュースでもバラエティでもなく、最上ただ一人が話すだけの放送。秋月の判断で、余計な装飾は不要ということになった。
ただ最上の姿と、言葉だけが画面を通じて国民に届くことになる。それでも演説台やマイクまで白なのはやりすぎではないかと思ったが、秋月の手腕を信じるしかない。
防音性能がいい部屋には、最上が部屋の中をせわしなく歩き回る足音だけが響く。
手には原稿をもって、今日言うべき言葉を頭に叩き込んでいた。プロが書いた台本だけに、要点をきっちりまとめてある。最上が不利になるであろうことは、一切書かれていない。
人の力を借りて、西天賢治の思惑を阻止する。彼は政治家だ。政治家である限り国民を敵にするわけにはいかない。それを利用する。
ただ、人々の力を借りるにも、最上に共感してくれる人がいくらいるかがわからない。
最上は自分の過去を振り返る。
今まで自分を特別だと信じて疑わなかった最上は、人を見下していた。自信過剰な餓鬼。全能感に満ちた子供だった。
そして、生きるためとはいえ、最上は多くの人間を殺してきた。
銃を向けてきた兵士を殺した。これはまだいいだろう。ソフィアと過ごしていた隠れ家を見つけた人であったり、食料の調達に詰まったときだったり、全く関係ない一般人をも最上は殺したことがあった。
国民にとって、最上は化物であり敵だ。
「坊や、そろそろ時間だ。人の力を得るってのはより多くの反応を得られるかの勝負だぜ」
カメラの死角にあるパイプイスに秋月が座る。彼女の手にはタブレット端末がある。
どうやら他のスタッフは編集室にいるようだ。
ありがたい。秋月だけの方が、最上も話しやすかった。
「僕なんかに力を貸してくれる人がいるんでしょうか」
「自信過剰な坊やが珍しいな。まぁ、それは坊やが弱々しく人に媚びて、悲劇の主人公になり切れるかにかかっているだろう」
「嫌なことを言いますね」
「日本人は基本的に弱いやつを応援したくなる人種だからな。今の坊やがそれを利用しない手はない」
「やっぱり秋月さんって汚いです」
「坊やが純粋すぎるんだよ」
腰のポケットから伸びているイヤホンを耳に入れながら秋月は言った。
「一分前だ。立つ場所は言わなくてもわかるな」
頷き、最上は演説台の傍に立つ。
残り五秒からは秋月五本の指を一本ずつ折ってカウントダウンする。
最後の小指が頭を垂れると同時に放送がはじまった。
カメラの後ろにあるテレビ画面に、カメラを通した最上が映し出されていた。血が乾いて茶焦げた色になっている服を着ている。確かに、みすぼらしくも見えてしまう。
「あ……」
のどがカラカラに乾いて、上手く声が出なかった。
落ち着け――、そう自分に言い聞かせる。
「僕の名前は最上彼方と言います。はじめに言っておくと、17歳になりますが、僕はDマンです」
原稿通りのことを上手く話せない。けれど、なんとか言うべきことを言おうとする。
最上の言葉一つ一つに、ソフィアの命がかかっているのだ。
原稿に沿って、最上は西天賢治の秘密と虚構科学研究所に妹が誘拐されたことを説明していった。
台本通りの言葉は芝居くさい、などと言っておきながら最上はほとんど台本に頼ってしまっていた。本番のプレッシャーのせいか、頭が上手く働かない。
言い終えてから、最上は秋月の表情をうかがう。
険しい顔でタブレットを見ながら、指を走らせていた。
秋月は放送と同時にSNSで世間の反応をうかがっているのだが、それが芳しくないのが最上にもわかった。
一度カメラを切り、CMを挟む。
イヤホンを巻き取り、秋月はそれをポケットに入れた。
「坊や――」と、秋月がなにかを言おうとしたときに、タブレット端末が通話モードになる。
「なんだ?」
秋月がタブレットに向けて言う。
