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  作者: キミナミカイ
1/2

前編

1 立野登志一


 一匹の黒い蜂が部屋に入ってきた。立野登志一は追い払わずに放っておいた。刺されはしないだろうし、網戸を閉めていなかったのだ、蜂に落ち度はない。飽きたら窓から出ていくだろう、と立野は思った。それまで首を吊るのはやめておこう。蜂は部屋のなかを三周し、電灯に止まり、また飛んで本棚のうえに落ち着いた。立野は最後の水を飲み、最後の自分を洗面台の鏡で見て、最後のトイレに行った。水を流し終えたこには蜂もいなくなっているだろう。虫とはいえ、死ぬところを見せたくはなかった。

 トイレから出た立野はまだ蜂が部屋の中にいたことで安堵したのを感じた。生にまだ執着しているのかもしれないな、それは認めるよ。まだやり残したことだらけだ。でも俺は死ぬよ。

 立野は部屋を見渡し、今年のカレンダーを壁から剥がし、丸めて筒にした。危害を加えるつもりはないよ、立野は蜂に近づき、そばで筒にしたカレンダーを振った。

「さあ俺は今からやになきゃいけないことがある、帰ってくれ、ここはお前にとっても居心地のいい場所でもないだろう?」

 部屋には荷物がほとんどなかった。仮の住まいだ。安住の地ではなかった。死ぬ場所にふさわしいとは思えなかったが、死ぬと決めればどうでもいいことだった。何度か土の上で死ぬことを考えた。そのまま朽ちていく自分を想像してみた。けれどもそんな土地はどこにあるのだろう?

 蜂は壁に貼りついたまま動かなかった。殺気を感じていないんだな、と立野は思った。ああそうだよ、俺は自分を殺すつもりだけど虫は殺すつもりはないよ。

 立野は虫に見られながら死ぬのもいいかもしれないな、と考えた。蜂は人と違って警察には通報しないし、人が死んでいくことすら興味はない。

 立野は窓を閉める前に、

「おい出て行くなら今のうちだぞ」と蜂に言ってから馬鹿らしくなった、俺はなにをしているんだ?

 窓を閉めた。蜂も死ぬかもしれない。仕方あるまい。蜂の巣にはたくさん働き蜂がいる、一匹くらいいなくなったとしてもたいした騒ぎにはならないだろう。すまないな、道連れにしちまって。

 蜂はじっと動かなかった。

 立野はタオルで作った紐をドアノブにくくりつけた。

「三十五年間ごくろうさま、俺」

 蜂の羽音が聞こえ、立野は振り返り、体をよじった。蜂が向かってきた。立野は手で蜂か近づかないように攻撃してみせる。

「おいこら、邪魔するなよ」

 蜂は執拗に立野にまとわりつく。立野は立ち上がり、蜂から逃げる。死を覚悟しているのに刺されるのは避けたかった。死に至らない痛みはいやだった。

 立野は筒にしたカレンダーを手に取り、振り回すが蜂は馴れたものでその間を縫って飛ぶ。まるで嘲笑するように優雅に。

 立野は窓を開けた。

「さあ帰ってくれ」

 蜂は壁に止まった。

「すまないが」立野は筒にしたカレンダーを握り直した。「これ以上邪魔はしてほしくないんだ」とゆっくりと蜂に近づく。立野はカレンダーをゆっくりと振りかぶった。蜂は動かない。じっとしているんだ。立野は最後の力を出してカレンダーを蜂に振りおろした。カレンダーが壁を叩いた。蜂は飛んだ。立野に真っ直ぐ突っ込んできた。立野はカレンダーを振り回したが、蜂は耳元で気味の悪い羽音を鳴らす。立野は叫びながら耳の辺りを手で払う。立野はテーブルに足をぶつける。

「痛ててて!」

 立野の右耳にごぼこぼと音がし、聞こえなくなった。立野は頭を振りながら、気がつく。

 耳の中に蜂が入っちまったんだ!

 耳に指を突っ込もうとした、「だめだだめだ」と思った。押しこんでしまうじゃないか! 

 蜂は耳の中でじっとしている。立野は部屋の中を歩き回りながら頭を振る。出てこい。お前の巣には見えないはずだろう? 立野は耳に入った水を抜く感じで右耳を下にして頭の左側を叩く。蜂は死んだように動かない。そこはお前の死に場所なんかじゃないぞ。立野は医者に行くか、それともこのまま死ぬかと考えた。死んで、耳から蜂は飛び去るかもしれない。もしかすると野垂れ死んで耳から蜂がピンセットで出されるかもしれない。耳に蜂を詰めて自殺した、どんなメッセージが? って全員に首傾げられたら申し訳ないな。いや気づかれないかもしれない。ほとんどなにもない部屋で自殺した男を詳しくは調べないだろう。どっちでもいいや。

 立野は洗面所に行って耳を見ようとした。その時、立野の前に映像が現れた。それは目の前にぼんやりと浮かんでいた。立野は目が変になったと思い、何度かこすった。幻覚だろうか? 自殺しようと考えているから脳味噌がいかれてしまったのだろうか?

