●ある名も無き工作員の嘆き。
今回は、敵視点の一人称です。後半に少しグロ有り注意。
今回の任務は、最初に話を聞いた時からあまり気乗りがしなかった。別に任務が過酷だとか、非道だからとか、そんな事で文句をつける気は更々ない。
任務の内容も、盗賊に身を変え行商の親子を襲うといった、実に単純でシンプルなもの。同僚のグィドなんかは、「嘘だろ、何か有るのじゃないか」と、裏を勘繰る始末。他の者も今回は楽が出来ると、休暇気分で喜んでいる者までいる。そんな中で、俺は漠然とした不安を抱えていた。何がどう気に食わないという訳では無いが、どうにも喉仏の辺りがむず痒く感じ、やはり気に食わない。自分の事ながら不思議だと思う。
同僚たちと陸騎獣を駆けさせながら、俺は首を傾げ何故だろうと考える。
狙うのは、行商人の親子が運ぶ文箱ひとつ。襲ったのが盗賊らしく見せるため、俺達の格好もそうだが、全ての荷を奪い、父親を惨殺し、娘は奴隷商人に売り飛ばす。何処で誰が見ているか分からないからだ。非道な行いだとは思うが、そんな事を気にする感情も、既に無くして久しい。
俺達は、軍部に所属する諜報などを扱う機関の隠密部隊。諜報機関には幾つもの部隊が有るが、その中でも、俺達の部隊は主に破壊工作を行う部隊だ。配属された当初は、国の礎になれと訓辞を受け、俺も誇りと希望に心を昂らせたものだが――実際は、本当に国のためとなる工作などは、任務全体の三割にも満たない。残りの七割程は権力闘争絡みの脅し、誘拐、暗殺といった後ろ暗い任務ばかり。酷い任務になると、村をまるまるひとつ虐殺殲滅した事もある。満足に抵抗も出来ない年寄りや女性、泣き叫ぶ幼子までもこの手に掛けた。さすがにこの時ばかりは、この俺も一週間ほどは夢見が悪く魘された。今、思い出しても反吐が出る。要は、その時その時の、権力者の手駒に過ぎないのさ、俺たちは。
今回の任務も、俺たちの上の上、そのまた上のお偉い権力者にとっては、その文箱とやらが奪い取りたくなるほど重要な物なのだろうな。
――けっ! 権力争いに明け暮れるお偉い中央の連中も、この国も全部が腐ってやがる。本当にどいつもこいつも、反吐が出るぜ!
俺は胸の内で悪態混じりに叫ぶと、「はぁ」と深く肺の中が空っぽになるほどの、盛大なため息を吐き出した。
――今回の任務、何か適当な理由を付けて断るべきだったかな。
だが、今更それはもう遅い。それに、上からの命令に中々逆らえる訳にもいかない。何とも嫌な気分で、俺は平原を駆けていた。
「ギャウ?」
と、その時、鳴き声を発したのは、愛獣でもある陸騎獣のボウ。俺の不安と暗い想念を感じ取ったのか、長い首を捻ってこちらに心配そうな視線を投げ掛けてくる。
「あぁ、何でもない。大丈夫だ……」
ボウを安心させるため、その首筋をぽんぽんと軽く叩いてやる。
先祖の何処かで龍人の血が混じってるらしく、俺にも僅かながら龍人の血が流れる。そのお陰で他の人族より身体能力も高く、このくそったれな部隊にも配属されたのだが。まぁ、そう悪いことばかりでも無い。このボウも軍事利用のため、竜の血を混ぜ品種改良された陸騎獣。だからだろう。ボウとはある程度の意思の疎通が出来る。
「信用出きるのはお前だけだよ」
もう一度、声を掛けると、ボウは「ギャウ」と嬉しそうに鳴いた。
こんな仕事をしてるからだろうか、俺は誰も信じない。今、轡を並べ陸騎獣を駆けさせる同僚たちも、親兄弟の身内さえも、誰ひとり信じられない。人は自分のためなら、あっさりと他の人を裏切るのだから。この部隊に配属されてから、それを嫌というほど見せ付けられ思い知らされた。
むず痒くなる喉仏を掻き毟りながら、俺はそんな事を考えていた。
陸騎獣に股がり半日近くサハラ平原を駆け抜けた頃、前方にうねるように盛り上がる低い丘が見えてきた。
「もうそろそろ、追い付いても良さそうだが」
隣で陸騎獣を操るグィドが、額の汗を拭い腹立ち紛れの愚痴を溢す。他の同僚たちも、早く仕事を終わらせ祝杯でも上げたいのだろう。弛緩しきった様子で、面倒そうに頷く。
「おい、お前ら! 標的も近い、油断のし過ぎだ!」
同僚たちに警告し集中しろと促すが、鼻を鳴らしてへらへらと笑ってやがる。完全に、今回の任務を舐めきっていた。俺は呆れて首を振りつつため息をつくが、そこでふと、何気なく頭上に目を向けた。
澄みきった青空が何処までも――ん、あれは?