「その――、に、西天賢治さんが来ました――」
最上の耳にも電話口で告げられた事実が届く。同時に放送室の扉が開いた。
そこにはスーツを着込み、鷹のような目をした西天賢治が立っていた。その男は、新神という戦力を使わず、あえて単身でここに乗り込んできたのだ。
「これはこれは、防衛大臣自ら何の御用でしょうか」
秋月が仰々しく頭を下げる。
「ここで下らん演説が行われると聞いて、私も参加しようと思っただけだよ。私はどうやらその演説の重要なポジションにいるようだから様子を見に来たのだ」
「……」
「ふん、これが演説の原稿か」
鋭い視線が演説台に置かれた原稿に送られる。それだけで、一文字たがわず賢治は内容を把握しただろう。
「なるほど、これであの化物を取り返そうということか」
「……賢治さん、あなたは何も思わないんですか。ソフィアがいなくなれば、西天さんも悲しみますよ」
「娘一人の悲しみがどうした。くだらん。それよりも国が回らなくなる方が私にとっては問題だ」
公共の場において、この男はどこまでも冷酷だ。
「秋月、見たところ原稿は一通り言い尽くしたようだし、私が話しても構わんのだろう?」
賢治の言葉に、さすがの秋月も面をくらったようだ。
止めに来たと思っていたが、あてが外れた。止めるどころか、防衛大臣自ら参加しようと言うのだ。
「……どうぞ。CM終了五秒前です」
最上を押しのけて、さも当然のように賢治は演説台に立つ。その姿は、完成された銅像のように、あるべき姿のように感じた。
秋月が指でのカウントダウンを終え、再びカメラがまわりだす。
「防衛大臣の西天賢治だ。先ほどの演説で語られたことについて、私からも言いたいことがある」
政治家というのは、敬語を使うイメージがあったのだが、西天賢治は使わない。堂々とはちきれんばかりに胸を張って話す。不快感は一切なく、むしろ清々しい印象を敵である最上ですら感じた。
「まず、私が虚構科学研究所と関係を持っているかだが、それは認めよう。私は虚構科学研究所にDマンの研究をするように言ってきた。隠すような真似をして申し訳ないと思っている。倫理と国防のバランスについて説明したくはあるが、それは後ほど別の場で話させていただく。今は言うべきことを言っておきたい。
それは、今ここにいる最上彼方と、現在私が身柄を確保しているソフィア・クラウディについてだ。
最上彼方は、私がソフィア・クラウディを不当に監禁したと宣っているが、これは否定する。断固たる理由があるのだ。
国民の皆には記憶に新しいだろう国道一号線が爆破された事件だ。
実は、それは虚構科学研究所から脱走した最上彼方を捕獲する際に行われた戦闘を隠すためにあえて偽っていた。
あの戦闘の原因を明かし、オリンピック開催前に対処せよ。とアメリカや中国など各国から声が上がっている。
その原因が最上彼方とソフィア・クラウディにある。
原因たる二人を確保するまでは隠密に進めようと考えていた。
私は然るべき対処を、防衛大臣として行ったまでだ。
とはいえ、最上彼方とソフィア・クラウディの危険性は、国民の皆はいまいち理解できないだろう。
言っておこう。これは国民の皆にとっては信じがたい事実かもしれないが、言わねば危険性を理解していただけないだろうからな。
最上彼方は伝説上の存在である死食鬼、ソフィア・クラウディは吸血鬼の性質を持っている。人を食らう危険な存在だ。その上、最上彼方に関していえば、その戦闘力はあの新神定理を上回るものだ。
それゆえ、このまま対処せずに放っておけば、いかに危険か。オリンピックのみならず、最上彼方が牙をむけば、世界中が危機に陥ることだって十二分にありうるのだ。