 視線をどこに動かしても映像はついてくる。目との間に手を入れると映像は手の向こう側にある。映像の枠はくっきりとしていた。音はなかった。

 立野はしかたなく映像を見る。見覚えのない町が映っていた。

 十階くらいの高さから撮影されたものか、と立野はつぶやく。家々が見え、遠くに山が霞んで見える。とてもいい天気で雲が一つ浮かんでいる。春かね。桜でも見えたらそうなんだけどな、と立野は頭を動かした。映像も同じように動いた。カメラと俺が連動してる。あるいはこの映像は三百六十度パノラマ撮影してるんだ、すごいな。

 立野は桜を探そうと頭を下に向ける。木々はところどころに生えていたが、桜見当たらない。

 初夏、かな。と立野が思ったとき、映像が震えだしたのに気づいた。地震か? と立野は遠くの話のように感じ、自分は慌てない。自分自身は静止した土地に建てられた安いアパートにいるのだ。

 振動はさらに激しくなり、止んだ。

 震度、四、くらいかな、と立野がつぶやいた。どこだろう? 空がパッと赤く光った。

 再び激しく映像が振動をはじめた。

 立野は洗面所の壁に背中を押しつけながら映像をまばたき一つしなかった。

 なにこれ、映画? ディザスタームービー? 録画? 生中継?

 居間で電話が鳴り、立野は声を出して驚き、携帯電話を解約し忘れていることを思い出した。居間に行く間も目の前の映像はつづいている。携帯電話を手にした。誰からなのか予想もつかなかった。表示画面を見る。

 “谷蜂一郎”

 誰それ? 知らない、俺こんな人の番号とか登録してないよ。しかも蜂?

 立野は酔ったときに誰かに勝手に登録されたのか、酔ったときに知らない人と意気投合したのか、どちらにしても覚えはなかった。名前の中に“蜂”がなければ電源を切っただろう。

「もしもし」と立野は言った。

「あー立野さん?」

 男の声だった。奇妙な声だ。声の成分の中に蜂の羽音のような振動が含まれていた。

 俺の耳の中に蜂が突っ込み、名前に蜂入りの男から電話があり、声に蜂の羽音が含まれている。立野は過去を遡って蜂を殺した記憶をさらった。ないな。蜂に恨みを買う覚えはない。反対に蜂から恩返しされるような覚えもないし、酔ったときに蜂と意気投合した記憶もない。

「立野ですが、どちらさま?」

「たにはちいちろう、です」と男は子供に言葉を教えるようにゆっくりと言った。

「たにはちいちろう、さん」立野は繰り返した。「どちらさまですか?」

「名前に蜂の一文字を入れておいてよかったと思っている谷蜂です」

「知らないよ。申し訳ないがあなたのことは知らないんです」

「知っているかどうかはほとんど関係ありません」谷蜂はきっぱりと言った。「用件はひとつだけです。あなたの部屋に飛び込んでしまった蜂を返していただきたい。覚えありますよね?」

「あーあの蜂ですか」

「ええ、殺したりはしてないでしょうね? もしも筒状に丸めたカレンダーなんかで叩いたりしてたら、どんでもないことになりますから、ええ」

「殺したりはしていませんよ。あの蜂はおとなしかったですから」

「安心しました。いますか? 蜂」

「います」

「今からその蜂を迎えに行きたいのですがよろしいですよね?」

「かまわないといえば、かまわないけど」

「なにかすっきりしない言い方ですね立野さん」

「どうしてこの携帯電話の番号を知っているんですか?」

「不思議なことですか?」

「あなたのことはまったく知らない」

「でも携帯電話の電話帳に登録してあったでしょう?」

「ええ、それじゃ酔ったときにどこかで?」

「だと思います、私も記憶がありませんけど。それでは十分後に伺います」

「いや待ってくれ谷蜂さん」

 電話は切れていた。

 どういうことだ? 立野はつぶやいて、耳に指を入れた。

 蜂、死んでないだろうな。


 立野登志一の人生は金と人と災難に振り回され、気がついたときには円錐の奥の点のような場所で体と心をその狭さにふさわしいような人間になるように努め、なんとかここ数年を生きてきた。しかし限界点は突如訪れた。立野は考えぬいて死を選択した。衝動的に自殺するのは性にはあわなかった。けれども衝動的に自殺する以外に自殺する機会は訪れなかった。立野は締切りを設けた。それはなんでもない日だった。何曜日でもかまわなかったし、晴れていても曇っていても雨でもよく、正月でもクリスマスでもよかった。

 その日を選んだ基準はなにもなかったといえる。

 もしも朝から窓を閉めていれば蜂も迷いこむことはなかっただろうし、見ず知らずの男にお茶を出すこともなかっただろう、と湯を沸かしながら立野はぼんやりと考えていた。

「おかまいなくー」と谷蜂一郎が言った。これで六度目だ。立野はやかんにたっぷりと水を入れ、火は最弱にしていた。台所で考える時間もほしかったし、耳の中に蜂が入り込んだと告げるのを先送りしたかった。あの男はなんと言うだろう?

