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  作者: キミナミカイ
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後編

5 滝下咲子


 アパートの前に黒い車が停まっていた。咲子はその横を通り過ぎると中にいた男がじろりと見た。

 気味が悪いな、と思った。

 階段を上がると廊下にも男が立っていた。振り返って咲子を見て、頭を下げた。例の蜂がどうのと叫んでいた隣室に前にいた。咲子も会釈を返した。

「お隣りさんをご存知ではありませんか?」と男は訊いた。

 咲子は「いいえ」と頭を振り、鍵を開けた。

「最近、見かけませんでしたか?」

「さあ、わかりません」ドアを開けて答えた。「いないようですよ」

「そうですか」と男は言った。「失礼しました」

 咲子は部屋に入るとすぐに鍵をかけた。男はまだ廊下にいるようだった。借金の取立てには見えないな。刑事のようにも見えない。 

 チャイムが鳴った。インターフォンを取るとさっきの男だった。

「お手数おかけしますが、もしもお隣さんを見かけたら連絡していただけませんか。名刺を新聞受けに入れておきます」

 咲子は了承した。隣人を見かけたとしても連絡などするつもりはなかった。トラブルに巻き込まれる気がした。

 男が廊下を去っていく足音がした。新聞受けを開けると名刺があった。

 プラスティックの名刺だった。キャンプのときナイフを忘れてもこれで代用できるんじゃないかと思うくらいにパリッとしていた。

 “森成養蜂場 森成恵介”

 養蜂場? 隣の男は「蜂が!」って叫んでいたな、と咲子は思った。それとどう関係があるのだろうか。名刺の男は養蜂家には見えなかった。いや、咲子は知り合いに養蜂家がいるわけではなかったから、正しいところはわからない。現代の養蜂家は黒いスーツを着用してプラスティックの名刺を配るのだ。自分には関係のないことだ。

 咲子は名刺を靴箱の上に置いたまま、部屋に上がって、長い溜息をつき、いつものようにベッドに俯せになった。涙が出なかった。あれ? 泣かないのか? いつものように。咲子は自分の心が清々しいのに気づいた。変だ、こりゃ。もう一度、布団に顔を押しつけて、うーうーと唸って泣こうとした。無理かもしれないと気づいてはいた。やはり泣く気配はなかった。土に埋めたはずの種がいつの間にか鳥にほじくりだされて食べられたような感じがした。

「泣けない」

 リストラ推進部に転属になったからだろうか。生活で変化したのはそれくらいだった。ということはストレスが消えたというわけ? リストラする側になったから? でも昨日までリストラの危機感なんてなかった。だから違うんだよ。咲子はベッドから起き上がり、食事の用意を始めた。

 隣人は未来の蜂がなんたらって叫んでたけど、なんだろう、世紀の大発明だとか? あのさえない男が? あ、でもあんなのに限って実は天才かもしれない。おそろしい未来の蜂を作ってしまったとか? それでちょっと怪しい養蜂場の人が訪ねてきた。なんだかよくわからない推理だな、と自分でも思った咲子は一人で笑って、あ、一人笑いだ気持ち悪いよ、と思う。

 明日からリストラ推進部は水面下で動き始める。胃が痛くなりそうだ、と思ったけれどもそうでもない。こちら側にいる間はリストラされる心配がないからかもしれない。たぶん私が知っている社員も含まれているだろう。家のローンを抱えている者もいるだろう、子供が高校生とか大学生になる者もいるだろう。けれども咲子はとても遠くに感じられる。心の奥で自分のドッペルゲンガーテクニックを存分に発揮できる喜びがあるからかもしれない。科学者たちが原子爆弾を開発する場を提供されてナチスドイツを無力化するためだという大義名分の下、心の奥に感じる自分の能力を試せるという喜びを隠しながら研究に没頭する姿を咲子は思い出す。

 けれども私には敵はいない。ヒトラーもナチスも仮想敵も。自分たちの属する組織を維持するために。いずれ自分も組織から出されてしまうかもしれないのに。主体がなく、本体がなく、私たちは不必要な部位を切り落とし、リストラを進めていく。嵐に出逢った船から積荷を投げ捨てるように。


 出勤時に顔見知りと会っても誰もいつものような挨拶をしてくれないぞと気づいた。

 “健康推進部”に入るとその話になっていた。

「もうバレてしまってるようだ」と木田は言った。

「早かれ遅かれバレてしまうだろうってのはわかってたけど、昨日の今日だぜ」吉又が笑った。

 他人事みたいに言うなぁと咲子は思った。

 部長が真剣な顔でやってきた。

「おはよう、社長に呼ばれたんだが、計画を急ぐようにということだ」

「部長、この部がリストラ推進部だとバレているようですが」と木田が訊いた。

「そうなのか?」と部長。「まあ少々やりにくいかもしれないが、うちが退職を迫ったりするわけじゃないから、知らん顔していればいい。表向きは健康推進部なんだ、そのつもりでいればいい。さあ仕事だ」

 午前中は全員で各部署から集められたリストからリストラ候補者を選出した。午後には社長に了承を得て、明日からの面談のために準備を整えた。咲子がメールの文章を書き、明日朝一番に全部署にメールが送信するようにメールソフトをセットした。

「明日からはまた忙しくなるぞ」と部長。「俺と木田が面談していく。まあ表向きは健康に関しての質問、メンタル面での悩みを訊き、問題を抽出する。その間、小林と吉又と滝下の三人はバックヤードで盗み疑聞きだ」と笑って、「観察しててくれ」と言った。

 

 作業内容はさほど疲れはしなかった。咲子は小学校の頃に学級新聞部に入っていたのを思い出した。自分たちでクビを切る作業をしているのにも関わらず咲子は今までに与えられた仕事よりも生きている心地がした。気づくと笑みがこぼれていて、真顔に何度も戻した。

 咲子はいずれクビ切りの役に立つだろうなと考えてドッペルゲンガーテクニックを開発したつもりはもちろんなかった。動機など一つもなかった。目の前に廃れた道具があり、咲子が埃を払って調整し、いくつかの部品を取り替えたにすぎない。そしてそれを道具箱に入れていつかのために備えていただけだ。

 もう咲子の気持ちや考えや哲学とは無関係に生まれ変わった道具は陽の目を見たのだ。それが人の役に立つのか、それとも間接的に息の根を止めるためなのかは咲子にもわからないし、影響を及ぼせないのだ。


 やはりその日も帰宅してから涙は一粒も出なかった。瞼を開けたままにしていたら涙が滲んできたけれどもそれは反則だ、と咲子は思った。目が乾いただけだよ、と咲子が言ったとき、チャイムが鳴った。またあの全身黒スーツの養蜂家じゃないのかと思った。

 インターフォンから聞こえてきたのはブゥゥゥゥゥゥゥゥゥンという音だった。咲子はインターフォンが故障していると思うと、鳴り止んだ。

「どちらさまですか」と咲子は言った。

 再び、ブゥゥゥゥゥゥゥゥゥン、と聞こえ、咲子はストーカー男の佐々木じゃないかと思った。玄関にゆっくりと音をさせずにいくと、覗き穴に顔を近づけた。外には誰もいない。気味が悪い。ベランダでゴンと音がし、咲子は台所に走って肉たたきを手にした。包丁じゃ殺してしまう。過剰防衛で掴まりたくはなかった。殺さずに無力化するには肉たたきのトゲトゲが適していると咲子は常に考えていた。ストーカー男はこの世に蘇ってまず玄関でチャイムを鳴らして咲子の気をそちらに向けておいてベランダから忍びこむつもりなのだろうが、そうはいかないぞ、と咲子は足音をさせずにベランダに近づき肉たたきを握りしめ、部屋の明かりを消してすぐにカーテンをさっと開けた。これで驚かせて牽制したつもりだ。外には人影はなかった。咲子はほっと安堵したとき、下からぬっと人が現れ、咲子は叫んで、振り上げた肉たたきを下ろしかけたが、ガラスを割ってしまう! と気づいて腕を止め、外の男をじっと見た。

 隣人の男だ! しかも死にかけの表情でこっちを見ている!

