よしゆき、とうじょう。
一点の曇りもなく、どこまでも広がる青空。それは透明感さえ伴い、ある種、爽快なものでもあった。降り注ぐ陽気はきらきらと輝き、爽やかな風が吹き抜け生命を躍動させる。
そんな青空の中を、小さな雲塊がつぃと、滑るように飛び抜ける。
心地好い風を受け、知らず知らずのうちに善行の頬が緩む。そして、「ほぅ」と、感嘆混じりのため息を吐き出した。
――この広大さ、壮大さは、今まで起きた全ての事が些細なことだと思わせるほど、爽快な気分にさせてくれる……。
幸福感に浸っていた善行は、ふと、足元に違和感を覚えた。視線を足下に落とすと、煙りに似た白い塊がぐねぐねと動き、つま先から甲にかけ這い登る。そして、今にも足首に絡み付こうとしているのが見えた。善行が立つ場所。それは、僅か半畳ほどの大きさの雲に似た塊。だが、ただの雲ではない。雲雷獣と呼ばれる、飛行型の歴とした魔獣。善行の空を駆ける騎獣であった。
「どうした、キント。疲れたのか?」
善行はしゃがみ込むと、足元の雲を手のひらで撫で擦る。途端に、キントと呼ばれた雲塊が、嬉しげにぷるぷるとその体を震わせた。と同時に、頭の中には喜びに満ちた感情が流れ込んでくる。それは、キントが送って寄越す【念話】。キントは会話こそ出来ないが、こうしてその時の感情を送って来るのだ。どうやら、キントは疲れたのでなく、ただ、主である善行と触れ合いたかっただけのようである。
返事の代わりに微笑を浮かべた善行は、暫くの間、ポヨポヨとしたキントの感触を楽しみ戯れるのであった。
――このぽよぷよとした肌触りが、堪らないよなぁ。
相好を崩して、一頻りキントの体を撫で上げた後、善行は眼下へと目を向けた。
そこには、見渡す限り何もない広大な平原が地平線まで延びる。あるのは、赤茶けた大地に転がる拳大の石塊。それと、方々で腰の辺りまで伸びる雑草が生い茂るのみ。だが……。
――ん、あれは?
もうもうと立ち昇る土煙が、かなりの速度で東から西にと移動しているのが見えたのだ。殺風景な荒野の大地。その真ん中を一台の馬車が、一筋の線となり突き抜けていた。猛然と疾走する馬車から離れる事少し、幾条もの土煙が上がる。それらは明らかに、先行する馬車を追走するかに見えた。
善行は「ほぅ」とひと声呟くと、眉を寄せ数瞬、どうするか迷う素振りを見せる。だが、すぐに頷き顔を綻ばせると、騎獣キントに声を掛けた。
「キント、疲れてるところに悪いが、もうひと頑張りしてもらうぞ」
その真っ白な体をぷるぷる震わせ、返事するキントだった。
◆
荒野を疾走する幌付きの荷馬車。その御者台には人が良さそうな中年の男性と、まだあどけなさの残る十代後半と見える少女が腰掛けていた。親子なのだろう。茶色の頭髪と、そのふっくらとした丸顔が似通っている。二人とも白い貫頭衣を頭からすっぽりと被り、腰の辺りを太紐で縛っていた。二人の容姿から一般の街や村で暮らす民、或いは、幌付きの荷馬車を駆る事から行商人であると思われる。
「お父さん、もう駄目! 追い付かれるわ!」
少女が御者台から顔を出し、後方を確認して慌てて叫んだ。その表情は蒼白に変わり、これから起きるであろう未来を思い浮かべ、その身を強張らせていた。
――くそっ! 何故だ、何故、俺達が……。
娘の様子をちらりと眺め、父親は心の中で悪態をつく。それは己に向けたものでもあったのだ。何故なら、今回の荷の中に思い当たる品物が在ったからである。厳重に封の成された文箱。昨日、出立した街ザッカラの商業ギルドで、頼まれたものだった。
彼ら父娘は、大きな街で小物や雑貨等の商品を仕入れ、村から村へと巡る行商人。行く先の村では作物や特産品などを手に入れ、大きな街でまた売りさばく。村々への信用が第一の、実入りこそ少ないが堅実な商売を行っていたのだ。
それは、何時ものように村々で仕入れた木製の工芸品などを、ザッカラの商業ギルドに持ち込んだ時だった。荷を下ろし、次に回る村に持って行く商品を見繕っていると――
「確か、ラダナ村では薬の備蓄が少ないと言っていたな……」
ギルドの建物内には、現在の商取引きの状況を示すボードが掲げられている。それを眺めオットーが呟いていると、ギルドの職員から声を掛けられた。
「精が出ますね、オットーさん」
振り向くと、ギルド職員のモートンがにこやかに笑っていた。細身の体に、紺色のこざっぱりとした上下の衣服を身に着け、オールバックに梳き流された茶色の頭髪には一切の乱れもない。研ぎ澄まされた相貌の中、右の眼窩に嵌められたモノクル(片眼鏡)の向こうで、瞳が怜悧な光を放つ。このモートン、ザッカラのギルド内でも、若いながらやり手と噂に高い。そのことを思い出し、オットーは辞儀を低く愛想笑いを浮かべて答える。
