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虚構と科学と僕の世界  作者: つくよみ
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虚構と科学と僕の世界(前半)

 男の死体を担いで少年は国道一号線沿いを歩いていた。東京湾に面した道で、いつもは真夜中に車が通ることはほとんどなく、静かな場所だ。

 けれど今は事情が違った。銃声と爆発音が絶え間なく轟く。

 うだるような夏の夜でも冷たい海風が吹くのだが、今は代わりに熱風が吹き荒れている。コンクリートは抉れ、内房線の線路も損壊していた。火種もろくにないはずなのに、炎が辺りで燃え盛る。

 そこを歩いていた少年の名前は、最上彼方。多少変わった身体的な特徴はあるが、戦場のようなこの場に似合わない少年だ。その変わった部分を二つ上げると、まず一つ目は赤い瞳。そして次に男にもかかわらず長く伸びた髪だ。腰ほどまで伸びていて後ろの方で束ねている。顔立ちは童顔で大人しそうである。身長は十七歳の男子にしては低い方だ。ところどころ破れたパーカーとジーンズの上から見る限りでは肉付きもごくごく普通である。

 彼の進む先に、いくつもの影が現れる。フルフェイスのヘルメットに、防弾チョッキを着ている。日本で武器を持って立つ者がいるとすれば自衛隊か警察、はたまたヤクザくらいであるが、その影達はいずれにも該当しないようだ。

 けれど、明らかに手練れの戦闘部隊で、各々が手にした機関銃を流れるような動作で最上に照準を合わせた。

 照準を合わせて発砲までわずか一秒。

 バララララ、と火薬が無数に弾ける音がする。両手の指を使ってもまるで足りない数の弾丸が最上に命中した。

「M60だっけ。大口径の機関銃で、確かアメリカ軍が使っていた物だよね」

 機関銃について語ったのは、M60に撃たれた最上自身だった。傷は一つもない。ただ衣服に空いた穴が増えただけ。

 次に武装した兵士達が放ったのはロケットランチャーの砲弾だ。

 爆発が最上の歩いていた地面を粉砕する。轟音と共に上がった火と煙が引いた後に、変わらず彼は立っていた。

 兵士達の間に動揺が走る。

「あれが人間かよ!」

「化物プロジェクトのデータで見ただろ! あんなの人間じゃねえよ!」

「僕を作ったのは君たちだろう」

 慌てふためく敵を見ながら最上は呆れてため息をつく。

 虚構科学研究所なんて馬鹿げた名前の組織がある。馬鹿げた名前通り、研究内容も馬鹿げていて、不老不死を目標に研究を進めているのだ。最上はその実験体だったのだけれど、具体的な研究の内容は知らない。研究に最上が非協力的だったせいで、実験をされるだけで、その実験にどんな意味があるのかは全く知らされなかった。

 最上は研究所に嫌気がさし、脱走して逃走生活を送っている。虚構科学研究所からの追手は珍しくない。

 兵士の一人が無線を取り出し、それに怒鳴りつけるように指示を送った。兵士達が最上から距離を取る。すると、間髪入れずに東京湾の海上でいくつかの光が瞬いた。

 また最上を中心に爆発が起こる。ロケットランチャーとは比べものにならない。隕石が落ちてきたかのような破壊力だ。

 あの砲撃を受ければ、常識的に考えて木端微塵になる。

 だが、その場にいる誰もが予想をしていた。

 あの化物は死なない。

「艦対地ミサイルか。威力はたいしたものだね。どうしてくれるの? 妹と食べるはずのお肉がなくなっちゃったけど」

 当然のごとく両の足で地面に立ち、使われた兵器を認知する最上。ただ、さっきまでと違い赤い瞳に怒りが見て取れた。

「せっかく樹海で自殺していた人見つけたのにさ。余計なことしてくれるよ、ほんと。君たちのうち一人、僕達のご飯になってもらうから」

 蛇に睨まれた蛙のように兵士たちが凍り付く。数では勝っているのだが、本能の方が悟っているように見えた。

 勝てないと。

「そこの君、ご飯役ね」

 適当に選んだ一人の兵士に向かって、化物がまさに超人的な瞬発力で踏み出した。弾丸にも匹敵する速さで、兵士の中に視認できた者はいないだろう。

 一瞬後、手榴弾でも爆発したかのような音が辺りに響き渡った。

 防弾装備をしていようが、兵士が最上の拳を受ければ胴体を貫かれて死んでいた。

 攻撃を受けたのは狙われた兵士ではなかった。

「これはこれは、大物がやってきたね」

 最上の拳を素手で受けたのは少女だった。砲弾にも劣らない一撃を、手のひらでぴたりと止めている。兵士にはこの少女も沸いて現れたように見えただろう。人間離れした動体視力を持った最上だけが、彼女が視界外から飛び込んで兵士と最上の間に割って入ってくるのを視認していた。

 身長は最上より高く、すらっとしていた。最上と同じように束ねた髪がちらつく。刃のような瞳をはじめ、全体的にシャープな印象を与える顔つきだ。白いコートを羽織ってはおり、手首だけしか見えないが最上の一撃を受けたにしては華奢だった。

「第三次世界大戦をたった一人で収束させた……新神定理ちゃんだね。うん、戦争の時はお疲れさま」

 新神定理。

 最上と同じ虚構科学研究所に関わる人間だ。最上と新神は不老不死のテーマの下で生み出されているが、二人の場合は不老より不死に重点が置かれている。不死を完成させ、不老を完成させる。そして最後に二つ合わせた不老不死の完成を目指す。今は不死に重点を置いて虚構科学研究所は研究しているのだ。

 虚構科学研究所の不死性の定義は、『地球上のどの生き物よりも強い』こと。そこには兵器を操る人間も含まれる。

「けど、邪魔しないでほしいな。痛い目見ることになるよ?」

「プロトタイプが私に勝てるとでも?」

 虚構科学研究所で産まれてはいるが、産まれたプロジェクトの名が少しずつ違っていた。

『化物プロジェクト』で産まれたのが最上。

『化物化プロジェクト』で産まれたのが新神。

 前者は先天的に、後者は後天的に不死性を付与する研究だ。遺伝子に手を加えて先天的に不死性を与えるよりも、人体をいじり、後天的に不死性を与える方が圧倒的に難しい。だから、『化物化プロジェクト』の元が『化物プロジェクト』であり、新神にとって最上はプロトタイプなのだ。

「古い型、か。けどさ、古いからって別に君に劣るってわけじゃないしね」

「私は人類最強だ」

 新神には実績がある。

 彼女は一人で第三次世界大戦を収束させた。その言葉は奢りでなく、根拠ありき言葉だ。

 それに異を唱えられる者が存在し得るのか?

「その言葉、今のうちに撤回しておくことをおすすめするよ」

 いる。

 それが最上彼方だ。彼もまた絶対の自信を持って新神に言葉を放つ。が、彼の場合自信の根拠となる材料はないに等しい。それにも関わらず最上は言い切った。

「なぜだ?」と、新神が問う。

 二人とも同じ虚構科学研究所にいながら、顔を合わせるのはこれが初めてだ。虚構科学研究所が意図的に隔離していた。

 二人ともどちらがより強いかは知らない。けれど、互いに自身が最強であるのを疑っていなかった。

「そんなの決まっているよ。人類で一番強いのは、間違いなく僕だからさ」

 最上の足がコンクリートを離れ、新神の頭めがけて放たれた。速さも力も無影脚を極めた達人を超える。

 新神はそれを平然と左手で受け止め、返すようにして最上の頭部に蹴りを放った。

 それから最上と新神の打ち合いがはじまった。人同士の殴り合い。ただの喧嘩じみた光景でありながら、辺り一帯に重火器にも勝る破壊をまき散らす。兵士達は身の危険を感じてとっくに撤退していた。

 数十秒間、拮抗状態が続いた。けれど、人類の頂点を決める戦いの幕切れはあっという間で、あっけないものだった。

 拮抗していたはずが、乱打される最上の拳が新神の一センチ前まで迫る。新神の反応が間に合わなくなってきているのだ。

「ッッ!」

「ほらほら、さっさと人類最強を撤回しないと。今ならまだ恥をかかずに済むよ?」

「うるさい! 私は人類最強だ!」

「なるほど、君はちょっと強いだけの虚構科学研究所の操り人形だね。強さがなければ、中身は空っぽか」

 新神の両手を最上が無理やり弾き上げ、隙を作る。

「ばいばい。次はもう少し強くなって産まれてきなよ」

 新神の背中に赤い花が咲く。体の反対方向に抜けた最上の手が持っていたのは、新神の心臓だった。






 最上は東京駅を歩いていた。どこにでもある買い物袋を引っ提げて目的の場所へと向かう。ここに来るまで一度郊外にある隠れ家で着替えと手に入れた肉の処理を済ませていた。人類二番目の肉だ。『化物化プロジェクト』のせいで化物じみた戦闘能力を持っているが、元をただせばやはり人間で、最上が必要としていた食料として使える。

 深めにパーカーのフードを被り、長い髪は服の背中に通している。買い物袋を片手に下げ、東海道新幹線沿いを下り方面へと歩いていく。新幹線のレールは地上から一段上がった場所に敷かれており、その下の空白部分には普通に店が並んでいたり道路が通っていたりする。そのレールの下にある営業中止になったゲームセンターの裏口に入り込む。

 アーケードゲームが並ぶ中、隅っこの方にある格闘ゲーム台の裏に回る。そこの床は一か所だけ抜けるようになっている。下には隠し階段が用意されていた。かび臭い階段を下りていく。

 階段が終わると、マンションの玄関ような扉があり、最上はノックもせずに中へ入った。靴を脱いで上がるとすぐに料理用のスペースがある。洗い場とコンロ台、それと冷蔵庫が備え作られている。冷蔵庫にビニール袋を放り込んでから、リビングへと向かう。

 地下にあるだけで、内装はいたって普通。物が少ない分寂しく感じられる。リビングにあるのは、テーブルと食器棚、ソファ、それにテレビくらいであとは小物が転がっているだけだ。

水平線から太陽が昇るかのようにソファの背もたれから顔が出てきた。

「おかえり、おにぃ」

 つけっぱなしのテレビの前にあるソファに寝転んでいた少女。

 ソフィア・クラウディだ。

 軽くウェーブのかかった白髪が肩ほどまで伸びている。瞳は最上と同じく赤いが、どちらかと言えば細めの最上の瞳と比べて大きくまんまるい。にっと笑う口元には、普通の人より長い犬歯が覗いていた。ゴシックロリータを身に着けていて、元々の見た目も相まって、非現実じみた、絵本の一ページを切り取って持ってきたかのようだ。

 彼女は、最上を『おにぃ』なんてよんでいるが、もちろん血のつながった兄妹ではなく、二人を繋ぐ役割のような物だ。

「おかえりのハグしよ」

 ソファの上で両腕を広げるソフィア。自分から動こうとはしない。動けないのだ。

「嫌だよ」

「恥ずかしがらなくてもいいのに。もっとアメリカンにスキンシップ取ろうよ」

 はいはい、と最上は適当に流す。

「それより、今日の夜ご飯は何を食べたい? 今日は久しぶりに『肉』があるんだ」

「ほんと? やったー!」

 何にしようかなー、と嬉しそうに考えるソフィア。それを見ていて、最上は申し訳なくなってしまった。

「ごめんな、あんまり『肉』を食わせてやれなくて」

「いやいや、ボクは食べさせてもらってるだけで幸せなんだ。ボク一人だったら今頃餓死するか、研究所に連れ戻されるかしてたよ」

 最上とソフィアは食人体質だ。

 普通の食事に加えて、人の血肉を摂取しなければどんどん弱っていく。今、ソフィアが立てないのも人間の血肉が足りないからだ。

 最上が無茶をすれば、いくらでも人の肉なんて狩ってこられるだろう。けれど、戦闘においていくら強くても目立つのはまずい。ソフィアがいるこの住処がばれてしまえば、最上と比べて圧倒的に人間的な、下手したら普通の人間よりももろい彼女の身が危ぶまれる。四六時中最上がソフィアに付きっきりでいられるわけでもない。

「おにぃはなにを食べたい?」

「結局僕に聞くのか」

 ソフィアのお腹からくぅ、と気の抜ける音がした。彼女に任せていたら日が暮れそうなので最上は適当に考える。

「なら、シチューで」

「あ、いいねシチュー! ボクもさんせー」

 あっさりと最上が決めた料理になってしまったことに苦笑いを浮かべながら、台所へと向かった。

 玉ねぎ、じゃがいも、ニンジン、それと市販のシチューの元を台所に並べる。一つ一つ包丁で処理し、最後に冷蔵庫から取ってきたばかりの肉を取り出す。それも切り分けてから、フライパンに油をひいて、二つあるコンロの片方を使い火にかける。野菜と肉に下火を入れてから、改めて今度は鍋に入れ直した。水を張って後はぐつぐつ煮込むだけ。

 一度リビングに戻ろうとした最上だったが、玄関の方を振り向いた。

 カツカツカツカツ――。

 隠し階段を降りてくる人の足音がした。

(誰だ? ここを知る人間なんて一人、僕達に隠れ家を提供してくれている日ノ出キキしかいない。けど、その人はここには来ないし――)

 気配を消して最上は玄関のドアの前に移動する。

 足音はドアの向こう側で止まった。

 コンコン――。

(律儀にノックなんて、おかしいな)

 最上が敵とする組織の人間なら、ドアを破壊して突入してくるだろう。降りてくる時もまるで足音を隠そうとはしていなかった。おそらく相手は足音を隠すのにもっとも不向きな下駄を履いている。

 全神経を使い、ドアの向こう側の人間の意図を読み取ろうとする。

「留守かしら?」

 女の声がする。そこに敵意はなく、呑気にすら感じられるような言い方だった。

「……どちら様?」

 訝しみながらも最上は質問を投げかける。

「怪しい者じゃないわ。『ファミリー』の西天心、と言えばわかるかしら?」

 ファミリー。世間でそこそこ名の通った組織の一つだ。

 また組織か。と最上はうんざりする。

「なんの用?」

「私たちの組織に入らない? って勧誘かしらねえ」

「お断りだ。大人の陰謀の一端を担ぐなんてやだね」

 最上の人類最強の力を使おうと考える組織は多い。

 最上は極秘の化物プロジェクトの元で産まれた、虚構科学研究所の秘蔵品だが、脱走と同時に、情報がいろんなところから洩れたみたいだ。最上の脱走を知った様々な組織が接触してきたことは、これまでにも何度かあった。どれもこれも最上を利用しようと考えているのが見え見えだった。

 こういった勧誘を受けるのは、今まで全て外でのことだった。

(居場所が特定されたのは、厄介だな)

 一応、ファミリーという組織は、良識のある組織だと世間一般では通っている。が、表面なんてあてにならないのを最上は知っている。

「そろそろ困る頃合いだと思ってるのだけど、違うかしら?」

「僕がなにに困るって言うんだい。ここに来てるってことは知ってるんでしょう? 僕の強さ」

「最上くんがいくら強くても、妹さんを隠すのは大変じゃない?」

 図星だ。

「中に入れてくれないかしら? 話だけでも聞いてほしいの」

「帰れ。僕は君と話すことなんてない」

 ふふっ、と扉の向こうで笑う声がした。

「強情なのね。なら、こうしましょ。話を聞いてくれないと、この建物ごと爆破するわ。最上くんは大丈夫だろうけど、ソフィアちゃんは危ないんじゃない?」

「ついに正体を現したね、女狐」

 ぎり、と最上は歯を食いしばる。ソフィアを人質に取ってくる可能性は考慮していたが、この場合は対策が立てようもない。最上の事情に通じている人間なら、最上ではなく弱いソフィアを狙う。