 咲子は飛すさると携帯電話を探した。警察警察! ふと男を見ると、頭をぶんぶんと振っていた。ここで咲子はドッペルゲンガーテクニックでベランダの男を亡き者にしてやる! と考えた。男は隣室に侵入して私にひどいことをするもりつなのだ! 咲子は紙を探した。男を見ると哀願するように頭を振り、両手を合わせてなにかを願うようにしゃべっている。しかしだ、夜に突然現れたら百パーセント怪しいではないか、咲子は肉たたきを拾い、紙を探す手が震えていた。携帯電話が先に見つかった。百十番百十番、とつぶやく。男を見ると、まだ頭を振り、なにかをつぶやいている、ゆっくりと。咲子はふと疑問を持った。隣のベランダに現れたら百パーセント通報されるのは自明に近いことじゃないの? もしも強盗のつもりならガラスを割ったり鍵を壊したりするんじゃないの? 男は両手を合わせてなにかを頼んでいるように見える。なに? 鍵をなくした? ベランダに閉じ込められたとか?

 咲子は鞄から手帳を出してペンを走らせ、それをベランダにいる男に見せた。

 紙にはこう書いた。

 なにが目的ですか?

 1、お金

 2、ベランダからの自由

 3、私の体

 咲子は紙をガラスから離した。男は五指を広げていた。

「え? 五? 五ぉ?」と咲子は紙を見直した。

 紙には書いた覚えのない四番目の項目が書かれていた。

 4、俺の命

 5、君の助け

 隣人は大きく頷くと穴から落ちるようにベランダに倒れた。

 

 もしも隣人がやったこと──ガラス越しの項目の追加──がなければ咲子はベランダの窓を開けて中に引きずり込んだりはしなかっただろう。それに咲子ではなく一般的な三十歳の女だったらまず間違いなく警察に通報していただろう。咲子は一縷の望みに賭けた男、言い換えれば万が一に賭けた男の寝顔を見ながら、どうして自分の部屋に戻らなかったのか? と疑問を持ち、すぐにあの黒スーツの養蜂家──名刺の文面を素直に信じれば──と関係があるのだな、と気づいた。よくはわからないが、隣人は追われているのかもしれない。咲子は台所で紅茶を飲みながら推理する。金か? それとも蜂に関係する? 未来の蜂と叫んでいたな。おそろしい未来の蜂? 蜂の未来がおそろしい?

 男は何度か寝返りを打ち、呻いた。熱はあるのかな、と思い、男の額に触れてみようとしたけれど、脂汗がひどく、触れなかった。熱があれば顔は真っ赤になるだろう、と咲子は決めつける。ひどい女かな。と少し反省する。この人はどうしてか私に助けを求めた。単なる隣人なのに。これも縁だ、というのは簡単な話だ。咲子は男の額をタオルで拭ってから掌を置いた。熱はないな。疲れているだけなのだろう。

 もしも警察に通報していたらどうしたのだろうか? 通報しないと折り込み済みだったのか。と考えていると廊下に人の気配を感じた。そっと歩く足音。咲子は覗き穴から廊下を見ると、影だけが見えた。その人影は階段の方に消えていった。


 咲子は紅茶のつづきを飲み、軽く食事した。その間も男はこんこんと眠っていた。食後にゆず茶を飲み、歯を磨き、顔を洗った。ベッドから一番離れたところで咲子は横になった。男がベッドを独占しているのに腹は立たなかった。男に対して嫌悪感はなく、部屋に異物があるという感じもしなかった。見ず知らずの人を助けているから? 助けを求められているから? 好奇心? 台所の明かりを灯したまま咲子はすっと眠った。


 物音がして、咲子は目が覚めた。男が台所で水を飲んでいた。

「申し訳ない、喉が渇いて、勝手にグラスを使った」

「あ、いいんです」

 時計を見ると午前三時すぎだった。

 咲子はテーブルに置いた紙を見た。

 なにが目的ですか?

 1、お金

 2、ベランダからの自由

 3、私の体

 4、俺の命

 5、君の助け

 男は4と5を付け足した。ガラスの向こうからだ。それはさほど不思議には感じなかった。それよりも4、俺の命の意味がわからなかった。「俺の命を君に助けてほしい」としたかったのだろうか?

「違う」と男が言った。「俺の命はいらない。けれども君の助けがほしい。これが言いたかった。ありがとう、窓を開けてくれて」

「おはよう」

「おはよう、なにから話そうか」

「どうして命はいらないんですか?」と咲子は訊いた。

「いろいろあって」と男は言葉を慎重に選ぶ。「計画通りにことが進んでいたなら、俺は死んでいるはずだった」

「それは」

「自殺するはずだった、ところがいろんなことが突然降りかかって、一旦中止した。今も自殺を留保してる」男は頷いた。「それで君に助けてもらいたいことがあるんだけど、本当にいいんだろうか?」

「いいもなにも、助けちゃってるんだけど。ねえこれはどうやったの?」咲子は紙を見せる。

「蜂の仕業だよ」

「蜂?」

「俺の中に侵入した蜂が困ってる俺のためにいろいろとやってくれてる、もちろん俺は頭がおかしくなっちゃいないよ」

「あなたか私のどちらかがおかしくなってるのか、ふたりともおかしくなってるのか」と紙を振った。

「君なら助けてくれるはずだって太鼓判押したのも」男は額をとんとんと叩く。「蜂なんだ」

「なんでも知ってる蜂なんだ」

「未来のことまで知ってる。君が一般人と違うことは蜂にとってみれば些末な事実だ」

「私のなにからなにまで知ってるっていうの?」

「蜂は知ってるようだけど、俺は知らないから安心してほしい。俺の体を守るために蜂は最小限の情報を与えてくれる」

 会社の人間にリストラ推進部だと知られるのは困るけれど、隣人にならかまわない。咲子はそう思いながら、男の顔をじっと見た。

「まだお互いに自己紹介してないよね」

「そうだった。俺は立野登志一、三十五。先月まである会社で働いていた。今は無職で、未婚。君の隣の部屋に住んでる」

 二人は薄暗い部屋で笑った。

「私は滝下咲子、三十歳、この通り未婚で、ある会社の健康推進部に所属してます。あなたの隣人です」

「正直に言っていいかな」と立野は言った。「滝下さんのこと二十二か三、くらいだと思ってた」

「こんな時に喜ばそうなんてしなくても」

「いや、ほんと。だからいつも廊下とかエントランスで顔を合わせたら緊張してたんだ」

「ふぅん、じゃあ三十だったらいいわけね?」

「いやそうじゃないけど」

 咲子は耐え切れずに笑う。

「いいのよ。立野さんって真面目な人なんだね。なにか飲む? 紅茶くらいしかないけど」

「いただきます」

 咲子は台所に行き、お湯をわかす。

「貧乏OLだけどね、紅茶の茶葉だけはいいものを買ってるの」

「俺もね」と立野は言った。「緑茶だけは分不相応なものを買ってる。お茶だけは安い物を我慢して飲めない」

「私と同じ。他は特にいいのよね」

「うん、そう」と立野は頷く。「だから」と言って溜息をつく、「だからモテない」と笑う。「少しは服とかにお金をかけた方がいいって言われたりするけどね」

「でもアルマーニ着て、ペットボトルの紅茶飲んでるのも変だよ」

「今さら恋人を作ろうとは思わないからいいんだけどね」

「説教臭くなるけど、立野さんまだ若いんだからなにもかもあきらめなくてもいいんじゃないのかな?」

「借金が一千二百万ある。半分は銀行、半分はヤクザから。もう少しで借金はちゃらにできていたけれど、希望は断たれた。体も丈夫じゃない。この歳で膝が悪い。だから肉体労働もできやしない。性格もペシミストだ。これで恋人をつくろうなんて思えないよ」

