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閉店後、店の片付けをしていると一枚のチラシを見つけた。掃いていた箒を側のテーブルにに立てかけ、それを拾い上げる。
どうやら客の忘れ物らしい。
そのチラシはフランスの戦争映画の宣伝だった。ふと灰色の世界から次第に狂乱の世界へと変わり、再び絶望に染まったあの頃を思い出す。
「懐かしいな。フランスかぁ……」
「マスター、フランスにいたんですか?」
小夜ちゃんはカウンター席を拭いていた手を止めてチラシをのぞき込む。
「ああ。あの頃は奇人変人が周りにたくさんいてね、退屈とは無縁の生活だったよ。……もちろん今も楽しいけどね」
「あなた以上の奇人変人がいるとは思えませんが」
なかなかに酷いことを言ってくれる小夜ちゃんに悲しみを覚える。
最近の小夜ちゃんは純粋さを失いつつあるかもしれない。
「そんなことないさ。ジャン=ポール・サルトル、アンドレ・ブルトン、アルトナン・アルトー、パブロ・ピカソ、マックス・エルンスト、アルベルト・ジャコメッティ……。ほら、十分に奇人変人の集まりだろう?」
「………」
「あの頃のモンパルナスは疾走するように輝いてたな。ありとあらゆるアイディア、思想が生まれ、成熟し、形を成す。金はなくとも気概に溢れ、自らの道を探すことに燃えてた……そんな時代だったよ」
「……前々から聞こうとして、でも、怖くて聞けなかった質問なんですが、あなた歳いくつですか?」
「さぁ……いくつだろうね。私も覚えてないよ」
「今の話では少なくとも一九二〇年代には……いや、そういえば以前にも一三世紀頃のことを平然と……」
やってしまった……。
小夜ちゃんの私を見る目が酷く懐疑的になっていく。
軽率な発言が後悔もたらす。
本当のことを言ってしまったら、小夜ちゃんはどんな顔を見せるだろう。この掛け替えのない日々が失われないよう、私は口を噤むことでしか身を守れない。
なにせ、私の最古の記憶は数千年も前のことだ。
キリストが生まれるより遙か昔、ソクラテスが弁論を行う遙か昔のこと……。
そして、そのことを知るのは私の古くからの友人、知人……ごく限られた特殊な人間たちだけ。……例え現在の私のパートナーである小夜ちゃんといえども、そうそう理解出来るものではない。
「……私には話せませんか? 知る資格がありませんか?」
「それは……」
そう言う小夜ちゃんの瞳には懐疑の色よりも濃く、悲しみの色が満ちていた。
布巾を握る手が固くなっていくのが見える。
私はこの日常が壊れることへの恐怖に負けて、小夜ちゃんを信じることが出来なかったのだろうか……。
私は言葉に詰まり、小夜ちゃんも次の言葉が出てこないのか、重く耐え難い沈黙が辺りを包む。
「……薄々は気づいてたんです。元々、あなたは怪奇の塊ですし……」
心に整理が突いたのか、小夜ちゃんがゆっくりと話し始める。俯いているため、表情はわからない。
「あなたには時間の流れなんてものは、大して意味をなさないのだと。普段から歴史を語る時は、まるで見てきたような口振りでしたから」
「………」
「私にとって、あなたは私の全てです。十五年前にあなたと出会っていなければ、今の私は存在しませんから……。ですから私はどんなことにも目を背けません。どんなことでも受け入れてみせます」
「小夜ちゃん……」
真実を告げることには時折痛みを伴うことがある。
告げる方にも、告げられる方にもだ。
私が傷つくだけならまだしも、小夜ちゃんまで苦しめたくはないと思って今まで話してこなかった。だが、もしも知らないことで傷つくというなら……痛みを受け止める覚悟あるというなら、私は話すべきなのかもしれない。
十五年前、私は一人の女の子を拾った。
その女の子は今、立派に成長して私の前にいる。
対等な存在として。私の最高のパートナーとして……。
「……わかった。そこまで言うなら、少しずつ話していくよ」
「マスター……」
途端、小夜ちゃんは先程までの不安と疑心の入り混じった表情から、まるで子供のような純粋無垢な表情になった。
おかげで私は本当に話していいのかという不安からすっかり解放されてしまう。
むしろ今まで黙っていたことが馬鹿らしくも思えてきた。
「よし、そうと決まったら乾杯しよう」
「……は?」
「私と小夜ちゃんの新たな門出を祝して、一杯やろうじゃないか。ワイン買ってこよう、ワイン。それもうんと高いの」
「まったく、あなたはいつも唐突に変なことを言い出しますね……」
「なに、それでも君はついてくるんだろう?」
「……ええ。もちろんです」