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オープニング

 今月の生活費が底をついてから既に半月、かなりヤバイ感じが漂ってきている。気がつけば視線が店のレジに向いているこの状況は、危険以外の何物でもない。

 こんなことになってしまった原因は簡単だ。

 ふらっと立ち寄ったギャラリーでやっていた個展が気に入ってしまい、そこで出されていた作品を一つ、さくっと衝動買いしてしまったのだ。

 久しぶりにいい作品に出会えたから気分が高揚していたのだろう。値段を気にするということがすっかり抜け落ちていた。


 そう……その額、八十万円。


 今月の生活費はもとより、貯金にまでダメージを与えるのは想像に容易いだろう。今ではとても反省しているので、次からは計画性を持って購入しようと思う。



「はぁ……」

 すっかり冷めてしまったコーヒーをちびちびと飲む。この一週間、空腹をコーヒーで誤魔化していたため、さすがに胃が痛くなってきた。

 こんな時に現れるはずの救いの女神は、数週間前から姿がない。タイミングの悪いことに私が頼んだ用事で店を空けているのだ。

 まぁ、そのせいで羽を伸ばして手当たり次第に展覧会巡りをしてしまったわけだが……。

 その結果がこれだよ。

 悲しいことだ。

 しかも生活費がゼロなのに加え、まだ月末払いの賃料が残っている。毎月きちっと払ってきたこともあり、ここであいつと同じ立場に成り下がることだけは絶対に阻止しなければならない。ただでさえビルのオーナーには色々と迷惑をかけてきたのだ。金銭的な迷惑までかけたくはない。

 なんとかしなければ……。


 思考するだけのエネルギーを得るために、店にある唯一の糖分である角砂糖をポリポリと囓る。

 ……ひもじい。

 まるで蟻かなんかになったような気分で、そこはかとなく寂しさを感じた。



 それを紛らわせるために、店内に飾ってある作品に目を向ける。このひもじさの原因であるそれは、淡い照明に浮かび上がるように棚の上に置かれている。

 作品のサイズは高さ四十センチほどで、人間をモチーフにした魅力的なフォルムに反社会性のメッセージが篭ったコミカルな装飾がしてある。セラミックという素材とは思えないような質感で、独特の重苦しさを感じない。

 仕事の量から見てもかなりの時間が費やされているのがわかる。そういう意味合いでも八十万という値段は決して高くはないのだが、如何せん身の丈に合わない買い物であったことは認めざるを得ない。


 さらに困ったことに、最近の売り上げが芳しくないのだ。

 これまた原因はわかりきっている。

 我が女神の不在だ。

 常連の大半が女神目当ての男であるということと、自家製の焼き菓子がメニューから消えていることが相乗効果をもたらし、売り上げに悪影響を及ぼしている。今日の営業が終わりそうだというのに来客数はまだ一桁という有様だ。

 いつも一番奥の席を一日中占領しているやつも、この一週間現れない。

 そういえば、事務所の電気もしばらく付いていないな。珍しく真面目に仕事をしているのだろうか。

「まぁ、あいつは仕事しなさ過ぎだからな」

 そもそも日がな一日、ここに居座っていることの方がおかしい。

 

 

 コーヒーを飲み干して時計を見ると、閉店時間が迫ってきている。

 少し早いが片付けを始めよう。

 そう思って流しにコーヒーカップを置くと、ちょうど入り口のカウベルが鳴った。

 これは営業時間の延長かな……。


「いらっしゃい。どうぞ奥へ」

「ただいま戻りました。一応全ての用意は整いましたよ」

「小夜ちゃん! おかえりっ!」

 そこに立っているのは我が麗しの女神、香月小夜(かづきさよ)ちゃんだった。

 どうやら頼んでおいた用事が無事終わったらしい。これで店にお客が戻ってくるし、メニューも復活する。そして売り上げも元通りだ!

「なんですかマスター、そんな気色悪い笑顔をして。すぐにでも報告しますか?」

「いやいや、そんなことは後でいい。君が帰ってきたことがとても嬉しいんだ。もう少し遅かったらどうにかなってしまうところだった。ああ、私も君に話さなくてはならないことがあるんだが、なによりも先にお願いがある」

「……なんでしょうか」

「なにか食べ物を恵んでください」

「……はい?」

 

 

「まったく、どうしてあなたはいつも……」

「すみません」

 小夜ちゃんの手料理を食べながらお説教を受ける。

 すべての説明を聞いた小夜ちゃんは、柔らかな表情の中に恐ろしいまでの怒りを秘めていた。

 今までの経験からこれは相当危険だ。しかも、小夜ちゃんは怒っても冷静さを失わないので一切の誤魔化しもきかない。

 こうなったら誠心誠意謝るしかないのだ。

「それで、私のお給料はちゃんと出るんですか?」

「あ、ああ、それは大丈夫。消えたのは私の生活費と貯金、それと……」

「まだあるんですか?」

「……今月分の賃料」

「………」

 小夜ちゃんがジトッとした目で睨んでくる。永い沈黙が店中に重苦しい空気を作り出していて、天井がどんどん迫ってくるような錯覚を起こした。

「はぁ……。今月の賃料は私が立て替えておきます。余裕が出来たら返してください」

「あ、ありがとうございます」

「それと、もう二度とこんなことをしないよう……なんてあなたに言っても無駄でしょうから、せめて計画的に買ってください」


 ……よくわかってらっしゃる。

 さすが私のパートナーだ。

「あと一ついいですか?」

「ああ! なんなりともっ」

「最近はこんなことばかりしてますが、もっと堂々と仕事をしてもいいと思うんです。もうあの名は使わないんですか? 私としてはそちらの方がやり甲斐があるんですが」

「……そうだね。随分とご無沙汰だったが、近いうちに一仕事すると約束しよう……」



 久しぶりの仕事だ。最高にロマン溢れる物語を紡ぎ出そうじゃないか。


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