 咲子は黙ったまま沸騰した湯をティーポットに注いだ。

「それってこれまでのあなたでしょ?」と咲子は言った。「これからのあなたはどうなの?」

「これから? それはないよ。俺は死ぬつもりだから」

「でも一旦中止した」

「そう。君に話してもいいだろうから、話すよ」

「ちょっと待って、紅茶をカップに注ぐまで」

 立野は頷いた。 


6 立野登志一


 目が覚めると立野登志一は見知らぬ和室の布団に寝ていた。

 誰もいない。頭が痛んだ。障子から光が射していた。

 立野はどこなのかも、何時なのかも、どうしてここにいるのかもわからなかった。

 おい立野さんよ!

 と声が聞こえ、立野は周囲を見渡した。

 バカ! きょろきょろすんじゃねーよっ! 俺はお前の中にいるんだ、そこらへんにいるわきゃねぇんだよバカ!

 それでも立野は布団の上に立ち上がって周囲を見る。

 バカー! 耳をふさいでみろ! それでも音量は変わんねぇだろ!

 立野は耳をふさぐ。

 どうだ! おんなじだろ!

 立野は頷く。蜂なのか? 俺の耳に突っ込んできた馬鹿な蜂か?

 おい馬鹿ってなんだ、てめぇを助けてやろうとしてんだぜ馬鹿やろう!

 頭が割れそうなくらいに蜂が羽音を立てた。

「わかったわかった、馬鹿呼ばわりはすまない! やめてくれ! 痛っ! てててて」

 わかったかよ、いいか立野さんよ、よく聞けよ、お前さんがいるところから脱出しなくちゃなんねぇ、わかるだろう? お前さんは危険だ。

「どういう」と立野が言おうとすると、

 待て俺はお前さんの中にいるんだ、だから口を使わなくても会話は成立できるんだ、わかるだろ? 考えればいいんだ。

 わかった、どうだこれで? と立野は考えた。

 オーケーその調子だ、いか立野さん、お前さんが休んでいる間に俺はちょっくら調べてきた、あんたが今いる場所をな。

 俺の中から出て調べた?

 いやそれは違う、なんていうか、俺たち蜂独自のトンネルがあるって考えてくれ、そのトンネルを使って情報を集めたわけだ、それで重要なのはここからだ、お前さんは今すぐにでもそこから出なくちゃいけない、いいかい? お前さんを五反田で助けてくれたのは敵だ。しかも研究所を襲撃した組織とはまた別の連中のようなんだ。

 なんだかややこしいものに巻き込まれてしまったな。

 それに関しては申し訳ない、しかし仕方がなかった、俺が持ち帰った映像を彼女に分析させたくはなかったんだ。

 彼女? 蜂堂シズカのことか? と立野は訊いた。

 そうだよ、ひどい未来だよ、いくら長い間トレーニングをしていてもきっと耐えられないと判断して、俺は耐性のある人間を探した、運よく近くにいた、それが立野さんだった。

 俺? 耐性ってなんだ?

 自殺しようとしてただろ? 立野さんは生を放棄した、それが必要だった。立野さんにすりゃ運が悪かったかもしれないが、他の人間を探す時間もなかった。

 俺は部外者だからよくわからないんだが、研究所に話せばよかったんじゃないのか?

 いや、これは決められたことなんだ、未来から帰ってきて彼女の中に入ることは。だから賭けに出てみた。昔から無茶なことを一度はしてみたかったからね。と蜂は言った。

 蜂堂さんのことは気の毒だった。

 勝気なところがあるけれど素敵な女性だった、残念だ。

 それでどうすればいい? どうやって逃げればいい? と立野は訊いた。

 俺が誘導するから心配なく。と蜂は答えた。

 

「それからあなたは」と滝下咲子は言った。「ビルの一室から脱出した、と?」

「監視の人間は全員眠っていた。蜂が蘭から抽出した睡眠剤を一人残らず注射してまわったわけだけれども、信じてくれるかな?」

「蜂が私の中でしゃべってくれたらなんのためらいもなく信じるけど、蜂が耳に突っ込みたくはないから、信じるしかないよね」

 

 和室を出ると椅子に男がよだれを垂らして眠っていた。立野はそっとゆっくりと歩いた。

 蜂が、おっかなびっくり歩かなくたって大丈夫だ立野さんよへへへへ、と笑った。

 ドアも解錠していた。廊下に二人の男が仲良くもたれ合って眠っていた。エレベーターに乗り込むと立野の心臓の鼓動は最高潮に達していた。蜂が言う。

 立野さん、心配はいらねぇよ、少なくともこのビルからはやすやすと脱出できる、だが外に出たら注意してくれ、帰ってくる連中に出くわす確率は六十パーセントあるからな!

 多いな、と立野は鼻で笑う。

 そうだ、と蜂は言う、あんたは死を望んでた、けれども他人からもたらされる死は望んではいないようだ、結果としては同じなのにな!

 エレベーターはゆっくりと五階を通過する。

 俺は他人からの干渉で死を迎えたくないし、結果にいたるまでの道筋だけに意味があって、死そのものには自分は無関係のような気がするからだよ。

 一階に辿りつくまでに言うべきことはこれだな立野さんよ、あんたは死ぬだろうけれど、その前にしなくちゃいけないことがある、と蜂は言った。エレベーターは二階をすぎた。

「ああ、エレベーターが開いて全速力で走ることだろう?」

 そうだ、俺が正確にナビゲートするから立野さんはただ走ることに集中してくれ、いいな?

 立野は頷いた。自動ドアが開き、目の前にビルのエントランスが見えた。やはり監視の男は椅子で眠りこけていた。

 立野さん、連中は眠っているが、いずれ目覚める、その前に連中の手が届かない場所まで逃げなきゃいけない。と蜂は言った。

 研究所の人たちと合流しなくてもいいのか? 君が持ち帰った映像を分析しなくちゃいけないんじゃないのか?

 それは今考えなくてもいいことだよ、さぁ屈伸して息を整えてくれ、立野さん、あんたが目を閉じていてもちゃんと辿りつけるようにしてやっからよ! いいかい? よーい……ドンッ!

 立野は走りだす、蜂が羽音混じりに指示を出す。立野はラリーカーのドライバーの気分だった。次の角を右折! 少しスピードをゆるめて! 信号が青に変わる! 交差点を渡ったらすぐに左折! 坂を上ってすぐに右折! 車が多いから気をつけて! オッケーそのまま直進だ!

 不思議だ! と立野は心の中で叫んだ。

 ああそうだろう、と蜂は言った、もう一時間走り通しだぜ立野の旦那! なのにまったく疲れちゃいない、さてどーしてだ?

 わからないな、どんどんとエネルギーが湧きでてくる感じがするんだ、使っても使ってもなくならないのがはっきりとわかるんだよ! と立野は大通り人ごみを右に左にすり抜けていきながら心の中で叫んだ。

 答えを言ってやろう、おっと次の三叉路は真正面だ! 敵の連中には蘭から抽出した睡眠剤を注射し立野さんには俺たちに代々伝わる秘伝のエキスを注射したってわけだ!

