3-1
怪盗ヘルメス。
神出鬼没にして正体不明の大怪盗と言われているが、実は私のことだったりするのだ。
まさか、こんなにも世間から神聖視されているとは思ってもみなかった。
なにせ当の本人は極東の島国の地方都市で喫茶店経営に勤しんでいるのだ。欧米を中心とした美術品のブラックマーケットとは、そうそう縁のあるものではない。
それに、元より私はブラックマーケットに盗んだものを流したことはないのだ。彼らの言う怪盗と、私の思う怪盗は違うものだと確信しつつある。私のせいで悪質な美術品泥棒が怪盗という殻を被り大手を振っているのなら、それはいつか私の手でけじめを付けねばならないだろう。
絵画の盗難ではよくあるのだが、持ち運びやすくするために絵をキャンバスから切り取って、丸めて持ち出すのだ。だがそんなことをすれば、修復をするのだって容易なことではない。
一般的に美術品泥棒は知的なイメージが先行しているが、実際はブラックマーケットでの売買、持ち主や保険会社との裏取引、マネーロンダリング、麻薬取引の代金代わりなどに利用するために盗まれることが圧倒的に多い。
故に彼らが美術品を美術品として大切に扱うことは滅多にないのだ。
もし、世間の目を誤魔化すために怪盗という名を利用しているのであれば、それは私に対する……いや、怪盗に対する最大の侮辱である。
そんな輩がいるとしたら、私が直々に引っ捕らえてロンドン橋から叩き落としてやろうではないか。
話を聞いた限りだと、紬ちゃんは昔からいるような美術品泥棒とはどうやら違うようだ。また、個人で所有することを目的とした、所謂〝趣味人泥棒〟とも違っている。
ちなみに私が普段怪盗ヘルメスの名を使わずにしているのはこれに近い。ちゃんと返しているので、あまり責めないでもらいたいものだが……。
つまり彼女は私に憧れて怪盗になってしまったのだ。
まったく、呆れる程の行動力だ。
何が彼女をそうさせるのかはわからないが、私の仕事を見てきた上でそれに近づこうとしているなら、少なくとも美術品を傷つけることはしないだろう。
おそらく紬ちゃんは、怪盗商会というものを懇意的に見過ぎている。一人では出来ないことをするのに、それを活用するのは悪くないが、あまりにも距離が近くなれば本物の闇に引きずり込まれてしまう。
こうして知り合ってしまった以上、それは避けたいところだ。
いつか彼女には、怪盗のなんたるかを話さなくてはならないな……。
「……ここにいたんですか」
「あ、小夜ちゃん。どうかしたかい?」
営業時間が終わって随分立つのにまだ残っていたらしい。
しばらく小夜ちゃんは扉の前に立ったまま、何か言いたそうにしていた。
「椅子を出そうか?」
「お願いします」
「はいよ」
倉庫から椅子を引っ張り出してきて隣に置くと、遠慮がちに座る。二人で壁に掛けられた絵画に向かう形になった。
「昼間のことかい?」
「……ええ。彼女に知られたとなると、色々と不都合が生じると思うんですが」
「どうだろうね。槇は私をヘルメスだと知ってるが、なにも問題ないだろう? それに、紬ちゃんは私をただのこそ泥だと思っているようだし、なおさら大丈夫だと思うんだが」
「それは油断しすぎだと思います」
「ならどうしろと?」
「消しましょう。彼女を」
さらりと怖いことを言ってくる小夜ちゃん。
相手が同じ女性ということもあって、何か思うところがあるのだろうか。
「まぁ、冗談ですが」
「あ、あぁ。わかってるよ」
「彼女はどこまで知ってるんですか?」
「どこまでとは?」
「……あなたの能力のこととか」
私が軽率なことをしていないか問うているかのように、急に小夜ちゃんの目付きが真剣味を増す。
「さすがに私もそこまで馬鹿ではないよ」
「そうですか。なら、しばらくは静観するとしますよ」
「ああ」
小夜ちゃんの言う〝能力〟というのは、私が彼女から怪奇の塊とまで言われる原因そのものである。
ヘルメスが変幻自在と言われているのも、『オルナンの埋葬』の完璧なコピーが存在するのも、ここの扉が広がるのも、全てその能力が源なのだ。
この能力を説明するのはとても難しい。
もはや、人間の領域を超えてしまった業であるのは間違いない。私のこれは、同一の概念であるのならば、あらゆるものに姿を変えることの出来る能力なのだ。
つまり〝人〟という概念の元に、あらゆる人間に姿を変えることが出来る。まさに変身ともいえる能力だ。
〝絵画〟ついても同じことが言える。
私が描いた〝絵画〟をクールベの『オルナンの埋葬』という〝絵画〟に変えたのだ。
大抵のものは一度本物を見ればコピーは可能だ。
それは人間であっても同じこと。本気を出せば外見だけではなく、遺伝子レベルから同一の存在に成り切ることも一応可能ではある。とても疲れるので、そんなことは滅多にしないが。