「おぉ、これはモートンさん。お久しぶりですね」
「本当に。おや、オルガさんの姿が見えませんが?」
「娘は今、宿の手配をしておりますよ。いつも泊まっていた『宿り木亭』に空きがなかったので」
「そうですか、おっしゃって下されば、ギルドの方で手配をしましたのに」
「いやいや、そこまでお世話になる訳には、ははは」
笑って答えるオットーであったが、内心ではとんでもないと首を振っていた。ギルドが紹介するような高額の宿に、細々と小さな村々を相手に行商を行うオットーたちには、泊まれるはずなど無かったからだ。
「オルガさんも、そろそろ年頃なのではないのですか?」
「いやぁ、まだ子供ですよ」
「でも、そろそろ後継ぎの事も考えないと、オットーさんも何時までも元気ではないのですから」
「うぅん、オルガに婿をですか……いやぁ、やはりまだ早いですな。恥ずかしい話ですが、旅の空の下、男手ひとつで育てたので、どうにもがさつな娘に育ったようで……」
「そう思うのは父親ばかり。ギルド内でも、随分とお綺麗なお嬢さんに成長されたと、もっぱらの噂ですよ、ははは」
商売上の社交辞令と思いつつも、娘を褒められて悪い気はしない。上機嫌で挨拶を交わす、オットーであった。
「ところで、オットーさんはこの後、どこの地方を行商でまわるお積もりですか?」
「ん? アミ州の村々まで足を伸ばすつもりですが……確か、ギルドにも計画書を提出しているはずですが、何か?」
アミ州は、このザッカラの街があるコロル州の隣。山間部を多く含む州である。オットーの行商の旅はその二州に跨がり、一年を掛けて村々を回るのである。
オットーは何故そのような事を聞くのか首を傾げてしまう。それに、モートンがにこやかに笑って答える。
「いえいえ、ただの確認ですから、ははは」
商売上、決済が実際の取引と前後することは、まま在ることで、オットーもギルドから多少なりとも金銭の借り入れをしている。そのため、行く先の村々などを記した計画書を提出しているのだ。しかし、オットーのような小さな商いを行う商人たちは、どちらかといえば、旅先で変事に見舞われた時、ギルドに即座の対応をしてもらうための意味合いの方が強い。
だから、何を今さらと一瞬、不審に思うオットーだった。だが、にこやかに笑うモートンを眺め、ただの職務上の確認かと一応の納得をする。
「では、州都のドスデンにも立ち寄りますな?」
「はぁ、次はドスデンの商業ギルドを拠点に活動するつもりですから」
「おぉ、それはちょうど良かった。ひとつ頼まれ事を聞いて貰いたいのですが」
「何を?」
ぽんと手を打ち破顔するモートン。そこに白々しさを感じつつも、いつも世話になるギルド職員を相手に露骨に拒否する訳にもいかない。ただ、困惑した表情を向けるしかないオットーであった。モートンは、そんなオットーの思いも関係なく話を続ける。
「いやなぁに、簡単な話です。ついでに、手紙をドスデンの商業ギルドまで届けて貰いたいだけですよ」
「はぁ、手紙ですか……」
気のない返事をするオットーに、ここが押し所と見たのかモートンが一気に捲し立てる。
「いつも利用してる巡回馬車が、どういう訳か遅れていましてね。ちょうどドスデンに向かう馬車を探していたのですよ。いやぁ、ちょうど良かった。当然、報酬も支払いますよ。巡回馬車に支払う額の倍。金貨一枚でどうでしょう」
言葉を挟む間もなく矢継ぎ早に話を続けるモートンに、思わずその勢いに押され「はぁ」と頷いてしまったのだ。オットーにしてみれば、金額の多寡は関係ない。それは娘を褒められ機嫌も良くなった事もあり、何よりここでギルドに恩を売っておくのも悪くないかと思えたからである。それに、手紙のひとつやふたつとの思いもあった。もし重要なものなら、自分のような小商いの行商人を頼ることもないだろうとの考えもあったのだ。しかし、引き受けた時のモートンのほっとした表情を眺め、一抹の不安を覚えるオットーであった。いかにも厄介払いが出来たと、安堵した様子がモートンから窺い知れたからだ。
それは数日後の朝、出立の日になりモートンの持って来た文箱を見て確信へと変わる。その表面に、見た事も無い螺鈿細工を施された豪華な文箱。それだけで、金貨数十枚の値打ちがあるかに見えた。明らかに、厳重に封の成されたその中身も、それに比してただの手紙とは思えなかった。
――これは、まずいものに手を出してしまったか。
心安く引き受けた事を、早くも後悔するオットーであった。ギルド前でにこやかに佇むモートンも、あざとく笑っているようにしか感じられない。しかし、もはや後の祭り。引き受けたからには、今さら断る訳にもいかない。商人としての信用にも関わるからだ。