 プロポリスとかローヤルゼリーとか、そういうのかい? と立野は訊いた。

 もっとすごいもんだ、人間は知らないもんだ。と蜂は言った。

 副作用は?

 すっごく疲れる、と蜂は言った。だけど心配しなくてもいい、あんたを匿ってくれる奇特な人間がいるんだから。

 立野は誰の顔も浮かばなかった。借金とそれにまつわるさまざまな問題が人々を遠ざけたからだ。心配はしないでおこう、と立野は思った、自分がラリーカーになったような素晴らしい気分をとことん味わうんだ。

 その調子だ、と蜂は言った。


「最短でここに来れば三十分だけれど」と立野は言った。「二時間かけた」

「どうしてまた」と滝下咲子は訊いた。

「連中をまくため、と蜂的な理由によるもの、だそうだ」

「蜂的な理由って?」

「蜂には人とは違う論理的な枠組みがあって、それに基づいての理由らしい。詳しく説明を求めたけど説明のしようがないって断られた。該当する語彙とか蜂独自の喩え話とかが蜂にしかわからないからなんだと。それに人に話さなくても別段都合の悪いことはおきないから気にするな、だって」

「蜂が私を探し当てたってこと?」

「隣の部屋だってのは偶然らしい。俺としては君が警察に通報しても仕方がないって考えてた、蜂はげらげら笑ってたけど」

 カーテンの隙間から朝日が見えた。咲子はカーテンを開けた。

「これからどうするの?」

「蜂は君に手伝ってもらって分析するようにと」

「私が手伝う? なにができる」

「蜂はこの場所を借りろと言ってる」

「あーわかりましたいいですよ! って簡単にはいかないよ。私だって生活もあるし、プライベートもプライバシーもあるし、シャワー浴びた後に裸で水をごくごく飲みたいし」

「もちろんそうだろうそれは理解できる蜂にもプライバシーやプライベートや生活がある、と蜂は言ってる、けれどもこの世界が失われてしまったらシャワーを浴びた後に水をごくごくごくごく飲むことすら出来なくなる、と蜂が言ってる。俺の部屋には隠しカメラが仕掛けられているから戻ってはいけない、と蜂が言ってる。それに研究所は壊滅的な被害に遭ったから一ヶ月は機能しないだろう」

「それじゃ一ヶ月の間どこかぶらぶらしてて、研究所がまともになってから戻ればどうかな?」

 立野は体の中の蜂の声に耳をすませ、ちょっと待って、と掌を咲子に向けていた。その掌が下ろされて、立野は苦笑いを浮かべた。

「それは遅すぎる」立野は言った。「一ヶ月後に世界は失われてしまうから」

 

 滝下咲子はなにも発しないまま立ち上がり、シャワールームに入った。

 蜂も黙っていた。

 立野は冷たくなった紅茶を飲んでしまうと、カップを流し台に置いた。咲子がシャワーを浴びる音が寸断なく聞こえていた。

 立野は窓に近づいて外を見下ろした。自分の部屋の窓から見える景色と少し違って見える。ほとんど同じだが少し違う。変な感じがした。窓からは路上は見えなかった。入り組んだビルと倉庫が見えるだけだった。自分の部屋に接する壁に耳をつけた。自分がここにいるのだから当然部屋の中に物音はしなかった。蜂は黙りつづけていた。休息をとっているのかもしれない。しばらくしてシャワールームが静かになった。立野はどうすればいいのかわからなかった。咲子はきっと怒ったのだろう、そりゃそうだよ、突然隣人が押しかけてきて奇妙な話を朝からやるんだからな、俺だったらもっと怒ってるよ、彼女は冷静だ。

 シャワールームのドアが開き、髪をバスタオルで乱暴に拭いながら咲子が出てきた。

「私はまだ死にたくない。結婚だってしたいし、スカイダイビングもしてみたいし」

「スカイダイビング? 俺はダメ」

「バンジージャンプもしてみたい」

「うへぇ俺には無理だよ」

「あらどうして? 怖い?」

「そりゃ怖いよ」

「死んじゃってもいいって考えてる人が言うセリフ?」と咲子は笑った。「私はまだまだ生きたい、生きててもいい許可がある間は。だから協力するよ。あなたの話を聞いてると信じられるからしょうがないよ。本当なら蜂に出てきてもらって直接話しを聞きたいところだけれど、あなたの話を信じるよ。それで」と言いながら咲子は頭にのせていたバスタオルを外し、「私になにができる?」

「ありがとう。君にはいつもと同じ生活をできるかぎり送ってほしい。蜂によると解析には静かな場所、横になってリラックスできる空間があればいいんだそうだ」

「ベッドとか?」

「それじゃ君が寝れない」

「解析って時間がかかるの?」

「みたいだね。この部屋でほとんど使っていない場所でいいんだけど」

 咲子は部屋を見渡す。

「あまり広くないから」

「知ってる」と立野は笑った。「ここなんかどうだろう」とテレビとテーブルの間を指さした。

「かまわないけど」

「決まりだ。蜂によれば解析は連続で最短だと十時間はかかるらしい。それを数回行う」

「なんだか大変だ。私は本当にいつものように生活してもいいの?」

「部屋の中に隣人がいるからいつものようにとかいかないだろうけど」

「そうね」と咲子は笑った。

「一回目の解析後に蜂からの指示があるらしい。そこで君に手伝ってもらいたいそうだ」

「どういうことをすればいいのかしら?」

 立野は目を動かして耳をすませている。

「もしかすると」と立野は溜息をつく。「確率はわからないらしいんだけれども」と唾を飲み込み、「君に危ない橋を渡ってもらうかもしれない、と」

「たとえば?」

「研究所に潜入してもらうかもしれない、と蜂は言ってるけれど、俺は君に危険な目に遭わせるわけにはいかないから、反対だ」

「でもそれじゃどうなるの? 来年、私はここにはいないってことになるんじゃないの?」

「そう、でも、君に頼めないよ、え? なんだって?」と立野は蜂と話す。「まさか、そんなこと……」

「なに?」

「蜂は君ならできると。そのために君を選んだ。男を泊めたくてうずうずしてる女性を探したわけじゃないって蜂が言ってる」

 咲子は笑ってバスタオルを叩いた。

「君には俺にはない技を持ってる、って蜂が」

「蜂はなんでも知っているのね。立野さん、あなたはあなたのすべきことをしちゃってください。私は大丈夫。私はただのOLじゃないから。さあ、解析を始める? それともなにか食べます?」

「なにか食べたいです」


 咲子は二人分の玉子焼きと味噌汁を作り、ご飯を電子レンジで温めた。

立野の分は茶碗と汁椀を使っていたが、咲子はマグカップに味噌汁、皿にご飯を盛った。

「二人分の食器はないの」

「俺がマグカップでいいのに」

「あなたはこれから大変なことをするんじゃない。それにお客さんだもん」

「招かざる客だけど」

「でも世界を救う。さあたくさん食べて」


「半年前までね」と咲子は言った。「二人分の食器はあったんだ。でも別れちゃって、捨てちゃったの」

「そうなんだ」

「結婚しようか、なーんて言ったりしてたんだけどね。仲もまあまあよかったし、喧嘩もしたけど。どうして別れちゃったんだろうって思うんだ。朝からする話じゃないね」

 ううん、と立野は頭を振った。

「立野さんは?」

「ずいぶんといないよ。二年前に別れた。その頃からうちの工場が上手くいかなくなってね、金策に走りまわってたし、あまり相手もしてあげられなかったんだ。その当時にいくらかお金を借りたこともあってね、先月に連絡を取ったんだ。工場を清算していくらか手元に残ったから返そうと思ってね。でも断られたよ。結婚したみたいだし、そりゃそうだよね」と立野は力なく笑った。