 火を最弱にしていてもやがて湯は沸く。立野は耳にまた指を突っ込む。

「耳の調子がお悪いのですか?」と谷蜂が言った。

 立野は驚いて振り返り、

「ええ、まあ、そんなところです」と言った。

 谷蜂は戸の枠にもたれかかった。

「立野さんはさっき蜂は風呂場にいる、と」

「ええ、部屋の中を飛び回って疲れたんでしょう、風呂場で休んでいます、その前にお茶を」

「蜂は風呂場にはいませんよね立野さん?」

 立野は火を止めた。

「立野さん、あの蜂は特殊な蜂なのです。一般的な昆虫としての蜂とはまったく違うのです」

「どう違うと?」

「さきほどから立野さんは耳を気にしている。指を何度も入れたりしている」

 立野はお湯を急須に注ぐ。

「蜂はあなたの耳の中に入った。違いますか?」

「ええ。隠すことはなかったんですが」

「お気持ちはわかります。言うタイミングを見計らっていた、と」

「まあそうです」お茶を茶碗に注ぐ。「とても重要な蜂のようでしたし」

「それで立野さん」

 立野は茶碗を谷蜂に渡した。

「なんでしょう」

「映像は見てしまいましたね?」

「え? 映像?」

「その顔は見てしまった、と」

「蜂とあの映像は関係があるんですか?」

「もちろんです、居間でゆっくりとお話ししましょうか」

 二人は居間で向い合って座った。

「立野さん、今映像は停止していますか?」

「ええ」と立野は茶をすする。

「あなたの耳に入っている蜂は特別な蜂です」

「天然記念物とか?」

 谷蜂は頭を振った。

「絶滅種だとか?」

「いいえ。これいいお茶ですね」

「お茶処の生まれなので、お茶だけは高いものをと」

「あの蜂はメッセンジャーなのです。あなたがご覧になられた映像は蜂が撮影してきたデータなんです。なにかの間違いであなたの部屋に飛び込んでしまい、習性であなたに侵入した」

「耳を通して」

「ええ、耳を通して」と谷蜂は溜息をついた。「小さな間違いが大きな厄災をもたらすこともありますから、注意はしていたのですが」

「それでどうすればいいんですか? 何度も耳に指を突っ込んでも出てこないし、異物感もない」

「そうでしょう」とお茶をすすった。「蜂は耳を通って侵入したわけですから、あなたの中に」

「侵入」と立野は言った。「どういう意味でしょうか?」

「いいですか立野さん。蜂が撮影してきたデータは」谷蜂は周囲を見渡した。もちろん誰もいない。「未来のものなのですよ」

「未来?」一呼吸してから立野は笑った。「それはおそろしい!」

「おそろしい? 立野さん、私はまだ蜂の映像を知らない。それはどういう意味なんでしょうか?」

「あーおそろしい。谷蜂さん、あなたも私と同じように見ればいいんじゃないですか? 蜂を耳につっこんで」

 谷蜂は頭を振り、苦笑する。

「未来で撮影してきたデータを大勢の人々に見せるわけにはいかないのです。だから蜂は一度、耳から侵入すれば体の中のどこかに留まるんです」

「とどまる?」 

「ええ、滞在といってもいい。蜂はあなたと融合した、と言い換えても誰も異議を唱えたりしません」

「それはつまり取り出せない、ということのように聞こえたりもしますが」

「そこまで意味を含んではいませんでしたが、正解です」

 立野は落ち着こうとお茶をすする。蜂が耳に入り、ディザスタームービーの予告編のようなものを再生し、立野は観た。え? 未来だって?

「観てしまった映像は未来のだって言いましたよね?」

「そうですよ立野さん。私にはそれがいつだかはわかりません。それは分析官の仕事だからです」と苦笑した。「分析官は蜂を耳に突っ込んで映像を何度も観るんです。いつなのか、どうしてそうなったのか、さまざまなことを映像から読み解くわけです」

「いつだかわからない? 蜂は未来の」

「ええそうですよ立野さん、蜂はこれから先のいつかわからない未来での世界の終りを撮影してきたんです。ね? 特殊な蜂でしょう?」

 谷蜂はおいしそうにお茶を飲み干した。

「さて、荷物をまとめてください」と谷蜂は言った。

「荷物?」

「ええそうです。立野さんには気の毒ですが仕方ありません。分析官の代わりにあなたが映像を何度も観て、分析するんです」

「はぁ? 私がですか?」

「そうです。蜂を取り出すことはできません。あなたが代わりにやるんですよ! 世界を救うためにね!」

 