「ちなみに私を殺しても、今から逃げようとしても無駄よ。私が死んだら外の人間がこの施設を爆破する手はずになってるし、五つある脱出通路は全部押さえたわ」

「僕が仮に逃げようとして、爆破したら君も死ぬでしょう?」

「それも覚悟の内よ」

 そうなのだろう。地下に来たということは、そういうことだ。

「だから、中に入れて私の話を聞いてほしいの」

 時間稼ぎに話を聞き、隙を見つけて逃げるなり殺すなりしよう。最上はとりあえず中に入れることにする。

 ドアの鍵を開け、外にいた人物を目で捉える。

 一人だと思っていたが、二人いた。

 一人は着物を羽織った少女。下駄を履いているのはこの少女だ。こちらは間違いなく最上と話していた西天心だ。下駄がなければ女の平均的な身長であるソフィアよりも低い。全体として和を強調した着飾りだが、着物は普通の物とは変わっていて、ミニスカートのように膝の上で切れている。他に、桜の花飾りが流れるような黒髪に付いているのが特徴的だ。目は大きく、目じりの方が垂れ気味で優しげな印象を与える顔立ちだが、おどしの言葉を吐いているのはこの女に間違いない。

 そしてもう一人。完全に気配を殺していた男。

 歳は二十代前半だろうか。影のような男だ、というのが最上の第一印象だった。連日三十五度を超える猛暑にも関わらず全身黒装束で、マフラーに加えて手袋まで装備している。癖のある黒髪に、脱力感を感じさせる力の抜けた目つき。口元までマフラーで覆ってるせいで表情が伺い辛い。

「あ、この人は私の夫で、朧火くんね」

「よろしく、心の夫だ」

 ころり、と男の表情が変わった。マフラーの端からにっと上がった口角が見える。『陰気そうだ』という第一印象が崩れ『胡散臭い奴だ』に変わった。

「色々突っ込みたいところはあるけど、入りなよ。ただし、ソフィアには手を出すな。出したら殺すから」

「わかってるわ。朧火くん、ロリっ子だけど、手を出したらダメだから」

「はは、わかってるって」

 朧火と西天は夫婦みたいだが、西天はせいぜい高校生ほどの見た目だ。二人を常に視界に入れ、動作を観察し、情報を集めながらも最上はリビングに案内する。そして四人用のテーブルの一辺に二人を座らせた。

「妹さんはどこかしら?」

 ソファの背もたれからソフィアが顔を出す。

「わっ、おにぃ、その人たち誰?」

「うおやっぱ生で見るとさらにかわいげふっ!?」

 声を上げかけた朧火の鳩尾に西天が肘を入れていた。

「お客さんだよ」

 ソフィアは恥ずかしそうにソファの背もたれに顔を半分ほど隠す。ソフィアが初対面の人に弱いのは昔からだ。

「私、ソフィアちゃんとお話ししたいのだけど、いいかしら?」

 西天の笑みが、最上には裏のあるものに見えてしまう。

「う、うん。いいよ」

 けれども、ソフィアがそう言うなら断る理由もなかった。ソフィアの近くにいられるならば、二人の攻撃からソフィアを完全に守りきる自信があった。

 ソフィアを抱き上げて運び、西天たちの対面の椅子に座らせ、最上はソフィアの隣に座った。

「あ、お話しの前に。最上くん、もしかして料理中じゃないかしら?」

「そうだけど、君たちが来たせいでそれどころじゃなくなったんだよ」

「そ。なら、私が作ってくるわ」

「……」

「毒なんて盛らないわよ」

「信用できない」

「んーそれもそうね。なら、こうしましょ」

 突然立ち上がった西天は、着物を脱ぎ始めた。帯がするすると外れ、着物が徐々に剥がれていく。着物で覆われている部分と、露出していた部分の日焼け具合の違いが露わになる。

「なにしてるんだよ!」

「おにぃ、めっ! 見たらだめ!」

ソフィアに最上は目を覆われた。

「ソフィアちゃん、私、何も持ってないわよね?」

「持ってない! 持ってないから早く服を着てよ!」

「これで文句ないわね。作ってくるわ」

 着物を再び着るような音がしなかったので、裸のまま西天はリビングを出ていったのだろう。ようやくソフィアが最上の目を塞いでいた手を放す。朧火だけがリビングに残っていた。

 片方を消すチャンスか? 最上はそう考えたが、手を出せないでいた。

 目の前の朧火は、ひょうひょうとしているようで隙がない。暗い井戸を除くかのような底知れなさがあった。負けるとは欠片も思っていないが、瞬殺できるかを考えたら測りきれなかった。瞬殺できずに外の人間に朧火の死が伝わり、爆弾を使われたら、元も子もない。もう少し様子を見ることにする。

「妻が他の男を前にして裸体を晒してたね。とんだ痴女だよ。気分はどう?」

 悪口を言ったつもりだった。

「子供に心の裸を見られたってなんとも思わんな」

「女って、西天は大人扱いかよ。僕の方が西天より年上でしょう?」

「最上は十七歳だっけな。ああ、心は十六歳だよ。だから?」

「それでも僕が子供だと?」

「確信したぞ。歳で大人云々を語るようじゃ、まだまだガキだ。心は立派な大人だがね」

 二人そろってどこかずれている。ある意味お似合い夫婦なのかもしれない。

「でも、俺は子供のままでいいと思うぞ」

 ちらっと朧火はソフィアの方に目を向ける。マフラーの上からでもわかるくらいに、口元がにやけているのが最上にとって不快だった。

「ああ、僕はお前の目をとっても潰したい」

 にやけていた朧火が不意に真面目腐った顔を作り、姿勢を正した。あわわ、と言ってソフィアが最上の目を塞ぐ。

 西天が鍋を持ってリビングに戻ってきたのだ。

「は、はやく服を着てくれないかな? こんなのおにぃに見せられないよ!」

「別にソフィアちゃんの最上くんを誘惑したりはしないわよ」

「いいからはやくぅ!」

「かわいいわね、ソフィアちゃんは」

 ソフィアの手が最上の目から離れた時には、鍋はテーブルにあった鍋敷きに置かれていて、西天は着物を着直していた。それから西天は、母親が食事の準備をするかのように食器を持ってきて、お玉で皿にシチューを入れていった。しっかり四つ用意しているので、部外者二人も食べる気まんまんのようだ。

「おにぃ以外の人と食べるの久しぶりだよ。いただきまーす」

 警戒することもなくソフィアはスプーンでシチューをすくいはじめる。

「おいしー!」

「そう、よかったわ」

「作ったのはほとんど僕だけどな」

「気にしない気にしない」

 最上の言葉なんておかまいなしに西天はにこにこ笑って、自身もシチューを食べる。僕達の貴重な肉を食うなよ、と最上は言いたかったが、あえて黙っておく。世間一般では同種喰いなんて禁忌だ。人を食べることに慣れた最上だって食べたくて食べているわけではない。必要だから食らうのだ。今でこそ慣れたが、同じ人を食う辛さを知っている。

(後で種明かししてやる)

 人間を食ったことを、死ぬほど後悔して吐けばいい。

「食べながらになるけど、本題に入りましょうか」

 少しして西天がこう切り出し、最上は身を固くする。

「二人には私たちの組織、ファミリーに入って欲しいの。お願いよ」

「脅迫の間違えじゃない?」

「この際、どちらでもいいわ」

「僕達を引き入れようとする理由なんて、利用するためでしょう? どうせ」

「違うわ。その辺りに誤解がありそうね。私たちは単にあなた達に普通の生活を送ってもらいたいだけなの」

「普通の、ねぇ。確かに虚構科学研究所に追われる生活はめんどくさい。けど、どうして赤の他人の僕達を助けようとするの? 理由がない」

「理由ならあるわよ。私たちの子供だから」

「はぁ?」

「あなた達は血がつながってなくても、私たちの子供よ。誰が何と言おうともね。親が子の幸せを願うのは当然でしょう? 今のあなた達の状況ははっきり言って見過ごせないわ。幸せになる権利があるはずなのに、危険な目にばっかりにあってるなんて、理不尽よ。私たちの組織に入ったら、幸せな生活を約束するわ」

「無茶苦茶だ。僕達は君の子供じゃない。意味がわからないよ」

 微笑んだ西天は最後の一口を食べてスプーンを置いた。

「ま、信頼云々を築くなんて今は無理だろうから、利害だけの話をするわね」

 彼女は人差し指を立てた。

「まず一つ。入ってくれたら私と朧火くんがあなた達を全力で守るわ」

「二人とも僕より弱いでしょ?」

「そうかもしれないわね。で、二つ。もちろん衣食住は保証するわ」

 三本目の指が立つ。

「食の対策もするわ」

 二度も言われる食事の話。

「あなた達は、食人体質なのよね?」

「……そうだよ」

「今、ソフィアちゃん立てないくらいに弱ってるみたいだけど、私たちのところに来ればソフィアちゃんが普通に生活を送れるだけの食料を常に用意するし、もちろん最上くんの分も用意するわよ」

「……」

 食料が足りないのは、確かに深刻な問題だ。人の死体を持ち帰るのが、虚構科学研究所の襲撃のせいで困難になってきている。歩けないだけでも芳しくないし、これからもっと悪化するかもしれない。

「この中に入ってたのも人の肉ね」

「……知ってて、食べたんだ」

「子供と同じご飯を食べるって決めてるの」

 なんでもないことのように、西天は言った。朧火の方も、当たり前のようにシチューを完食している。

 最上を信頼させるためのパフォーマンスかもしれない。疑ってみたけれど、二人のこの行動に、思索や意図をどうやっても最上は見出せなかった。

 隠れ家に爆弾を仕掛け、さらに逃げ道を潰すほどに徹底的に仕掛けてきたのに、本当にただ最上とソフィアにファミリーに入ってほしいだけのように感じられる。 

 いったい何を考えているのか、最上にはわからなかった。西天の裏側が読み取れない。

 けれど、少しだけ、話しに乗ってみてもいいと思えた。

 どちらにせよ、この場を脱するにはファミリーに入るしか手は残されていないのだが、それだけでなく、ファミリーに興味が湧いた。

「今まで言ったことに、嘘はないね?」

「ないわ。あ、いえ、嘘があったわね。爆弾しかけたって言ったのは嘘よ。ついでに脱出口を塞いだってのも嘘」

 クエナイ女だ。

 二人を殺して脱出することも容易くなった最上だが、あえてそれはしなかった。

「ソフィアはどうしたい?」

「ボクはおにぃについて行くよ。どこに行くとしてもね」

「そっか」

 大人の塊である組織はもっての外だ。

 けれど、ファミリーに入ってみて様子を見てから決めてもいいのではないのか。はじめて組織に入ってみてもいいと思えた。

「わかった。ファミリーに入るよ」






 西天と朧火と共に、隠れ家で一夜を明かした。

「引っ越しすることになるわけだけど、準備はいいかしら?」

 住処をファミリーが運営する施設へと移す。隠れ家は捨てる。

元々、いつでもここを出られるように準備していたので最上とソフィアが必要な物をまとめるとバック一つに収まってしまう。家具は置きっぱなしだ。

「ソフィア、着替えてきて。その恰好は目立つ」

「えー」

 ソフィアが好んで着るゴシックロリータのことを最上は指摘する。昔見たアニメの影響で、ゴシックロリータを着るようになった。動画中毒者である彼女はアニメやドラマの影響を受けやすい。

「別にいいわよ。私たちがついてるんだから」

「ファミリーって力を持った組織だったっけ?」

「ええ、それなりに。虚構科学研究所とはあんまり仲が良くないんだけど、今はお互い拮抗状態にあるのよ」

 人類二番目を抱える虚構科学研究所と拮抗状態に持ち込んでいるなんて、最上には少々意外だった。

「新神と渡り合えるの?」

「力の戦いだったら、絶対負けるわ。勝ってるのは権力よ権力。前々から虚構科学研究所に影響力を持つ組織を介して条約を結んでいたのよ。私たちが二人を保護できた場合、手出しをしないで。みたいなね。条件は一つだけ。三日以上私たちが最上くんとソフィアちゃんから離れないこと。離れた場合は保護放棄と見なされるわ」

 組織のしがらみやら、権力云々に、最上は疎かった。外の世界との接触が少ないのが原因でもある。

 半信半疑ながら、最上は西天の言葉を受け入れることにした。いざ襲撃があったとなれば、ソフィアだけを助け、できるならばどさくさに紛れてこの場所を知る西天と朧火を殺す。それからこの隠れ家に戻ってくればいい。隠れ家は複数あるのだが、ここが一番使い心地がよかった。

「うわー久しぶりに外に出れるし、しかも引っ越しかー!」

 ソフィアは家族でピクニックに行く前の小学生ようにテンションが高かった。家を移るのには慣れているので、隠れ家を離れるのに心残りはないようだ。

「早く行こう、行こうよ!」

「落ち着いてよ」

 玄関でソフィアが足踏みをしている。

 冷蔵庫に残っていた人肉をありったけソフィアに食べさせた。そのおかげで歩けるくらいには体力が回復していた。

 それこそ旅行に行く家族のごとく、最上達四人は外に出た。

(……自分より年下の母親と、ロリコンの父親なんて冗談じゃない)

 外は晴天で、ビルのガラスが天高く上がる太陽の光を四方八方に映し出していた。七月初旬で夏のピークはまだまだ先とは言え、じりじりと焼き付くような太陽が地球温暖化の影響を感じさせる。東京はコンクリートジャングルであるだけに、余計に暑さを感じてしまう。

「暑くないのかよ、その黒装束」

 ゴシックロリータのソフィアもそうだが、最上は朧火に目を向ける。

 服とズボンとも素材が明らかに市販の物とは違い、丈夫で熱を逃がさない作りになっているのが嫌でもわかる。消防士の防火服すら思わせる生地だった。しかもそれに加えて手袋とマフラーも付けている。室内でも彼はその服を一度も脱がなかった。

「暑くない」

「朧火くんは、こういうDマンなのよ」と、西天が説明する。

 西天の口からDマンという言葉が出た。それは最上を納得させるだけの意味を持った言葉だった。

 Dマン。端的に言ってしまえば、人間のDNAを改造して産まれた人間のことだ。最上やソフィアもDマンだ。

 最上は辺りを見渡す。わかりやすいところでは、耳が絵本の中のエルフのように三角形の形をした小学生の少年、狐の尾を持った中学生ほどの少女。わかりにくいところでは、精錬されたスポーツマンのごとき筋肉を持つ幼さの残る小学生。

 2003年にヒトゲノムの解析の完了が宣言された。けれど、実はその時点では解析率99.99パーセント以上の数値で、100パーセントではなかった。残ったコンマ以下のパーセントは、神の領域と言われ、人間の遺伝子的な秘密が残っていると言われた。さらにその二年後、神の領域と言われた人間の遺伝子域の解析が進み、さらにコンマ以下に九が百ほど並ぶほどの解析率に至った。その時点で、人間のさらなる進化の可能性がしるされた。

 2005年。人類の歴史に残る宣言がなされる。人のDNAの改造を、WHOが公で認めたのだ。理由は、2045年に訪れるとされているシンギュラリティ、いわゆる技術的特異点で、コンピューターの知能が人間を超えるという問題の克服のためだ。人間の進化を遺伝子改造の面から促し、コンピューターの進化に対応する。もちろん、これは数ある理由の内の一つで、人間的に納得できそうな理由を取り出した表面的な仮面であるのは間違いない。

 裏には国家の思惑が大いに絡んでいるだろう。

 そして、それを受けて先進国はさらにヒトゲノム研究を加速させたのも相まってDNAを改造した人間も二次関数的に増え始めた。

 十五年ほどたった2020年。最も早くに生まれたDマンは中学生の最高学年になる頃だろう。

 ただ、最上は十七歳で、朧火はさらにその上だ。これには裏の事情がある。裏で隠れて今で言うDマンの研究をしていた組織があるってことだ。もちろん、その一つが虚構科学研究所。

(Dマン云々抜きにして、僕以外の人目立ちすぎでしょ……)

 ゴスロリ、黒装束、着物、そろい揃って東京では目立つ。最上は唯一パーカーにジーンズと無難な服装だった。東京オリンピックが近く、街は浮かれているけれど、さすがにこんな変な恰好をした人達はいない。東京駅の前の交差点を行き来する人たちの目が痛い。

「お昼ご飯、どこかで食べていこうかしら? ねえソフィアちゃん」

「え!? 外食するの? 食べる食べる!」

「なにを食べたい?」

「スパゲティ、そばにうどん……いやいやどんぶり系も捨てがたいかも」

 うんうんと唸るソフィアを見て、最上は少し申し訳ない気持ちになった。最上自身、料理が上手くはないのはわかっていた。最上が作った物をソフィアは美味しいと言ってくれてはいたが、その実、本当においしいものを食べさせてあげられていなかった。

