異世界転移がしたい!
青い空澄み渡る平和な朝、一台のトラックがまだ人気のない道を走る。
このトラックは平日なら毎朝走っているが、運転手はベテランながら注意を怠らない。
最近、トラックを運転していると何かを撥ねてしまうことがあるが被害は何もないという、不思議な事件が連発しているという噂だ。
連続で起こるというところに不気味なものは感じているが、寝惚けていたのだろうと無理矢理結論付けていた。
……この時までは。
十字路を直進しようとした瞬間、カーブミラーで人がいないことを確認していたはずの道から黒い影が飛び出す。
運転手は驚きつつも急ブレーキするが間に合うはずもなく、撥ねられて転がっていったところでそれが人であることに気付いた。
「おい兄ちゃん大丈夫か!」
黒い容姿は学ランとズボンによるものだったため男子学生と思い、急いでトラックを降りてそう声をかけるが……
「ん? あれ、兄ちゃんは……?」
トラックを降りるために目を離した数秒でその人物は姿を消していた。周りを見渡しても誰もいない。
転がってどこかにぶつかった気配はなく、壁などに跡はついておらず、トラックを見ても人に衝突した形跡ない。
「どうなってんだ……?」
この状態では信じてもらえないだろうが、通報した方が良いのだろうか。
そんなことを考えながらしばらく呆然と立ち尽くし、後ろから別のクラクションが鳴ることでトラックが道を塞いでいることに気付き結論を諦めて去っていった。
「う~ん、今日も失敗か……」
その十字路から少し離れた道を一人の男子高校生が可愛らしい中性的な顔をしかめて何か呟きながら歩いている。
「もっと車種とスピードの研究もすべきかな? 証拠を残さないようトラックが傷付かないようにするのはやめたくないし、流石に実験で死にたくもないけど……」
どうやら先程の事故の被害者らしいが、服が少し汚れているものの外傷は全くない。
「それとも……今時トラック事故で異世界には行けないのかな?」
周りに人がいれば変な目で見られていたであろう発言をするが、幸い今は周りに人はいない。
その理由の一つは今彼が向かっている学校が教えてくれた。
「えっ、もう予鈴!? やばっ!!」
その音を聞いて全力疾走する彼のスピードは百メートル七秒台、時速にすると約五十キロ。
もし誰かに見られていればすぐに話題を呼んだであろうがやはり周りに人はおらず、彼は誰も気に留める者がいない道を人類最速で走るのみである。
これは、異世界に行きたがる彼の高校生活を描く物語。
「……それで今日は汚れてっしギリギリに来たってわけか、マコト」
「うん」
「いや『うん』じゃねえよ。懲りねえなおめえも」
「照れるじゃないか、カズ」
「褒めてねえよ?」
昼休み、マコトこと別城真とカズこと天羽和親の二人が窓際の自席で昼食をつつきながら朝の件について話していた。
「毎回思うが、この学校に来といて『異世界に行きたい!』だなんてよく言うぜ」
「カズもそれ言うの懲りないよね」
「だってオレなんか天使だぜ? ファンタジー好きならテンション上がるとこよ?」
言いながら、和親の黒かった髪が金色に染まり、目は青く、背中には翼が生え、頭の上には光輝く輪が現れる。
和親は正真正銘の天使だ。室内なのでしないが飛ぶことだってできる。
今天使であることを教室で堂々と明かしているわけだが、この学校とて普通ではない。
私立旁魄高等学校。
その名の通り人ならざる者がまとめられて通う学校である。
科学が発達する現代、人前に妖怪など出ようものなら巧みな手段で捕縛、あるいは殺害されてしまう。
人間を支配下に置こうとする考えもあるが、圧倒的な数の差と武器の前には敵わないとされている。
そんな現代を隠れて過ごすにもいずれ限界は来ると、十数年前にこの学校を創立。世界中に点在しており、日本にも数校存在している。
この学校は人ならざる者が人間の社会に紛れて生活できるよう教育を行う場で、そのため学校も周りに住宅街のある都会にあり、基本的に常時人間に化けることが義務付けられている。
しかしギリギリで遅刻を回避しようとして正体を明かす者も少なくないので朝は周囲に人除けの結界が張られていたりする。
和親の言う通り、ファンタジーが好きなら一度は行ってみたい学校であることは間違いないが、真にはこだわりがあった。
「僕はね――」
「天羽君!」
しかし、真がそのこだわりを告げている途中に横槍が入る。
「校内での変化解除は禁止されているわよ!」
「おっとやべ、風紀委員サマだ」
「全く、天使ともあろうものが率先して校則破ってどうするのよ」
同じクラスで風紀委員の冷川優姫に注意され、再び人間に化ける和親。
翼は物質透過が可能なので制服が破れたりはしていない。
「それと別城君」
「ん? 僕?」
「これは何かしら?」
優姫はスマートフォン――人間社会に必要不可欠として生徒全員に与えられている――を取り出して何か操作すると、画面を二人に見せる。
見せられたのは呟きを投稿する有名なサイト。
『ブレーキ音が聞こえたから事故だと思って急いで動画撮ったら相手が無事だった件』と書かれた呟きには動画が添付されており、真と思われる人物が倒れているところから始まってトラックのドアが開く間にひょっこり起きて去っていくところが映っていた。
十字路を斜めから見下ろしているので恐らく近くの建物から撮ったものだろう。
「あちゃー……」