2 滝下咲子


 滝下咲子はアパートに帰るとコンビニの袋をテーブルに置き、ベッドに寝転んで泣いた。

 毎日、会社から帰ると泣いている。十五分くらい泣くと、ぴたりと止む。立ち上がって台所で食事の用意をする。ご飯と惣菜を二品温める。飲めないビールを飲む。アルコールは三十になるまで一滴も飲めなかった。一人暮らしと仕事のストレスと恋愛のトラブルとが混じった魔の数週間に飲むようになった。同期がどんどん結婚していく中で、何人かは焦りながらも相手を見つけられずに四苦八苦している。咲子は半年前に恋人と別れてからしばらくの間、恋人をつくる気にはなれなかった。しかし四十をすぎた先輩たちが毎晩お見合いパーティーに参加しているのを見ると、未来に楽しいことが起きることは奇跡かファンタジーのように思える。咲子も参加を誘われたことがあった。

「あんたくらいのうちに」と先輩の一人は言った。「見つけておかないといけないよ」

 咲子はうまいこと断ったが、後で他の同僚に聞くと、どうもパーティーの参加者を紹介するとキックバックがあるらしいとのことだった。金と男を同時にゲットだぜ、か。咲子はうんざりした。先輩たちや、毎日に。

 死?

 考えたこともない。

 自殺なんかは自分の世界には存在しないものの一つだと思うし、痛いのは無理。事故に巻き込まれてほとんど一瞬に死んでしまうのならばいいかもしれないが、準備もないままにそんな機会が訪れるのは困る。

 咲子はご飯を食べ、ビールを飲んだ。

 別れたから二週間は元恋人からの連絡があって、咲子はうんざりした。渡したりもらったりしていた合鍵を返したり返されたり、借りていたものを返したり返されたりした。ぱたっと連絡がなくなってからの一週間は自分の中に球体状の真空が現れた感じがして、復縁の文字が頭の中をラッシュアワーのように駆け巡ったけれども、やがてそんなものもなくなった。新しい恋人のことを考えると、また喧嘩だのがバカバカしく思えた。元恋人からの連絡はそれから一度もない。生きているのか死んでいるのか、幸福なのかも知らない。もう他人になったのだ。

 乾杯。

 隣の部屋から「ぎゃぁぁぁぁぁぁ」と叫び声が響いて、咲子は箸を持ったまま体を強ばらせた。

 なになに?

 隣はしがない風体の男だ。廊下とか階段で挨拶はするけれども陰気な感じで、咲子はあまりいい印象を持っていなかった。名前は? なんだっけ? あの叫び声は尋常じゃないよ。ホラー映画観ての絶叫とは種類が違う。管理会社にクレームつける? 面倒だな、と咲子は溜息をつく。

 壁に耳を張りつける。

 蜂、蜂がって言ってる。なにそれ?

「ばかみたい」と咲子はつぶやき、ビールを飲んだ。どん、と壁が音を立てる。

「うるさいなぁ」

 隣室の男はそれから何度か悲鳴を上げたが、咲子は無視した。もしかして事件かも、と思った。しかし私には関係ない、事件ならばもっと悲壮な絶叫で壁に穴が開くんじゃないかってくらいに叩くだろうし、とご飯を食べる。関係ないよ、ないない。

 静かになり、携帯電話の呼び出し音が鳴って、咲子は自分の携帯電話をさっと取る。

「隣かよ」

 隣室からしゃべり声が聞こえた。あ、まだ生きてる、と安堵した自分を否定する。人のことはどうでもいいよ。静かに生きてください。

 食事を終えた頃、隣室に来客があったようだ。咲子は台所で紅茶を飲んでいた。壁越しにもごもごと会話が聞こえる。咲子は壁に耳を密着させた。

「未来」と「蜂」と「おそろしい」と言葉が聞こえた。なんの会話をしてるんだろう? 

 未来の蜂はおそろしい?

 未来では蜂がおそろしくなる?

 未来になると蜂もおそろしい?

 どーでもいいや。

 咲子は紅茶を飲んで、ヨガをし、シャワーを浴びた。隣室は静かになっていた。読みかけの文庫本を出して、明かりを暗くする。温めた牛乳を飲み、ページをめくる。だめ、集中できない。本を閉じる。というのも今日、部長から嫌な話を聞かされた。たまたまランチをとった洋食屋で同じテーブルになったのだ。部長はハンバーグを食べながらこそこそと咲子に話した。