「工場って」

「親がやってたんだ。親父が体壊してね、三年前についだんだけど、まあ簡単に右上がりにはならないよね。新しいことにも挑戦したけど、上手くはいかなかった。すべてが裏目に出てね。親父は去年に死んで、それからもう急降下だよ、俺たちの知らない借金が次々に出てきてね。今年になって母親も死んで、仕事をくれてた会社も倒産して、詐欺にもあって、もうボロボロになった。こっちこそ一日の初めにする話じゃないな」立野は味噌汁を飲んだ。「美味しい。今はとても清々しい気分なんだ。最後に自分の役割ができて、君みたいな女の子とおいしい朝食を食べられて」

「ねえ、死ぬなんて考えないで」

「もう八方塞がりだよ、借金もあるし、俺はもう疲れてしまったんだよ、この三年間で寿命を使い果たしてしまった。俺は親父の工場を見放せばよかったんだよ。すべてはそこから始まったんだ。今、死なないで生きていくのは無理だよ、時間を遡って俺自身を説得しない限り」

「でも目の前に死のうとしてる人がいて、なんにもしてあげられないなんて」

「でもだから蜂は俺を選んだんだよ。ただ犬死するわけじゃない。君を含めて大勢の人たちを救えるかもしれない。誰の記憶にも残らなくてもいい、俺は最後に役に立ちたいんだ、今生きることを選んだら俺は解析できなくなるかもしれない。俺は君を救えなくなる、大勢の見ず知らずの人たちを救えなくなるんだよ」

 咲子は手で前髪を整える仕草で顔を隠すようにした。目が赤くなり、鼻をすすりだし、嗚咽まじりに、

「今はよくわかんないけどなにか手があるはずだよ、それなのにすっぱりとあきらめるなんて、悲しいよ」と言った。ティシュペーパーを二枚引き出して鼻をかみ、

「そりゃあなたはあなた、私は私で、私だって私なりの悩みとかあって、それを簡単にわかるわかる心配すんなよどうにかなるってばさ! なんて言われたら嫌だよ、わかってないのにって、他人事だなって思うし、人のことすぐに理解するなよって思うけどさぁ」咲子は大波がやってきて泣き出し、深呼吸をして味噌汁をすすって、「でもさ、少しくらいはさ、道を探してみようよ、私になにかできるかって言われたら私だってカツカツの生活だし、会社もリストラ始めてお先が明るいとは言えないから偉そうなこと言えないよ、でもさ、あんたは」

 咲子はその先を用意しているようだったが言わなかった。

「君が俺だったら同じこと言うと思う。君が無力に思う必要はない。そう思わせたのは俺だろうからすまないと思う。俺に会わなければそんなに悲しむことはなかったろう。でも君は俺を助けてくれたけれども、結局はたまたま交差してしまっただけの関係なんだよ、隣同士になったのも偶然なんだから」

 

 その時、ノックがし、二人の動きを止めてしまった。不穏で不気味なノック音だった。

「滝下さん、ウサギ便です」と声がした。

 咲子は笑って、「なんだぁ」と立ち上がった。

「待って」と立野は言った。

「え、どうしたの?」咲子は屈んだ。

「森成だ」立野は小声で言った。「と蜂が言ってる」

「森成?」

 再び、ノックがした。主張と抗議の混じったノックだった。

「昨日ここに来たやつだ、あなたの部屋の前にいたのよ」

「アパートの外にもいた。知ってる」

「どうしたらいい?」

「森成は研究所を襲撃した連中で、蜂の分析を阻止しようとしている。俺がここにいると気づいているかもしれない」

「わかった。追い返せばいいのかな」

「蜂は君に任せると言ってる」

 咲子は「はーい、ちょっと待ってくださいねー」と言いながら、机の上のメモ用紙を一枚切り取り、玄関に進みながら指を使ってちりちりと破いた。立野は玄関から見えない位置まで体を移動した。咲子は紙を玄関にふわっと投げた。紙は靴の中に入った。靴から咲子がぐいぐいとできあがっていき、鍵を開けチェーンをはずし、ドアを開けようとすると、乱暴にドアは開かれた。

 黒いスーツの男が立っていた。その後ろにも男が立っていた。

「立野登志一を出してください。暴力を行使するのはあまり得意じゃないのでね」と森成恵介は言った。

「立野さん? お隣りさんのことですよね、知りませんよ、うちにいるわけないしゃないですかぁ」と咲子のヒトガタは言った。「なんなら中に入って捜してみます? 見つからなかったら警察に通報しますよ」と携帯電話を見せた。

「おじゃまします」

 三人の男は靴を脱いで部屋に入り込んだ。

 テーブルの上にはひとり分の朝食があった。

 一人はベッドで布団をめくった。一人はトイレとシャワールームを見た。

「バスタブの中も見ろよ!」と森成は叫んだ。

「流し台の下もお探しくださいね」と咲子のヒトガタは言った。「通報する準備しておきますね」と携帯電話を操作する。男の一人が咲子の携帯電話を奪った。

「ふざけるなよ!」

「ざけてんのはそっちだろ! 朝っぱらから来やがって! 返せ!」と咲子のヒトガタは飛びついた。もう一人の男が咲子のヒトガタのみぞおちを拳で突いた。咲子のヒトガタは気絶した。

「うるせぇ女だ、おい窓から逃げたんじゃないか」

 一人が窓を開けて見下ろした。

「いや、ここからは逃げられないな」

「おかしいな、声がさんざんしたんだが」 

「お前ら」と森成は言った。「本当だろうな、テレビの声じゃねぇだろうな」

「本当に聞こえたんです」

「風呂場の天井裏も調べろ」

 男が二人シャワールームに入り、天井を叩く。

「いません」

「おかしいな」と男が言いながら、台所の鍋の蓋を開けようとした。

 森成は男に近づくと頬を叩き、

「鍋ん中にいるわけねぇだろう!」と叫び、部屋の中をうろうろし、朝食の並べているテーブルを蹴ってひっくり返した。

「この女どうも怪しいな。女を連れていって吐かせろ、早くしろ!」

 咲子のヒトガタを一人が担ぎ、首をひねった。

「どうした」と森成が訊く。

「いや、やけに軽いんで」

「お前、女を抱いたことないのか」と森成が笑った。

 ドアが閉じられた振動で台所のなにかが落ち、廊下の足音が小さくなり、外で車のドアが閉じる音がして走り去ってから、立野と本物の咲子は台所の鍋の中から現れた。

「かくれんぼは昔から好きじゃなかったけど」と立野は言った。「さらに嫌いになった」

「スリル満点だったじゃない? 私は好きだよこういうの」

 立野は肩をすくめて部屋を見た。

「あいつらひどいな」

「あー茶碗割れてる! けっこう気に入ってたのになぁ。でも味噌汁は飲んでてよかったよ、被害は大きくはない。そう立野さん、蜂に訊いてほしいんだけど」

「なんだろう?」と床の箸や湯呑みを拾った。

「今の連中にどんな制裁をすればいい?」

「制裁? あー待って。蜂は死なない程度にやっちゃって、とのことだけど」

「あーわかった。茶碗の被害と比例しないけど、まあいいか」

 咲子は目を閉じて、ぶつぶつとつぶやいた。

「よしオッケーだ」

「思ったよりも君に迷惑かけてしまった」

 立野はティシュペーパーで米粒とつぶれた豆腐をつまみとった。

「君の部屋の一部を借りるだけのつもりだったのに」

「立野さん、こうなっちゃったんだか仕方ないよ、いい? これからどう行動するかが重要なのよ、そうじゃない? あの連中が来たことであなたが巻き込まれている蜂をめぐるいろいろなことが本当のことだってやっと私の腑に落ちたわけよ。それにね」