だから、この化物に耳を貸さないでほしい。後に、私が然るべき対処をすることを約束しよう」
虚実入り乱れた演説だが、賢治の力強さのせいで全てが真実に見えてしまう。この場ですぐに虚を証明することはできない。半分事実のような嘘もまじっており、性質が悪い。容赦なく、西天賢治は政治家としての弁舌を最上に振るう。彼は一時だけ国民を納得させればいいのだ。この局面をうまく乗り切ってしまえば、後は政治の闇に最上を葬ればいい。
殴りつけ、八つ裂きにしたい衝動に駆られたが、それをすれば最上の立場が悪くなるだけだ。
最上の強さの源である超人的な腕力も、瞬発力も、動体視力も反射神経も役に立たない。
それが西天賢治であるのを、最上は嫌でも理解する。
秋雨が渋い顔をするのがわかった。彼女は手に持っているタブレットでSNSを使って番組の反応を逐一観察している。
今の賢治の演説が、国民の心を縛るのに十分すぎる力強さを持っていたのがよくわかった。
「とはいえ、最上彼方にも言いたいことはあるのだろう。一度、彼の反論のためにこの演説台を明け渡そう」
堂々とした足取りで演説台を降り、最上を睨み付けた。
西天賢治は、最上に反論をさせて、そのうえで叩き潰そうとしている。
最上には演説台が絞首台に見えた。
けれど、演説台に向かわざるを得ない。戦わないわけにはいかなかった。マイクの前に立つ。
「僕は……」
人殺し。
生きるために、数多くの人間を殺してきた。それは事実だ。
理由はなんであれ、その事実は動かない。
最上は人殺しで、化物。
賢治のように嘘を利用して反撃すればいいのか?
けれど、それが彼に通じるのか。嘘ごと粉砕されるのではないか。
(ああ、僕は……弱いな)
最強と信じて疑わなかった自分が崩れ去る。
一皮剥いてみれば、結局のところわがままなガキでしかない。
冷や汗が頬を伝い、演説台にぽとりと落ちる。
言葉が続かない。なにを言えばソフィアを救えるのか、まるでわからない。
「反論はなしかな――」
「最上!」
「最上くん!」
放送中に関わらず、部屋のドアが開けられる。カメラが回っているのに、乱入者二人は最上の傍に駆け寄ってきた。
「……なにしにきたんだよ。放送中なのに」
「なに、お前が参ってるようだったからな。わざわざ老体にむち打ってアドバイスしにきてやったんだ」
朧火が言い、西天が頷く。
「最上、お前ははっきり言って不器用だ。口先のやり取りで絶対に賢治に勝てない。だから、賢治を相手にするな」
「そうよ。最上くん。言いたいことを言うの」
「言いたいことを……?」
「お前は賢治に一方的に言われてへこんでるのかもしれんが、お前の最強の定義を思い出せ。俺に言っただろう、ソフィアちゃんを守ることだって。なら、まだお前は最強だ。お前はまだソフィアちゃんを守れるだろう? 救えるだろう? 大人の強さを身につけろとは言ったが、まだお前は子供だ。今は変に上手くやろうとしなくていいんだ。子供っぽくてもいい。愚直に、お前らしくやってみろ」
朧火の言葉に無条件に反抗したくなるようになってしまっていた最上だが、今は頷けた。
「あなたは悪い子じゃないって、私と朧火くんが知ってるから、自信を持って」
歩み寄ってきた西天が、ふんわりと両腕で最上を包み込む。
「は、離してよ」
恥ずかしくてすぐに西天を引きはがしてしまった。
けれど、心の中にあった迷いが全て吹っ切れた。
朧火の力強さと西天の優しさが最上を支えてくれていた。
(家族って……こんな感じなのかな。支えてくれる人がいるってのは……いいものだね)
ソフィアを守るのは自分しかいなかった。
だからいくら傷ついても、倒れそうになっても、一人で歯を食いしばりソフィアに降りかかる火の粉を払ってきた。
ソフィアを守ろうとしてくれている人が他にいる。