「ここだけの話なんだ」

「なんですか?」

「リストラだよリストラ」

「そんなことしゃべってもいいんですか? ぺーぺーのOLの私に?」

「いいんだよ、しゃべりたかった。それに滝下くんはリストラ対象者じゃないからね」

「あ、そうなんですか」

「ほっとした?」と部長は訊いた。

「ええ、まあ」

「君は明日付でリストラ推進課に配属になる」

「え? 私がですか?」

「ああ、俺が推薦したからね」

 と部長は笑った。

「滝下くんの悪行、俺知ってるから」

「悪行? ですか?」

 はぁぁぁぁぁぁぁ、と咲子はごろりと寝転んだ。なんで知っているんだ? 私の悪行を。

「君のその技術を会社は高く評価しているんだよ」と部長は割り箸を使ってハンバーグに釘を打つ真似をした。

「おっしゃっている意味がわかりません」

「その能力を会社のために有効利用してもらいたいんだ」

「能力って」と咲子は言った。「簿記二級がですか?」

「君は冗談は不得意だな」

 咲子は改めて能力と言われると照れるなと思った。しかしどこから漏れたんだろう? と思った咲子は部長に訊いた。

「部長、どこでそんな話をお聞きになられたんですか」

 部長はハンバーグの付け合せのスパゲティーを一息に吸い上げるとくっちゃくっちゃと食べた。

「会社の諜報部的な部署からだよ」

「諜報部的な部署?」

「もちろん具体的にどこの部なのかは言えない」と何度か頷いた。「そういうことだ」

「部長、私がリストラ推進部に配属されたら」

「うん嫌われる」

「そうじゃなくって」と友達に言うような口調になり、「すみません」と謝った。「私」

「いいか滝下くん、これだけ円高が進み、日本の経済も先行き不透明だ。今こそサイズダウンして長い氷河期に備えなくちゃいけない、と社長はお考えなんだ。誰かがそのために汚れ役をこなさなくちゃいけない簡単な話だ、そうだ」部長をハンバークとご飯と味噌汁を平らげ、水を飲み干した。

「部長、私」

「俺だって嫌だよ」

「そうじゃないんです」

「表向きはひどい仕事だが、将来は保証される。君が何歳まで会社にいるつもりかは知らないが、いたいだけいられる」と部長は腕時計を見た。「こんな時間か、こういう話は社外ですべきじゃなかったんだが、幸い周りには誰一人会社の者はいないし、まあ、明日君のところの課長から呼び出しがあるから明日は朝一番に誰かに仕事を押しつけるように」

 部長は咲子の伝票も持っていった。

「ごちそうさまです」と小声が咲子は言った。

 社内に“諜報部的な部署”があることなんて初めて聞いた。あの社長のことだ、やりかねんな、と咲子は思った。三代目のやり手社長だ。しかし二代目の社長は人に騙されて莫大な負債を背負って会社は倒産寸前になった。そのために三代目は人をまったく信じずに育ったとの噂だ。けれども対人の不信感が社内の性悪説を前提とした合理化に拍車をかけ、会社を成長させたのも事実なのだ。やり手として何度も経済誌に取り上げられ、一冊だけビジネス書を書いた。あまり売れなかったが、咲子はその本で会社を知り、転職を考えついた。

 咲子が入社して二年目に事件が起きた。忘年会でたまたま隣の席になった同僚からしつこく誘われ、咲子はかなり強く拒否した。それから手のひら返しが始まり、その同僚は咲子をストーキングするようになった。咲子は何度か警察に相談しようと考えた。一度だけ別の課の女性の先輩に相談した。会社ではたぶん自分たちで解決しろという立ち位置だよ、と言われた。咲子はまぁそのうち飽きるだろうと高をくくっていた。ところが無言電話にピザやそばうどんのデリバリーのいやがらせ、不幸の手紙が送られてきたりと咲子は限界に達した。咲子は警察には行かなかった。結局、事件にならないと取り扱ってはくれないよと友達の一人は言ったことも理由の一つにあった。けれど、もっと効果的で直截的な方法で始末しようと思いついた。

 それが部長の言った“能力”なのだが、咲子からすればそれはたった一回きりの偶然が作り上げた再現不可能な幻影だと思えた。

 それを会社が理由する? 馬鹿みたい。と咲子は思う。それじゃ最終的には自分がリストラされてしまうじゃないの、能力なんてないじゃねぇかって怒鳴られてクビになったらどうすんの! 私には責任はないよ、そんな能力があるなんて言いふらしたわけじやないし、誰にも買ってくれなんて言ってないし、“諜報部的な部署”が悪いわそれ。

 咲子は長い溜息をついて、冷めてしまった牛乳を飲む。台所に行って電子レンジで温めてラムを注いだ。

 三日でストーカー男は会社を辞め、音沙汰もなくなった。

「まあ当分はなんとかなるだろうけれど、どうなるのかね」咲子は笑った。「うちの会社と私は」

 咲子は隣室の男が未来だの蜂だのおそろしいだのと言っていたのを羨ましく感じた。私の人生には一時期だけどおそろしさはあった。今のところ蜂はいないし、未来はなさそうだ、と思った。