「監視カメラがない道だったからこれ以上の動画はなかったし、反応も何かの撮影とかだと思ってるみたいだったからいいけど、気を付けなさいよね」
「すいません、次は映らないように事故ります」
「事故を起こすのをやめなさい。巻き込まれる相手の身にもなりなさいよ、犯罪者を量産するつもり?」
「うっ……」
そのつもりだったらわざわざ証拠を隠滅したりしない。だからこそ真は言葉に詰まってしまう。
「はあ……。それにしても、あなたどうしてそんな元気なの?」
「どうしてって?」
「人間なんでしょ? 普通無事じゃ済まないわよ」
真が最初の自己紹介の時に『別城真、人間です! 異世界に行く方法を探してるので何か知ってたら教えてください!』と言って全員を驚かせたのはクラスでは有名な事件だ。
その件について優姫も担任に確認したが、校長が認めた特例との返答をもらっている。
この学校に通い風紀委員でもある優姫は当然人間社会についても学習しており、事故に遭って無傷なのはおかしいことくらいも理解している。
「異世界に転移した時のために鍛えているから、かな」
「……は?」
「冷川、諦めろ、こいつはこういう奴だ」
理解できない回答に思考が凍り付いた優姫を和親が諭す。
「行動理念のほとんどが『異世界に行った時のため』だから、深く考えても無駄無駄」
「えっ?」
「オレに対しての一言目なんか『僕が死んだ時に異世界に記憶を持って転生できるよう交渉しておいて』だったからな。オレにそんな権限ないっつうのに」
「僕は諦めてないよ」
「無理だっつってんだろ。それは神の仕事で、側近の天使とかも偉い立場なの。そんな偉いとこの子は人間社会に溶け込むための学校になんて来ねえよ」
なお、和親のような一般の天使の仕事は人間の監視がメインで、より近くで監視するためにこの学校に通っている。
「じゃあその偉い天使に言っといて」
「アホか、個人を贔屓なんてしたらオレの首が飛ぶわ」
「大丈夫、骨は拾ってあげるから」
「暗に死ねっつってんのかこの野郎、つかその頃お前も死んでるだろ」
「あ、そっか」
「この異世界バカが……」
片手を顔に当てて溜め息を吐いた和親が優姫の方を向く。
「知ってるか? こいつこれでテストは満点取るんだぜ?」
「内政チートも異世界ものの醍醐味だからね」
「当然武器の扱いもお手の物」
「戦場で何を持たされるか分からないもん」
「あと――」
「うん、もういい分かったから」
もう異世界好きはお腹いっぱいだと、顔を青褪めさせて止める優姫。
とりあえず話題を変えるついでに、一番気になっていたことを尋ねる。
「人間である別城君がこの高校を選んだのはどうしてなの?」
「こういうとこの方が異世界に行くチャンスが多そうだったから」
「……は?」
「要はファンタジー好きのくせにこの学校を手段としか見てねえの」
「ファンタジー好きはちょっと違うんだよねえ」
「ん?」
「さっきはそれを言おうとしてたんだけど、僕はローファンタジーよりもハイファンタジーの方が好きなの」
「あー、なるほど」
「はあ」
理解が追い付かない回答に再び思考が凍り付いた優姫からは空返事しか出ない。
「それにこの学校ファンタジーが仕事してないし。スマホの扱いが完璧ってどうなの」
「こいつついにこの学校の存在意義全否定しやがった」
呆れた表情で和親がツッコミを入れる頃にようやく優姫が我を取り戻した。
「ええと、ローとかハイとかよく分かんないのはおいといて、そもそもこの学校はどうやって見つけたの?」
「家族で選んでたら見つけたけど」
「情報の統制はどうなってるのよ……!」
後で絶対担任に確認しようと優姫は心の中で誓うのであった。
「じゃあ試験は……問題なさそうだけど、面接よく通ったわね」
「正直に話したら校長先生も『面白い! 合格だ!』って言ってくれたよ」
「なんで校長先生が乗り気なのよ……もういい、疲れた」
「だから言ったろ、こいつに関しては考えるだけ無駄だって」
「もう何でも良いから、動画とかには気を付け……ん?」
「どうしたの、冷川さん?」
最後にもう一度注意だけして自分の席に戻ろうとした優姫が窓の向こうに何かを見つけ、その様子に釣られて二人も外を見る。
「あれは……」
見えたのは一組の男女。大きな帽子を被っていても怯えていると分かる女子に迫る強面の男子の図は、とてもじゃないが告白などではなくイジメか脅しているようにしか見えない。
「カズ、行ってくる!」
「おう、すぐに追い付くわ」
話の途中で昼食を終えていた真はそれだけ言って窓から外に出た。
「えっ!? ちょっとここ三階よ!? ……って平気そうに走っていったわね」
「あいつを気にかけるよりもやることがあんだろ、風紀委員さんよ」
「そうだった、私も行かなきゃ!」
優姫が教室から出ていくのを見送った和親は、翼を出して窓に足をかけ……
「やると思ったわ。あなたはこっちよ」
「ちっ」
それを予想していた優姫に腕を引っ張られていった。
「そこの君、一体何をしてるのかな?」
「ああん? 誰だてめえ」
和親と優姫が教室を出る頃には既に辿り着いていた真が声をかけると、ドスの利いた声と鋭い眼光が帰ってきた。
しかし異世界に行けばガラの悪い連中に絡まれることもあるだろうと考えている真は動じない。
「誰でもいいじゃないか。それよりもそこの女子が怯えているようだけど?」
「あ? ウチの事情に首を突っ込んでんじゃねえよ」