 咲子は台所で雑巾をしぼって戻ってくると、

「今の騒動のおかげて私はなんかすっきりしたのよ」

「すっきりした?」

「私の力を一企業の利益のために使うなんてバカげているって気がついた、というかはっきりと意識できたわけ。私は何人かの人たちのクビを切りにこの力を使おうとしてた。それは会社が手を汚すべきことで、私が代わってやることじゃないよ、あー、なに言ってるかわかんないでしょ?」

「うん。でも君の中でなにかがバチっと変わってしまった、ということかな」

「そう」咲子は立野から割れた茶碗の破片を広げたビニール袋に入れるように向けた。

 遠くから救急車かパトカーのサイレンが聞こえ、また小さくなっていった。咲子は開いた窓に耳を向けた。

「ここから出ましょう」咲子は言った。「静かに分析ができるところに行きましょう」

 咲子は冷蔵庫からジップロックのタッパーウェアを出し、中身を流し台にぶちまけ、「へそくり」と言って、クレジットカードを出した。

「なにかあった時のためにって父が渡してくれたの。これで当分逃げられる」

「それはダメだよ」立野は頭を振る。

「私も世界を救った一人に加えてくれるんなら安いものよ。あなたはややこしいこと考えなくてもいいの、これを使わずに死んだりしたら私はそっちの方が後悔するわよ。わかった?」

「わかった」立野は頷いた。蜂が囁いた。「蜂が逃げろと言ってる」

「森成が来るんでしょ?」

「ああ」立野は言った。「血だらけで、と蜂が言ってる」 

 

7 森成恵介


 こんな怪我したのは小学校の頃にやはり車が高速道路で横転した時以来だよ、と森成恵介は思った。あの時も俺だけが生き残った。親父もお袋も死んだ。二人とも雨の路上で上半身と下半身が離れた状態で転がっていたな。いつでも思い出せる。今回は二人とも車の中で死んだ。運転手の一郎はフロントガラスに頭を突っ込んだ。目が飛び出てたな。後部座席の建三はフロントガラスから飛び出していったのを見たよ。俺は開けてた窓から吸いだされるように外に飛ばされて、子供の頃と同じように運よく柔らかい土に落ちた。女は? あの女は消えた。いつの間にか正気を戻していた。時速が百キロを越えたとき、女は一郎の顔を両掌で隠してこう言った。

「だーれだ?」

 森成恵介は額をハンカチで押さえながら歩いた。血が滴り落ち、すれ違う人々が振り返り見る。

「どけ! 見るんじゃねぇ!」と出勤途中の男の肩を押した。男の肩に血の手形がつき、路上に血の線が引かれる。近くにいた女が短く叫んだ。

 森成は車が回転しながら宙に浮き上がり後部座席で笑っている女が一瞬で消えた後に紙切れが舞ったのを見たのだ。信じられなかった。事故のショックで頭がいかれてしまったと思った。違った。

 老人が、

「病院に行くのですか? それとも呼んだほうがよろしいか?」

と訊いた。

「ありがとう、だがその前にやることがあるんで」

 森成の手には人の形に切られた紙があった。それは血に染まっていた。森成は運転席でつぶれた一郎の死を確認したとき、後部座席で発見した。足を引きずりながら女を探した。どこにもいなかった。救急車とパトカーが到着する前に森成恵介は事故現場から立ち去った。

 森成恵介は思った。もしもまとも養蜂場を経営していれば空中で回転する車の後部座席で女が消えて人の形をした紙が舞っていたとしても、ピンとは来なかっただろう。女が紙に変身したのだと。いや逆だろうな、紙が女になっていたのだ。まぁ、親父のように蜂たちと一緒に日本各地をまわっていたらこんなことに巻き込まれはしなかっただろうが。森成はくすくすと笑った。人々が左右に分かれる。

 

 滝下咲子のアパートに辿りつく頃には、森成恵介の顔から血の気は引き、地面はゆらゆらと揺れているように見えた。

 倍の時間をかけて階段を上り、滝下咲子の部屋のドアを開け、もぬけの殻だと知った森成は玄関に倒れこんで、笑った。なんて女だ、あの男とは前から通じていたのか。

 森成恵介が痛みで顔をしかめた。森成本人の笑い声は部屋に響いていた。視界に足が見えた。森成は懐に手を突っ込んだ。

「誰だ、てめぇ」

 森成はそばに立って見下ろしている男に銃を向けた。

「俺だよ、俺」と男は言った。

 森成恵介だった。

 傷だらけの森成は体を反射的に起こし、ドアに背中をつけて男に狙いをつけた。

 俺?

 男は自分と同じように笑っていた。

「驚くなよ、俺はそんなに弱虫じゃねぇぞ」

 男はしゃがむと森成から銃を奪った。もう手に力がなかった。

「俺自身を撃つもりなのかよ」とこめかみに銃口をつける。「おい俺」

 森成は黙ったまま玄関に座り込んでいる。

「立野を追っているのはお前らだけじゃねぇよな」

「お前は何者だ?」

「俺はお前だよ」

「立野を追ってるのは俺たちだけじゃねぇ」

「助かりたくないのか?」

「どうせ一ヶ月後には死ぬんだ、大してかわりはねぇよ」

「そうか。どうしてお前は世界の滅亡を望むのだろう?」

「お前が俺なら」と森成は苦笑した。「訊かなくても知ってるはずじゃねぇか」

「そりゃそうだな。お前は親父から受け継いだ養蜂場の蜂をクビにした。海外から安い蜂蜜を輸入して森成養蜂場のブランドで販売をはじめた。一年中トラックで日本中をまわる生活を終わらせたかった。しかしいつまでも上手くはいかなかった。やがて負債が膨らんだ。新規事業の健康食品が大コケした。会社を縮小したが、後の祭りだ。そこに悪い連中が嗅ぎつけてきた。そこから俺たちの転落が始まった。養蜂場とは名ばかりさ。今じゃ雑居ビルの一室が森成養蜂場だ。もちろん」

「蜂は一匹もいねぇ。さすがに」と森成は長く咳こみ、口から血の塊を吐き出した。「お前は俺だ。よく調べたな」

「調べたんじゃねえ、知っているんだ、俺はお前だからな」と笑う。

「蜂の囁きを聴いている頃がなつかしいよ」

「お前は蜂が大好きだった」

「ああ俺は蜂が大好きだった、今じゃその蜂に恨まれている」

「天国で親父とお袋によろしく言っといてくれ」と森成のヒトガタは言った。

「二人には会えないよ、俺は愚かなことをしすぎた」

 森成は微かに笑い、歯を食いしばり、全身が高温で焼けるのを我慢するように顔を歪め、やがて力が抜けて壁に倒れかかった。

「お前はよくやったよ」

 はらりと人の形の紙が森成の足に落ちた。血がゆっくりと染みこみ真っ赤になるまで時間はかからなかった。

 

8 滝下咲子


 咲子はビジネスホテルから会社に欠勤の電話を入れた。部長は今日から面談を開始する、君の能力の出番はまだだからゆっくりと休んでくれと言った。

 自分が関与しなくても粛々とリストラは進められていく。けれども要の実行する私はもう関わるつもりはなかった。それは自分の解雇とリストラ推進部の消滅を意味するけれども、咲子は気分が晴れてた。