なんて――心強い。
「もう、大丈夫だよ。……ありがとう」
最上はカメラの奥にいる見えない人達を見据える。
お願いをするのだ。
ソフィアを助けるのに、力を貸してくれと。
ただそれだけなのに、原稿も、嘘も虚構も必要あるわけがない。
「僕はたしかに危険分子だ……。人並み外れた力を持っているし、その力を使って、生きるために人を殺した。認めます」
最上の言葉に、『鋼鉄』の顔にわずかに驚きの色が浮かんだ。
そう、最上はヒトデナシだ。自覚する。
でも、そんな最上にも守りたい人がいる。いつでもヒトデナシの傍にいて笑ってくれた人だ。結局、彼女のために最上が命を賭けられたのは――好きだから。
「今まで僕が殺してきた人間にも、家族がいて、帰りを待っていた人がきっといます。けれど、それを知ってなお、僕は皆さまにお願いをしたいんです」
原稿を読んでいた時よりも、流れるように言葉が出てくる。嘘でも他人の言葉でもなく、最上がただ本心から言っているからだ。
「僕は監禁するなり、殺すなりしてもいい。けれど、助けてほしい。ソフィアだけは、助けてほしい。僕の大切な人に、もう空が見えない石壁の中で過ごし、実験の対象にされるだけの日々を過ごして欲しくないんです。
お願いです。僕は、人類最強なのは事実ですが、今はもうその力はありません。だから、こうして僕は、みんなの力を借りるしかないんです」
最上は演説台に頭をこすりつけるようにして頭を下げる。
人を殺したことも、危険な存在であるのも否定せず、偽らない。大人に言わせれば下手なやり方になるのだろう。
けれど、最上はそれしかやり方を知らない。
「――」
『鋼鉄』は言葉を失っていた。
それもそうだ。
最上は賢治に反論など一切していない。肯定したうえで、お願いをしているのだ。
「防衛大臣、なにか言いたいことは?」
秋雨がカメラの外から問うた。
「いや――ない」
演説台に立つ最上を映していたテレビの画面がぷつりと消える。カメラが止まったのだ。
結果は神のみぞが知る。
窓辺にイスを置き、最上は伊吹荘の自分の部屋からぼうっと夜の街を眺めていた。ビルや街頭の灯りが遠くで輝き、そのおまけのように空で星が光っている。夏の夜の冷めた空気が最上の頬をなでた。
国民の声は最上を味方してくれた。
『理屈の演説でなく、感情を揺さぶった坊やの勝ちだよ。いやいや、いつの時代も日本人は情に流されやすい』と、皮肉っぽく秋月が言っていた。
最上の勝利は、同時に防衛大臣たる西天賢治の失墜も意味するところだった。
それは日本にとっては好ましくないことだった。
オリンピックを前にして、日本は大きな問題を二つも抱えることになった。
非人道的な虚構科学研究所に協力していた、西天賢治の政治的な立場をどうするか? オリンピック間際の国防は極めてシビアな問題だ。ここで防衛省の頭を挿げ替えている余裕はない。西天賢治は良くも悪くも、防衛大臣として優秀なのだ。
そしてもう一つの問題は、新神定理を上回る化物、最上彼方への対処。同時に、ソフィア・クラウディへの対処。
「かなた、髪をすいてよ~」
風呂を上がったソフィアが、パジャマ姿で部屋に入ってきた。ふんわりとした石鹸の香りが漂う。
ソフィアの髪が伸びてきて、手入れに手間がかかるようになっていた。自分でやりなよ、とは最上は言わない。髪が長いせいで起こる苦労は、最上自身もよく知っている。
椅子を二つ並べ、ソフィアの後ろに最上は座ってくしで髪の毛をすく。
国民の声に押され、ソフィアは無事に戻ってきた。
最上とソフィアについては、ファミリーが保護および観察をするということでおおむね決まっている。