雲ひとつない空に小さな影がひとつ。
――雲? 鳥だろうか?
白く……雲の塊にも見えるが、余りにも小さく、かなりの速さで上空を横切って行くのが見える。何故か、頭上に目を凝らしていると、また喉の痒みがぶり返してきた。
上空に目を向けたまま、喉をぽりぽり掻いていると、横からグィドの喜色混じりの声が聞こえてくる。
「おい、どうやら見付けたぞ!」
上空に意識を向けてる間に、俺たちは丘の頂上に辿り着いていたのだ。俺も人のことは言えない。随分と気が緩んでるようだ。改めて気を引き締め、眼下へと目を向ける。そこには、街道をゆっくり走る荷馬車がいた。
どうやら情報通り護衛も無し、父娘二人だけで行商に向かう荷馬車のようだ。
隣のグィドと顔を見合わせにやりと笑う。他の者も同じだ。楽な仕事だと笑っている。
「左右に分かれて、挟み撃ちにするぞ!」
隊長マルクの声が響く。このマルクがまた、俺たちより更に輪を掛けて質が悪い。他人を苛み血を流すのが、何よりも好きだと公言する変態野郎だ。ま、本人に面と向かって言う気はないが。
しかし、多かれ少なかれ俺たちも血に飢えた野獣には違いない。俺を含めた皆は、隊長が号令を掛ける前には、既に歓声を上げて荷馬車へと殺到していた。
そいつが現れたのは、後少しで荷馬車に追い付くかと思った時だった。
異国の衣服を纏う、奇妙な男性。小さな雲に乗り、瞬く間に上空より舞い降りた。
「なんだあの男は?」
横でグィドが困惑しているが、それは俺も皆も同じ。魔法だと思うが、雲に乗る魔法など見た事も聞いた事も無い。
「翼人か!?」
誰かが叫ぶのに、皆が体をびくっと震わす。翼人は、天翼族とも呼ばれ神に最も近いと言われる種族。俺たち普人族が手を出して良い種族ではない。だが、離れてるから良く分からないが、あれはどう見ても――
「いや、翼が無い! どう見ても普人族だ!」
俺の声に、皆は一応の納得をするが、突然の乱入に困惑しているのには違いない。追走する足も鈍る。
「構わん! あの男も撃ち取れ!」
興奮して大声を上げるのは、隊長マルク。目は血走り完全に狂気に支配されてやがる。予測不能の相手に突っ込むとは――馬鹿野郎と怒鳴りたくなる。
「あいつ、今度の仕事が上手くいったら昇進するらしいぜ」
グィドが顎先でマルクを指して、皮肉な笑いを浮かべる。
「ちっ、出世欲も上乗せかよ。あの変態野郎が出世とは、お先真っ暗だな」
舌打ちと共に俺は、呆れた声を出した。
しかし、相手は正体不明の男。どうしたものかとグィドと顔を見合わせていると、目の前で荷馬車が大きくバランスを崩した。
「巻き込まれるぞ! 離れろ!」
誰かの叫びに、俺も含めて馬車から一旦、距離を取り遠巻きに囲むことにした。約一名、喚き散らす馬鹿な変態野郎がいるけどな。
だが、驚く事に、派手に転がるかに見えた荷馬車は、何事もなく静かに止まったのだ。
ん? 土煙でよく分からなかったが、またあの男の魔法か? 魔術師、もしかすると魔導師クラスかも知れない。となると相当やばい。魔導師クラスなら、大規模殲滅魔法すら使えるはず。
ここは一旦退いて、もう一度出直した方が良いかも知れない。
そんな事を考えていると、またあの馬鹿がちょっかいを掛けやがった。
数本の矢を、相手に向かって放ったのだ。
何とも中途半端な。数もそうだが、狙いも外れてやがる。
「おい、やばそうだったら、とっとと逃げるぞ」
横にいるグィドに声を掛けると、苦笑いを浮かべて頷いた。