3 立野登志一


 アパートの外に黒いセダンが停まっていた。

 運転席に男がいた。立野登志一は後部座席に、谷蜂は助手席に座った。

 谷蜂は、

「運転手の石蜂です」と紹介した。

「全員“蜂”が苗字につくんですか」

「あ、本当だ、気づきませんでした今の今まで」

 運転手は黙ったまま頷いた。

「まさか!」と立野は後部座席にもたれて言った。「偽名でしょ?」

「そう思っていただいても支障はありません。さてまいりましょう、その前に」と谷蜂はアイマスクを取り出した。「面倒ですが、これをおかけください」

 立野はアイマスクを受け取る。

「研究所の場所は極秘なのです」

「わかりました」

 立野は素直に従った。自分はすでに死を覚悟してる人間だ、アイマスクをするくらいなんでもないし、どこかよくわからない場所でも怖くともなんともない。

「車には酔いやすい方ですか?」谷蜂は訊いた。

「いえ、大丈夫です」

 立野はアイマスクをした。リラックスする。眠れそうだった。

「立野さん」は谷蜂は言った。「いくつかお話しておかなければならないことがあります」

「なんでしょう」立野はぼんやりと谷蜂の声を聞いていた。アイマスクをつけると谷蜂の声の最後列に蜂の羽音が鎮座しているのがわかった。

「分析官はかなり長い期間を訓練にあてます。分析官は蜂を分析するためにだけ生きているようなものなんです。わかっていただけますか?」

「わかります」

「立野さんは一般人です。分析官からすれば一般人のあなたに、たとえどんな状況があったにせよ、あなたに分析の仕事を奪われたと感じるはずです」

「それも理解できます。私は何度も蜂を部屋から出そうとしたけれど、蜂は嫌がった。不可抗力です。結局、蜂は私の耳に飛び込んできた。理由はわかりませんが」

「そこなんです。蜂は誰の耳にも突っ込むというわけではありません。蜂にだって好き嫌いはありますし、耳の穴についての好みもあるようです。だから分析官はあなたに嫉妬するわけです。ただやはり分析の仕事は個人的な感傷などとは無関係です」

「世界の危機がかかっているから」

「そうです。表向き、担当分析官はあなたに協力します。これも仕事ですから。ただやはり心の奥の嫉妬の感情は消せません、なので」

「私はそういう圧力などに耐えなければならない、と?」

「ええ、そうです」

「面倒ですね」

「申し訳ありません」

 車は速度をほぼ一定に走行していた。カーヴを曲がるときにはまるでパンケーキのように優しかった。立野は体が揺れなかった。それが眠りを誘った。

「他に話しておくべきことはありますか?」と立野は訊いて、あくびをした。

「あります。分析の仕事は政治的にも国際的にも防衛的にも秘密裏で独立的で独裁的です。日本国国家が最大のスポンサーではありません。ある一企業が出資を行っています。いかなる人間のためのものでもなく、小指の先ほどの利益も追求しません、世界を救う以外のことには一切興味がありませんし、目的ではありません」

 立野はわかったようなわからないような気がした。眠気のせいでもあり、死を覚悟してしまった人間にはほとんど興味のないことだからかもしれない。立野は矛盾に思えた。自分は自らの死を待っている。けれどもその他大勢のほとんど見ず知らずの人のためにこれから働くわけだ。いや矛盾ではないな、と立野は思った。順序の問題だ。人々を救い、次に自分は死ぬ。それだけの話だ。

「あなた方の組織は国家に属してはいないんですか?」

「かつては属していました。戦時中の話です。大日本帝国陸軍の諜報部的な部隊の一部でした。戦後、日本軍は解体されました。その部隊はある企業の出資の元に再び組織化され現在に至ります」

 車は高速道路に入ったようだった。

「それで現在まで暗渠のように活動していた、と?」

「そういうことです。立野さんはなにか言っておくべきことはありませんか?」

「言っておくべきこと?」立野は首を傾げた。「私は死のうとしてました。今も死のうと考えています。もちろんあなたたちに協力するまでは生きているつもりです」

「我々と同じですな。我々も常に死を意識しています。もちろんあなたの死とはまた別だと思いますが」

「谷蜂さん? 少し眠ってもいいですか?」

「もう一つ」と谷蜂は言った。「あなたが死を望んでいることに関しては干渉しません。人それぞれにさまざまな事情がありますし、それを十分理解できるはずと思うほど傲慢ではありません。我々がこの仕事に従事しているのは仕事だからです。たまたまこの仕事だったからです」

 車はスピードを上げる。立野は背もたれに押しつけられる感じがした。

「あなたは分析の仕事を終えると自由の身です」谷蜂の声がくぐもった。「おやすみなさい」

 立野は全身に真綿でできた蜂に包まれているような感じながら眠りに落ちていった。死もこんな感じだったら素敵だろうな、と思った。

 

 立野は肩を叩かれた。目覚めてアイマスクにぎょっとしたが、すぐに思い出した。車は停車しているようだった。冷たい空気が立野に吹いていた。立野はアイマスクを取った。女がドアから上半身を車内に入れて立野を見ていた。立野は肩に置かれたままの手から伸びる女の顔を見た。まるで万引き犯を捕まえたような顔をしていた。立野は後部座席に座ったまま会釈した。女は肩をぎゅっと掴んだ。痛くはなかった。女が担当分析官だとわかった。自分は歓迎されていないのだな、と立野は思った。俺のせいじゃない、俺は窓を開けて蜂を追い払おうとした。と言いかけた。