「その事情とやらはその娘を泣かせても良いものなのかい?」
真が簡単には引かないと悟り、男子は女子から手を放して拳を構える。
女子の方は先程までの恐怖で声を出せずに息を呑むのみだ。
「……面倒臭え奴だな、あまり踏み込んでくると怪我するぞ?」
「異世界に勇者として召喚されるかもしれないし、その程度で見捨てる理由にはならないね」
「訳の分からねえことほざきやがって。ならちょっと痛い目見てもらおうか!」
男子はその強面に相応しい大きな体格で、一方真は平均より僅かに細く背も低い。
その二人が喧嘩になればどうなるか予想してしまった女子が目を瞑る。
「あ?」
「……え?」
想像した鈍い音の代わりに殴りかかった男子の声に目を開いた女子が、真が男子の拳を掴んでいる光景に驚きの声を漏らす。
(動かねえ……!? 人間に化けてる状態でフルパワーが出ないとはいえ……)
「うん、やっぱり鍛えておいて損はないよね。……今度はこっちの番だ」
「くそ……!」
お返しにと、真が空いている右手で拳を握り、全力で腹をめがけ――
「はいそこまで」
「……冷川さん」
手拍子の音と共に優姫が声をかけ、真が拳を止める。
「勝手に喧嘩しないの。そっちも見たところ二年生ですけど、これ以上は強引な手段に出ますよ」
「その腕章、風紀委員か。……もう少し場所を選ぶべきだったな」
男子が小さく呟くと自分の教室に戻ろうと拳を引こうとするが、どう動かしても解放される気配がない。
「おい放せ。戻れねえじゃねえか」
「ああ、ごめんね」
「ちっ……なんだってんだ」
真が手を放すと、掴まれていた手を振りながら校舎に入っていった。
「あ、あの……ありがとうございます」
「どういたしまして。僕は別城真、君は?」
「大上桜奈です」
「じゃあローナで良いかな?」
「ふえっ!? い、いいです、けど……」
二人が自己紹介し合う中、後ろでは和親と優姫が小声で会話していた。
「ねえ、いつもあんななの?」
「まあな、転生する時のために善行を積んでおきたいってのと、勇者として活動する練習だそうだ」
「……いきなり名前呼びしだしたけど。あの娘も赤くなっちゃってるし」
「異世界だと冒険者仲間は下の名前で呼ぶことが多いかららしい。因みにお前は風紀委員だからだろうな」
「そこまで聞いてないわよ」
そんな二人の会話に気付かず、真たちは話を進めていた。
「良かったら話を聞かせてもらえるかな、彼を見た目だけで悪者と決めつけるのも良くないからね」
「え、えと、そ、それは、その……」
「大上さんとやら、悪いがオレは天使でね、隠し事はできると思わないでくれ」
「え? あれ、いつの間に!」
真に事情を聞かれて言い淀んだ桜奈に、和親が少し冷たく言う。
優姫はさっきまで隣にいたはずの和親が二人の間に入っていったことに驚いていた。
「帽子だ、マコト」
「……!」
図星だった桜奈が目を見開き、思わず両手で帽子を押さえてしまう。
天使である和親の目は真実を暴く。この学校では能力の使用も基本的に禁止されているが、天使の仕事に関する部分であるため例外的に使用が認められている。
「ありがとう、カズ。ローナ、その帽子の中、見せてもらえるかな?」
「……は、はい」
図星を突かれてもまだ少し躊躇していた桜奈だが、諦めて帽子を取った。
桜奈の頭の上には、人間に化けていればあるはずがない、三角の耳が生えていた。
「わたし、完全変化ができないんです」
「その耳……あなた、ワーウルフね?」
「はい」
この学校には何人か人間に化けきれない者もいる。流石に人の形すらとれない者は面接で弾かれるが、桜奈のように元の姿の面影が多少残る程度であれば入学が許されるのだ。
とはいえ、三年間で完全に習得ができなければ卒業を認められないなどの制約も存在している。
「あの男もワーウルフだったし、同族内で落ちこぼれの烙印でも押されてるんだろ」
「そんなことまで……」
「で、マコトは放心状態でどうした」
桜奈が帽子を取ってから真は微動だにせず言葉を発さない。
その視線は桜奈の狼の耳に固定されているが、傍目には呆けているようにしか見えない。
「じゅ……」
「え?」
「『じゅ』?」
「あー……」
真の小さな呟きに桜奈と優姫の頭にはクエスチョンマークが浮かぶが、和親は一足先に理解したようだ。
「獣人だ……!」
「「……はい?」」
「どうしようカズ本物の獣人だよ異世界の定番中の定番にこんなところで会えるなんて信じられないよそもそもあのピョコピョコ動く耳可愛すぎでしょ癒されすぎて逆に死んじゃうっていうかもういっそのことローナと一緒に異世界アバンチュールしたいくらいだようっわやばいテンション超上がってきたそういえば尻尾もあるのかなあったら最高ああもう想像したらひゃっほおおおおおおおおう!!!!」
「うん、とりあえず落ち着け、な?」
和親の言葉も空しく真が落ち着くことがなかったため、連絡先の交換だけをして放課後に話を聞くことになった。
勇者になることも考慮しているからか手を出すことはなかったが、桜奈は興奮している真に終始怯えていたという。
「というわけで、ローナが完璧に変化できるように協力しよう!」
「な~にが『というわけ』だ、まだ何も話してないだろが」
放課後、四人は桜奈のクラスの教室に集まっていた。
「でもそういう流れでしょ? 卒業できないかもだし」
「そりゃそうだが、あの男との関係を聞いてないっつの」
「そうだっけ?」