しかし、飛んで来た矢に対して、相手は何の反応も見せない。
焦れたマルクが、また馬鹿な事を喚き出した。
「あの男は、重要文書を奪いに来た敵国の間者に違いない!」
おいおい、奪いに来たのは俺達もだろ。それに敵国ってどこだよ。
「ここで何もせず見逃せば、後で厳重に処罰される事になるぞ!」
おぉおぉ、今回はこの変態野郎も言うねぇ。出世が掛かってるから必死かぁ。
「敵国の間者、あの男を討ち取れ!」
唾を飛ばし喚き散らす変態馬鹿のマルクに呆れるが、これで何もせず引き上げる事が出来なくなった。
仕方ないと、全員が弓を構える。
相手はどういう訳か、攻撃魔法を放ってこない。今が好機、こっちは五十人以上いるのだ。その全員が矢を放てば、魔導師クラスでも隙が生まれるはず。二つの魔法を、同時に扱う事は出来ないからだ。飛んでくる矢に対処してる間に突撃すれば、或いは――接近戦にさえ持ち込めば、例え魔導師クラスでも倒せる。
俺達は一斉に矢を放ち、喚声を上げて突撃する。
「ウオォォォォ……!」
不思議なもので、腹の底から大声を出せば、最初は気乗りしなかったはずが、気分が高揚して我先にと駆けてしまう。
だが……。
――な、なにぃ! 馬鹿な!
放ったはずの矢が、此方に向かって来るのだ。
くっ、反射系の魔法か?
「【ガード】!」
咄嗟に障壁魔法を唱えて、ボウの背中に身を伏せる。これでも俺達は軍部の隠密部隊。最低でも初歩の魔法は、短縮詠唱で唱える事が出来る。周りの同僚たちも俺と同じように身を伏せ、矢の雨を掻い潜る。
――よし、これで肉薄すれば……。
しかし、それも……。
――馬鹿な、大規模魔法だと!
「ボウ! 止まれ!」
慌てて愛獣の手綱を引き絞る。危うく大規模魔法に巻き込まれるところだった。皆も辛うじて、急停止していた。何人かは騎獣から落ちる者もいたが――あの変態馬鹿だ。
俺達の目の前には、これも見たことも無い巨大な魔法陣が現れたのだ。それも、上下に二枚。精緻な紋様が刻まれた魔法陣が激しく白光する。
おいおい、嘘だろ?
魔法の展開の速さは勿論だが、この魔法陣からは凄まじい程の魔力の高まりを感じる。
こいつ、魔導師クラスどころかマスタークラスか? いや、それ以上? 確か、南の遥か洋上には魔導文明が発達した伝説の魔導国家があるとか聞いた事があるが、そこからでも飛んで来たのかこいつは?
様々な事を思い浮かべたのも一瞬。目の前に聳え立つ、光の柱に目を奪われる。圧倒的な魔力と純粋なエネルギーに、まるで世界を支える柱のように感じてしまう。逃げ出す事すら忘れ、見蕩れてしまった。
やがて、二つの魔法陣が重なり――魔力の解放、光の奔流。
白……全てが白く埋め尽くされる。これ程の奔流だが、不思議と体には異常が感じられなかった。集めた魔力が、魔法陣の描かれた地点に集約されたからだ。
何が、何を、あの男は何がしたかったのだ。これ程の魔力で……。
白光現象が治まると、部隊の半数以上が騎獣から転がり落ちたり、騎獣ごと地面に倒れたりしていた。今の白光には物理的衝撃は無かったはずなのだが、余りの迫力に仰け反り転がったのだろう。
そして、魔法陣が描かれてた場所に――俺も含めて皆が、現れたものにあんぐりと口を開け呆気にとられる。
貴族屋敷のテラスの風景を、切り取り貼り付けたかのような――精緻な装飾の成された見るからに高価な、真っ白なテーブルと椅子。傅くのは、背筋がぴんと伸びた四人のメイド。そして椅子に優雅に腰掛けるのは――あれは、人なのか?