「おにぃは何がいい?」

「ソフィアが食べたい物選びなよ」

 決めきれないようで、ソフィアが再度頭を抱える。

「ゆっくり決めていいのよ。歩きながら決めましょう。東京駅内にはいろいろお食事処があるから」

 数々の料理店が並ぶグルメストリートのことを言っているのだ。最上はついて行くだけだったが、どうやら西天はそこに向かっていたらしい。東京駅内に入ると、歩くのが早いサラリーマン達が忙しく構内を歩き回っていた。案内標識が入り乱れ、改札口も至る所にある。慣れてないと一瞬で迷子になってしまう。その点西天は慣れているようで、ソフィアに駅内にある食事処の解説をしながらも一切標識を見ていなかった。二人はすっかり馴染んでしまったようだ。ソフィアは初対面の人間には弱いが、馴染むのは早い。

「おう、最上」

 ソフィアが西天と話しているから、必然的に最上は朧火と一緒になってしまう。

「……」

「お前身長低いよな」

「殴るよ。ショットガンに撃たれたみたいにしてなるから覚悟しろ」

 無視していようと思ったが、聞き捨てならなかった。

「待て待て。冗談だ」

「……。僕は成長期だそのうち朧火くらいすぐ抜かして見せるよ」

 身長差はニ十センチ以上あるが、最上は言い切った。

「おー頑張れよ」

 朧火は舌の裏に『現実を見ろ』という言葉を仕込んでいる気がした。

「で、聞きたいことがある」

 朧火は馴れ馴れしく最上の肩に手を回す。

「どうやったら『おにぃ』なんて呼ばれるようになるんだ?」

「ソフィアが勝手に呼んでるんだよ」

「俺も呼ばれたいんだが」

「生殖器潰すよ、このロリコン野郎」

「つれないな。ま、いい。すぐに『お父さん』と呼んでもらえるわけだし」

「は? なんだよそれ。僕は絶対に呼ばせないからな」

「残念ながら、俺のことをお父さん、心のことをお母さんって呼ぶのはファミリーのルールなんだよな」

「聞いてない!」

「だから最上も俺を呼ぶときはお父さんって呼ばないとな……。いや、敬意をこめてお父様って呼べ」

「……抜けたくなってきた」

「お前は抜けてもいいが、ソフィアちゃんは置いてけ」

(……朧火って間違いなく性格がゴミだよね)

 ソフィアに手を出す前に朧火を去勢するかを最上が考えていたら、西天が振り返った。

「朧火くん」

「な、なんだ?」

「邪な感情丸出しで、ソフィアちゃんの話してたでしょう?」

「いやいや、断じてそんなことはない!」

「私に嘘が通じないってのは知ってるでしょ?」

「すみませんでした! 考えてました!」

「朧火くんだけ、今日のお昼は水ね」

 ざまーみろ、と最上は心の中でつぶやいた。結局、ソフィアが決めきれなかったので最上が天丼を食べようと進言し、朧火を除いた三人は舌が喜ぶ昼食を取った。そのあと電車を乗り継ぎ、ソフィアの提案で秋葉原に降り、電化製品を、主にテレビを中心に見て回った。隠れ家にあったテレビが古かったのが、口には出さなかったけれどソフィアの不満だったみたいだ。ソフィアはテレビ、ネットを問わず動画が大好きで、隠れ家ではひたすらテレビを見ていた。

 おやつの時間が過ぎる頃に、電車に乗ってファミリーの施設へと向かう。どうやら、それは東京郊外にあるみたいだ。

 四人は向かい合う形で席に座る。前の方では西天とソフィアが話し込んでいた。窓際に乗った最上は、隣に座る朧火の昼食での恨み言を聞き流しながら窓の外を見る。

 後二、三年もすれば、この東京に大人になったDマン達が進出する。今でこそ等速度的に進歩を遂げているのだが、彼らが参入することでどうなるか。パソコンの知能に対抗する名目で、許可されたDNA改造だが、肉体を強化しているDマンも多い。建築や農耕にも影響があるだろう。機械が大雑把な部分をやり、人間が細かい部分を仕上げる。この形は変わらないだろうけれど、人間の小回りの範囲が随分広くなるのには間違いない。一説によると、建築の作業効率が三十パーセント増しになるとも言われている。

 ……。

 ……。

 ……。

「おにぃ、目的地に着くよ!」

 ソフィアに揺さぶられ、最上は目を覚ます。それと同時に驚いた。

「僕は、寝てたのか?」

「かわいい寝顔だったわ」

 西天のタブレット端末には最上の寝顔が写っていた。情けないほど警戒心がない自分自身。

「消してよ!」

「嫌よ。私の前で熟睡するのが悪いわ」

「ぐっ」

 不覚だった。寝る時は常に気を張り、襲撃に備えていたから、ここ数か月深い眠りを味わっていなかった。

(くそっ、今の間にソフィアをさらわれたらどうするんだよ!)

 ファミリーの二人を信用したなんて思いたくなかった。まだ裏の顔がある可能性だって十分にあり得る。出会ってまだ一日もたってないというのに、なんて失態だ。

 電車を降りる頃には、すでに最上は気を張り直していた。






 東京の中心部の発展が進む中、郊外にある商店街は廃れていた。無人の商店街を抜けたら草原に出た。東京に草原というのも、イメージで言えばミスマッチだ。年を重ねるごとに人や機能は東京の中心部にさらにまとまるようになり、郊外は、住宅街になるか、もしくは放置された商店街があるほどさびれていた。全国的に見ても、機能の中心化が進み、都市と田舎の差が以前よりもはっきり表れている。

 草原をしばらく歩くと、赤塗りの建物が緑の中に現れた。

「あそこが……」

「そ、私達の家よ。家族の住処。伊吹荘って名前がついてるわ」

 レンガの堀に囲まれた伊吹壮は、おそらく元は旅館だ。門をくぐり、玄関まで続く石畳の上を歩く。庭は基本的にしばふで覆われているが、一角には菜園スペースがあった。青々と威勢よく茎と葉をのばす植物が見て取れた。トマトになす、それにかぼちゃまである。草原の中だけあって車の音や雑踏なんてまるでなく、ホトトギスの鳴き声が聞こえてきそうなほどのどかだ。

「組織の施設って、大体が東京の中心部にあるものだって思ってたけどな」

「そっちの方が便利ではあるわね。ここを拠点にしたのは私の事情よ。東京はうるさすぎてね」

「まぁ、確かにうるさいね」

 チョコレートみたいな扉を開けると、呼び鈴が鳴った。一歩入るとそこは旅館の名残を残したエントランスになっていた。右手には受付用と思われる窓口がある。旅館の頃は土足で入ってもよかったのだろうが、玄関の横に洋風なエントランスには似合わない木の土足入れがあった。

 各々が靴を脱いで土足入れにしまう。スリッパに履き替えていると、どたどたと騒がしい音がした。

 呼び鈴を聞きつけたらしい子供が三人、廊下を走ってきた。

 小学生ほどの年齢だが、三人そろって普通の人間とは少し違う部分がある。Dマンだ。

「おかえりなさい! お父さんお母さん」

(うわ、本当にお父さんって呼ばせてる)

 どうだ、と言わんばかりに朧火が最上を見ていた。

(絶対に呼ばないからな、僕は)

「このお兄ちゃんとお姉ちゃんは?」

 人懐っこい少女は、外国人のように金髪で、さらにその上に猫耳が鎮座していた。スカートのすそからもひょろりと黒いしっぽが見えている。Dマンの中でも獣人と言われる子だ。

「新しい家族よ」

「ほんとー!? みんな、新しい家族だってー!」

 少女が叫ぶと、わいのわいのと子供たちが集まってきた。小学生から中学生、いや、高校生になる子供もまじってざっと十五人はいる。

「す、すごい。多いよ」

 視線の数に押され顔を赤くしたソフィアが、最上の後ろに隠れた。一般的な男の体格に比べ小さい最上の後ろに隠れても、あまり意味がないのだけれど。

「それじゃあみんなであいさつしときましょうか。せーのっ」

「ようこそ、伊吹荘へ!」

 予想していなかった盛大な出迎えだった。






 ファミリーの施設に迎え入れられてから数日がたった。多少の規則はあるものの、以前のように隠れながらこそこそ生活するよりはずいぶん快適だ。伊吹荘では、二人で一部屋を使っているようで、最上は必然的にソフィアと同じ部屋になった。ベッド二つに、勉強机が二つ、そして本棚も一つあり、前にも人がいたのか見知った物からマイナーな物まで様々な小説が並んでいる。さらに最新型ではないけれど、液晶のテレビがある。お世辞にも広いとは言えないけれど、ソフィアと二人でいるには十分すぎた。

「快適だねーおにぃ」

 エアコンの効いた部屋で、ベッドにごろりと寝転がりソフィアはひたすらテレビを見ていた。

「テレビばっかりみてないで、たまには本を読んだらどう?」

「やだよー、文字追うのめんどくさい」

 動画中毒者らしい言葉だ、とあきれながら最上はふかふかのベッドに腰掛ける。

 けれど、ソフィアが四六時中テレビを見る気持ちもわからなくもなかった。食料を取りに行く必要もなく、虚構科学研究所の襲撃を心配する必要もない。はっきり言って手持無沙汰だった。安全で時間のある日々をどう過ごせばいいか、最上はすっかり忘れてしまっていた。

 とりあえず、最上は本棚にある小説を流し読みしていく。テレビを見るのもいい暇つぶしになるのだろうが、最上は動体視力が良すぎてコマ送りに見えてしまう。そのせいで、出来の悪い紙芝居のように見えてしまって、いまいち面白さがわからない。不出来な紙芝居を見るくらいなら小説の方が何倍も面白い。

 夕方に差し掛かる頃、部屋にノックの音が響く。出てみると朧火が廊下に立っていた。

「なに?」

「最上、ちょっと事務室に来い」

「わかったよ」

 なんで、とはいちいち聞かない。

「ソフィア、行くよ」

「はーい」

 最上はまだファミリーを完全に信用したわけではなく、できるだけソフィアと一緒にいるようにしている。

 伊吹荘は三階建てで、最上とソフィアが使っている部屋は三階の一番端っこの方にある。事務室は一階にあり、朧火の後を追って最上とソフィアは廊下を歩いた。

「ソフィアちゃん、体調はどうだ?」

「うん、おかげさまでスーパー元気だよ!」

「そうか。ならよかった」

 ファミリーに入れば、最上とソフィアに必要な食料を支給すると言った。てっきり人間の肉をどこからか持ってくるものだと思っていたけれど、西天が出したのは人間の血だった。ソフィアには血の方があっていたらしく、たった数日で普通に歩けるどころか、逆立ちまでできるようになった。最上は血の採取と持ち運びが面倒だったので、肉ばかり食べさせていた。血の方がよかったというのは盲点だ。

「世の中にはDマン云々関係なく、吸血体質が百万人に一人の割合でいるから、そういう人向けの血液もあるんだ。それを使うことにした」

 全く知らなかった。今まで苦労して人の死体を探していたのがバカらしい。

 事務室に入ると、クスノキの香りが最上の鼻を満たした。十畳ほどの広さで、入り口から数歩の位置に二人用のソファが向かい合う形で置かれ、その間に足の短いガラスのテーブルがある。来客と会話する時に使うのだろう。その奥にはクスノキを使っている年季の入った木製の机があり西天がいた。

「来たわね、最上くんとソフィアちゃん」

 相変わらず西天は着物姿で、黙って大人しくしていれば大和撫子に見える。

「単刀直入に言うわ。学校に行くか、働くか、決めなさい」

「……僕とソフィアに学校って選択肢があっていいの?」

「当然じゃない。望むべき勉強するのは子供の権利よ」

「学校に行ってない十六歳の西天さんが言うのは説得力に欠ける気がするんだけど」

「私はもう行ったわ。大学までね」

「飛び級!? もしかして留学したり!?」

 と、ソフィアが大げさに驚く。

「そうね。アメリカの方まで行ってきたわ」

「お母さんってもしかして、めちゃくちゃ頭良かったりするの……?」

 ソフィアはファミリーのルールにのっとって、すでに西天のことをお母さんと呼んでいる。最上としては複雑だ。

「別によくはないわよ。人より多少成長が早かっただけよ。ま、今は私のことはどうでもいいわ。とにかく、学校に行くか働くか、決めなさい。どちらを選ぶにせよ、私と朧火くんが全力で援助するわ。期限はそうね、一週間あれば大丈夫よね」

 西天の話はこれで終わりだった。

 学校に行くか働くか。どちらも最上には縁がなかった選択肢で、また、それが大きな分岐点になるというのも察していた。

 部屋に帰って考えようと思って事務室を出た最上だが、出た途端、朧火が話しかけてきた。

「最上、ちょっと伊吹荘の裏にまで行くぞ」

「なんだよ。僕に話があるならここで言えよ」

「いいからこい」

 半ば無理矢理、伊吹荘の裏に連れていかれる。当然、ソフィアもついてくるはめになった。

 裏庭にはしばふはなく、肌色の土が広がっていた。公園にあるようなブランコやシーソーがいくつかあるため、子供の遊び場として使われているのだろう。体を動かすにはもってこいの場所だ。そこで朧火はへらへらと笑いながら言った。

「稽古をつけてやる」

「は?」

「十七にして耳が悪くなったか? 稽古をつけてやると言ったんだ」

「ごめん、僕には朧火がなにを言ってるのかさっぱりわからない。僕は誰かに稽古をつけてもらう必要があるほど弱くないんだけど」

 最上は『あの』新神定理を倒している。

 WW3をたった一人で終戦に導いた少女を。日本を救ったと言われる人類最強を。

 最上には負けたが、新神定理の強さは本物だ。

 日本は第三次世界大戦のどさくさに紛れて敵国となる国々に侵略されかけた。序盤は自衛隊が活躍して、日本の工学技術の高さをアドバンテージに侵略を跳ねのけた。だが、敵国がDマンを投入し始めてから戦況ががらりと変わり、一気に押され始めた。まず九州が占領され、そこを中心に沖縄と四国の半分を落とされた。

 当時、日本は工学的にはアドバンテージを持っていたが、遺伝子工学的には圧倒的に劣っていた。

 倫理にうるさい日本人は、Dマンを自衛隊に組み込む試みをことごとく拒んでいたのだ。当初戦争が起こった場合、幼い子供を戦地に送ることになるからだ。強固な倫理観念は、日本人の誇れる宝物だ。

 だが、それが第三次世界大戦では裏目に出てしまった。

 武器を持ってなお、馬のような速力で走れる人間や、銃弾を無効化するような硬い皮膚を持った人間の軍隊に、ほぼ一方的に蹂躙されていった。

 日本の中に基地を築いていたアメリカがいたけれど、他の戦地に戦力を裂いており、日本に残っていた者では敵の進行を止めることは叶わなかった。

 四国、九州、沖縄、中国地方が落とされ、日本の完全な占領まで間もないと言われた頃。

 新神定理が日本に突如君臨した。

 彼女はたった一人で戦況を覆す。完全に占領されていた中国地方を取り戻し、四国、九州、沖縄と次々と敵を排除した。たった一人で、日本から一切の敵を取り払ったのだ。

 しかも日本を占領から解放するや否や、戦争の要因となった人間を次々確保し、強引に終戦条約を結ばせ、第三次世界大戦を終わりへと導いた。

 戦争が終わると、新神は姿を消した。それゆえ都市伝説扱いされることもあるが、新神が日本を救ったのは間違いない。虚構科学研究所としては、新神が姿を消したということにした方が後に活動させやすかったのだ。