「狭い部屋だけど十分でしょ?」咲子は自分用のベッドに横になって言った。

「やっぱりさ、別々の部屋にしたほうがいいんじゃないかな」

「死ぬつもりの人がそんなことを気に病むんだ」

「君のためだよ、俺は誰ともそんな気にはもうならない。君は知らない男と泊まることで変な噂でも」

「私そんなに有名じゃないし」と咲子は笑った。「気にしないよ、私も。なんなら一度くらい寝てもいいけど」

「ちょっと待って」立野は言った。「蜂は二人の交尾なんか見たくないって」立野は肩をすくめた。

「ねえあなたの中にいる蜂って出てこれないの?」と咲子は訊いてから、「今さら立野さんを疑ってるって意味じゃなく、知能がある蜂を見てみたいなぁって思っただけ」

「蜂は未来に飛んでいって映像を記録する。これはどんな蜂にも備わっている機能らしい。その映像を持って帰ってきて、分析官の耳に侵入して融合する。その時点で蜂の体は分析官と一体化する。外皮は消化されてしまう」

「つまり一生あなたの中にいるってわけね」

 立野は頭を振った。

「いずれ蜂は消化されてしまう、すべて」

「え? なにそれ、死ぬってこと?」

 立野は頷き、

「蜂がこう言ってる、人間はすぐにセンチメンタルになる、いいことか悪いことはかわからないけど好きにしてくれたらいい、俺は人の中で生を終える、それでも俺はどこかで生きつづけているし、多くの仲間達がどこかで生きつづけている、立野が死を望んでいるのは蜂の俺からすれば意味のないことだ、少なくとも俺の意識がある間は生きていてほしい心中はごめんだ、俺の存在を感じたいのなら、その方法はある」と立野は口をつぐんだ。

「どんな方法?」咲子はベッドの上で膝をぎゅっと抱えた。

 立野は立ち上がり、

「いや、よく聞き取れないな、悪いけど、つづきは今度にしよう、分析をしないとね」またベッドに腰掛け、横になり、頭を枕にのせた。

「それじゃ俺はこれから分析を開始するから、君はどうする?」

「なんか変ね」

「変? 変じゃないよ、君はどうする? 部屋にいても差しさわりはないよ」

「そうね、会社は休んじゃったし、出かけるにしても疲れたから、私もここで寝るかなぁ」と咲子はベッドに倒れこんだ。「おやすみ」

「おやすみ」と立野は言った。


9 森成恵介


「おはよう」と森成恵介は言った。

 俺は死んだんじゃなかったか、とつぶやいた。

 森成恵介はそこは天国だと思った。明るかったし、気温も適度で、一つも恐怖の叫びを声が聞こえなかったからだ。

「いや、これから始まるのかもしれないな」

 森成恵介は巨大な空き缶の底の真ん中に立っていた。体の血は消えていた。

 これは肉体なのか? それとも天国での仮の体、魂の入れ物なのか?

 森成は曲面の壁に近づき、磨かれたステンレスのような金属の壁に触れた。冷たくはなかった。温かくもなかった。そこで気がつく。口に掌をかざす。

 俺は息をしていない。胸に手を当てる。心臓の鼓動もなかった。

 俺は死んでいるんだ。がっくりするよりも、安堵のほうが大きかった。

 死んでいるが脳味噌はいつもと同じだな、と森成は考えながら壁に触れて、左のほうに歩いてみた。足や腕は生きているときと同じだ。死んだからといって馴れない体に放り込まれるのは厄介だ。見知らぬ街を大型ダンプでドライブするみたいなもんだからな。

 森成は一周回った。しゃがみ、床をノックしてみた。ステンレスに似た金属の床の下は空洞のようだった。天井を見上げる。天井も同じ材質だ。明かりはないが、明るい。森成は天国のテクノロジーだと思った。空気そのものが発光しているようだった。空気はないかもしれないな。呼吸しなくても体は動くのだから。

 ここはなんだろう? 待合室?

 森成は中央であぐらをかいた。

 誰かを呼ぶか? やめとけ。死んだあとも無様なことはしたくはない。

 俺にここで生きていたころの贖罪でもしろということか?

 それでなんになる?

 今度生まれるときは何十倍も運のいい人間に生まれ変われる?

 森成は笑った。次生まれることの心配などしたくはなかった。俺は死んだ。もういいじゃないか。長い眠りにつかせてくれてもいいだろう? 今さら先に死んだ親父とお袋に会いたいとも思わない。なにを話す? あんたらの養蜂場を潰してすまなかったと謝罪するのか? それなら俺はこう責めるだろうな、あんたのまずいハンドルさばきのせいでこうなっちまったんだぞ! って。

 こんなやりとりがなんになる? この空き缶と同じでぐるぐる同じところを回るだけ、死ぬまでそう。いやもう死んじまってるから、永遠に、だ。ああうんざりだ。誰も俺の前に現れなくてもいい。

 森成は寝転がった。金属だが硬くはなかった。柔らかいわけではなかったが、悪くはない心地だった。

 森成は森成養蜂場の無駄だと思えた部門──営業部以外のすべて──を売り払い、サイズダウンしてからのことを思い返した。途中までは上手くいった。会社の体は軽くなり、筋肉がつきはじめ、あらゆるスピートが上がり、利益が増した。蜂と何年も触れ会わない養蜂場だった。会社は順調に成長した。社員はわずかだったが、あらゆる部門は社外に委託した。製造、輸入、宣伝、人事、経理、すべては顔を見たこともない人々がやっていた。時々、俺は蜂を見たいと思うことがあった。子供の頃は蜂がいつもそばにいた。小さなトラックで親子三人、日本中をめぐった。花を追いかけるのだ。しかし会社のどこにも蜂の羽音はなかった。それでもキャッシュは増える。蜂のおかげで。

 蜜蜂の体内から抽出した成分を配合したサプリメントの権利を買えたのは偶然だった。たまたまオーストラリアの養蜂家との契約していたときに話を聞いた。すぐにアメリカの知人に連絡し、調べてもらった。アメリカの大手サプリメント販売会社が売り出す情報を入手した。オーストラリアからアメリカに飛び、すぐさま独占契約をした。蜂の体内から微量に取れる体内ホルモンから生成した若返りの期待できる成分だった。契約時に担当者から話を聞いた。養蜂場から買い取った老いた大量の蜂を窒息させながら薬品で分解する工程を聞いたとき、俺は嫌悪感と罪悪感とで吐き気をもよおした。サインと握手をすませて俺はトイレに走りこみ、吐いた。

 このサプリメントは売れに売れた。毎日、テレビと雑誌と新聞とインターネットに広告を打った。多くの男女が若返りを求めていたのだ。

 だが独占契約には罠があった。売れている間は契約は更新される。しかしある一定の輸入量を越えなければ自動的に契約は停止される。その心配はなかった。人びとは一日に二粒のサプリメントを飲むだけで十歳は若返るのだ。

 失速は突然やってきた。

 第一波はアメリカでの蜂の大量死だ。これで原材料の確保が困難になり、蜂の価格が高騰した。

 つづいて第二波がやってきた。製造工程が雑誌で取り上げられた。動物愛護団体が動いた。会社に投書が押し寄せ、あらゆるメディアからの広告を止められた。それ以降はご想像にお任せする、だ。