式典用の軍服にも見える純白の衣装を纏う人物。腰まで伸びた漆黒の髪と、全てを呑み込む闇を湛える瞳。
――言語を絶するとは正にこの事。
俺は言葉を失い、その神々しい美しさに一瞬で魅了されたのだ。
が、その瞬間、また喉仏の辺りがひりひりと疼く。それは、痒みを通り越して激しい痛みまで伴う。
「くっ、痛!」
突然の激しい痛みに、俺はどうにか自分を取り戻す事が出来た。喉を擦りながら、目の前に現れた光景に目を凝らして見る。と、傅くメイド達も人ではなかった。獣が、魔獣がメイド服を身に着けているように見える。そして椅子に座る人物も……。
――やばい、やばい、やばい、こいつは本当にやばい。
「おい、グィド! 逃げるぞ」
横にいる同僚に声を掛けるが――恍惚とした表情を浮かべ、魔法陣から現れた人物を見惚れていた。それはグィドだけでなく、他の同僚たちも、彼らを乗せる陸騎獣までもが、呆然と立ち尽くしていたのだ。
おいおい、マジかよ?
もしかして、状態異常?
状態異常系の魔法、特に【チャーム(魅了)】に対してレジスト(抵抗)する訓練は、重点的に行っていたはず、それなのに……。
俺は慌てて、首からぶら下げていた結晶石を、胸元から引っ張り出す。こいつは、状態異常系などの精神魔法に対抗するための、魔石に魔法陣を封じ込めた魔道具。俺達の任務上、精神に作用する魔法が、もっとも厄介な魔法。だから、訓練と魔道具で常にレジストできるようにしていたのだが――細かい鎖の先にあったはずの結晶石は、完全に砕け散っていた。
部隊全ての者が、精神魔法の影響下なのかよ。こいつは相当にまずい。
俺はごくりと唾を飲み込むが、渇いた口中には僅かな水分も残されていなかった。
「おい、ボウ!」
騎獣のボウに声を掛け首筋を叩くが、やはりボウも呆然とした様子で返事をしない。
――ちっ、ボウもか。
俺は舌打ちをし、自分だけこの場から逃げ出すかと、そんな考えが脳裏に過った時――周囲に漂う圧倒的な気配。
「今度は何だよ……」
思わず呟く。
優雅に椅子に座る人物から漂う、禍々しい気配。それは本能に根差す原初の恐怖、死そのものだった。
「ああぁぁぁ……」
誰かが漏らす恐怖に打ち震える呻き声。いや、それは俺の口中から、知らずに漏れ出た呻き声だった。
喉の痛みは、今はもう熱さを伴い灼熱の痛みとなって襲い掛かる。そこで、ふと気付く。
――これは、逆鱗?
龍人たちには、竜や龍と同じように逆鱗があると聞く。数ある鱗の中で、一枚だけ逆様に生える鱗。逆鱗に他の者が触れるのを非常に嫌う。もし誰かが触ったなら激昂して、そいつを殺すこともあると言う。それは何故か、逆鱗は別名『輪転の鱗』とも言われる重要な器官のひとつだからだ。龍種の運命を司り、生死を予知するとも言われているのだ。これは龍人たちに伝わる秘事。俺も、爺さんから聞かされただけで、それ以上の詳しい事は知らないが……。
そこで俺は、「あぁそうか」と納得する。何故、この任務の話を聞いた時から嫌な気分になっていたのか。何故、この場で痛みが激しくなっていくのか。
俺は死の運命に、真っ直ぐ突き進んでいた事に気付いたのだ。
と、そこで唐突に、その死の気配が消失した。同時に、がくりと体が崩れ、俺はボウの背中にぺたりと倒れ込む。そして、ボウもがくがくと体を震わせ膝をついた。周りを見ると、部隊の全員が俺と同じ状態だった。さっきの気配が、俺達の生命力を根こそぎ持って行ったのだ。
――気配だけで生命力を奪うとか、どんな化け物だ。
前に目を向けると、いつの間にか巨大な門が現れていた。優雅にお茶を飲む怪物と同じく、禍々しさを漂わせる漆黒の門。次々と起きる常軌を逸する出来事に、俺の心は完全に打ち砕かれ抵抗する気にもなれない。もはや、指先ひとつ動かすのも苦しいのだ。
だが、今が逃げ出す最後の機会なのは間違いない。どういう訳か死の気配は消え去り、それに、皆を縛っていた状態異常も消失したように思えた。
それは、
「おい……これは……どう……なってる?」
すぐ横で、グィドの弱々しい声が聞こえてきたからだ。微かだが、俺も龍種に連なる男。僅かに残る生命力を活性化させて、声を大にして叫ぶ。
「今の内に逃げるぞ!」
俺の声にグィドだけでなく、部隊の全員が身動ぎし、最後の力を振り絞り動き出した。この場から逃げ出すために。
そして俺はというと、確実に逃げるための最後のカードを切る準備に入る。さっき叫んだのも、別に部隊の同僚たちを助けたかった訳ではない。皆が一斉に逃げ出せば、それだけ俺の生き残る可能性が生まれるからだ。
だが、皆がそろそろと動き出した時に、それは起きた。
ドバンッ!