「ぶっちゃけ、僕は僕自身を最強だって思ってる」

「若いな。俺にはその自信が羨ましい。ちなみに、最上の最強の定義ってなんだ?」

「守りたい人を守れる強さを持っていることだよ」

 大真面目に最上は答える。ソフィアが顔を赤く染め、朧火が面白そうに笑った。

「若いな! いや、最近の子供は恥ずかしくてそんな言葉吐けるやつなんてなかなかいないか。まったく、俺の若い時を思い出すよ。まだガキの時のな」

 朧火は手袋を付けた両手をはやすようにたたく。

「僕、あんまり沸点が高い方じゃないんだけど」

「悪かった悪かった。ともかく、お前が最強であるために俺の稽古受けとけって」

「やだよ」

 そもそも、最上は朧火に何かを教わるということ自体に嫌悪していた。正直言って、朧火の人を食ったような態度が嫌いだ。

「なんで僕より弱いやつから稽古受けなくちゃいけないんだよ」

「図に乗るなよ小僧。俺がお前より弱いだと?」

 小説か漫画を探せばゴロゴロ転がっていそうなセリフを朧火は煽るように言った。プチっと最上の脳の血管がちぎれたような音がした。

「ソフィア、下がってて」

 最上の脳内が沸騰しているのを察したソフィアは、止めようとしてくれたが、それで止まる最上ではなかった。

「出会った時から気に食わなかったんだよ、朧火は」

「よーし、家庭内暴力にならない程度に勝負すげぼぶぅッ!?」

 一瞬で朧火との間合いを詰めた最上は、右手の拳を鳩尾に叩き込む。簡単に彼の体は宙に舞い、数回転してから地面にたたきつけられた。

「よっわ」

「げほっ、げほっ、お父さんに手を上げるなんて――」

「煽っといてなに言ってるの。それに、朧火と家族になったつもりはない」

「あげぶっ!?」

 蹴りの追撃を放つと、これもあっさり当たり朧火は地面をサッカーボールのように転がる。

「お、ま、手加減しろよ!」

「僕に喧嘩売っておいてそれなの? 手加減はめちゃくちゃしてるよ。してなかったら今頃内蔵残ってないって」

 あまりの弱さに冷めてしまった最上は、はぁ、とため息をつく。

「まだ僕に稽古をつけるなんて言う気?」

「言う気だが?」

「もう一発蹴っとこうか。ついでにソフィアに手を出す前に去勢しとこ」

 サッカーボールを蹴り飛ばす要領で、助走をつけ、足を大きく踏み込む。

「あー、最上のお兄ちゃん、だめです!」

 ランドセルを背負った少女が割り込んできた。金髪の合間に見える猫の耳、そしてつるりとした卵のような印象を受ける白いワンピース、そのすそからひょろりと出ている黒いしっぽ。見覚えがあると思うのも当然で、同じ伊吹荘に住んでいる子で、最上が伊吹荘に来たとき一番初めに迎えてくれた子の一人だ。

「花野ちゃん、だっけ」

「そうですー。家族なんだから仲良くしないとだめですよ!」

「僕はこいつと家族になったつもりは――」

「お兄ちゃんも、お父さんも、都も家族なんです!」

 有無を言わさぬ調子で花野は言うと、小さな両手で最上と朧火の手を握る。そしてそれを繋ぐように引っ張った。

「はい、仲直りの握手です!」

「だそうだ。仲直りしちゃうか」

 あれだけボロボロにやられて、朧火はまだなんでもないように笑っている。

「小学生に助けられて、みっともないね」

「ありがとなー都ー。お父さん助かったぞー」

 皮肉を言っても、朧火は笑みを消さず、花野の頭をなでてやっている。

(大人の余裕ってやつ? 見栄? 虚勢? 気に食わないな)

 心の中で毒突きながらも、小学生に仲裁されて引っ込まないのは恰好がつかない。最上は仕方なく朧火と握手をしたのだった。






 その夜、最上とソフィアは寝巻で各々のベッドの上で小説と動画に没頭していた。ソフィアが手に持っているのは、西天に借りたタブレット端末だ。

 常に一緒にいると話題が尽きることも珍しくない。お互いが口を利かずとも、居心地の悪さはまるでなかった。それこそ、お互いを知り尽くしている証拠なのかもしれない。

 開いた部屋の窓からは涼しい風と共にわーきゃーと子供の声が入ってくる。都会のマンションに住んでいたら、苦情が飛んでくる騒がしさだ。

 部屋にコンコンとノックの音が響いた。

「だれ?」

「だれ~?」

 最上とソフィアの声が被る。

「私よ。入っていいかしら?」

「どうぞ」

「どうぞ~」

 昼に着るような生地の厚い着物ではなく、浴衣のような涼し気な姿をした西天が入ってきた。昼に着けていた桜の髪飾りなども外していて、髪が伸びたように見える。

「何しにきたの」と、最上。

「親睦を深めるために、お話ししましょう」

 にこにこと愛想のいい笑みを浮かべながら西天は言った。

「話すことなんてないんだけどな」と、最上が言うのにも構わず、西天は机に備え付けられたイスを引いて座った。

「そうかしら? 私は聞きたいことがたくさんあるわ。今日はその中の一つを聞こうかしら。んー、そうね、やっぱり恋バナがいいわね。ソフィアちゃんがどうして最上くんを大好きなのか」

「ぶっ」

 予想外の西天の言葉に最上が噴き出す。

「僕はしない。絶対にしない。それこそ話すことはない」

「聞きたい!? お母さん、聞きたい!?」

 ソフィアはのりのりだった。持っていた西天から借りていたタブレット端末をベッドに放り、体をがばっと起こす。

「もちろんだわ。私もまだまだ恋バナには興味があるお年頃なの」

「しよしよ! ボクも一回してみたかったんだよね~」

「じゃあしましょう」

「うん! ボク達は元々同じ研究所内のDマンで、接すること自体はあったんだ。ただ、ボク、初対面の人と話すのが苦手で、しかもおにぃもほら、けっこう不愛想だからさ、お互い馴染むのに時間がかかったんだ」

 不愛想とは失礼だ。

「で、その……ボクのきっかけってのがね、たまたま一緒にDマン強化訓練をやっていたときなんだよ」

「体育みたいな物かしらね」

「そうそう! でも、戦闘の練習だから殺伐としてるけどね。ボクは戦闘が苦手だからさ、いつも怒られてたんだ。で、ついに指導員の逆鱗に触れちゃってね。殴られそうになったの」

「そこで最上くんが……?」

「そう! テレビのドラマみたいにね、その指導員を殴り飛ばして、ボクを守ってくれたんだ」

「私は好きよぉ、そういうの」

「ボクもベタすぎる展開だとは思ったけどさ、実際に庇われるとあれだね、キュンとくるね!」

 えへへ、とソフィアが笑う。

「それからお兄ちゃんみたいな人だって思って『おにぃ』って呼んでるんだけどね」

「そろそろ下の名前で呼んでみたらどうかしら?」

「……それはちょっと恥ずかしい」

 最上はすっかり蚊帳の外ではあるのだが、話を聞いているだけでむずかゆい。ベッドの端っこの方に寄り、二人に背を向けて小説を読んでいた。

「最上くんはソフィアちゃんのことをどう思ってるのかしら?」

「……」

「おにぃ、ボクも聞きたいな」

「別に……」

「おにぃってさ、その……さっきみたいに守りたい人を守れるのが強さとかボクがドキドキしちゃうことを平気で言うくせに面と向かっては何も言ってくれないよね……」

「ソフィアちゃんに対しては奥手なのよ」と、西天がくつくつと笑う。

「違う」

「可愛いわねぇ、最上くん」

「ね~まったくも~子供なんだから~おにぃは」

 否定したかったが、反論すればするほど二人が絡んできそうなので最上は無視することにした。

 最上からの反応がないとわかるや否や、ソフィアが西天に向かって切り出した。

「次はお父さんとお母さんの関係を教えてよ~。どうやって二人は今の関係に至ったの?」

「んー、自分のことを話すのは恥ずかしいわね……」

「ボクも話したんだからさ、お母さんも話そうよ!」

「ふふ、まぁそうよね。フェアじゃないわね。ソフィアちゃんのと比べてロマンがないわ。私の父と朧火くんが親友でね、私が小さいころから朧火くんとはよく遊んでいたのよ。はじめはただの危ない人だと思っていたわ。よく今まで犯罪者にならなかったなってくらい、笑い方が危ないのよ」

「……ボク、どう反応したらいいのかな」

「笑っておけばいいのよ。ソフィアちゃんも何かされそうになったらすぐに私に言うのよ?」

「は、はーい」

「で、私が十三歳の頃ね。大学も卒業して、ちょうど、私が今のファミリーを作ろうと決意したころよ」

「……お母さんってさりげなく超人だよね。十三歳でもう大人の思考をしてたの?」

「うーん、ただのマセた子供だったかしらね。それ以上でもそれ以下でもないわ」

 西天は謙遜する。

「で、ファミリーの創設ね。私一人じゃあどうしようもなかったわ。頭が少しいいだけのただの十三歳の女の子だったからね。だから、朧火くんを頼ってみたの」

「ふむふむ……」

「そしたら、今までただのロリコンだと思っていたのだけど、デキる男だったのよね。組織の運営の仕方や、お金の回し方、人との付き合い方、色々教えてもらったわ。仕事になると真剣に接してくれたし、十三歳だった私を子供扱いしなかったわ。仕事をしているときは真面目だし……不覚にも、かっこいいと思ってしまったのよ。いつの間にか惚れちゃったのよね」

「きゃ~わかる。仕事してる男の人ってかっこいいよね。テレビ見てても思うよ。ってことは、まさか、プロポーズはお母さんから……? なんか意外」

「ええ。朧火くんはあれでけっこう分別があるのよ。元々私を友人の娘って扱いをしてたのよね。だから私を恋愛対象として見るとかはなかったの。ファミリーとして、形式上の『お父さん』『お母さん』ではあったのだけど、それだけだったわ。十六歳になって私が結婚できるようになったから、プロポーズして、それからはとんとんと進んで、本当の夫婦になったわけ。まぁ苗字は別のまま、というか、朧火くんは名前がないから苗字にするとややこしかったからそのままなんだけどね」

「ふぅ、ボク、いいと思うそういうの」

 朧火の下の名前がないことに関しては、ソフィアは突っ込まなかったが、最上は少し気になった。となると、朧火には戸籍がないのではなかろうか。ならば、西天が言っていた結婚は正式な物ではなく事実婚だ。

「そう言ってくれれば話したかいがあるわ」

 ソフィアと西天はしばらく部屋で談笑を続けた。ファミリーの立場上では母と娘なのだろうが、その様子は友達のようだった。

「ずいぶん時間たっちゃったわね。そろそろ部屋に戻るわ」

「うん、おやすみ~」

「おやすみなさい。最上くんも、おやすみ」

「……おやすみ」と、最上は背を向けたまま言ったのだった。

 女が二人そろうと、こうも甘ったるい話ができるのか、と最上は内心戦慄していた。





 

 翌日、夏の日が沈みだす頃、伊吹荘の玄関の呼び鈴が澄んだ音をたてた。この時間に来客だろうか、それとも誰か家を出たのかと、最上は三階の自室の窓から外を見た。誰も出て行ってないのを見ると、誰かが伊吹壮に入ってきたみたいだった。

 しばらくすると、夜ご飯ができたと西天からの集合がかかる。最上はソフィアを連れて、二階の食堂に向かった。わいわいがやがやと、まだ小学生にもなってない子から、中学生の子、さらには最上同様本来存在しない高校生の年齢の子まで、総勢十五名を超える子供が集まっていた。その中に混じって、見知らぬ二人の男女が立っていた。二人とも四十代後半くらいだろう。

「あっ」と、その二人を見てソフィアが声を上げる。

「おにぃ、あの人ニュースで見たことある。西天賢治さんじゃない?」

「ほんとだ」

 テレビを見ない最上は新聞で顔写真を見た。

 西天賢治は大物政治家で、防衛大臣であり、有名になったきっかけは日本でDマンを自衛隊に組み込む提案をしたことだろう。

 苗字でもわかるように、彼は西天心の父親に当たる人物だ。

「というか、ソフィアってニュースも見るんだね」

「それ、ボクをバカにしてるよね!?」

 西天賢治はスーツをきっちり着込んだ男で、新聞の写真でみた限りでは、鷹のような眼力が印象的だった。行動も時に冷血と取れるほど合理的で、新聞記者には『鋼鉄』などと呼ばれている。しかし、新聞の印象とはまるで違っていて今の賢治は柔和な笑みを浮かべていた。女性の方は、賢治の妻だろうか。西天の目と同じように、目じりが垂れていて優しげで包容力のある女性だ。

「お、賢治と桜さんもう来てたのか」

 最上達に続いて、朧火と西天が入ってきた。

 入ってくるなり朧火は賢治の方につかつかと歩いていく。それに対し、賢治も朧火に迫った。そして互いに互いの胸倉を掴みあう。

「おう、賢治。老けたなぁお前」

「朧火はそろそろ脳みそ腐ってくるころではないのか?」

 悪口を言い合って、二人ともにぃっと笑う。それから胸倉から手を離すと互いの肩をたたき合った。新聞で見るイメージとはずいぶん違う、と最上は思った。賢治は、冷静で冷徹な、ビジネスライクな人間だ、というのが活字や写真の上での最上のイメージだった。

 いつものことらしく、子供たちはまったく気にせず、西天とその母は呆れた顔で二人を見ていた。

「桜さんはむしろ若返ったんじゃないですか?」

「あらあら、褒めてもなにも出ないわよー」

 朧火は西天の母親の桜には敬語を使っているようだ。

「お久しぶりです。お父様、お母様」

 続いて西天が二人に挨拶をする。

 そして、「今日は紹介したい子がいます」と、言って客人の二人を最上とソフィアの方へ連れてきた。人を前にした野生のリスが木に隠れるかのように、ソフィアが最上の後ろに身を小さくして隠れる。

「新しくファミリーに入った最上くんと、ソフィアちゃんです」

 近くに来ると、賢治の体つきが文系の物ではないのがわかる。スーツの胸の部分が筋肉で盛り上がっており、並々ならぬ威圧感を感じる。慣れていない人間だったら、彼が近づいてきただけで二三歩下がってしまいそうだ。首を上げて見上げないといけないほどの身長が迫力に拍車をかけているが、修羅場をいくつも潜ってきた最上はこの程度で動じることはなかった。

「はじめまして」

 極めて短く、簡潔に最上は挨拶をする。ソフィアも小さな声であいさつをした。

「やぁ、君たちの話は聞いてるよ。私は西天賢治。こちらこそよろしくお願いする」

 朧火のにやにやとした嫌な笑みではなく、体育会系が浮かべる闊達な笑みを浮かべる。続いてほんわりとした西天桜が挨拶をし、それでとりあえず顔合わせは終わった。

 西天と桜は、食堂へ夜ご飯の盛り付けに向かった。

 朧火が賢治に絡む。

「賢治、二十年前に計画した全国中学校巡りをそろそろ実行に移そうぜ」

「勘違いさせるようなことを言うな」

 朧火と賢治からソフィアを遠ざけた。

「娘が産まれてから私はロリコンが大っ嫌いになったんだ。朧火、貴様は敵だ。国家の敵だ」

「俺と子供の素晴らしさについて語り合った若かりし頃のお前はどこに行ってしまったんだ。ちっ、諸行無常とはこのことだな。また理解者が減ってしまった」

「だから妙なことを言うなと言っているだろうが」

 そこで桜から「朧火さん~、運ぶの手伝ってくれるかしら」とお呼びがかかり、「今すぐ参ります!」と、朧火は部屋を出ていった。

(朧火の奴、人によって態度変えすぎだよね)

「変な奴だろう?」と、賢治が最上の方を向いて問いかけてきた。

「ええ、それについては同感です」

 使いなれない敬語を使って最上は接する。

「君たち二人は心の子供みたいなものだ。つまり、私の孫。もし困ったことがあったら私に言うんだ。絶対に力になろう」

 がしっと大きな手で最上の肩を掴みながら賢治は言った。

「ありがとうございます」と、最上は形だけの返事をした。

 それに満足した賢治は、頷いてほかの子供の元に歩いて行った。

「こ、怖い人かと思ったけど、優しそうな人だね」

「まぁ、そうみたいだね」

 政治家に対して陰湿なイメージがあった最上にとって、賢治のようなタイプは新鮮だった。







 学校に行くか、働くか。西天に選べと言われて一週間がたとうとしていた。明日がその期日で、最上はすでに結論を出していたが、ソフィアはまだ決めかねているようだった。

一週間たち、最上は一定の信用をファミリーに置くようになった。朧火はともかく、西天はおそらく信用できる。

 ファミリーは捨てられたDマンを保護する施設だ。DNAの改造が許されてすでに十数年たっており、だいぶDマンの存在が浸透しているが、拒絶反応を起こす人も少なくない。親が意図的にDNAを改造して子を産んだのに、その子がオーダーと違ったと言って捨てたり、人間と違う部位や能力を持つのを気味悪がって手放したりする。これは現代の社会問題の一つだ。