もちろんコピーだけが能力の全てではない。
これは概念の操作だ。
その気になれば〝石ころ〟を〝金〟に変えることも出来る。
だが、今の私はそんなことをするつもりなど毛頭ない。長いこと生きているうちに、そんなことに大した意味を見いだせなくなってしまったのだ。
それでも金欠になる度に、千円札を一万円札に変えたくなるが……。
もっとも、能力といってもエスパー的なものではなく、錬金術の成れの果て、強大な術式を簡略化したものだ。人から人への変化を数秒で可能なまでにするのに、千年程かかった。だが、そんなことは誰も信用しないだろうから能力という簡単な言葉で濁している。
この能力のことを知っているのは、身近なところだと小夜ちゃんだけになる。槇は私が怪盗ヘルメスであることは知っていても、能力のことまでは知らない。今のところ私のことは変装の達人であり、希代の贋作者であるという程度の認識のようだ。
元々、槇は美術品のことに詳しいわけではないので、花柳美術館にある私の『オルナンの埋葬』がどれほどのものか、よくわかっていないようである。
「そういえばこれ、小夜ちゃんに話したかな? 古い知り合いの魔術師が私のことをなんて呼んでるか」
「……いえ、聞いたことありませんが」
「本当に酷いんだよ。あいつは私のことを〝存在変質者〟って呼んでるんだ」
響きだけから推測したら、凄まじいまでの変態ではないか。
冷静に読み解けば〝存在を変質させる者〟ということになるだろうが、なんの予備知識もなしにそんな言葉を聞けば〝存在自体が変質者〟だと誤解する可能性はかなり高いだろう。
「とても素晴らしいネーミングセンスをお持ちな方ですね。あなたにこれ以上ないくらいしっくり来ますよ」
「来ないだろ。だって、変態みたいに聞こえるじゃないか」
「あなたはどう見ても変態的です」
……私は露出狂や覗き魔と同じ扱いなのか。
とてもショックだ。
超常たる神秘的な能力を手にして、悠久の時を歩いてきたその結果が変態。
探偵協会や怪盗商会という組織が出来る原因となった、怪盗ヘルメスの正体は変態。
「……悲しすぎる」
「ですが、紛れもない事実です」
追い討ちを掛けるように小夜ちゃんはキッパリと言い切る。
しばらくは立ち直れそうにはない。
「……というか、魔術師ってなんですか。危うくスルーするとこでしたよ」
「あぁ、昔は結構いたんだよ。今でもそんなことをしてる家系はいくつか知ってるよ。他にも、悪魔憑きとエクソシストとか……本物が現代にも残ってることは多いな」
「あまり信じたくはありませんね」
「でも私を知ってる以上、否定出来ないだろ?」
「……ええ」
小夜ちゃんの気分も随分と落ち込んだみたいなので、これでおあいこだ。
それでも変態と言われたショックは凄まじいものがあるが。
「魔術師と言っても、魔法じみたことを出来る人間は殆どいないけどね。ほんの少し世界の理に触れる程度のものさ」
「それでも私たちからすれば異常ですよ」
「人類の神秘だね」
「あっさりまとめられても納得出来ません」
まぁ、私も彼らとはあまり関わりたくはないし、小夜ちゃんが無理して納得するようなことでもないだろう。
「小夜ちゃんは私の能力だけ信じていれば十分さ」
「……幼かったとはいえ、これを素直に納得してしまった自分が怖いですね」
小夜ちゃんにこれを見せたのは、彼女を拾ってすぐのことだったか。
あの頃の小夜ちゃんは世間を何も知らない雛鳥のようだった。そんな無垢な状態だったからこそ、私の能力をすんなりと受け止めてくれたのだろう。
「そう考えると昔はあんなに純真な子だったのに。私はどこで育て方を間違えたんだろう」
「あなたに育ててもらった覚えはないですし、間違って育った覚えもありませんよ」
「……そうだったね」
十五年前に小夜ちゃんを拾ったものの、私は子供の育て方なんて知らない上に、独り身の男が可愛らしい幼女を連れているという状況が世間になんと思われるか、わかったものではなかった。
そこで昔なじみである香月夫妻に小夜ちゃんを預けることにしたのだ。香月夫妻は早くに息子を亡くしていたこともあってか、当時八歳の小夜ちゃんを快く引き取ってくれた。
そして今でも三人で仲良く暮らしているというわけだ。
それがどうしたことか、小夜ちゃんは私から離れなかったのだ。そのまま彼らと平凡だが幸せな生活を送れたというのに……。
私が怪盗ヘルメスとして名乗りを上げた時も、必死な顔で私に付いてこようとした。
遂には私の方が根負けして、小夜ちゃんに裏の世界で生きる術を教えてしまった。そして今では欠かすことの出来ない優秀なパートナーにまで成長したのだ。
長いこと本当の自分を隠して生きてきたが、小夜ちゃんは素直に生きることの楽しさを思い出させてくれた。
こうして今の私があるのも、小夜ちゃんと出会えたからこそなのだろう。