ファミリーが世間から信頼されていることが生きた。もちろん、西天賢治と西天心の繋がりを危惧する人間もいるのだが、ファミリーとしての信頼の方が勝っている。
「僕はそろそろ髪を切ろうかな。短く、ばっさりと」
「ボクが切ろうか!?」
「絶対に嫌だ」
「ひどぃ。ボクはかなたの彼女だし、気を使ってくれてもいいじゃん」
「いつから彼女になった」
「かなたの演説見たよ~。全国民の前でボクのことを大切な人って言ってくれてたしこれはもういいよね! 彼女でいいよね!」
「家族として、だよ」
冷めた調子で言ったのだが、最上は頬が熱くなるのを感じる。ソフィアがこちらを向いてなくてよかった。
「そういえば、僕達は朧火の遺伝子を受け継いでいる子供なんだよね。僕は日本人的な容姿で、ソフィアはどっちかと言えば外国よりの容姿だけどさ、結局のところ兄妹だったってわけだ。ということで、よろしくね妹よ」
「残念かなた、もうボクはこのポジションを変えるつもりはないよ!」
「……やっぱりだめか」
お互い髪をすき終えた頃に、西天から夜ご飯のお呼びがかかった。
二階の食堂に最上とソフィアは歩いていく。すでに大半の子供が集まっていてうるさかった。
食堂に入った最上は、あり得ない人間と対面して固まってしまう。
西天賢治。最上の頭一つ以上大きな、筋肉の鎧をスーツで包んだ政治家が伊吹荘の食堂に立っていたのだ。
ギロリと鷹のような目が最上を捉える。ソフィアは最上の背中に身を小さく隠れた。
とっさに最上は臨戦態勢に入る。
「なにしに来たんだよ――」
「少年――」
津波のように賢治が覆いかぶさってくる。とっさにボディに拳を叩き込んでしまったが、賢治のそれが攻撃でないことに気づく。
抱擁だ。大きな腕が、後ろにいるソフィアごと包み込んできた。
「よく私を倒したな」
殴られて肺が圧迫されているはずなのに、優しく賢治は言った。
「賢治……さん――?」
そうだった。
西天賢治は、政治家としているときは、鋼鉄の仮面を被っている。日本のためなら、家族にすら冷徹になれる男。それが彼なのだ。
「私に対する処罰が下った。オリンピックが終わった後に、防衛大臣をやめることになったよ。だが、それでいい。私は少々汚れすぎた。今まで犯してきた罪の償いをして生きていく。後任にはまた優秀な男がつくから問題はないだろう」
クマのような腕にぎゅっと力が入る。
「すまない、最上くんとソフィアちゃんには悪いことをしたと思っている。許してくれとは言わない。理解できないと思うだろうが、私は心が愛している君たちを愛している」
その言葉は、嘘ではないのだろう。
矛盾を抱えるくらいに、西天賢治は冷徹でいて、家族思いなのだ。
朧火のように割り切れるほど最上は達観していない。正直、内心は複雑だった。政治家としての西天賢治は最上とソフィアに酷いことをしてきたのだから。
昔の最上なら、容赦なく賢治をこの場で叩きのめしていただろう。
「賢治さんの……、政治家としての考えを、聞かせて欲しいです。どうして虚構科学研究所との関係を持っていたのか。それを聞けば、少しは心の整理ができるかもしれません」
割り切れないけれど、賢治の立場から話を聞こうとするだけの余裕はあった。
「然り。二人には聞く権利があるな。私は――娘を殺そうとしている虚構科学研究所は大嫌いだが――政治家として、防衛大臣として付き合う必要があった。
日本は――、新神定理という、虚構科学研究所が生み出した一人のDマンによって第三次世界大戦を乗り切った。正直、彼女がいなければ、我が国の名前は変わっていただろう。
我が国が生き残るには、新神定理のように力を持ったDマンが必要だと私は考えたのだ。今の時代、強力な兵器よりも、Dマンを生み出す方が重要だ。もしDマンの研究に乗り遅れれば、もう一度大戦が起きた時、我が国は容易に侵略されるだろう。