 Dマンは基本的に生存力が強いので、たとえ捨てられても生き抜く力を持っている場合が多く、『野良』のDマンが増えつつある。

 また、そういったDマンは親や社会に強い復讐心を抱いている場合もあり、犯罪に走りやすい。

 そういうわけで、捨てられたDマンを保護する組織を世間は必要としていた。

 政治家達が動くよりも早く、第一号のDマン保護組織として創設されたのがファミリーだ。

 それを運営する西天に、最上が調べた限りでは裏の顔はない。

 西天の近年の動きを調べて見てもそうだし、なによりファミリーで見た、子供たちへの優しさに嘘がない。

 夜ご飯を食べ、風呂に入ってから最上は、風呂上がりの牛乳の代わりに、コップに注がれた血を飲みながら部屋に戻った。

 朧火が医者からもらってくるこの血は、最上にはコップなみなみ一杯与えられるのだが、ソフィアには一口分しか与えられていない。不思議なことに、それでもソフィアは元気になっている。

 開いた窓からは、鈴虫の鳴き声と子供たちの笑い声が聞こえてくる。

二つあるうちの奥にあるベッドにはすでにソフィアが寝転がっていた。

 若干くせがあるソフィアの白髪はしめっており、風呂上りなのがわかる。黒を基本に赤いチェックの入ったパジャマを着ていた。タブレット端末を手に持って、仰向けで画面を眺めている。

(とことん動画中毒なやつだなぁ)

 最上は窓の傍にイスを置いて腰掛ける。夜風が肌の水気を奪っていく感覚が心地よかった。

「おにぃ、髪すいてあげる」

「うん、お願い」

 ソフィアが立ち上がり最上の後ろに立った。束ねていた最上の長い髪をほどき、鼻歌交じりでくしを通していく。

「ほんとさらさらだねー」

 髪を切るのは任せられない腕だが、くしを通すのには手慣れていた。

「ソフィア、動画に没頭するのもいいけどさ、進路は決めたの?」

「いーや、まだだけどさ、おにぃこそどうなの?」

「僕は決めた」

「そー。ならボクも決まったようなものだね。どうせおにぃと同じ方を選ぶし。どっちにするの? やっぱり学校?」

 最上は苦々しく顔をしかめる。

(僕が学校に行くって言えば学校に行くだろうし、働くっていえば一緒に働くんだろうな)

 最上はすでにどちらにするか決めていた。だが、それはソフィアにあえて言っていない。

「僕がどっちにするかなんて、どうでもいいことだ。自分の道は自分で決めるんだよ、ソフィア」

「えー、おにぃが選ぶ道がボクの道だよ。おにぃと一緒がいい」

「いつまでも子供みたいなこと言ってたらだめだ」

 『子供が子供に諭してるぞ』と茶化す朧火の姿が頭に浮かんでしまったが、最上はすぐにかき消した。

(お前みたいなのが大人っていうなら僕はとっくに大人だっつーの!)

「あくまで、あくまで参考にするだけだからさ、おにぃの選んだ方を教えて欲しいなー?」

 振り向くと、一般人よりもあきらかに長い犬歯を見せながら、ソフィアは諦め悪く笑った。

「だめだよ」

「ケチー」

 ムググ、と妹がうなる。

「ならさ、おにぃはボクにどっちを選んでほしい? これならどう?」

「学校」

「ならボク学校に行くよ」

「今の嘘」

「なら働くよ!」

「今の嘘も嘘」

「ならボク……」

「待て待て! ちょっとでも行きたい方、やりたいことがある方でいいんだ。ソフィアにはないの?」

「……あるかも」

「それは何?」

「うわー、誘導尋問だよそれぇ」

「言いたくない類なの?」

「うーん、恥ずかしいし……」

「なら、聞かない」

「やっぱり言おっと」

「アマノジャクめ」

 恥ずかしさのせいか、ソフィアのくしを動かす速さが上がった。

「テレビ、動画、そういうのにかかわることやってみたい」

「なんだ、あるんじゃないか」

 動画中毒のソフィアらしい答えだったけれど、最上はそれを立派だと思う。

「そのためにどうする? 僕はその道に全然詳しくないけどさ、テレビ局の下働きとかやってみる? それとも学校で勉強してから、大学やら専門学校に行ってみる?」

「笑わないんだね」

「笑う要素がどこにあるんだよ」

「ん、ありがと。学校からはじめたいよ。できれば」

「答え出たみたいだね」

「……そうみたい」

 照れくさそうにソフィアは言った。

「おにぃはどうするの? ボクが決めたんだからさ、言ってよ」

「働くよ」

「……そっか」

 どこでとか、なんでとかソフィアは聞いてこなかった。

 ソフィアは目標があって学校を選んだ。あれだけ偉そうなことをソフィアに言っておきながら、最上が働くのを選んだのは見栄だ。

 目標や夢なんてまるでなく、さっさと一人立ちして、朧火を見返してやろう、なんてくだらない理由だ。

(立派だな、僕の妹は)

 翌日の朝、最上は事務室で西天にそれぞれの決断を伝えた。クスノキの机でコピー用紙を眺めていた彼女は顔を上げる。

「わかったわ。でも意外ね、てっきり同じところに行くと思っていたわ」

「まぁね。……だけど、一つ確認させてほしい。ソフィアが行く学校は、安全なんだろうね?」

 ソフィアは学校に行き、最上は働く。

 ファミリーでは常にソフィアの傍に居れたわけだけど、それができなくなる。

「名前は穂野ノ坂学校。安全だわ。少なくとも東京で一番警備が行き届いてるところよ。一応、私達が管理してる学校だから」

「裏切り者とかいる可能性は?」

「ゼロよ。私と朧火くんが直接選んだ信頼できる人ばかりよ」

「……信じていいんだね」

「ええ」

「なら、任せるよ」

「もう一度聞くのだけど、本当に別々でいいのね? 最上くんも勉強したいなら勉強していいのよ」

「いや、僕は働くよ」

「そう。考えた上での子供の決断なら尊重するわ」

(また子供扱いかよ)

「今、子供扱いしたことを不満に思ったわね」

 心を見透かされ、最上は面を食らう。時折西天は心を見透かしたようなことを言う。朧火が十六歳の少女の尻に敷かれている理由を垣間見た気がした。

「ふふ、ごめんね。悪気はないのよ」と、西天が微笑んだ。

「ソフィアちゃんは学校、最上くんは働く。明日からその方向で手配するわ」

 朧火よりは西天の方が圧倒的に信頼できる。彼女が大丈夫と言う学校なら、ソフィアを任せてもいいだろう。






 夕方、朧火がこりずに、蛇のようなしつこさで稽古をつけてやると言ってきた。最上は断るのを諦めて、十五分だけという約束を取り付け、習っているふりをすることにした。

 夕日が影を作る裏庭で、最上と朧火は向き合っていた。今日は夏にしてはありえないくらいに涼しく、薄着でいると少し肌寒いくらいだ。

「最上、お前、髪邪魔になんないのか?」

 腰ほどまである最上の長髪をさして朧火は言った。

「慣れてるよ」

「切らないのか?」

「切れなかったんだよ」

 外に出て、悠長に髪を切りに行く暇なんて最上にはこれまではなかった。

「ソフィアちゃんに切ってもらえばよかったのに」

「……その言葉、一回ソフィアに切られてから言ってみてよ」

 ソフィアに髪を切られたときのことは、思い出したくもない。前髪をぱっつんに切られ、おかっぱにされた。ちょうど小学生低学年の女の子がするような髪型だ。

 朧火も察したらしく、話を切り替えた。

「さて、今から俺が教えるのは――」

 相変わらず黒装束の朧火は、偉そうに体の動かし方を話し出す。

「――んじゃ、やってみるぞ。俺相手に試してみろ。あ、あんま強くやんなよ。俺の腕が折れるから」

「わかってるよ」

 朧火が言った動作は単純。向かってきた相手の片腕を取り、手首とひじを掴み固定。それを返して相手の手から肩までを極める。そして、そのまま勢いを利用して地面へ倒してしまう。

 単純なのだけど、実際にやってみるとなかなかスムーズにはできない。朧火を相手に練習を繰り返す。

「ねぇ、これって合気道?」

「そうだ。合気道の基礎の基礎。一教だな」

 腕を取って、一の字に極めてしまって引き倒す。相手の勢いを利用するので、力はまるでいらない。

「なんでよりにもよって合気道……」

 女性が男から身を守るために使われることが多い合気道は、弱い人間が強いものに勝つための武道である。という偏見が最上にはあった。最上とはもっとも縁がなさそうな武道だ。

「最上はどうしてソフィアちゃんを守ろうとするんだ?」

 教わった動作を繰り返しやっていると、朧火が尋ねてきた。

「どうしてって……」

 返答に一瞬間が空く。ソフィアを守ることがあまりにも当たり前になっていた最上は、その理由を考えることはほとんどなくなっていた。

 朧火の言葉で、最上はソフィアを守ることに決めるまでの過程を思い出す。

 最上とソフィアは虚構科学研究所内で、同じ境遇を過ごしていた。

 虚構科学研究所には人間の汚れた欲望や思惑が溢れており、その中で育った最上は人間とは『汚い生き物』であると決めつけていた。その事実に最上はうんざりしていたし、自分も同じ人間なのだと思うと嫌になった。

 そんな中で、同じ化物プロジェクトの元に作られたソフィアと出会い、関係を持つようになる。

 はじめこそソフィアも他の人間と変わらず鬱陶しい存在だと思っていた。一件無垢に見えるソフィアの裏側を探っていた。

 けれど、共に日々を過ごすうちに知る。ソフィアには打算など一切ないのだと。 

最上を利用しようとすることもなく、かと言って疎むことも恐れることもない。

 虚構科学研究所の中で、ソフィア・クラウディという存在は泥の中の宝石だった。

 その宝石を、人間の欲で最上は汚したくなかった。徐々に仲良くなるにつれ、その思いが強くなり、この汚い世界からソフィアを守ろうと最上は決意したのだ。

 それを朧火に言うとまた「若いな」と、笑われた。

「今はそれだけじゃないんだろう? だろう?」

「何がだよ」

「わかってるくせに。なぁ? なぁ?」

 酒に酔って絡んでくるおっさんのようにうざいので無視をする。

「そういえば、最上は働くことにしたんだっけな」

 また朧火が話を切り替えた。

「そうだけど、なにか?」

「もしかして、働いて俺は大人だぞーって証明をしたいから選んだりしたんじゃなかろうな。いや、さすがにそこまで単純でもないか」

 にへら、と朧火が最上の大嫌いな笑みを浮かべる。

 むかついたので、腕にかける力を強くしてやった。

「イデデ! 図星かよ、って折れる折れる!」

 絶対に一人立ちしてやる。朧火の元から少しでも早く離れようと、最上は一層強く決意する。

 ファミリーの庇護なしに虚構科学研究所に対抗する手段も用意しなければいけないが、他にも経済的に自立する手段を持たなくてはならない。

 十五分たち、朧火は約束通りに稽古をやめた。

「さすがに運動神経はいいな。呑み込みがはやい」

「当然でしょ」

「よーし、じゃあ中に入るかー」

 これでキャッチボールでもした後なら、仲のいい親子に見えるのだろう。そんなことを考えてしまい、最上は冗談じゃないと首を振る。こんな男の息子に産まれた日には、転生を願ってしまうに違いない。

 今日も夕ご飯を食べ、寝支度をして最上は自室に戻った。

 ソフィアはまた動画を見てるんだろうなぁ、と思っていた最上だがその予想は外れた。

 彼女は窓辺にしゃがんで身を低くし、外を見ていた。

「なにしてるの」

「大人ウォッチングだよ! 生のラブシーンなんてなかなか見られないから、動画を見てる場合じゃないね!」

「おん?」

「身を低くして来てよ」

 言われた通りに、外からは見えないように身をかがめて窓際に移動する。

狭い窓辺で、ソフィアと最上は肩がくっつくくらいにつめて、窓から顔の上半分だけ出す。ソフィアも風呂上がりで肌がつやっぽい。男風呂とは違うシャンプーの甘い香りがした。

「ほら、あそこ」

 都心の光にも負けずに光る星が広がる夜空の下、ソフィアがレンガでできた塀の一か所を指さす。そこには西天と朧火が、最上達に背を向けて並んで座っていた。

 夫婦の見ている草原の奥には、東京一帯が光の塊になって見えるのだが、最上はそれを見て照明弾みたいだとロマンの欠片もない感想を抱いた。

「仲睦まじいことで」

「でしょでしょ?」

 朧火と西天は肩がくっつく距離で座っていた。西天が頭を朧火の肩に乗せ、朧火は手を西天の腰に回している。

「どう? おにぃ、ボク達もやってみない?」

 無邪気に犬歯を見せて、ソフィアが最上の肩に頭を乗せようとしてきた。

「やめい」

 それを手で押しのける。が、不覚にも最上の心臓は、はっきりとわかるくらいに脈打っていた。フルマラソンを全速力で完走してなお、脈拍を平時と同じくらいに安定させていられる自信があるのに。

「大体僕たちは兄妹だろう」

「仮の形でしょ。ボクはいつでもおにぃの彼女にジョブチェンジできるよ?」

 最上がソフィアを妹のように扱い、ソフィアが最上を『おにぃ』と呼ぶ。

 兄妹なんてのは最上彼方とソフィア・クラウディを繋ぐ、いつの間にかできてしまった役割だ。最上とソフィアの間に血縁関係があるわけでもない。同じ虚構科学研究所にいて、たまたま密に関係しただけ。それがたまたま兄妹のような形を取っただけだ。

 けれど、最上はソフィアのクエスチョンマークには「断る」と返しておく。

「おにぃのイケズー。ん? ああ、あぁ!」

 悲鳴みたいな声を上げたソフィアは、自分の顔を両手で覆った。なんだ? と最上は外にいる二人へと視線を戻す。

(キスかよ)

 確かに見ている方が恥ずかしい。ソフィアは目を手で覆いながらも指の隙間からばっちり見ているが。

「なんだろうね、大人って」

「答えは色々あると思うけど、ボクはああいうことやってるのも大人だと思うなー」

「そんなものなのかねぇ。僕にはよくわからない」

「なになに? おにぃはお父さんやお母さんに子ども扱いされるの気にしてるの? 子供だなぁ」

「ソフィアにだけは言われたくない」

 そもそも、大人と子供の境界線がまるでわからない。二十歳を迎えたり、成人式をすぎたりしたら大人? それはないだろう。子供のまま成人したような人間も、世界には腐るほどいる。

「子供であるのを気にするおにぃに提案だよ。どう? お母さんたちみたいにボクと大人の階段を……」

「『妹』とは勘弁だ」

 最上とソフィアを繋ぐ役割を理由にして断り、最上は自分のベッドに戻ったのだった。






 西天がまとめる学校だけあって、ソフィアの穂野ノ坂学校への入学はスムーズだった。穂野ノ坂学校は小中高一貫校の一部だ。Dマンのみならず、一般の生徒も普通に通っている。学校の生徒数自体は、都内の中では少ない方だが、学ぶ環境としては十分な設備が整っていた。

 ソフィアは高校一年生として入学することになった。小中学校には通っていないけれど、一応勉強はしていてある程度の教養はある。だが、抜けが多いのも確かで、人一倍の努力が必要なのは間違いない。夢を叶えるために頑張ってほしいと、最上は密かに応援していた。

 朝、ソフィアを学校まで送った後に、最上は朧火に呼び出された。事務室前の廊下で朧火と合わせたくもない顔を合わせる。

「バックアップするって約束だからな。とりあえず、一人で働けるようになるまでは面倒見てやるよ」

 完全に上から目線の朧火に、悪態の一つくらい言い返したいところだったが、今日はぐっと我慢した。最上は仕事の経験が乏しすぎた。ゲームセンターの下にある隠れ家を提供してくれた日ノ出キキから、『いかにもやばそうなバイト』を一件受けた限りだ。

