3-2
「ところで、小夜ちゃんはクールベの写実主義がどんなものか知ってるかい?」
「……なんですか急に」
「いや、こうしてクールベの『オルナンの埋葬』を目の前にしてるんだから、ちょっとお勉強の時間にしようかと思って」
ギュスターヴ・クールベは一八一九年生まれのフランスの画家だ。
一般的にクールベは写実主義の画家と言われているが、その言葉にはちょっとした落とし穴がある。
「写実主義というのは現実をありのままに描こうとすることですよね。クールベもそれと同じでは?」
「とても教科書的な答えだね。なら、クールベのレアリスムと現代美術のスーパーリアリズムの違いはわかるかな?」
「スーパーリアリズムは写真と見間違える程にそっくりに描くことで、それに対してクールベは……写実的に……あれ?」
そう、レアリスムもしくはリアリズムと呼ばれる絵画は、写真のようにそっくりに描くこととは意味合いが違うのだ。同じく一九世紀半ばに実用段階に入った写真と写実主義の絵画が引き合いに出されることがよくあるが、それらを比較することは若干筋違いだろう。
「クールベの写実主義は、当時主流だったロマン主義からの反発であると考えるのが妥当だろうね。つまり彼のレアリスムとは幻想を廃して現実を描き出すことにあったんだ」
「天使は見えないので描かないと言ったのもそのためですよね」
「そうだね。その言葉の真意は、ロマン主義の主題に用いられる古代の神々や英雄などではなく、現実に見える人物や風景を描くという決意の表れだと思うよ」
「当時は彼の絵は革新的だったと聞きますが」
「まぁ、例えば『オルナンの埋葬に関する歴史画』なんかは一八五〇年にサロンに展示された時には酷い言われようだった。当時の歴史画といえば、神々や英雄を理想化して描くものであり、オルナンなんて片田舎のなんの変哲もない葬式風景を描くなんてことは、ありえなかったんだ」
「これのことですよね」
小夜ちゃんは目の前にある絵画を指す。
「そう、それ。ちなみに……陳腐で下品で野卑、卑俗な醜悪さを賛美しようとする粗野な愚か者なんて言われてた」
「それは酷いですね」
「ありのままの現実を描いただけだったのにな。それはそのまま自分たちが醜いってことになってしまうのに」
それはマネの絵画にも言えることだ。
当時の貴族たちは現実逃避が出来るロマン主義に浸かりすぎていたのだ。
「そんなこともあって、一八五五年にパリで開かれた万国博覧会に『オルナンの埋葬』や『画家のアトリエ』などを出品したものの、あえなく落選。それにキレたクールベは万国会場の真ん前で同日に個展を開いたんだ」
「無茶苦茶ですね」
「これに関しては以前からいざこざがあったらしい。そしてこれは世界で初めての個展と言われてる。入場料は一フランだった」
その個展には彼の四十枚の絵と四枚のスケッチが飾られた。
個展として十分すぎる程の規模である。
「それは成功したんですか?」
「彼は大騒動を予期して警備員を雇ったりもしてたが、結局は特に問題も起きずに終わったね。初日は満員だったが、次第に来場者は減っていったようだ。だが、この個展は一概に失敗だったとは言えない。なにしろ、ロマン主義の巨匠であるドラクロワが『画家のアトリエ』を称賛する程だったからね」
ドラクロワの作品では『民衆を導く自由の女神』が有名だろう。
まさにクールベとは対照的で、ドラクロワはクールベのことを理解出来ないと嫌っていたが、それでも密かに彼を羨望してたというちょっと可愛い爺さんだ。ちなみに、新古典主義のアングルも似たようなものだったらしい。
「そしてなにより重要なのが、この個展でクールベが書いた『レアリスム宣言』だ。ここで彼は、自分は生きた芸術をつくりたいのだと述べてる」
「聞いたことはありますね。それこそがクールベの写実主義ですか」
「スーパーリアリズムとは全然違うだろ?」
「ええ」
クールベの唱えた現実を自分の感じたままに描くというレアリスムは、十九世紀の保守的な人間たちには革新的なものだった。
「そんなクールベも、若い頃はロマン主義の絵を描いていたんだよ」
「……へぇ」
「彼はロマン主義から脱却し、さらに成長するために、ロマン主義の躍動感溢れる線や輝くような色彩を学んだんだ。ドラクロワの作品も模写したりしてるね」
しかし、ロマン主義の主題になる旧約聖書などの文学に関心がなかったために、登場人物に説得力ある生命を吹き込むだけの想像力に欠け、これらの絵は上辺だけの模倣にしかならなかったようだ。
元々クールベは独学で絵を描き続けた画家でもある。だから写実主義という思想は革新的でも、実際の絵画手法は先達の影響を強く受けているのだ。
「また、彼は〝終わりの画家〟にして〝始まりの画家〟とも言える」
「はい?」
「つまりだ。彼によってロマン主義の画家たちは埋葬され、彼の写実主義の後に台頭してきたのは……」
「印象派ですか」
「そう。印象派の始まりをどこからにするのかは人によってまちまちだが、私はクールベが大きな時代の区切りとなってるように感じるね……」
「どうかな、勉強になったかい?」
「それはもう。……ですが、一つ質問してもいいですか?」
「もちろん」
「仕事をする前にクールベのレゾネを見たんですが、三メートルを超す作品は『オルナンの埋葬』と『画家のアトリエ』だけでした。あなたはどうしてそんな盗みにくいものを選ぶんですか?」
「じゃあ、『世界の根源』の方がよかった?」
「それはセクハラですか? 訴えますよ」
「すみません」
せっかく尊敬の眼差しを向けられていたのに、その一言でまた振り出しに戻ってしまったようだ。
気をつけようと思っていても、ついやらかしてしまう。
とても悲しい。
「……私がこれをもう一度見たいと思ったのは、これが私が初めて見たクールベの作品だからさ。なんだか妙に愛着があるんだよ」
「見たことある作品でも盗むんですか」
「そりゃ、もちろん。本当の芸術は一生かかっても飽きたりはしないさ」
「盗む時の手間や危険性は考えないんですか?」
「だって、私と小夜ちゃんが組めば不可能なことなんてないだろ?」
「それは……そうですが」
「次も期待してるよ、小夜ちゃん」
「まったく、調子のいいことを……」