だから、たかが文箱ひとつと楽観視し、大丈夫だろうと無理やり自分を納得させるオットー。僅かなりとも有る商人としての誇りに促され、引きつる笑顔でその文箱を受け取ったのである。その文箱が、自分たちに死を招くかも知れぬ危険な物とは知らずに。
それが、昨日の朝の出来事だった。
ザッカラを旅立った日は何事も無く、のんびりとアミ州に向けて馬車を走らせる。その日の夜は、途上にあるダブド村に宿泊し疲れを癒した。異変が起きたのは、翌日の昼を過ぎた頃である。ザッカラのあるコロル州とアミ州の間には、サハラ平原と呼ばれる荒れ地が広がる。ダブド村を出立し平原に馬車を乗り入れた頃には、陽が少し西に傾いていた。
街道と荒れた平原の地は、その境が判然としない。辛うじて認識できる街道を示す標石を頼りに、オットーはゆっくりと馬車を進ませていた。
――このままだと、陽が落ちる前にサハラ平原を抜けれそうにない。
頭上に掛かる陽の位置を確かめ、焦りと共に手綱を握る掌に力が籠る。ちらりと横に座る娘のオルガを眺め、やはり無理は出来ないと首を振るオットー。そして、先ごろ行われたコロル州とアミ州の州軍による、魔獣討伐を思い出す。その協同作戦で、サハラ平原の魔獣の数は大きく減じているとはいえ、やはり夜を過ごすのは忌避したいと思うオットーである。
と、その時――
「お父さん、あれっ!」
突然、大声をあげたオルガに眉をしかめるオットーだったが、すぐに表情が驚きに変わり強張る。何故なら、左右両側から幾筋もの土煙を上げて迫る、騎乗した男たちを見たからだ。一瞬、州軍の巡回かと願うが、即座に打ち消される。統率もとれず、身に纏う鎧も統一されず、野卑た奇声を発する男たちは、とても州軍の兵とは思えない。
――盗賊か?
にしては、盗賊たちの駆る獣――地竜と呼ばれる陸騎獣。といっても、竜とは名ばかりで、実際は土蜥蜴と呼ばれる魔獣を軍事用に改良した亜種。走る速度自体は僅かに馬に及ばないものの、軍事用と言われるだけあって、獰猛さも耐久力も遥かに凌駕する。ただの盗賊風情が用いる騎獣ではあり得ない。だが、明らかに男たちの狙いはオットーたちの乗る荷馬車。真っ直ぐ此方へと向かって来るのだ。
思わず娘のオルガと顔を見合わすオットー。娘の強張る表情を目にし、自分もまた同じように強張ってると感じつつ、オットーは声を荒げる。
「不用な荷を全て捨てろ!」
「でも、お父さん……」
商品でもある荷を捨てるのに躊躇する娘に、オットーが叱声を浴びせる。
「馬鹿! 命あっての物種だ! すぐに捨てろ。命さえあれば、また挽回する機会もある!」
そう言うと、オットーは馬に鞭を入れ馬車の速度をあげる。もはや、街道から外れようとも気にしていられない。今は、なんとかこの場から逃れる事だけを念じ、もっと速くと馬を叱咤するオットー。それでも、荷馬車と騎獣では走る速度が根本から違う。すぐにも、追い付かれてしまうだろう。オットーは、娘が次々と投げ落とす荷を眺め、その荷に盗賊たちが群がらないかと一縷の望みを託すが、盗賊たちは見向きもしない。それどころか、速度を上げる荷馬車を見て罵声や奇声を発すると、更に速度を増して追いすがる。
「お父さん、もう駄目! 追い付かれるわ!」
娘の声に首を伸ばして後ろを確かめるオットー。迫る盗賊たちは、これから行う略奪に興奮してか、歓喜混じりの笑声を放つ。もはや、息遣いまで聞こえてきそうな恐怖に包まれるオットーたちであった。娘のオルガは体をぶるぶると震わせ、オットーの手綱を握り締める手の甲も白く変わる。
もう目前まで迫る盗賊たちに、オットーの口中から藁にもすがる思い、願いが、叫びが迸り出る。
「あぁ神様ぁ…………誰かぁ、助けてくれぇ!」
「はぁい、呼びましたぁ?」
「えっ……」
緊張感の欠片さえ感じさせない、長閑な声が横から聞こえる。驚き振り向くオットーの目前に、雲の塊の上でにこやかに笑う変人が立っていた。
よしゆきの仲魔紹介。
No.1
キント(金斗) 推定 5歳
よしゆきの空騎獣。
雲雷獣の幼生体。
千年の寿命を持つと言われる霊獣。
見た目は小さな雲塊。
成長すれば数キロの大きさにもなる。怒ると雷雲と変化し、雷と豪雨をもたらし都市を潰滅させる事もあるらしい。
しかし、キントはまだ幼生体のため、雷雲へと変化する事が出来ない。
直接的な攻撃能力は持たず、今は飛行能力があるだけ。
よしゆきが最初に仲魔にした魔獣。
まだ幼いためか、会話こそ出来ないが《念話》を使って感情を伝える事は出来る。
ちょっと、甘えん坊。
尚、本来は気体のため物理攻撃は無効。