「とりあえず、日雇いバイト行ってこい」

 チラシを一枚、朧火から渡される。

「まずは一回働いてみろ」

 言われるがままに日雇いバイトの会場へ行く。仕事の内容としてはライブのイベントの会場設営だ。最上が働くための手続きは朧火がすでにすましていた。着くなり仕事をすることになり、八時間みっちり働いた。肉体的には、元々体が丈夫で、体力も半端なくある最上にとってはまったく苦ではなかった。ただ、多くの人間がいて意思伝達が必要になり、一度に多くの知らない人間と連携を取った経験のない最上にとって、そちらの方が疲れた。気質が似ている人間とはあっさり打ち解けるところまでいったが、中にはそう、最上と朧火みたいに合わない人間もいた。

「あのハゲじじぃは絶対に許さない」

 なんてつぶやいたのも事実だ。手渡しでもらった茶封筒に入ったバイト代を握りしめて、最上は伊吹荘にまで帰る。

「おう、お帰り」

「おかえりなさいです! 最上お兄ちゃん!」

 玄関前で猫の遺伝子が組み込まれたDマンの花野と、朧火が戯れていた。小学生を高い高いする朧火の笑顔は、完全に犯罪者のそれだ。

「ただいま」とは言わずに、黙って今日のバイト代が入った茶封筒を朧火に差し出した。

「なんだ? いらねぇよ。自分で稼いだんだから貯めとけ」

「けど、今までの飯代とかあるでしょう」

「そんなの取ってたらファミコン何個分になるかわかんねぇぞ。そもそも家族養うのに金なんて取るか」

「……」

 ありがとう、と言えばいいのだろうか。けれど、朧火にそんなことを言いたくないと思う気持ちがあり、最上の喉の部分でつっかえてしまった。代わりの言葉を探す。

「朧火と西天さんは、どこでお金を稼いでるんだ?」

 ファミリーの組織運営には、大勢の子供を養うお金がいるはずだ。朧火も西天も、外に出て働いている様子はなく、最上にはお金の出所がわからなかった。

「心はスポンサー集めで、俺は資産運用……いわゆる株やらFXやら土地転がしで稼いでる」

「資産運用って、リスク大きくないの」

「まぁなぁ。さすがに今は一度や二度の失敗で破産するようなことはしてないな。長い間世の中見てると、金の流れが掴めてくるから利益は出せてる。残念ながら、バブル景気の時ほど大きくは稼げないが、今はオリンピックのおかげで景気いいから稼ぎ時だな」

 花野を高い高いしながら朧火は答える。

「ま、とにかくファミリーを運営するのにも、子供に食わせるのにも困ってないから安心しろ。その金は貯めとけ」

 見ず知らずの子供を多く養えるだけの稼ぎを出している。

 その部分だけ見ればきっと朧火は立派な大人なのだ。

 けれど、踏み込んでみてみたら嫌な奴だし、とんでもないロリコン野郎だ。

(外から見える部分が大事なのかな、この世界ってのは)

 などと考えながら最上は伊吹荘の中に入っていった。

 





 最上とソフィアが進路を決めて、一週間がたった。頻繁に東京の都心に出ている最上には、東京オリンピックが近づいてきている影響で、外国人が増えてきているのがよくわかった。

 第三次世界大戦を終えた後の、『世界平和を象徴するオリンピック』を謳っているだけあって、日本政府だけならず世界からも手厚い支援を受け、今回のオリンピックは成り立っている。

 日本政府は、絶対に成功させなければいけないというプレッシャーがあるだろう。

 連日国会でオリンピックをテーマに話し合いが行われている。

 マスメディアは、視聴率を稼ぐいい機会であり、血気盛んに東京オリンピックについて取り上げている。

 建築業の人間は、競技場の仕上げを行っている。

 電光掲示板を見れば、オリンピックがほとんど必ず入っている。

 東京全体が東京オリンピックに向かって一丸となっているのだ。余談だが、次回の東京オリンピックには間に合わないが、Dマン達が競える種目の用意が行われているらしい。

 東京で土木工事のバイトを終えた最上は、夕方、いつものように朧火の稽古に付き合っていた。

「働くのには慣れてきたか?」

「はじめっから楽勝だよ」

 実際のところ、五日前にはとある店舗の店長と、昨日は工事現場の責任者と喧嘩した。

 五日前は、やけに上から目線で物を言う奴がいて、聞く必要もないグチまで言われ、最上の高くもない沸点に達してしまった。昨日はいわゆるパシリ扱いされ、それだけならまだいいのだが、頼まれたジュースを買ってきたはずなのに文句を言われ、ぶち切れた。

 最上は童顔で、さらに身長がぎりぎりソフィアよりは高いくらいなので、舐められやすいというのを数日間で学んだ。

 向かってくる朧火に対して肩に体重を乗せた一撃を入れ、彼が怯えんだところで下の方から鼻へ掌底を叩き込む。これは寸止めだが。今日はこの繰り返しだった。

「最上、今は稼ぎ時だぞー。企業が潤ってる時期で、仕事を探しやすい。短期バイトに精を出すのと一緒に、割の良い固定バイトも探しとけ。できれば正社員に繋がるやつのな。候補はいくつか探してるが、自分でも探してみろ」

「わかった」

「固定バイトは同じ人と一緒に居続けるわけだから、喧嘩してたら長くはもたないぞ」

「喧嘩なんてしないよ」

「五日前と昨日したろ」

 ばれていた。

「……向こうが悪いんだよ」

「俺のとこにも電話きたから、事情は大体わかってる。相手が悪いのはわかったが、そういう時はむかついても笑顔浮かべて心の中で罵っとけ」

「なにそれ。なんで僕が我慢しないといけないの」

「嫌な奴とどーしても一緒にいなければいけない時の対処法だ。相手が立場的に上の場合のな。大体、どこにでも、むかつくやつは一人や二人はいるもんだよ」

 マフラーからわずかにのぞく口角で朧火がへらへらと笑っているのがわかる。

「まったくその通りだね」

「おい、誰を見て言ってるんだ」

 十五分で稽古を終えて、伊吹荘の中に入ると朧火に束ねられた十枚ほどのコピー用紙を渡された。そこには正社員にもつながるバイトを募集している物がピックアップされていた。

「それとこれだ」

 名刺の束を渡された。そこにはリストに載っている会社の重役の名前が連なっている。

「話しはその名刺に書かれてるやつから聞け。明日は興味あるとこ回ってこい」

 翌日、最上は言われた通り、バイト探しのために東京を回ることにした。

 うだるような暑さのコンクリートジャングルを歩き回る。ファミリーに入ってからは、ファミリーと虚構科学研究所が取り交わした条約が効いているらしく、虚構科学研究所からの襲撃は一度もなかった。

(組織の力も馬鹿にできないね)

 リストにあった仕事場を、適当に選んで回っていく。半分を回っても、取り立ててやりたいと思えるバイトはなかった。

(しかし、バイトの見学ごときに重役がわざわざ出て仕事の内容を説明してくれるって、朧火はどんなパイプ持ってるんだろう)

 見た目では二十才前半に見える朧火だが、その歳でこんなに多くもの人と関係を築けるのだろうか? それとも組織の運営をやっていれば、人間関係なんて勝手に形成されていくのか?

(見た目より歳を取ってるのかもしれないね。まぁ、今は朧火のことはいいや。……次は、テレビ局の下働きか)

 朧火のリストに載っていたのは、『青空テレビ局』という、知名度で言えば上位に位置するテレビ局だ。テレビをめったに見ない最上でも知っており、昨年、ソフィアがここのドラマが面白かったと言っていた。

 品川区にあるそのテレビ局の本部のビルは、どっしりとした四角形でありながらガラス張りで繊細さが伝わってくる。そのガラスには名前の象徴である青空が全面に映り込んでいた。海沿いにあるので、しょっぱいにおいがする。海風を浴びながら、最上はその建物の入り口をくぐる。

 忙しそうに歩き回る関係者や、取材を受けている最中の人も見て取れた。有名人もいるのだろうが、最上にはあまりわからない。ソフィアがいたら指差しで解説してくれそうだ。

(名刺に書かれてる人の名前は……秋月綾乃さんか)

 テレビ局関係者の休憩中らしき人を見つけ出し、名刺を見せて秋月がどこにいるかを聞き出す。

三十歳手前にして売れっ子プロデューサーで、もしかしたら忙しくて話を聞いてもらえないかもしれない。と、言われた。

 もうすぐ始まる生放送の料理番組の会場へと最上は向かった。その番組を秋月は担当しているらしい。

バーチャルスタジオ化が完全に終わったこのご時世でも、生放送では普通の器具を準備し、配置しなくてはいけない。

(休憩になるまで待った方がいいよね)

 せめて秋月がどんな人物かはあてを付けておこうとスタジオに向かう。

 目的のスタジオに繋がるドアは開きっぱなしになっていた。ばたばたと人が出入りする様子を、最上は廊下の邪魔にならない場所から観察する。指示を出している偉そうな女性を探す。

 が、スタジオでそのような人は見当たらなかった。指示を飛ばしているのは、全てが男だ。

「秋月さんはどこだ!?」

 なんて声が会場から怒声として聞こえてきて、最上は彼女が来ていないのを知った。

(遅刻かよ……)

 なら、焦って入ってきた人物が秋月ということになるか。

「なぁ坊や。あのスタジオに何か用があるのか?」

 観察を再開しようとしたら、一人の女性に話しかけられた。青空テレビ局に属する女優だろうか? と思えるほどぱっと見スタイルがよかった。けれど、最上はすぐにそれを否定する。目の下に半月状のクマができており、たばこをくわえ、よれたワイシャツを着ている。さらには、たばこのせいで焦げがついたジーンズを履いていた。とても風貌を気にする女優とは思えなかった。顔立ちはずる賢い狐を思わせるが良い部類に入るだろう。

「秋月さんを探してるんです」

「そいつぁ奇遇だねぇ。私が秋月だぜ」

「……秋月違いじゃないですかね」

 最上は遅刻してて急いでる人間を探していたわけだが、この秋月はまったく焦る様子がない。

「朧火のやつがガキが一人行くかもしれないって言ってたから、声かけて正解だったぜ。で、バイトの話しか?」

「本当に、プロデューサーなのに遅刻した秋月さんなんですか?」

「そうだぜ。遅刻した秋月さんだ」

 この人も大人失格ではなかろうか。

 類は友を呼ぶとはこのことか。

 話を進めていいものか悩んでいると、スタッフの一人が秋月を見つけたらしく、

「秋月さん! 子供をナンパしてないでさっさと来てくださいよ! あと建物内禁煙です!」

「ちっ、うるさい奴だぜ。私がいなくてもできる企画だろうに。私はほかにやりたい企画があるんだよ。坊や、話しは放送終わってからになるけど、見ていくかい? 特等席だぜ」

 断る理由もなかったので最上は秋月が担当する番組を見ていくことにした。

 表の舞台には客席があり、その前に調理台が備え付けられたスタジオがある。最上がいるのは、ロボットアームの先端にカメラが付いた物がいくつもあり、配線コードが至る所に敷かれた裏の部分だ。

 番組が始まる直前、秋月がいくつか指示を飛ばす。その様子を見る限り、彼女はプロデューサーだけでなくディレクターも兼任しているようだ。

 テレビ関係者目線で見る番組は新鮮だった。番組はその新鮮さだけでは終わらず、秋月が企画した料理番組自体も内容がとっぴで面白く、最上の目を引いた。

 途中で十五分ほど、外の食べ歩き中継へと番組が移行する。その間が休憩時間としてスタッフにあてがわれた。最上と秋月はいったん廊下に出る。

「どうだい、坊や」

「面白かったです。やっぱり生で見ると違いますね。テレビでみると、紙芝居みたいにつぎはぎになってだめですから」

「はっはっは、面白い事を言う坊やだ」

 ソフィアには縁のない、大きな胸を揺らしながら秋月は笑った。

「時間もないし本題に移るか。ここの仕事だが……」

 つらつらと秋月が仕事の内容を説明し始める。

「……まとめると、私の下働きだぜ。ま、中途半端な意思でやろうとするならやめときな。正直言って、普通の仕事よりきつい。長続きしないぜ」

 この時だけは、クマに乗った眠そうな目が、真剣な色を灯していた。戦車砲を前にしてもひるまない最上だが、一歩足を引いてしまう迫力があった。

 最上はソフィアのように夢があって、テレビ局の下働きの見学に来たわけでもない。ソフィアが夢見ている仕事の一端だから見学しに来た。

 動機で言えば、浅すぎる。

「考えさせてください」

 今まで回ってきたバイト先で言ってきたセリフを繰り返す。よくよく考えれば、バイト探しでも就職活動でも採用するかしないかを選ぶのは向こう側なのに『考えさせてください』なんて贅沢だ。

「ん、わかった。……お?」

「秋月さん!」

 ばたばたと一人のスタッフ駆け寄ってくる。

「どうしたんだ? 失敗はないはずだぜ」

「違います! 緊急で番組を入れ替えると!」

「なに? なんかあったのか?」

「テロです! 穂野ノ坂学校がテロ組織に占領されてると! 急遽番組を切り替えるべきだと上から」

 穂野ノ坂学校? テロ? 一瞬、最上の頭の中で上手く単語がかみ合わなかった。

「待って、穂野ノ坂学校!? その話はッッ嘘じゃないだろうね!?」

「ひっ」と、スタッフが最上の迫力におののいた。

「坊や、どうしたんだ? この類の情報に嘘はない」

 穂野ノ坂学校は一番安全な高校ではなかったのか。

(そこにはソフィアが……ソフィアがいるんだぞ!)

「おい、坊や、なにしてるんだ!?」

 手近にあった窓を開け、最上は身を乗り出す。きっと朧火は最上がDマンであるのは隠しているだろう。高校生以上のDマンはまだ存在しない。世間の上では。

 が、今は最上が存在しないはずのDマンであることがばれるよりも、ソフィアの身の方が問題だった。

 人がいない地点めがけて最上は地上十三階から飛びだした。呆然とした表情の秋月とスタッフが見えたが、事情を説明している場合ではない。

 コンクリートを抉りながら最上は着地した。

「痛ゥッ!」

 傷一つ負ってはないけれど、足にジーンとした痛みが走った。

「どうなってるんだよクソ!」

 穂野ノ坂学校に向けて、最上は全速力で走り出した。






 東京郊外と都市部の境目に穂野ノ坂学校はある。品川区から電車ではなく、最短距離を走った方が早いと判断した最上は、時に道路や線路を跳躍で飛び越え、車にも劣らない速さで東京内を駆け抜けた。

 だが、穂野ノ坂学校に着く途中に警察の包囲網にぶち当たる。どうやら、半径一キロは警察と自衛隊による道路規制が敷かれているみたいだ。

 力づくで突破してもいいが、警察と戦闘を起こしてそれがテロ組織への刺激になってしまう可能性がある。下手な騒ぎは避けたい。

 いかに隠密に包囲網を突破するかを考える。

 まずは人が少ない郊外側に移動した。

 案の定、閉鎖に当てられている人数は少ない。急なことで政府も対応が遅れているのだろう。こちら側ならまだ抜けられるルートがあると最上は確信する。

 侵入できるルートを探っていると、「最上!」 聞き覚えのある、特に今は聞きたくない声がした。

 住宅地の路地の先に、朧火と西天が立っていた。二人が駆け寄ってくる。

 頭の芯がカッと熱くなり、吐きそうなくらい胸がむかつく。

 朧火は真顔だが、西天は心底申し訳なさそうな表情をしていた。

「ごめんなさい。今はこれしか言えないけど、私がなんとかするから、最上くん、先走るのはやめて」

 西天の第一声に、最上は即座に噛みついた。

「なに言ってるんだよ! そんなの信用できるか! 西天さんは言ったよね!? 穂野ノ坂学校は安全だって。信じた結果がこれかよ!?」

「……それは、うん。私の責任よ。でも、だからこそ最上くんは危ないことをしないで」

「やだね。僕より弱い嘘つきの言うことなんて信用できるか」

「お願い、待って」

「もう話すことはないよ」

 二人に背を向けて、最上は穂野ノ坂学校の方へと走り出す。

「チッ、ガキが」

 朧火のつぶやきが聞こえたけれど付き合わず無視する。

 民家の中を通って最上は包囲網を突破し、穂野ノ坂学校への侵入に成功した。

 2018年に建築された穂野ノ坂学校の校舎はまだ新しく、壁は初々しい白だ。校舎の傍には運動場があり、そこにはサッカーグラウンドや野球用のグラウンドなどが収まっていた。