 会社のサイズが小さかったおかげでダメージは思ったほどはなかった。潰れる寸前までいったが、キャッシュフローが豊富だったから乗り越えられると思った。

 しかしアメリカからやってきた弁護士にからの訴状が追い打ちをかけた。

 俺の会社が契約違反をしたというのだ。勝ち目はありませんね、と顧問弁護士は言った。賠償金を払っほうが安くつく、と。

 これで預金はほぼゼロになり、銀行の対応も冷たくなった。

 本業の蜂蜜関連の商材で会社はなんとか生きることが許された。

 だが俺はもう一度、浮上したかった。そのためには資金が必要だった。

 そしてタイミングよくウマイ話が持ち込まれた。

 蜂がいれば、と思った、昔のように日本中を回れるのに。

「依頼者の名は明かせない。かなり暴力的な仕事だ。だが金払いはいい。正規の取引にしてもかまわないし、直接君のポケットに放りこんでもいい。ご自由に」

 とてもシンプルだった。

「やくざには頼めない。崇高な仕事の一部だからね」

「どうしてうちに?」と俺は訊いた。

「君の亡くなったご両親と知り合いだった。大昔に、君がまだ生まれるずっと前だ」

 男の身なりは立派なもんだった。一瞬だけ見て高価なスーツだとわかった。皺一本なかった。革靴は玉虫色に輝いていた。名乗らなかった。名刺もなかった。前金の札束を机に置いた。

「君を助けたいのだよ」と男は言った。「君の窮状を知らぬふりはできない。だが金をぽーんと置くわけにもいかない。それに君はもうクリスマスプレゼントをもらって手放しで喜ぶ歳じゃないだろう?」と男は笑った。「だから仕事を頼むわけだよ」

「俺はあの時に断るべきだったのか!」

 森成恵介は金属の床に寝たまま叫んだ。自分の声が反響し、うるせぇ、と耳を塞ぎ、拳で床を殴った。

 また親父とお袋みたいに巣箱を積んだトラックで日本中を旅するべきだったのか? もう一度、蜂と巣箱とトラックと遠心分離機を買えばよかったのか? 安い蜂蜜が大量に輸入されてきている市場でかつて存在していた良質な国産蜂蜜の居場所はもうないようなものだ。

「うちは養蜂場なんだよ、やりなれていない仕事を受ける気はない」

「蜂は大いに関わっている」と男は言った。「主役ではないが準主役級だよ」

 

「俺は仕事を受けたよサプリメント業界に復活する資金にするために」森成は立ち上がった。「おい! そろそろこの空き缶から出すか、消してしまうか、血の池地獄にでも案内してくれないか! 石臼地獄でもかまわんぞ!」

 森成の声はすべて吸収され反響はしなかった。金属の壁を何度も叩いた。痛くなかった。金属を叩いている感触はあった。だがその衝撃はどこにも届かないと森成は昔から知っている感じがした。

 ここにいることそのものが地獄というのか?

 森成は疲労しなかった。空腹もなく、息苦しくもなく、体のどこも痛くなかった。金属の壁にもたれて座り込んだ。どれくらい時間がすぎたのかもわからなかった。何度も溜息をつく。呼吸をする必要はないのに、肺を稼動させてみる。懐かしい感じがした。生きていると錯覚しそうだった。

 はっ──森成は体をびくりと動かした。耳を壁につけた。蜂の羽音が聞こえた気がした。

 壁の向こうに蜂がいるんだ。

 森成は息を止める。目を閉じ、すべての意識を右耳に集めた。

 蜂だ、蜂がいる。

 数万匹の蜂の群れがいる。

 羽音がやがて一つに撚り合わさり、一本の音になる。それは蜂の声だった。

「森成」と蜂は言う。「チャンスをやろう。違約金が発生するところだが、死者に請求するつもりはない」

「俺になにをくれるって?」森成は耳を貼りつけたまま声が一番聞こえる壁を探して移動する。「死んでる俺になにをしてほしいんだ? てめぇのなにをしゃぶってほしいのか? それともしゃぶりたいのか?」

 森成はくすくす笑った。ここだ、と足を止めた。

「死者にできる仕事は生者の首をひねるくらいだ」

「そりゃそうだ」

「簡単だ。あの女と男の首をキュッとひねってくるんだ。時間はかからない。やれば君に新しい生を与えよう」

「断ればどうなる? この空き缶地獄で永遠の退屈を与えてくれるのか?」

「断れば永遠の苦痛だ」

「わかった、断るよ、もう死んだままでいたいからな」

「そうか」

 森成のいる空間に圧力がかかりだした。全体が小刻みに震え、壁が軋み、床が盛り上がる。金属が悲鳴をあげる。天井がボウンとへこむ。巨大な足でゆっくりと踏み潰されていくように。

「君は潰れた空き缶の中で永遠の時を刻む、眠りも休息もない」と男が言った。

 森成は壁を両手の拳で突く。

「そんなことをしても無駄だよ」と男の声が響く。

 森成は再び拳を突く。壁はステンレスよりも硬い。

「君に痛みを与えよう」と男が言うと森成の拳から血が吹き出し、全身に痛みが走った。森成は何度も壁を突く。床の中央から盛り上がって折れたようになる。天井が下がってくる。どんどん狭くなっている。森成は沈黙したまま壁を突く。

「君に漆黒を与えよう」

 森成は闇の中で五指を広げて壁に押しつける。金属が砂のように感じた。体重をかけて両腕をめりこませ、壁の向こうでなにかを掴む、引っ張る。蜂の羽音が大きくなる。金属の壁が紙のように破れ、森成は力をこめて引きずりこむ、人間の形をしているものを。

「一人じゃつまんないじゃねぇか、付き合えよ」森成はさらに引っ張る。

「森成、放せ!」と男は言い、壁の向こうに戻ろうともがく。

「もう遅いな」

 森成と男は潰れた金属の塊の中で最大の苦痛を味わいながらお互いが混じり合うのを感じた。


10 立野登志一


 おはよう。

 立野は誰かの声が聞こえて目が覚めた。立野はビジネスホテルの部屋にいた。全身もベッドも汗で濡れていた。不快だけがあった。隣のベッドには誰もいなかった。ベッドサイドテーブルの明かりが灯っていた。時計を見ると午後七時をまわったところだった。

 立野はシャワーを浴びながら、微かな頭痛がするのに気づく。脳味噌からとても重要なピースが抜き取られたような感じがした。それが何なのかはわからない。そんな気がするだけだ。

 シャワールームから出て、誰もいない部屋を見ていると、奇妙な感じがした。

 どうして俺は一人なのにツインの部屋に泊まっているのだろう?

 もう一つのベッドには使用した形跡はなかった。

 そしていくつもわからないことがあるのにも気づく。

 俺はどうしてホテルに泊まっているんだ?

 部屋には自分の荷物はなかった。

 髪を乾かし、服を着たが、まるで人から借りた服のような着心地がした。

 もう一つのベッドの上になにかがあるのを見つけ、驚きの声をあげた。

 近づいてみると一匹の蜂の死骸だった。

 立野は死んでいるのを確かめる。恐る恐る指で羽を触った。蜂は固くなっていた。

 立野は部屋を見渡し、ベッドサイドテーブルの抽斗からホテルの名前の入った便箋を一枚取り、蜂の死骸を置いて、潰れないように慎重に包み込み、上着のポケットにそっといれた。

 

 宿泊代は前払いしていた。立野は記憶にはなかった。鍵を返し、ホテルを出た。

 しばらく歩くと公園を見つけた。立野はベンチに座り、公園を散歩する老人や駆けまわる子供たち、長いリードに繋がれたプードルと携帯電話を無言でいじる女と鳩とすずめを眺めた。

 立ち上がった立野は木と木の間の土を瓦の破片で掘り、蜂の死骸を包んだ紙を埋葬した。

 立野は再びベンチに座り、日が沈み、人々がいなくなるまで座っていた。

(了)

最後まで読んでいただいてありがとうございます。

ちょっと不思議な話ですが、いかがでしたでしょうか?

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