轟音と共に開かれる漆黒の門。それは皆を死へと誘う音。漆黒の門から溢れ出たのは、この世に現出した地獄だった。
次々と飛び出す凶悪な魔獣の群れ。グレイハウンドに股がるゴブリンたち。本来はFランクの魔獣だが、何故か金属鎧を身に纏い穂先の鋭いランスを構え、グレイハウンドに股がる。まるで近衛騎士のように、雄叫びを上げて突撃してくる。
――あ、あれは馬鹿な!
山羊の体に獅子の頭を持つキメラ。Sランクの魔獣が何故? それら以外にも災害級と思える魔獣が、数多く飛び出して来るのだ。
何だこれは?
逃げ惑う部隊の同僚たち。数匹のゴブリンが、悲鳴を上げて逃げる同僚を、「ギャギャギャ」と愉しげな声を出し追い回す。そして、ランスの穂先で同僚の男を突き刺し、天高くと差し上げていた。
何だこれは?
見上げる程の巨人が、手に持つ大鎚を降り下ろし、同僚たちを陸騎獣ごと圧し潰す。飛び散る真っ赤な肉片は、既に人の形を成していなかった。
何だこれは?
地面を這うように逃げるのは部隊長のマルク。両足は引き千切られ、ぱっくり開いた腹の傷から血流を撒き散らし、溢れ出た臓物を引き摺っていた。それを追い掛け、鷹の翼と上半身に獅子の下半身を持つグリフォンが啄んでいた。
何が起きてる?
ミノタウロスを更に凶悪にしたような牛頭の巨人が、馬頭の巨人と同僚たちを取り合い引きちぎると、貪り喰っている。
――やばい、やばい、やばい、あり得ない。
早く、逃げなければ……。
「グ、グィド!」
目の前で起きている惨劇から目を離せず、横にいるはずの同僚に声を掛ける。が、返ってくる言葉は、
「あぎいぃぃぃ……!」
魂消るような悲鳴だった。
驚き振り向くと、キメラの牙が、グィドの頭に突き刺さっていたのだ。涙を流すグィドが、生きたまま頭から貪り喰われていく。
――ひいぃぃぃぃ……。
俺は声にならない叫びを上げる。
周囲では同僚たちが、陸騎獣が、魔獣たちに生きたまま喰われているのだ。
――やばい、やばい、早く逃げなければ。
「ボウ、頼む!」
練り上げていた魔力を、騎獣のボウに注ぎ込む。本来は、もっと練り上げてから使うのだが、もう待っていられない。俺は、最後の切り札を発動させる。
――【人竜一体】!
地竜であるボウと俺の意識を融合させて、常の数倍の能力を引き出す。これが、俺の切り札だ。
一体となった俺たちは、漲る力で駆け出した。この場から逃げるために、生きるために全力で駆け抜ける。例え、どんな魔獣であろうと俺達の速度に追い付けないはず……だった。
運よく死地を脱した俺達は、サハラ平原をひたすら突っ走る。しばらくすると、急に魔力が欠乏してきた。
やはり、魔力の練り込みが甘かったか。しかし、ここまで来れば、もう大丈夫だろう。
近くに、ちょっとした小屋程度の大きさの、大岩が転がっているのが見えた。一旦、その岩陰で休息する事にした。
岩肌に凭れ掛かり、ほっと一息つく。そして、さっきまでの出来事を思い出す。
――悪夢だ!