 最上は学校の校舎の側面にある木々の中から様子をうかがう。小中高一貫の学校で、低い学年の子たちはすでに放課後を迎えている頃合いなのに、校庭には生徒は一人もいない。

(テロ組織……虚構科学研究所絡みかな)

 条約があれど、ソフィアを狙ってくる可能性は十二分にありうる。最上とソフィアは虚構科学研究所にとって、化物プロジェクトで産まれた貴重な遺伝子サンプルだ。

 焦る気持ちを抑えるために最上は深呼吸をする。下手に動いて、刺激したらまずい。状況をよく見極めろ、と自分に言い聞かす。

 見張り役が屋上に二人いるのを確認したので、それに注意しながら移動する。学校の外周に沿うようにして木が植えられていたので難しくはなかった。状況を把握するために学校を一周回り終えたときだ。

 ガサガサッ。

 靴が落ち葉を踏む音。最上は瞬時に戦闘態勢に入り、音の方へ踏み込む。

 気づかれる前に、一瞬で意識を刈り取る――。

「ま、待っておにぃ! ボクだよ!」

 振りぬきかけた拳を最上はとっさに止めた。

「ソフィア!?」

 ゴシックロリータではなく、穂野ノ坂学校の制服を着たソフィアがそこに立っていた。

「上手く、逃げられたんだね」

 一応、ソフィアもけっこうな数の修羅場を潜ってきている。

「いいや、違うんだよ。解放されたんだ」

「解放って……詳しく聞かせてくれないかな」

「学校を占拠した人たちは、たぶん虚構科学研究所の人。少数精鋭で、あんまり多くの生徒を管理しきれないって判断したんだと思う。だから、一番人質に取りやすい小学生の一クラスを除いて解放したんだ」

 危機に慣れてしまったソフィアの赤い瞳は、冷静に状況をとらえていた。

「ソフィア、解放されたってのになんでここにいるんだよ!?」

「ほっとけないよ……クラスには、都ちゃんがいるんだよ」

 花野都がいるクラスが運悪く選ばれてしまったわけか。

「すぐには手は出さないだろうから、一回引くよ。ソフィア」

「そうも言ってられないんだって! 要求が出てるんだよ! 三十分以内にお母さんとお父さんの身柄を寄こせって。でないとクラスの子全員射殺するって!」

「なるほど、そういうことか」

 今回の目的は最上でもソフィアでもなく、西天と朧火だったというわけだ。

 相手が虚構科学研究所ならば何を意図して西天と朧火を狙ったのが見えてくる。

 西天たちが結んだ条約は、三日以上最上達の傍にいられなかった場合は無効化する。西天たちを殺すことで、その条約の無効化を狙っているのだろう。

 それに、元々ファミリーと虚構科学研究所は対立関係にある。うっとうしい存在で、過激とも言っていい虚構科学研究所は消してしまいたいとも思っているはずだ。西天と朧火を殺して、あわよくばファミリーを潰そうと考えているのだ。

「今、その要求が出てから何分たってる?」

「二十三分三十三秒!」

「……状況は理解した。けど、ソフィア、引くよ」

 最上にとって、ソフィアが最優先であり、彼女の安全を確保することで、他の人間が危険に陥る可能性があったとしても、ソフィアを選ぶのには躊躇はない。

「なに言ってるのおにぃ!」

 はじめてソフィアが最上に対して本気で怒った。いつもしっぽを振ってついてくる犬に突然噛みつかれたような気分だった。

「ここでボク達が引いたら間違いなくお母さんとお父さんか、生徒が殺される。わかってるでしょう!?」

 わかっている。

 けれど、ここで生徒の救出に向かえば、ソフィアの安全が保障できなくなる。最上の隣が一番安全な場所だと、おごりでも傲慢でも虚勢でもなく最上自身がよく知っていた。

「……僕は、ソフィアが安全ならそれでいい」

「ありがとう、おにぃ。ボクはとっても幸せ者だよ。けど――」

 手のひらをめいっぱいに開き、ソフィアはそれを最上に向けて振りかぶった。

「それでもボクは、おにぃを怒るよ」

 避けることもできた。けれど、最上はしなかった。ソフィアの手は最上の頬をうつ。たかだか妹の平手を受けたくらいで肌を赤く腫らすこともないし、怯むこともない。

 けれど――。

(痛いな。拳銃でこめかみを撃ち抜かれるより、よっぽど痛い)

 ソフィアの言っていることは間違ってない。最上も、自分の言っていることを間違いだと思っていない。

「ソフィア、二つ聞くよ。ソフィアは、生徒と二人、両方を助けたいんだね」

「そうだよ」

「僕が動けば、ソフィアの安全は保障できなくなる。わかってるね?」

「わかってるよ」

 間髪入れずにソフィアは頷いた。

 主体性に乏しい妹にしては、随分思い切った選択だった。それだけ、ファミリーのことを大切に思っていると言うことか。

 西天がソフィアを危険に晒したせいもあり、最上の内心は少し複雑だった。人質としても死んでも自業自得だ、とすら思っていた。

 それでも、ソフィアが決断したのだ。手伝ってやらないわけにはいかなかった。






 ソフィアには隠れているように言いつけて、最上は校舎の側面にまで移動する。屋上からも校舎内の窓からも死角になる唯一の場所だった。花野が捕らわれている場所は聞いた。北から南にかけて三棟並んでいる校舎のうち、真ん中に位置する建物の一階だ。

(あと五分弱かな……。間に合わせる。大丈夫、僕ならできるはずだ)

 コンクリートの壁に抜き手を放ち、穴を空けつつ校舎を上っていく。最上が登っているのは南側の校舎で、北方向に校舎が二棟あるのが見える。

 半分ほど登ったところで、片方の手を壁から抜いてぶらぶらとふる。手がじんじんと痛む。

「くそ、なんで今日に限って調子悪いんだ」

 壁を上りきる直前、最上は大きく息を吸った。そして一気に飛び出す。南の校舎を上ることにしたのは、最上が見つけた見張りがここにいたからだ。

「なんだおま――」

 防弾チョッキを着こんだ兵士二人に一秒で接近し、一秒で一人目のあごを砕き、最後の一秒でもう一人の後頭部を裏拳で打ち、意識を奪った。

 すぐに花野がいるという真ん中の校舎の様子を確認する。

 発見。

 本来教師が立っているはずの教壇には、小型機関銃を持ったフルフェイスマスクの兵士が二人立っていた。窓際の一番後ろの席に、背を丸めて震える花野の姿がある。彼女も、他のクラスメイトも、最上が見る限りでは無事だ。

(少数精鋭ってソフィアも言ってたから、子供を抑えるのに人数割いてないんだろうね。まぁ、割く必要もないか。後は交渉役と、校舎外の索敵かな)

 時間があれば、もう少し敵の様子をうかがっていたかったけれど、そうはいかない。まずは花野の救出を最優先にする。

「よし」

 最上は助走をつけて一気に屋上から飛び出した。ヒュウっと風を切る音がして、すぐにガラスが割れる音がした。一人目のテロリストを勢いのままに蹴り飛ばす。

「あぎがぁ!?」

 大型トラックに跳ねられたかのごとく、教室の扉をぶち抜き吹き飛んだ。

 教室にいた生徒が悲鳴を上げる。唯一、花野が最上の名を呼ぶのが聞こえた。

「次ィ!」

 床を蹴り飛ばし、最上は野獣のように二人目に殴りかかる。

(銃を盾にするかな?)

 が、テロリストがとった行動は、最上の予想とは全く違ったもの。

 銃を捨てて、最上の拳を受けた。素手で。

 デジャヴ。

「また会ったな、最上彼方」

「なっ……新神ちゃ、がっ!?」

 名を呼ぶ間もなく、新神の右手が最上の額を鷲掴みにする。そのまま力任せに新神は走り出した。まずは教室の壁に最上を叩き付けたが、壁の方が破壊音を立てて砕ける。けれども新神はそれで止まらず、さらに南の校舎を貫いた。破壊に伴い土煙が舞う。校庭に出たところで、新神は最上を地面にたたきつけた。爆音とともに地が揺れ、校庭にクレーターが一つ作り上げられた。

「ソフィア・クラウディが絡むと出てくると思った」

 フルフェイスマスクを外すと、最上と同じように束ねた長髪が流れ出てきた。ナイフのように鋭い瞳は、最上を捉えている。

「心臓抜いたから、死んだと思ってたんだけどな」

「その程度で死ぬわけないだろう」

「それもそうだよね。元人類最強だし」

 負けん気は強いらしい。最上の口を塞ぐように新神の拳が振り下ろされる。最上はあえてそれを頭突きで相殺する。

(教室に残った生徒の元に別の兵士がたどり着くまでいくらかかるだろう)

 その兵士は、子供を脅して大人しくさせるか、それとも殺してしまうのか。

 わからない。

 なら、最悪の方を想定して一刻も早く新神を倒して戻るべきだ。

(けど、よりによって新神ちゃんが出てくるか。いや、僕が現れるって想定していたからこその新神ちゃんなのか)

 後頭部を狙った蹴りで新神を上からどかしてから、立ち上がって体勢を立て直す。

「生徒を助けてくれって妹に頼まれたからね。さくっと倒させてもらうよ」

「……やってみろ」

「前に四十三秒で倒された君が、僕に勝つ気かい?」

 人類最強と人類二番目が再び衝突する。片や『化物プロジェクト』の最高傑作の化物、片や第三次世界大戦を一か月で終戦させた『化物化プロジェクト』の最高傑作。学校の校庭というありふれた場所が、銃弾の代わりに拳が行き交う戦場と化した。

 互いに小細工抜きのインファイトで殴り合う。

「あれ?」

 間の抜けた声を上げたのは最上で、二の腕が深く裂けて血が溢れている。

「なに驚いでる?」

 手刀が最上の体を何十か所も抉る。豆腐を削るようにあっさりと体に傷が刻まれていく。出来上がったのは水を血に変えた噴水だ。

「ぎ、ぃぃぃいいいいいいいいぁああああああああああああああああ!?」

 何かがおかしい。

 以前ではありえない。手に取るように見えていたはずの新神の動きが目で追えなくなっている。

 反撃できない。

「死ね」

 新神の指先が最上のあばらを砕き、内臓を貫通する。

「がぼふっ」

 最上の口から血が溢れ、新神の頬を濡らす。ちかちかと赤く染まる視界。壊れた人形のようにゆっくりと振り返ると最上の体を貫いた新神の手には、ぴくぴくと脈を打つ心臓が握られていた。トマトを潰すかのようにあっさりと、それは握りつぶされた。花火のように最上の心臓の肉片が四散した。

 体中の血の流れが止まる。

 脳がエマージェンシーコールをかき鳴らす。

 無意識のうちに痙攣する体。使い終えたカイロのように冷めていく。


――さ、さっきは助けてくれてありがとね。え、えと、ボクはソフィア・クラウディって言うんだ。

 長い犬歯を見せながら笑うソフィアの笑みは印象的だった。

――なんかお兄ちゃんみたいな人だから、おにぃって呼ぶね!

 だんだんと懐いていくソフィア。

――おにぃは暇つぶし下手だよね。え? ボク? ボクはテレビがあるだけでいくらでも時間を潰せるよ。

 ソフィアの動画中毒っぷりにはいつも呆れさせられた。

――おにぃ、おにぃ、おにぃおにぃ。


 壊れたテレビが映像と音声を垂れ流すかのように最上の脳内に走馬燈が流れる。

 死は平等に訪れるかのように思えた。

「……あが、がじねなぃいいいいいい、いいいあ……が、がぁああああああああああああああああああああああ!」

「なっ!?」

 体の動きが制止したので、新神は油断したのだろう。

 最上は両手で新神の片腕を掴み、そのまま両足で飛び、力いっぱい彼女の体を蹴り飛ばす。新神の体が吹き飛ぶと一緒に、おもちゃのロボットの腕が抜けるようにあっさりと、腕が肩からもげる。

 地面を転がる新神。崩れ落ちる最上。

(く、そ、体が熱の棒でかき回されているみたいに痛くて熱い。頭がぼうっとする。血が足りないんだ畜生)

 嫌な汗が全身から噴き出る。死神の足音が近づいてくる。新神の腕を抜き、抜き取られた心臓の再生を試みる。

(血の流れはほかの部位の筋肉で作り出せ。とにかく頭に血を回す)

「腕、腕ッ腕腕うでうで腕ウデ腕が腕が腕が私の腕を――」

 ナイフのように鋭い瞳が最上の方を向いた。

「貴様ッッ!」

 残っている新神の右腕が、確かに最上の眼球を、そして脳みそを狙っているのを察知する。

 その一撃は、避けられなかった。とっさに体が動かなかった。

(心臓を再生するのにすら手間取っているのに――脳まで損傷したら――死――)

 最上の脳天に穴が空かない。

 新神の拳の軌道から、最上の体は逸れていた。

 痛みが生む熱とは違う、ぬくもりが最上を包んでいる。

「ソフィア……?」

「ついにボクに助けられちゃったね?」

「安全な場所で待っていろと言ったよね!」

 ソフィアが最上を押し倒していた。

「おにぃのこんな姿見せられたら、遠くから見てるだけなんて無理だよ」

「どうしてソフィアは他の人を放っておくてことができないの」

 けれど、ソフィアのおかげで致命傷を免れたのも事実だった。

「他の人じゃないよ。家族だよ」

「……」

 言葉を失った最上に、茶目っ気のある笑みをソフィアが浮かべた。

「それに、おにぃの隣が一番安全な場所なんでしょ?」

「……あぁ、その通りだよ」

 人類二番目ごときに、負けるわけにはいかない。大切な人を守るために、いつだって最強で居続ける。

「も、が、みぃ! 痛みで目がぱっちりだぁ殺す殺すコロス。貴様を殺して人類最強が私であるのを証明するぅうううう」

 瞬時にソフィアを抱き上げ、横へ移動する。先ほどまで最上がいた場所にクレーターが上書きされた。

(人類最強への執念が半端じゃあない。まるで哺乳瓶を取り返そうとする赤ん坊みたいだ。手加減を知らない相手ほど厄介なやつはいないよ)

 新神の存在意義が人類最強であるとするなら、それを取り返そうとする気持ちはわからなくもない。

(どうする? 認めるしかない。大雑把な動きは掴めるけれど、新神の動きが追いきれなくなってる)

 いかに新神を捕まえるかだ。

 一つ、とても簡単な方法がある。

(……失敗したら、多分死ぬよね)

 手段が一つしかなく時間もない。仕方ないと最上は腹をくくる。

「ソフィア、動くなよ」

 ソフィアの立ち位置を把握して、彼女を巻き込まないようにしながら、最上は再び新神とゼロ距離で殴り合う。

 体がぐちゃぐちゃになりそうな痛み。全身の関節がきしむ。

 相手が腕一本であるにもかかわらず、殴り合いでは互角。

(ほんと、どうなってるんだ僕)

 体力的には、心臓を抜かれた最上の方が不利。

 新神が拳を振りかぶると同時に、最上は上半身のガードを緩めてわざと隙を作った。案の定、そこに新神が拳を叩き込んできた。

 ギリギリのところでそれをいなす。

(認めたくないけど――体が覚えてるな)

 相手の力を利用して体を引き寄せ、腕を一の字に極めて、一気に地面へ倒す。その際、本来は固めるにとどめる腕に、思いっきり力を込めてもぎ取った。

「ががげぎぎぎぎぃいいいいいいいいいいいい!?」

「朧火に習った体術が役に立つなんて……クソっ、なんか嫌だ」

 二本目の腕を放り投げつつ、新神の背中に乗る。絶対有利のポジション。

「今度はダルマにして、ミンチにしてあげるよ。そうしないと死なないだろうから」






 一つの肉塊に成り果てた新神に最上は背を向ける。ふらふらと危うい足取りでソフィアの元に向かった。

「花野ちゃんがいるとこにさっさと戻ろう。次の兵士がくるかもしれない。あれ……」

 足に力が入らない。傷の回復が間に合ってなかった。

「おにぃ、大丈夫!?」

「大丈夫だよ、僕は、強いから」

「……わがまま言ってごめんね」

「わがままも何も、ソフィアは別に間違ったことは言ってない」

 力が抜け、不覚にも体をソフィアに預ける形になってしまう。

「……一分休ませて」

「傷、治すの手伝うよ」

 ソフィアは自身の鋭い犬歯で、自分の手に噛みついて傷をつけた。雪のように白い肌から血が溢れる。その血が生物的にうねり出した。

 血液操作。

 身体能力や、知力は並みの人間に毛が生えた程度のソフィアをDマンたらしめる奇妙な性質だ。

「そっか。血液操れるくらいまで回復したんだ」

「うん、お父さんとお母さんのおかげだよ」

 朧火と西天。最上は二人のことをあまり考えたくなかった。

(なにが穂野ノ坂学校は安全だよ)

