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「……ことの始まりは、十年ほど前から活躍してる一人の怪盗が原因と言われてるわ」
コーヒーを淹れなおしてから、彼女は静かに話始めた。
「その怪盗の名はヘルメス。もはや伝説とも言える大怪盗よ」
「……つっ!?」
「さすがにこの名前は知ってるわね?」
「まぁ……」
コーヒーを口にしていたら吹き出すところだった。
ここで話の腰を折るのも悪いので黙って聞くことにしよう。
「その怪盗はまさにカリスマだった。予告状を出したら確実に獲物を盗み、さらに死者を一人も出さない。その姿は変幻自在で、誰も本当の姿を知らない。協力者が一人いるという噂があるけど……実際のところはなにもわかってないわ」
「それで、そのヘルメスさんがなにをしたの?」
「なにもしてないわ。ただ、怪盗ヘルメスを真似する連中が急増したの。……誰もがヘルメスに憧れたわ。私もその一人」
つまり、その怪盗ヘルメスの模倣犯が現れたわけだな。しかも大量に。
まったく、迷惑な話だ。
「みんな思い思いの方法でヘルメスに近づこうとしたわ。中には警察の手には負えないくらいに優秀な怪盗たちもいるの。そうしたら、今度はそれに対抗するための組織が生まれた。その名は探偵協会、対怪盗専門の探偵集団よ」
「また変な名前が出てきたな。探偵協会?」
「そう。そして協会の誕生によって怪盗たちは壊滅状態になったわ。それが三年くらい前の話ね。それでもヘルメスに近づくことを諦めきれなかった怪盗たちは、次第に横の繋がりを持つようになったの」
それが怪盗商会ってことか。
増加する怪盗人口に対抗するために探偵協会が出来て、それに対抗するために怪盗商会が生まれた。その根本の原因が怪盗ヘルメス。
わかりやすいような、わかりにくいような……。
「それで、その怪盗商会はどんな組織なの?」
「実際は組織と呼べるようなものじゃないわ。主に情報交換の場よ。条件が合えば手を組んで仕事をしたり、盗んだものを横流しするルートを提供したりもするわね」
「なんだか、ロマンの欠片もないな」
「そうね。それでも私たちは怪盗というものに憧れてしまったのよ」
しかしまた凄い世界になったものだ。
私が喫茶店を開いてのんびりとした生活を送っているうちに、裏世界では怪盗と探偵の戦いが壮絶なことになっているなんて……。
怪盗商会と探偵協会か。
なんだか面白そうな話ではあるが、本当のことなのだろうか。
「つまるところ君も怪盗なんだね?」
「ええ、そうよ。怪盗セルリアといえば結構有名なんだけどね」
そうなのか。若いのに頑張ってるんだな。
「普段は芹沢紬(せりざわつむぎ)って名乗ってるわ。それで、あなたは?」
「私はこの店のマスターだ。それ以上の情報は必要ないね」
「……あなた、私を馬鹿にしてるの?」
「そんなつもりはないさ」
「なら、なんで名前を言わないのよ」
「だって……そっちの方が格好いいだろ?」
「……は?」
こう言うと誰もが奇妙な生物を見るような目をしてくるが、わかってくれる人はいないのだろうか。
悲しいな……。
「ねえ、そこのあなた。ちょっといい?」
「……んあっ!? 俺か?」
店の隅っこで読書をしていた槇に声をかける怪盗セルリア、もとい芹沢紬。
槇はどことなく落ち着きがない。
「そう、あなたよ。あなたはこの人の名前を知ってる?」
「知らんな」
「……本当に?」
「ああ」
こちらへ振り返るとジトッとした視線で私を見てくる。
大抵の男なら美人に睨まれるとつい話してしまいそうだが、日頃小夜ちゃんに睨まれ続けている私は、その程度のことで動じることはない。
それもまた悲しい話だが。
「そもそも名を名乗らないことって、格好いいことなのかしら」
「名乗らないというよりも、固有名詞のないミステリアスな感じがロマン溢れると思わないかい? 君だって、その怪盗ヘルメスとやらの存在がミステリアスだからこそ、憧れたんじゃないのかな?」
「それは、そうだけど……あなたみたいなこそ泥とヘルメスを一緒にしてほしくはないわね」
「……あぁ、それは失礼」
しかし、怪盗ヘルメスにこんな美人のファンがいるとはね。それに、ただ憧れるだけではなく自分も怪盗になってしまうところが凄い。
大胆な見掛けとは裏腹に、とても一途なんだろうな。
「まぁ名前のことはもういいわ。それで、本当にあなたが盗んだの?」
「そうだね。今は私の手の中にあるよ」
「見せてもらえないかしら?」
「……いいよ」
だが、このまま店を空けることは出来ない。他の客が槇だけだから、大丈夫といえば大丈夫なんだが……。
「遅くなりました、マスター」
そう思案していると、なんともタイミングのいいところで小夜ちゃんがやってきた。
さすがは私のパートナーだ。
意識していなくとも私を助けてくれる。
「いやいや、まだ昼前じゃないか。それにしても、いいタイミングだ。ちょっと店を任せていいかな?」
「ええ、構いませんが。なにかあったんですか?」
「色々とね。後でちゃんと話すよ」
小夜ちゃんは不思議そうな顔をしていたが、すぐに仕事の準備にかかる。
一瞬、小夜ちゃんと彼女の視線が交差した時に、言い様のない悪寒を感じた。
なんだろう……何もしていないのに被害を被りそうな気がする。
「それじゃあ、芹沢さん。こちらへ」
「紬でいいわ」
「……なら、紬ちゃんで」
「紬ちゃん?」
真っ先に反応したのは何故か小夜ちゃんだった。僅かに顔を引きつらせながら、私と紬ちゃんを交互に見ている。
そして再び小夜ちゃんと視線を交わした紬ちゃんは、なんとも怪しげな笑みを浮かべて私の腕をとった。
「いいわよ、それで。ほら、早く行きましょう?」
「あ、ああ……」
なにやらまずいことになってしまった。
小夜ちゃんは弁解の機会をくれるだろうか……。