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夕方になると客足も落ち着いて、ゆっくりとした時間が流れる。
こうして客足が途絶えると私はコーヒーを淹れて、小夜ちゃんの作ってくれる焼き菓子を食べながらまったりするのだ。
ちなみに今日のお菓子はビスコッティ。とても歯ごたえのあるイタリアの伝統的な焼き菓子だ。そのまま食べるのもいいが、コーヒーに浸して食べるとさらにうまい。
まさに至福の時だ。
小夜ちゃんもカウンター席に座って、コーヒーを飲みながらアウグスト・シュトラムの詩集を読みふけっている。しかも原書を読めるところが小夜ちゃんの教養の深さを物語っていた。
ページを捲るしなやかな指先も、視線を移す度に震える睫も、余韻を感じるように綻びる口許も、全て額縁の中に閉じ込めることが出来るなら、どんな絵画にも引けをとらないだろう。
それを独り占めしているというのは、とても気分がいいものだ。
喫茶店のマスターとしての特権だろう。
「……ふぅ」
一区切りついたのか、小夜ちゃんは本を閉じて顔を上げる。そして小さく伸びをすると私の方へ向いた。
「面白い作品ですね、これ」
「だろ? それは当時としてもかなり斬新なものだったんだよ。彼はドイツ表現主義の詩人だが、マリネッティの未来派文学技術宣言に大きな衝撃を受けてね、言葉のために文を放棄せよというのを体現した作品を書いたんだ」
だからシュトラムの詩はドイツ語で読まないと、動詞の持つ運動の流動感が音感から喪失してしまうのだ。その詩法は動詞は全て不定詞を使い、形容詞や副詞を排除することによって、〝運動〟そのものを表現しようとした。
「このスピード感はそのせいですか」
「ああ、元々ドイツ表現主義と未来派は類似している部分が多い。そういう時代だったんだね」
戦争へ向かおうとした時代がそうさせるのか、表現主義には破壊的で感情的な作品がとても多い。マリネッティの未来派宣言も行き着いた先はファシズムだ。
「だから、戦争賛美のマリネッティに影響を受けたシュトラムが、第一次世界大戦で戦死したというのも皮肉な話だね」
「それはまたなんとも……」
小夜ちゃんは物憂げな表情をしながらコーヒーを口にする。
とても情趣溢れた雰囲気が店を包んでいた。
だが、そんな優雅なひとときを壊すように店のドアが開く。
「いらっしゃいませ」
小夜ちゃんはすぐに仕事の表情へと戻った。さすがは一流のウェイトレスだ。
「久しぶりだな、諸君! 寂しかったかい?」
そいつは勢いよく店に入ってくるやいなや、変なポーズを決めて叫んだ。つまみ出したい衝動に駆られるが、それを必死に抑える。
「……いらっしゃい」
「お久しぶりです、槇さん」
「やぁやぁやぁやぁ。元気にしてたかい? 小夜ちゃん、今日も一段と綺麗だねっ! なんだマスター、渋い顔して。そんなんじゃ、運も逃げちまうぜ」
「なんだよその異様に高いテンションは」
普段とは明らかに違う槇のテンションについていけない。小夜ちゃんも若干引き気味だが、それでも槇は構わずに喋り出した。
「いやー、実はかなり大きな事件を解決してきてな。今帰ってきたばかりなんだ。あ、これお土産な。はい、小夜ちゃん」
「ありがとうございます。……チョコレートですか?」
「どこ行ってきたんだよ」
「アントウェルペン」
「アント……って、ベルギーじゃないか!」
「そうさ、ちょっとした依頼があってね、ベルギーまで行ってきたんだ。しかも旅費の全てが経費で落ちた上に報酬もかなりのもので、ホント最高さ」
饒舌に話す槇の表情はとても嬉しそうだった。
しかし、まさか槇に海外まで出向くような依頼が来るとは……。普段の仕事のなさからはまったく想像出来ない。
「槇さんって、探偵としてそんなに有名だったんですか?」
「だよな。せいぜい浮気調査くらいしか仕事のないやつに、海外から依頼って……」
「まぁ、知る人ぞ知るって感じの名探偵だ。俺の今までの活躍も、そのうちわかる日が来るだろうよ」
なにやら意味深なことを口にする槇。
これ以上話すつもりはないようで、いつもの定位置に座るとコーヒーを注文した。