 ソフィアの手が最上の傷口に触れる。

 血小板が集まり、死んだ細胞が除去され、肉芽組織による修復が高速で行われていく。

 痛みが消えていくのが心地いい。

 自身の再生能力で心臓を作り出し、ソフィアの血液操作による治療で外傷治していく。けれど、体力は回復しない。

(いけない、痛みが引いて逆に意識が……)

 まだ意識を失うわけにはいかない。花野のクラスに戻り、虚構科学研究所の残党から彼女らを守る。

「おにぃ、帰ろう」

「なに、言ってるの。ソフィアが頼んだんでしょ。最後までやるよ」

「ううん、終わったんだよ。お父さんとお母さんが来たんだ。身代わりにためじゃなくて、敵を倒すために」

 最上は目を辺りにさまよわせる。すると、校庭の目に付きにくくなる部分から、朧火と西天を中心にした見慣れない部隊が校舎の方へ駆けて行った。最上にしか倒せない新神はすでに始末した。だから、二人の指揮する部隊だけでも子供たちの保護と解放はできるだろう。

「帰ろうよ」

「……」

「おにぃ?」

「帰りたくないんだ」

 ソフィアを預けるほどに信用した西天に裏切られたことが、最上にはどうしても許せなかった。

「もしかして、ボクがこの事件に巻き込まれたことで、二人と喧嘩した?」

 妙なところでソフィアは鋭く、最上の心の中を一発で看破した。

「ボクは大丈夫だったんだからさ、帰ろう。ね? で、仲直りしようよ」

「嫌だ」

 花野を守るために戦う必要もなくなったことも相まって、最上の意識はさらに緩み、とろけていく。

「ソフィア、ゲームセンターの隠れ家に、もど、ろぅ――」

「おにぃ? おにぃってば! 起きてよ!」

 そこで最上の意識は途切れた。






 目を覚ますと、最上にとってすでに見慣れてしまった伊吹荘の自室の天井があった。

 体が重く、温かいベッドと体が一体化してしまったような感じがする。

(まだ起きたくないな)

 起きたら、西天と朧火と顔を合わせなくてはいけなくなる。寝返りをうとうとして、ベッドが妙に狭いことに気づく。

 スースーと寝息が隣から。こんなに間近に人がいるのに気づけなかったのは、最上がまだ覚醒しきっていない証拠だった。

 手で横の方をなぞると、触り慣れた波だった髪の感触がした。

「……ん、あ、おにぃ。ようやく起きた」

「近い」

 大きな赤い瞳に吸い込まれてしまいそうだ。夏用のタオルケットの中にいる辺り、ソフィアは最上を看病していたわけでなく、確信犯的に潜り込んだのだろう。

「ボクはあの後貧血気味で一人だと寒かったんだよー」

 よくあるシチュエーションで、おにぃがどんな反応するか試してみたかったしね、と余計な一言が加えられた。

「もう大丈夫でしょ。今は夏だよ、暑い」

「照れてるせいだよ」

 彼女は最上の長髪に頬擦りして起き上がると、寝巻のまま部屋を出ていった。しばらくして戻ってきたと思ったら、西天と朧火を連れてきた。

(余計な事を……)

「起きたのね、よかったわ」

「出てけよ。僕はお前の顔を見たくない」

 申し訳なさそうな西天の顔を見た瞬間、なりを潜めていた怒りが再び顔を現した。

「……学校が襲撃されたのは、私のミスよ。ごめんなさい」

「出てけ」

 ソフィアはおろおろと、視線を最上と西天の間で行ったり来たりさせ、朧火は無表情のまま静観していた。

 沈黙が部屋に降りてくる。ぐずぐずに腐ったクジラの胃の中にでもいるみたいな空気だ。その空気を作っているのは間違いなく最上だった。

 けれど、最上にとってソフィアはかけがえのない存在で、だからこそそれを『ミス』で危険にさらされたことが許せない。

「ごめんなさい」

 突然、西天はくるりと背を向けて部屋を出ていく。微かに震えていた肩を、最上の目は嫌でも捉えていた。

「ガキが。女を泣かすなよ」

 そう吐き捨てた朧火が西天に続いて出ていく。

 ガキが。

 朧火の口から言われたのは二度目だ。

「なんだよ、好き勝手言いやがって」

「……おにぃ、ボク、悲しいな。みんなで仲良くできないの」

 その日、最上はソフィア以外の誰にも会わないようにすごした。昼ごはんと夜ご飯は、ソフィアが部屋に運んできてくれた。

 日付が変わりかけた頃、子供たちが多く騒がしい伊吹荘がようやく静まり返る。最上はこっそり部屋を抜け出て、風呂に入り、シャワーを浴びる。伊吹荘は洋風の館なのだけど、銭湯のような共用の大風呂があった。広い風呂場を最上だけが使う。

『ガキが。女を泣かすなよ』

 最上は子ども扱いのくせして、西天は女、大人の扱い。

(西天さんのことを許せない僕を子供だって言いたいのか?)

 体の傷はすっかり治っていて、体力も回復しているはずなのに、気分はひどく悪かった。

「大切な人を安く扱われて、簡単に許せるのが大人だって言うんなら、僕は子供でいいよ畜生!」

 最上の声だけが風呂で響いてはすぐにかき消えた。

「気に食わない! 大人ぶりやがって、都合のいい言葉を並べるだけの人間が!」

 胸に溜まった鬱憤を吐き出していたせいで、長い髪を洗うのにいつもの倍以上の時間がかかってしまう。風呂に入ってすっきりするつもりだったが、いっこうにもやもやが消えなかった。

 廊下で人に会わないように細心の注意を払いながら自室に向かった。自室がある三階は、屋上を除いた最上階だ。二階から三階に上がるとき、三階の手前で人の気配を感じて立ち止まる。壁に背中を這わせ、一直線の廊下をのぞき込むようにして確認する。

 一番奥、屋上へと続く出入り口が開いていて、月光が忍び込んでいた。

(……なんだ、ソフィアか)

 月明かりに照らされる人の正体を確認して、最上はほっと胸をなで下ろす。パジャマ姿のソフィアに後ろから近づいた。

「なにしてるんだよ」

 ビクッとソフィアの肩が揺れる。

 妹はシー、シーと人差し指を口の前で立てて見せた。

(また覗き見盗み聞きの類かな)

 あきれてため息をつきながらも、ソフィアが見ている物に興味があった。

 一緒に出入り口に身をひそめるようにして、外の様子を覗う。

 最上も予想はしていたが、屋上にいたのは、西天と朧火だった。

 学校での一件を終え、二人はいったいどんなのろけ話をしているのか。

 それが最上の気になるところだった。

(どうせ朧火が西天さんを慰めてるんだろうけど。朧火は西天さんの絶対の味方だしね。僕は悪者扱いだろう)

 屋上の角っこの方に二人は座っているようで、ぎりぎり西天の下駄を履いていない左足が見える。

「虚構科学研究所の動きに気づけなかったのは、完全に……私の……ミスね」

「ああ、そうだろうな。監視は心の担当だったから、悪いのは心だ」

「ねぇ朧火くん。私、どうやったら最上くんに許してもらえるかな」

「穂野ノ坂学校が近隣の学校で一番安全だってのは、俺たちが一番よく知ってる。俺でもソフィアちゃんを預けるなら、そこを選ぶ」

 それに、と朧火は続ける。

「テロへの対処、後始末を心はしっかりやった。失敗への責任は取ったんだ。悪いのは確かに心だが、その件を終えた今なら断言してもいい。心が謝って、それを許さない最上が悪い」

 朧火の言葉に、最上の歯と歯がぎりぎりとこすれる。

「痛い、痛いっておにぃ」

 最上の下でソフィアが小さく悲鳴を上げる。

「ご、ごめん」

 ソフィアの肩に乗せていた手に、いつの間にか少し力がこもってしまっていた。ソフィアの注意が遅れていたら、痛いでは済まなかった。強すぎる力は制御を誤れば自分が守ろうとしている物まで壊してしまう。

 最上が悪いと言う朧火は予想通りだった。それはむかついたが、最上の予想とは少し違う。朧火は西天もしっかり叱ってはいた。

「あいつは子ども扱いを嫌がるくせに、視野が狭いからな。やっぱりあいつはまだまだガキだ」

 言葉の毒に反して、朧火はハハハと笑った。

「可愛いクソガキだよ。けど、あいつも馬鹿じゃないし、そのうち自分の間違えにも気づく。心は根気よく謝りながら待てばいい」

「……わかったわ」

「今は俺に慰められてたらどうだ?」

「そうしよう、かしらねぇ」

 最上は屋上へ続く出入り口に背を向け、早足で自分の部屋に戻った。

「そうか――」

 一人つぶやく。

 心配そうな表情をしたソフィアがついてきた。最上はベッドに座り込み、うなじに見えない重しが乗せられているかのようにうなだれた。

「確かに、僕はクソガキだ」

 朧火の言葉で気づいた。

 見えていなかったことに。

 西天に勧められた学校に、最上は何の疑いも抱かず、ソフィアを任せた。

『西天を信頼し、ソフィアを預けた』

 こう言えば、確かに聞こえはよくて、最上は悪くないように思える。

 だが、最上は西天にソフィアを守るという責任を丸投げした。こうも言えてしまうのだ。

 実際の処、最終的には預けないといけなかったのだが、最上はソフィアを大事だと言いながら、その学校が本当に安全か、西天の言葉だけで判断していた。最上が安全かどうかを調べても、虚構科学研究所の行動を確認しても、今回の一件は起こっていたかもしれない。それはわからない。けれど、防げたかもしれないというのも事実だ。ソフィアを危険から、事前に守れていた。

 朧火も言っていた。

 確かに西天のミスなのだろうが――。

 最上が本当にソフィアを大切に思っているなら――。

 最上がやすやすと西天にソフィアを預けたのは、信頼ではなく、ただの最上の怠慢だ。西天だけを責めるのもおかしい。最上は、形はどうであれ、自身の責任を西天に渡したのだから。

「西天さん……どうして僕を責めなかったんだ……」

 西天には、最上に反論する権利があった。最上が西天の立場にいたのなら、何も考えず大切な人を預けたやつを罵倒していた。

 なのに、西天は自分の失敗の責任を、ただ負っただけでグチの一つももらさなかった。

「自己中心的だな、僕は」

「おにぃ、落ち込んでる?」

「そうだね。自分に嫌気がさしたんだよ」

「そうなんだ。なら、ボクに慰められたらどう?」

 隣に座って、最上の頭をなではじめたソフィアに、思わず苦笑いを漏らす。

「ソフィアさ、ほんとに影響を受けやすいよね」

「あこがれてるんだよ。お父さんとお母さんに。あーゆー関係におにぃとなりたいなー」

「おにぃなんて言ってるやつとは勘弁だよ」

「かなた」

 最上の脳天から背骨にかけて、奇妙な寒気のような、電流のような感覚が伝う。

「かなた」

 もう一度ソフィアの口が最上の名前を呼んだ。

 ずざざざざ、と最上はソフィアから距離を取る。

「あ、逃げた。照れない照れない」

「照れてないって」

 最上の心臓は、部屋に響かないか心配なくらい脈を打っていた。

「初心なんだから、かわいーなーかなたは!」

「いやいや、ソフィアも顔真っ赤だから。僕は全然、これっぽっちも恥ずかしくないけど、照れてるなんてかわいいなぁ!」

「いや、かなたの方が照れてるよかわいい!」

「絶対ソフィアの方が照れてるソフィアかわいい!」

「うわー声大きくして誤魔化そうとしてるかなたかわいい!」

「こっち見て言ってみろよ。照れてるソフィアかわいい!」

 相手を子ども扱いしたくて、かわいいかわいいと連呼する最上とソフィア。

「お前らさぁ、愛情表現ってのはもうちょっとロマンチックにやるもんだぞ。聞いてる俺の方が全身むずかゆくてたまらん」

 開いていた窓の外から朧火の声がした。

 よくよく考えれば、屋上には朧火と西天がいる。

 恥ずかしくて死にそうになった最上とソフィアは各々のベッドでタオルケットを頭から被ったのだった。






 翌日には、西天に謝りに行こうと最上は決めていた。さんさんと輝く太陽が窓から差し込んできている。夏の朝にしては涼しく、空気が澄んでいた。

 最事務室に行って、最上は西天に向かって深々と頭を下げた。

「ごめんなさい」

「え? ど、どうして最上くんが謝るの?」

「僕は、西天さんに責任を押し付けて、一方的にに怒ってた。ごめんなさい」

「い、いや、いいわ。私の失敗だもの。私こそ、ごめんなさい」

 二人して頭のつむじを突き合わせる。それがおかしくって、最上と西天は笑った。

「お互い、同じ失敗をしないように気を付けましょう」

「そうだね。僕ももうちょっと自分の行動に責任を持たないとね」

 微笑ましそうに、西天は最上を見ていた。

「なに?」

「いいえ、なんでもないわ」

 無事、最上は西天との仲直りを果たせて、胸にのしかかっていた重りが取れた。

 晴れ晴れしい気持ちで、廊下に出ると、壁に背中を預ける格好で朧火が立っていた。

「なんだよ、また盗み聞きしてたの?」

「盗み聞きはお互い様だろ」

 マフラーの下でにやにやと笑う朧火に、悪口を言いそうになったが、その前に朧火が言葉を発した。

「お前に言っとかないといけないことがある。秋月さんがぜひテレビ局に入ってくれだとよ。電話口から唾が飛んできそうなほどの勢いで頼まれた」

「僕、彼女に気に入られるようなことした覚えはないんだけど」

「あー理由な。『坊やは大きいネタ抱えてるな! 他のテレビ局が勘付く前に私がいただく! 他の誰にも渡さん!』だってよ。お前、Dマンってことばれただろ。秋月さんが持ってる、虚構科学研究所に関する黒いネタからお前の正体を察したんだろ」

「……なんて嫌な理由」

「ま、秋月さんの行動理由なんてそんなもんだ。けど、秋月さんは仲間内の人間に無理やりネタを吐かせるようなことはする人じゃない。お前が話したくないっていうなら、俺の家族ってことだし強要はしないさ。というか、俺もあんまり話してほしくないんだが。で、これを聞いたうえでどうする? 有名プロデューサーの下働きなんてレアな仕事はなかなかできないぞ」

 こんな時に動画中毒者であるソフィアの顔が最上の脳裏をよぎった。

(……依存してるってことになるかもしれないけど、今は、いっか)

 最上は頷いて、「受けるよ」と言った。

「そうか。なら、秋月さんに言っとくぞ。人使い荒い女だが、せいぜい頑張れ」

「わかった」

「俺からの話は以上だ」

 朧火は最上に背を向けるとスタスタと廊下を歩いていく。

 最上は――朧火がどれだけ気に食わなくても言わなければならない言葉がある。

「朧火――」

「なんだ?」

「その……悪かったね。迷惑かけてごめん」

「ま、ガキの世話も親の務めだからな。仕方ない」

 『ガキ』と言われるのは気に食わないがその通りなので甘んじて受け入れた。

「まぁ、いい経験にはなっただろ。人間は失敗することが大事なんだ」

「父親気取りかよ」

「実際、父親だからな」

「だから僕はお前の子供になった覚えはない」

 結局、朧火は西天を一方的に責めた最上を怒らなかった。裏では色々と手を焼いたのだろうが、それについて嫌味を言うこともない。ただマフラーの上からでもわかる、にやにやとした笑みを浮かべて朧火は廊下を歩いて行った。



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