「ごめんなさいね大上さん」
「い、いえ、大丈夫です」
桜奈に優しく謝罪を告げた優姫が、今度は真を睨み付ける。
「別城君、手出しちゃダメよ?」
「大丈夫だよ、今日知り合ったばかりの人をモフろうなんてしないさ」
「ずっと耳見つめてよだれ垂らしてにやけてる奴が言っても説得力ねえよ」
「ウェヘヘ~」
変態と言っても過言ではない表情の真、当然桜奈は引いているが気にする様子はない。
「あ、そういえば尻尾も隠してるだけで残ってたりするの?」
「お恥ずかしながら」
「よっしゃああああぁぁぁぁぁっ!!」
「喜んでんじゃねえよ」
桜奈が制服をめくって尻尾を見せると真は全力のガッツポーズを見せ、和親に今日何度目か分からない呆れ顔をさせる。
そんな二人を無視して優姫が尻尾を制服にしまう桜奈に話しかける。
「で、大上さんと彼はあそこで何をしていたの?」
「えっと……『お前は一族の恥だ、俺達の顔にも泥が塗られるから学校には来るな』と」
「それは、いつから?」
「……入学してすぐからです」
「そんな前から……!」
四人とも一年生で現在は五月半ば、一か月以上も自分の知らないところで日々そんなことがあったと思うと優姫は不甲斐なくて悔しさでいっぱいになる。
「ふ~ん……あの人は偉い人だったりするの?」
「いえ、あの人は手下で、一族で『ボス』と呼ばれる人が三年生にいます。今までも色々な人に変化の助言を求めていたんですけど、目を付けられたくないのか全て断られてしまいました」
「ま、ワーウルフらしいっちゃらしいわな」
「当然だけど、勝手にその『ボス』と喧嘩しちゃダメよ」
「そのくらい分かってるさ。だからローナが変化できるように協力するんじゃないか」
こうして話は結局最初に戻った……ように見えた。
「ふふふ、良いねえ……落ちこぼれからの成り上がりに下克上、異世界ものでも燃える展開、最高だよ」
「ホントぶれないわね」
「で、変化ってどうやるの?」
「……そうだよな、マコトは知らないよな」
そう、元々人間であるために化ける必要がなく、その手段もこの学校に入る前に教わるもののため真は知らなかった。
「一応別城君も知っておいた方が良いでしょうね」
「……いつの間に眼鏡、しかも伊達」
「冷川さんも結構ノリ良いよね」
「い、良いじゃない別にっ」
眼鏡を格好良く着けた優姫だが、二人の言葉に顔を赤くした後に軽く咳払いをして説明を始めた。
「え~、私たちには体を巡っている、能力を使用するための力があります。種族ごとに差はありますが、学校ではこれを統一して『妖力』と呼称しています」
「オレの目も多少は使ってるぞ」
「とりあえず異世界ものでいう『魔力』だと思っておくよ」
「はいそこ勝手に名称を変更しない」
相変わらず異世界基準で考える真の言葉を、優姫はだんだん雑に流し始めている。
「妖力は私たちが人間に変化するためにも必要となります。できるだけ多くの者が人間社会に溶け込むために必要なので、消費妖力も少なく複雑な技術も必要としていませんが、それでも多少苦手とする種族もいます」
「まあワーウルフなんてあまり妖力を意識しない種族だし、狼男とも言われてただけあって昔だと女性は滅多に変化しなかったからな。今でも女性には変化をちゃんと教えてないみたいだし大上が完全変化できないのも無理はねえ」
「……さっきも思ったけど、結構詳しいわよね」
「種族柄、色々知っとかねえと困るんでな」
和親は何でもないように言うが、その博識ぶりに優姫と桜奈は素直に感心している。
「で、肝心の変化方法ですが、まず体の中の妖力を全身から薄く放出させます。すると全身を妖力で覆うことになり、体と妖力の境目が曖昧になります。その状態で妖力の形を変えれば体の形が変わり、質を変えれば髪や肌の色が変わるわけです」
「……それだと何にでも変化できることにならない?」
「理論上はな。だが基本的にオレたちは人間に変化する練習しかしてねえから実質無理だ」
「ちぇっ」
つまらなさそうに顔をしかめる真に更に追い打ちがかかる。
「ついでに人間は妖力が薄いし、私たちよりも体を曖昧にしづらいから変化は多分無理よ?」
「そうだな、よっぽど妖力が濃いか、そういう能力でもない限り無理だな」
「他人を変化させられるほどの妖力を持ってるなんて話も聞いたことないし」
「そんな……異世界でも変身能力は便利なんだけどなあ」
つまらなさそうにしていた真が落ち込み始めたが、例によって無視して話が再開される。
「私は元々人型だから髪と目と肌の色の調整だけね。だから正直形を変える方はあまり分からないの、ごめんね?」
「い、いえ、こちらこそすみません」
「オレは髪と目の色と、輪と翼をしまうだけだな。これがワーウルフだと体毛をしまう、マズルを引っ込める、更に耳と尻尾をどうにかする、ってところだな」
「ふ~ん……ローナとしては、耳と尻尾をしまおうとするとどうなるの?」
ここまでの説明を聞いて、テンションが低いままの真が桜奈に尋ねる。
「一応少しだけならしまうこともできるんですが……」
「あらそうなの? ちょっとやってみてくれるかしら?」
「は、はい」
制服から尻尾を出した桜奈がゆっくり目を閉じて数秒、狼の耳と尻尾が少しずつ小さくなってやがて見えなくなった。
「いいわよ、この調子!」
優姫もエールを送るが、桜奈はそれに反応する様子はない。
集中していると受け取った優姫が応援を続ける一方、真と和親はじーっと変化を見守っている。