だから私は、Dマンの研究に特化した機関と関係を持つ必要があった。その点、新神を生み出した虚構科学研究所は優れていた。だから、政治的にも、倫理的に問題があるとわかっていても、虚構科学研究所との関係を持ったのだ。そして、それは秘密裏でなくてはならなかった。戦争があっても、今だ日本人はDマンを戦力に組み込むことに対しては抵抗を持ってるからだ」
「僕には、理解しがたい二面性ですね。大切な人に手を出す組織があれば、日本がどうなろうと、速攻で潰します」
「ああ、少年ならそうなのだろうな。汚い大人の私には少年が眩しい。愛する一人の少女を愚直に守れる少年がな」
「はうぅ」と、ソフィアが声を上げる。
「べ、別に愛してるとかそういうわけじゃ――!」
最上の反論に、賢治は微笑ましそうに口を三日月状にするだけだった。
「仲直りは終わったか、クソ賢治。ほら、とっととうちのソフィアちゃんから離れろ」
そこに空気を読めない朧火が割り込んできた。
重傷を負った右手は包帯の上に耐火性の手袋をしているせいで、少々不格好だ。手術でなんとか元の形には戻ったようだが、上手く動くかはまだわからないらしい。
朧火に関しては、元々賢治の公私の二面性を受け入れ、親友として居続けていたから、今回の事件も今更のことなのだろう。
「よし、ソフィアちゃん、俺と家族のはぐをしよう」
「朧火くん……?」と、冷めた西天の声が彼の背後から響く。
「じょ、冗談だって!」
「相変わらずだな。心、もしも嫌なことをされたら私に言えよ。全身全霊でこいつを叩き潰してやる」
「わかってますわ。お父様」
西天は賢治が虚構科学研究所と繋がっていることを知らなかった。
今回の一件で心配されたのは、西天と賢治の間にできる可能性があった亀裂なのだが、問題なかったようだ。
西天にも色々考えるところはあったのだろうが、受け入れられるあたり彼女は大人なのだろう。
「さ、夜ご飯を食べましょう。今日は鳥の唐揚げを作ってみたの」
「やった! 唐揚げ大好き!」
ソフィアが万歳をして、他の子供たちが並ぶ長い椅子の端に座る。最上はそのすぐ横に座った。食事の盛り付けは終わっていた。目の前にはほかほかのご飯とサラダがありテーブルの真ん中の方には大皿に盛られた鳥の唐揚げがあった。
西天、朧火、そして賢治も席につき、合掌をする。
和気あいあいとした夜ご飯がはじまった。
何気ない日常の一コマと言える。
「みんな、仲良くできてよかったね」
唐揚げをかじりながらソフィアが言い、最上は素直に頷いた。
西天、朧火、敵である賢治ですら、以前のように夜ご飯を楽しく食べられること。
もしかしたら、最上は誰よりもこうなることを望んでいたのかもしれない。
子供という立ち位置であろうが、この人たちと家族で居られるなら――しばらくは子供であることを甘んじて受け入れてもいいような気がする。
「家族ってのは――、いいものかもね」
ぽつりと最上がつぶやいた。
「あ、かなたがついにデレた! 家族がいいって!」と、ソフィアが即座に食いつく。
最上がしまったと思う間もなく、「え!? なら最上くん! 私をお母さんって呼んで!」と西天。「俺のことは敬意をこめてお父様でと呼べよ」と、朧火。
「呼ばないよ!」
「照れない照れない。子供みたいで可愛いわねえ」
「だな。初心なのは修羅場を潜り抜けても変わらないみたいだな」
大人の二人にからかわれ、最上はやはりすぐに大人になってやると決意したのだった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。もしよろしければ、アドバイス、感想、評価お願いします。次作の参考&モチベになります。