現れたあの魔獣の群れ……あり得ん! 考えつくのは、魔族、魔王の復活……馬鹿な。しかし、そうとしか考えられない状況だった。
と、そこでまた、喉に激しい痛みがぶり返してくる。
「ん、痛!」
まさか……。
素早く立ち上がり、剣の柄に手を掛ける。そして、周囲を見渡すが、追って来る魔獣の姿はない。それどころか、
「おい、ボウ!」
さっきまで傍らにいたはずの騎獣ボウの姿まで消えていたのだ。
「ボウ、変な冗談は止めろ!」
と、その時、背後から「ジャリ」と、地面を踏み締める音が聞こえた。咄嗟に、振り返ると同時に剣を引き抜き、切っ先を音のした方に向ける。
「お、お前、誰だ!」
そこに居たのは――全身血塗れの少年が、此方に向かってヨロヨロと歩いて来るのだ。頭頂部には、今斬られたかのような傷が開き、ぴゅうと血流が吹き出していた。
「な、何だ……」
何処から出てきた。それにその傷は……。
『……何故……僕を殺した……何も悪いこと……してないのに……』
地の底から響くような、陰の隠った声を洩らし、血塗れの少年がよろけながら歩いて来る。
『……母さんや……父さんの……言い付けを守って……良い子にしてたのに……何故……僕は……殺されたの……』
怨みの隠った瞳を俺に向けてくる。
「な、何だよお前は?」
どう見ても生きた人間ではない、死霊にしか見えなかった。
「くそっ! 昼間っから出てくんじゃねぇ!」
近付く少年に、剣を振り下ろす。だが、首筋に入った剣が、あっさり弾かれた。
『……ねぇ……何故……僕を……殺したの……』
「知るかよ!」
後退りながら何度も剣を振り下ろすが、その全てが弾かれた。
「何だよ、お前は?」
と、その時、周囲の景色が一変してる事に気付いた。
燃え盛る家々。立ち昇る炎を背景に、男達が泣き叫ぶ女子供を切り刻む。全身に真っ赤な血を塗りたくった男が、高らかに狂喜の笑い声を上げて、持ち上げた赤子に剣を突き刺していた。
――あれはマルク?
何故だ、マルクはさっき死んだはず。笑い声を上げる男たちの中には、グィドの姿も見える。
――どうなってる?
そこで思い出した。ここが何処なのかを。
――ここは、アブドラ村。
それは数年前、俺のいた部隊が虐殺した村。では、この目の前にいる少年は……。
そうだ。俺は全てを思い出した。この少年を殺したのは俺だ。少年の父親も母親も、まだ幼い妹も俺が殺したのだ。
『……何故……僕たちは……殺されなければ……いけなかったの……』
「ひいぃぃぃ……来るなあぁぁ!」
剣を振り回すが、少年はそれを苦にするでもなく、俺にゆっくり近寄って来る。後ずさる俺の背中に、岩肌の固い感触を感じた。そんな俺に、少年が縋り付き、下から見上げてきた。
『……何故……僕を……』
「うわあぁぁぁ……!」
恐怖に焦り、少年の眼窩に剣の切っ先を押し込む、そして、根元までズブリと突き刺した。それでも少年は、俺を離そうとしない。それどころか、口辺がにゅうと耳まで裂ける。口中には、細かく鋭い牙がずらりと並び、くわっと開いた口が、俺の喉笛にかぶり付いたのだ。
「ぐぅぐがあぁぁぁ……!」
喉元に食い込む牙。食い破られる喉笛。霞んでいく意識。
これが、今まで行ってきた非道の報いか……。
――やはり、この任務は断るべきだった。
霞む意識の中、最後にそんな事を考え、俺の意識は闇の底へと沈んでいった。
◆
『憐レナ、己ノ罪二押シ潰サレタカ』
言葉を発したのは、人面獅子のスピンクス。足下に転がるのは、騎獣に喉笛を食い破られて息絶えた男。そして、その騎獣もまた、男の持つ剣に眼窩を貫かれて絶命している。周りでは、悲鳴を上げる男たちが魔獣に貪り喰われていた。男は息絶えるまで、この地獄の地から一歩も動いていなかったのだ。
スピンクスが扱うのは精神系の魔法【断罪の牢獄】。過去に犯した罪の重さだけ己に跳ね返る、罪人にとっては恐るべき魔法であったのである。
少し長くなりましたが、きりの良いとこまでと考え、この長さになりました。
次回は、少し過去に戻り転移直後の善行を書く予定です。
感想その他有りましたら宜しくお願いいたします。