耳が見えなくなって更に数秒、桜奈が閉じている目に力がこもっていき、体が震え始めた。
「もう無理っ!」
「何それ可愛い!」
そして桜奈が叫ぶと同時に耳と尻尾が勢いよく生え、真のテンションを再び上げた。
「く~っ、やっぱり獣人最高!」
「目を輝かせてる異世界バカはおいといて、変化自体は一見完璧だったな」
「そうね、完璧な人間だったと思うけど……大上さん、何か違和感とかあったりするのかしら?」
「耳と尻尾を小さくしてるのですが、違和感というか気持ち悪くなってきてしまって……」
因みに会話に参加してない真は落ち込む耳と尻尾を見て更に目を輝かせている。
「う~ん、そこは多分慣れじゃないかしら」
「それもあるが……」
「どうしたの?」
「……まあ、まずは違和感をどうにかするか。オレも最初輪と翼なくした時は違和感あったし」
「どうにかできるんですか!?」
勢いよく立った耳と尻尾に真が目を輝かせ続けているが、三人は最早完全に無視している。
「裏技的な方法になるがな。大上のためだ、多少の校則違反は見逃してくれよ、風紀委員サマ?」
「……仕方ないわね、現状より良くなるなら何も言わないわ」
「サンキュな」
感謝を述べた和親は桜奈に背を向けて……服を脱ぎ出した。
「ちょ、ちょっと、何をしてるのよ!」
「悪いな、これも大上のためだ、約束通り『何も言わない』でいてくれや」
「……! ……!?」
「全く、天使を相手に易々と約束なんてするもんじゃねえぜ?」
突然優姫が何か言いたそうに口をパクパクさせ始め、続いて声が出ないことに驚いて喉に手を当てる。
天使の能力として、相手が誓ったことを遵守させるというものがある。
ただし強制力があるものではなく、相手の約束を守ろうとする良心や義務感などに働きかける催眠に近い能力のため、元々守るつもりがなかったり破らざるを得ない約束や、相手が約束を破ることに躊躇いを持たない場合は効力がない。
その能力について知っている真は平然としているが、何が起きたか分からない桜奈は困惑している。
「その能力も欲しいな~、異世界に行ったら冒険者や商人相手の取引で騙されなくなると思うんだけど」
「お前もそこまで便利じゃないものだって知ってんだろ?」
「まあね」
「あ、あの、一体何が……」
「ん? ああ、真面目で律儀な冷川さんは『何も言わない』って約束を守るために、何か言いたくても無意識的に我慢しちゃう、ってところかな」
何も言わないだけだから能力は使えるはずだけど、とは言わない。
能力を使われてこの場を止められては話が進まなくなるからだ。
余談だが、真は『異世界に精神を操る魔法があるかもしれない』と、催眠術にかからない練習、かかった催眠術から抜け出す練習をしているため、和親のこの能力が効きにくかったりする。
会話をしているうちに上半身が裸になった和親が桜奈に背を向け、一瞬で翼が現れた。
「オレにはこんな感じに翼があるわけで、さっき大上がやったようにするとこうなる」
和親の翼が少しずつ小さくなりながら体の方に入っていく。
「でもこれだと体の中に翼が残ってるから、慣れないと背中が気持ち悪いわけだ。そこでどうするかっつうと……」
和親の背中に再び翼が現れると、今度はその翼が薄くなっていき、やがて背中にぴったりと貼り付いた。
「こうすれば体内には入ってないから違和感は小さくなるはずだ。まあこれだけだと着替えの時とかでバレちまうから色も変える必要はあるがな」
「おぉ~……なるほど」
背中に貼り付いた翼が肌色に染まって周りと区別がつかなくなると桜奈が感心の声を上げる。
一方真は、翼だけじゃなくて全身も平たくできるのかと、目の前の三人がひらひらと宙を舞う様子を想像して内心面白がっていた。
「んじゃまず尻尾を薄くするところからやってみようか」
「はいっ! あ、でもその前に冷川さんをそろそろ……」
「ん? おお、悪かったな。解除っと」
服を着終わった和親が優姫を見ると、既に言葉を出すのを諦めたのか和親を恨みのこもった視線で睨み続けているのみだった。
和親は特に悪びれた様子もなしに軽く謝ると能力解除の合図として指を鳴らした。
「あーあー、やっと声出た……天羽君、能力なんて使わずにちゃんと言ってくれれば良かったと思うんだけど?」
「良いじゃねえかこれくらい」
「もう……」
「さて大上、尻尾を薄くしてみようか。制服の中でで良いから」
「あ、はい」
変化するために桜奈が目を閉じるが、変化の際に光が発生するわけでもないため、変化を見ることができない三人は桜奈の反応を待つ。
「ん~……ん? お? おぉ!?」
「上手くいったみたいだな」
「凄い! これは凄いですよ! 違和感がかなり抑えられました!」
「そりゃ良かった。あとは厚みを体内の方に少しずつ戻していけばいずれ慣れると思う」
「はいっ! ありがとうございます天羽さん!」
尻尾が残ってたら凄い勢いで振られてるんだろうなあ、と真がにやけた顔で想像するが、尻尾を誤魔化す練習で尻尾を振っては意味がないことには気付いていない。
「よし、この調子で耳も……!」
「あ、ちょっと待て!」
「やっぱり違和感少な……あれ、何も聞こえない? 何で?」
「え? 大上さん、大丈夫!?」
「あ~、遅かったか」
「……やっぱりね」
和親が調子に乗った桜奈を止めようとするも遅く、耳を薄くした桜奈が何も聞こえなくなったことに混乱した。