「はじめまして」と女は言った。「蜂堂シズカです」

 また“蜂”だと立野は思ったが口にはしなかった。

「立野登志一です、はじめまして」

「さあ、降りて、ついてきてください」

 蜂堂シズカは車から体を抜くと車から離れた。立野の乗った車は地下駐車場に停められていた。ドアから外を見るとガラス張りの入り口があった。その奥は長い廊下だった。蜂堂シズカは入り口に立ち止まり、手で早く来いと命令した。立野は車から降りた。頭の中が痛んだ。蜂のせいだろうか?

「急いで急いで!」と蜂堂シズカは手を叩いた。地下に響き渡った。立野は小走りで女を追いかける。ガラスのドアが開き、蜂堂シズカは振り返り、カードを電子錠の端末のスリットに通し、

「ようこそ、六一一部隊へ」と笑みを浮かべた。


 入り口を入ると蜂蜜の微香がした。真っ直ぐな廊下を蜂堂シズカは進み、立野はついていく。いくつものドアがあり、時々蜂の羽音が聞こえた。ドアにはなにも書かれていなかった。すべてが同じ金属製のドアだった。ここで迷子になったら餓死するな、と立野は思った。この施設でならいくらでも死ねそうだ。

 蜂堂シズカが立ち止まるまで誰ともすれ違わなかった。ピッと音がしてドアは解錠された。

「入るのよ」と威圧するように言った。

「君が怒る理由は知らないけど、俺に当たるのはやめてくれないだろうか」

 蜂堂は黙って立野を睨みつけ、部屋に入り、奥のデスクに尻を軽く乗せるように座って腕を組んで立野を見た。デスクには金色の蜂の置物があった。

「私がどれだけ長い時間をかけて訓練してきたかあなたに理解してもらおうとは思わない」

 立野はなにも言われなかったがソファに腰掛けた。壁には蜂の写真や絵が飾ってあった。

「むろんこれは私たちのミスだからあなたには責任はない」

「そうだよ、蜂は俺が招待したわけでもないし、勝手に俺の耳に突っ込んできた。そんな態度を取られるのは不愉快だ。俺は君たちに協力するために来た。帰ってもいい。やらなくちゃいけないことがあるからね」

 立野は立ち上がった。小さな怒りが成長し、立野の体を震わせた。 

「悪いが帰らせてもらいたい」 

  蜂堂はにやりと笑って立野を足の先から頭まで見た。

「蜂を分析するよりもやらなくちゃいけないことがある」

「ああ」

「残念だけれど今はまだ帰れない。あなたは私たちの監視下にいる。帰れない」

「帰る」と立野はドアに向った。ドアノブはなかった。

「開けてくれないか」

 蜂堂は黙ったまま立野を睨んだ。立野はドアを殴りつけた。後悔した。金属の塊のようなドアだった。痛みで顔が歪んだ。その顔を失礼な女に見せたくはなかった。

「あなたがレーザーでも持っていなければ開けることはできないわ。拳を痛める前に言うべきだったわね」

「開けてくれないかな」

「今度は体当たりしてみる?」と蜂堂は笑った。

 立野は振り返って蜂堂に走りより、殴りかかった。蜂堂は立野の拳を髪をかきあげるような仕草ではたき、足を蹴って立野を床に叩きつけた。

「たぶん」と蜂堂は言った。「あなたの何百倍もトレーニングしているの。あなたがこの部屋で私を殴ることは不可能よ。これは脅しじゃなくって警告」

 立野は床から顔を上げた。悔しさと恥ずかしさで泣きそうになった。蜂が耳に入ったまま死ねばよかった。なんの不都合もなかったはずだ。

「あなたは協力しなければならない」

「そのつもりだよ、そのつもりでここまで来たんじゃないか。だから俺に突っかかるような態度はやめてくれないか」

 蜂堂は手を差し出し、

「さあ立って」と言った。

 立野は手を借りずに立ち上がった。

「ケガはない?」

「心配はいらない、今までに一度も骨折したことはないくらい骨は強い方だから」

「それはよかった」

「さて、ドアを開けてくれないかな」

 蜂堂は主張するように溜息をつくと、デスクの上のマイクに向かって、

「コーヒーを二つ、持ってきて」と言った。

 立野も蜂堂も黙った。しばらくして蜂堂は口を開けた。

「さっきあなたに理解してもらうとは思わないと言ったのは嘘よ、ええ嘘」と頭を振った。「反対よ、あなたに十分理解してもらいたいの、ここは素直になっておくわ、これは私たちを含む問題だけれども他の多くの人々の人生のかかった問題だから。座ってください、立野さん」