その様子に優姫も軽く混乱し、和親は呆れたように片手を顔に当て、真は案の定と言わんばかりに呟いた後、ジェスチャーで桜奈に耳を出すように指示した。
「何ですか? 耳を? 出す? ……あ、聞こえる! 何で!?」
「ねえローナ、今の状態って狼の耳と人間の耳両方あるじゃん?」
「え? あ~ホントだ、そうですね」
「自覚なかったんだ……」
桜奈は自分の頭の横に手を当てて初めてその存在に気付いたようだ。
「まあいいや。それで、今はどっちに聴覚があるの?」
「もちろんこっち……あ」
「うん、気付けたようだね」
「私も今気付いた……」
桜奈が狼の方の耳を指差したところでようやく桜奈と優姫が失態に気付いた。
分かってしまえば簡単な話である。聴覚がある耳が薄くなる時に塞がれてしまうので音が入ってこないだけの話だ。
「私は五感の問題がないから完全に盲点だったわ。天羽君はともかく、別城君も良く気付いたわね」
「ふふふ、獣人に人間の耳があるかどうか、ある場合に聴覚がどうなってるかというのは永遠の命題だからね。実を言うと最初に会った時から気になってたんだよ」
「あ~はい、なるほどね~」
最初は素直に感心していた優姫だが、いつも通りの理由を聞かされて死んだ目で雑に流した。
「カズ、聴覚だけ移動ってできるの?」
「人型以外の種族もいるからな、できねえことはねえはずだ」
「なるほど。ローナ、聴覚だけ移動させることはできそう?」
「う~ん、ちょっとイメージが……」
「まあ形のないものだしね。じゃあ一回人間の耳を引っ込めて」
こちらは慣れたものなのか、人間の耳は一瞬にして消え去り、代わりと言わんばかりに髪が生える。
「うん、ケモ耳オンリーの獣人も最高!」
「別城君?」
「あはは、冗談だよ冷川さん」
氷点下な眼差しに笑って誤魔化したが当然本気である。
「その状態から、狼の耳を人間と同じ位置まで持ってこようか」
「あっ、そういうことですね。では……うっ、髪が邪魔で動かしづらい……」
「邪魔な髪は耳が移動して空いた部分に移動させよう。少しずつでいいから」
「はっはい! ゆっくり、ゆっくり……」
呟きに呼応するように、桜奈の耳が少しずつ下がっていく。
あまりにゆっくりなためか見守る三人にも緊張感が漂い始め、間もなく中間地点というところで、桜奈の体が揺れ始めた。
「あ、あれ?」
「大上さん大丈夫!? 変化止めて!」
「いや止めるんじゃダメだ。ローナ、戻して」
「えっ!?」
「ちょっと別城君、せっかくここまで来たのに……」
「危ない状態だから戻して! 早く!」
桜奈を助けるときですら見られなかった真の焦りに、桜奈も急いで耳を元の位置に戻す。
「あ、ちょっと良くなりました……」
「良かった……でも、これ以上はやめといた方が良いかな」
「別城君、どういうことなの?」
「変化の仕組みがはっきりしないから確証は持てないけど、多分三半規管に影響があったんだと思う」
「三半規管って……確か平衡感覚の器官よね? 耳の中の」
自身の耳を指差して優姫が尋ねると真が頷く。
「うん、人間だけじゃなくて脊椎がある生き物にはある器官だね。ローナもワーウルフだし、きっとあると思うんだ」
「まあ狼と人間だしな」
「耳を動かしたことで中の三半規管が一緒に動いちゃって、それで平衡感覚が崩れたんだと思う。ローナも完全変化のためにずっと目が回るなんて嫌でしょ?」
人間社会に溶け込むための変化でいちいち目を回していては本末転倒である。それを分かっているのか否定の意見はなかった。
「三半規管は鍛えることもできるから、耳についてはじっくりやっていこう。ローナは部活とか入ってる?」
「いえ、完全変化できない身では気が引けてしまって……」
「僕も色々見て回ろうと思ってたから入ってないし、これから放課後は変化の練習をしようか。良いよね、カズ?」
「ああ」
「私も付き合うわ、風紀委員がいれば向こうも手出ししづらいでしょうし。……逆に毎日は来れないけど」
「ありがとうございます!」
それから四人は放課後に集まり、桜奈の変化の練習に付き合う。
尻尾は違和感に慣れる練習、耳に関しては三半規管を動かさずに耳だけ動かす練習と、三半規管の鍛練もしている。
前転や後転に始まり、真がトランポリンやバランスボールを持参することもあった。
そんな平和な日常の裏で……
「あぁ? 変化の練習をしてるだあ!?」
「ひっ! そ、そうなんですボス」
「へぇ、あの落ちこぼれがねえ……」
学校内のどこかの薄暗い部屋で、ボスと呼ばれた男がニヤリと笑う。
その容貌はとても人間社会に溶け込もうとしているとは思えない、暴走族や裏稼業をしていそうなものだ。
学校の方針的には、あまり罪を犯してほしくはないが人間に紛れることができれば良しとしているため、不良の積極的な排除はしていない。
「別に良いことじゃねえか」
「……へっ?」
「バカかテメーは!!」
「ギャウン!」
ボスの拳が唖然としていた男の頬にクリーンヒットして壁まで吹っ飛ばすと、部屋にいる十人足らずのワーウルフたちが恐怖に支配される。
「俺様が良しとしないのは変化もできねえ奴がいる状態だ。それを改善しようってんだから口を出すつもりはねえよ」
「し、しかしですね……」
「分かってらあ。ナメた態度とられたままじゃあこっちの立つ瀬がねえからな、一度痛い目に遭わせる必要がある」
こうして、桜奈の完全変化を目指す真たちに魔の手が迫ろうとしていた――
――とは知らず、真は今日も桜奈の教室に向かう。
「掃除当番だるかったなあ……異世界だと絶対便利な魔法とか魔導具とかあるからな~」
和親は一足先に桜奈のところへ、優姫は委員会で遅くなるか来れないらしい。
「さて、今日もローナの耳で目の保養を……ん?」
「んー! んんー!」
本末転倒な目的を呟きながら教室に入った真の目に留まったのは、椅子に座った状態で縛られた和親の姿。
真の姿を見て何か叫び始めたが、塞がれた口からは小さくくぐもった声しか聞こえてこない。
「知らなかったよ、カズにそんな趣味があったなんて」
「んん!?」
「それじゃごゆっくり~」
「ん~~~!!」
勘違いをして教室を去ろうとする真に和親が怒りを込めて大声を出す。
「冗談だよ」
「ぷはっ……全く、ふざけんじゃねえぞ」
「あはは、ごめんごめん」
和親を解放すると恨み言が飛んできたが笑って回避、本題に入る。
「さ、ローナを助けに行こうか」
「……流石」
「この教室から出ていく見慣れない足跡があったからね。まだ新しいし何かあったのかな、とは思ってたよ」
足跡と言うが、新しいものとはいえ普通に見ても分からない程に薄く、本来ならば天使の目のような能力でもなければ見分けるのは難しいだろう。
「悪いな、オレじゃワーウルフと力比べで勝つのは無理だし。足跡はオレが見るか?」
「大丈夫、異世界じゃ魔物や盗賊を追うなんて当たり前だからね。追跡術の練習も怠ってないよ」
「……ストーカーを疑われないようにしろよ」
「気配を消す練習と一緒にしてるから大丈夫だよ。さ、行こうか」
それは大丈夫なのか、と思いつつ和親は優姫にメールしておくことを忘れない。
二人が足跡を追っていくと、やがて一つの教室に辿り着いた。
そこは今年度から場所が変わったため昨年度まで使用されていた旧音楽室で、その入口の前にはワーウルフと思われる男子が二人立っている。
「……なるほど、今は使われてない防音室ってところか。うってつけの場所だね」
「見張りがいるが、どうするマコト?」
和親に問われた真が自分の鞄の中を漁り始め、やがて一つの小さいボトルを取り出す。
「これは……酢?」
「うん、異世界に急に放り出されてサバイバルすることになった時に味付けが欲しくなるかなって思ってさしすせそは常備してるよ」
「んなもん常備すんなよ」
続けて真はすぐ近くの窓を開け、適当なノートを取り出して酢の臭いを見張りのワーウルフの方に流す。
「ウェッヘッヘ……ワーウルフってことは人間に化けてても嗅覚は優れてるだろうからね、こうやってキツイ臭いを嗅がせれば……」
(ワルだ……)
「んごほぉっ!?」
「は、鼻が、鼻が酸っぱい……」
真の狙い通りにうずくまるワーウルフ二人。
「くっ、誰かこの近くで料理でもしてんのか?」
「いやでも家庭科室は近くじゃねえぞ」
「くそ、中に避難を……」
「ダメだ! 絶対開けるなとボスに言われてるだろうが!」
真は酢に苦しむワーウルフにこっそり近付いていき……
「ていっ!」
「「!?」」
可愛いかけ声で両手で一人ずつ首に手刀を当て気絶させた。
「……すげぇな、首に手刀をリアルで見れる日が来るとは。しかも相手が頑丈なワーウルフ」
「これも練習したからね」
(誰を相手に練習したんだ、なんてツッコんでる暇はねえな)
「では改めて……開かない」
気絶したワーウルフを優しく寝かせた真がドアノブに手をかけるが簡単には動かない。
「う~ん、ピッキングは面倒だし蹴破ろう」
「天使の前で堂々と器物損壊を宣言するな」
「大丈夫、ワーウルフたちのせいってことにするから」
「天使の前で堂々と責任転嫁を宣言するな」
「だって元はローナをさらったのが原因だからね」
「……はぁ、仕方ねえな」
何を言っても無駄だと和親が溜め息を吐く。
「そういえば、冷川さんはどうしたの?」
「メールは送ったが……まだ返信は来ねえな。ちょっと呼んでくるわ」
「そう。行ってらっしゃい」
和親を見送って真面目な表情になった真が、全力でドアを蹴るために構えた。
時は少しだけ遡る。
「ボス! 落ちこぼれ娘を連れてきました!」
「おう、ご苦労」
桜奈は気絶しており、されるがままに椅子に拘束されてしまう。
女の子とはいえ同じワーウルフ、そのパワーはよく知るものであるため入念に縛っていく。
「おら、起きやがれ!」
「んっ! ……うん?」
桜奈が拘束されたのを確認したボスが水をかけると、桜奈が目を覚まし数秒おいて目の前の人物に焦点が合う。
「ひっ! ぼ、ボス……」
「よう、最近変化を頑張ってるらしいな?」
「……!」
別に秘密の特訓というわけでもないので知られていることに驚きはないが、ワーウルフの中でもかなりの強さであるボスに言われては恐怖しか抱けない。
「なあに、そのことについてとやかく言うつもりはねえよ」
「じゃあ、なんで……」
「手下が『学校に来るな』っつってんのに、それを無視し続けたろ?」
「そ、それは……」
つい目を逸らしてしまう桜奈だが、ボスが頭を掴んで強制的に目を合わさせる。
「それじゃあ他の種族にナメられちまうわけだ。どうすれば良いか、分かるよなぁ?」
「ひぃっ!」
自身の未来を予想してしまい、桜奈の体が震え目に涙が滲む。
「もう学校に来るなとは言わねえ。だがちょっとだけ痛い目見てくれや」
「いや……」
ボスの拳が振りかぶられ、桜奈は強く目をつむる。
(助けて……!)
その心の叫びが届いたのか、旧音楽室のドアが勢いよく吹き飛び、近くにいたワーウルフに直撃した。
「あぁ? 何だ一体」
「マコトさん……!」
「やあ、間に合ったみたいだね」
真は巻き込まれたワーウルフの上のドアを踏み台にして跳躍し、桜奈のすぐ近くに着地してそう言った。
「冒険者ギルドで最初に絡んできそうな怖い顔……君がボスだね?」
「あぁん? 下級生が生意気な態度取ってんじぇねえ、よ!」
ボスが桜奈に向けていた拳を真に向けるが、真は今回も容易く受け止めて投げ飛ばした。
「ぽいっと」
「ちぃっ……!」
だがボスは上手く姿勢を直して着地。
周りのワーウルフは今の光景に驚愕し、警戒して真には近寄らないようにしている。
「どうやら怪力に自信があるらしいな」
「……」
「だが余裕でいられんのも今のうちだぞ」
ただでさえ恐ろしい顔つきのボスの表情が怒りに染まると、その変化を解除し始めた。
上半身は制服を破りながら大きくなって毛に覆われ、頭は完全に狼のもの。
下半身はズボンで見えないが骨格が少し変わり、尻尾だけは勢いよく突き出てきた。
「う~ん、ローナみたいな人間ベースの獣人も良いけど、こっちの獣ベースの獣人も良いなあ」
「マコトさん! そんなことを言ってる場合じゃ――」
「何をゴチャゴチャ言ってやがる!」
「ひぃっ!」
ボスはたまたま近くに落ちていたドア――先程真が蹴り飛ばしたもの――を拾うと、両手で二つに折り曲げた。
「人間に変化してちゃあ出せねえ本気だ、いくらてめえでも今の俺様に敵うわけがねえ」
「そうだね、流石に僕も金属製のドアを力尽くで折り曲げることはできないかなあ」
「そうかい、だったらさっさとくたばりやがれ!!」
変化を解除したワーウルフの膂力で放たれるパンチは、人間にしては鍛え過ぎの真でさえも一撃で沈めることができたであろう。
ただし、直撃すれば、の話だが。
真は左半身を引いてギリギリでパンチを避けると、その腕を横から両手で掴む。
そのまま腰を下ろすと、パンチの勢いもあってボスの体が前に傾き、更に右足を腹に当てながら上半身を後ろに倒すとボスの体が浮いた。
結果、中途半端に飛び込み前転をする形になったボスは、大きい体のせいで回転しきれず床に頭を強く打ちつけて気を失う。
「ふう。力で敵わなければ技を使うまでさ。『柔よく剛を制す』っ言うでしょ?」
「すごい……!」
「ふふ、異世界じゃ人間以上に強い魔物なんて当たり前だし、転生すれば体も鍛え直し。そう思って護身術に柔道、空手……とにかく多くの武術を学んできたからこのくらいは当然さ。人間以外に転生した時の訓練ができないのが惜しいんだけどね」
「は、はあ……」
どこまでも相変わらずの発言に桜奈の表情も感心から苦笑に変わる。
「さて、異世界じゃ盗賊の集団や戦争で大人数を一人で相手しなきゃいけないこともあるから集団戦の訓練もしてるけど、君たちはどうする? 一斉にかかってきても構わないけど」
「く、くそ! ナメられたまま終われるか! やるぞ!!」
『おおおおぉぉぉぉぉぉ!!』
ボスが倒されたことで驚愕と警戒が強まり動けなかったワーウルフたちだったが、一人が自棄を起こして叫ぶと周りのワーウルフも全員が雄叫びを上げて真に襲いかかろうとする。
「はい、そこまで」
突然聞こえた女性の声と共に場が凍りついた。
ワーウルフたちの下半身は氷に覆われ、混乱するものもいれば、どうにかして抜け出そうともがく者もいる。
一瞬真と桜奈も呆然としてしまったが、教室の入口を見るとそこには和親と優姫がいた。
ただし優姫の髪は白く、瞳は青く染まっており、肌が青白くなっている。
「げっ! あいつ、風紀委員の『雪姫』じゃねえか!」
「なんだと!? まだ入学して数ヶ月なのに期待の新人と言われている、あの!?」
「……ねえ、雪女で名前が『優姫』だから『雪姫』って安直じゃない?」
「オレに言われてもな」
冷川雪姫は雪女である。能力も当然冷気と氷を操るもの。
風紀委員は生徒を取り締まる際に能力を使用しても良いことになっているため、優姫は変化を解除して能力を使用していたが、ワーウルフが全員動けないことを確認すると再び人間に変化した。
「う~ん、おいしいところを持っていかれた気がする」
「そんなことありません。マコトさん、ありがとうございました」
「……どういたしまして、ローナ」
他の風紀委員もやってきてワーウルフたちが連行されていくのを見ながら会話する二人に優姫が近付く。
「別城君、ちょっと両手を出してもらえるかしら?」
「何?」
「逮捕」
「えっ? 冷たっ」
素直に出された真の両手が丸ごと氷に覆われる。
因みにこのくらいであれば優姫も変化を解除する必要はない。
「大上さんを助けるためとはいえ喧嘩したのは事実でしょうが」
「そんな……悪役を倒して捕まるとか異世界ものでも滅多に――」
「文句言ってんじゃないわよ、意識ごと凍らせるわよ?」
「……それはご勘弁」
一瞬異世界で氷魔法によって氷漬けにされた状態からの脱出の訓練ができそうだと考えた真だったが、意識を凍結されては訓練も何もないことにすぐに気付いた。
「罰が軽くなるように私からも言っとくから。大上さんも事情聴取の必要があるから一緒に来てもらえる?」
「は、はい」
こうして、ワーウルフによる大上桜奈誘拐・暴行未遂事件は幕を閉じた。
真やワーウルフたちにどんな罰があったのかは伏せておくが、桜奈が『学校に来るな』と脅されることはなくなったという。
ここは校長室、二人の人物が仲良く茶を飲んでいる。
「はっはっは、あなたのお孫さん、これまた愉快にやらかしてくれましたなあ!」
「わしが育てた孫じゃからな、ワーウルフくらい一捻りじゃよ」
片方はがっしりとした体格を持つこの学校の校長、もう片方は一見普通のお婆さんである真の祖母。
「それにしても、本当に良かったのですかな。お孫さんをここに入れて」
「いつか来る日に備えたつもりではあるが、わしが鍛えるのも限界があるからのう。様々な種族と接すれば良い経験になると思ってな。逆に良く受け入れてくれたと思っておるわい」
「我々の恩人であるあなたの頼みでしたからな」
「ほっほっほ、それはお互い様じゃ。数十年前、言葉も分からず彷徨っていたわしを拾ってくれたのはお主なんじゃからな」
「もうそんなに経ちますか、懐かしいですなあ」
「全くじゃ」
愉快そうに笑い合う二人だったが、しばらくして真の祖母が席を立つ。
「ではわしは『普通の人間』として、家で孫を迎えるために帰るとしようかのう」
「またいらしてください。あなたに会いたがっている者も多いですので」
「……そうじゃの、わしも久々に見たい顔はいるからのう。では、またの」
自身の祖母がこの学校にいたことも、校長とこうして話していることも知らず、真は明日も恐らく異世界を求めるのだろう。
これは、異世界に行きたがる別城真の、妖怪たちが集まる高校での日常を描く物語。