 立野はソファに怒りをこめながら座った。主導権を取りたかったが、鉄のドアと簡単に倒されてしまう女を見るとそれは容易ではないと思った。鍛えておけばよかった、そうしていたら俺の人生も今とは違ったものになっていただろうか。少なくともこの女と対等に戦えたかもしれないなどと馬鹿なことは考えなかったはずだ。

 ドアが開き、若い男がコーヒーを二つ運んできて、立野の前に音をさせずに置いた。ドアは開いたままだったが立野は逃げる気にはなれなかった。廊下に出たところで取り押さえられてしまうだろう、この女の仲間たちに。

 若い男は部屋を出て行った。 

「飲んで落ちつきましょう」と蜂堂は言った。

 これはいい香りだな、と立野は思った。コーヒーはあまり飲まないが会社や二百円程度で飲める種類のコーヒーとは違ったコーヒーなのだとわかった。しかし立野は待ての状態のまま動かなかった。

「さあ立野さん、飲んでください」

 立野はコーヒーカップを取り、鼻で香りを吸った。

「ここまでの無礼をお許しください。言い訳に聞こえると思うけど、蜂が一般人のあなたの耳に入ってしまったと聞いたのはついさっきだったの。一時間あれば心の整理ができたんだろうけど」

「ごく普通の態度で接してくれたら文句はありません」立野はコーヒーをすすった。「うまい」

「そうでしょう、どこにも流通していない希少なコーヒー豆なの。気に入ってくれたらとてもうれしいわ」

「ほのかに蜂蜜の香りがしますね」

「あなたがこんなことに巻き込まれてしまって私たちも動揺しているの。こんなことは初めてだし、あってはならないことだから。でも谷蜂の報告だとあなたは協力的だから問題はないと」

「協力します。私はこの世界は好きじゃないかもしれないけれど、憎んではいませんし、もっと生きたいと願う人達の意思を尊重します。私の人生と一度も交差したことのない大勢の人のためにできることがあるのなら協力は惜しまないつもりです」

 蜂堂は淡々と話す立野を眺めていた。

「谷蜂は報酬についてあなたに説明したかしら?」

「たぶん聞いていません」

「ことは重大ですし、あなたはやったこともない分析をするわけですから、それ相当の報酬を支払うつもりです」

「報酬ですか」

「ええ」

 蜂堂シズカはデスクの上から一枚の紙を取ると立野に渡した。

「一番下に金額が書いてあるでしょ。それがあなたの報酬です」

 立野はゼロを数え、頭の中で計算した。借金を全額返せる、と思ったが返すつもりはとうの昔に消えてしまっていた。自分の死後に使われるには十分すぎる金額だった。

「あら」と蜂堂は言った。「少なすぎるかしら」

 立野は頭を振り、その紙をテーブルに置いた。

「十分すぎます。お願いがひとつあります。聞いていただけますか」

「なにかしら」

「誰でもかまわないのですが、私の代理人を雇いたいんです。紹介していただきたいのです。この報酬の中から代理人の報酬を支払います」

「弁護士でいいのなら、いくらでもいるけど」

「理由は訊かずにいてください。蜂の分析とは関係ないことですから」 

 立野はコーヒーを飲んだ。

「わかったわ、すぐに手配しておきます」

「よろしくお願いします。それで耳に入った蜂を分析するっていうのはどうするんですか?」

「フローティングディスプレイは現れた?」

「目の前の映像ですか、現れました」

「それは蜂からのトレーラーなのよ、予告編」

「取り急ぎ失礼します、ですか」

「まあそうね」蜂堂はコーヒーをデスクに置いた。「あなたにはこの施設で本編をじっくりと閲覧してもらいます。それを報告してもらう、ということです」

 立野は難しいことではないなと安堵した。映画を観てレビューを書く。それと同じようなものか、と考えた。

「あなたに」と蜂堂は溜息をついた。「最後まで耐えられるかどうかが問題なのよ」

「耐えられる?」映像を観てレビューを書くだけなのに?「もしかして休憩抜きってわけじゃないですよね」立野は訊いた。

「休憩? 立野さん、あなたはまだ詳しく聞いていないのね、ほとんど聞いていない?」

「なにをですか?」

「まさか、ただ映像を観て感想を書いたりするだけで簡単じゃないかって考えてませんか?」

「まあ近いところです」

「私たち分析官は」蜂堂は自分で説明するのに呆れているように頭を振った。「十年はこの分析のためにトレーニングを積んでいるんです。どれだけ大変なのかあなたはまるでわかっていない」

「そりゃそうですよ、さっき聞いたばかりですよ」

「ごめんなさい、混乱してて。立野さん、あなたに示した報酬はある意味で、命の値段なんです。蜂を分析することはあなたが考えている以上に危険なんです。私たちは常に死を覚悟しています。突然、あなたにそんなことを押しつけても腑に落ちないでしょうけれど」

 蜂堂は混乱を元通りにするかのように拳で額を軽く叩いた。

「とにかく」蜂堂は両掌を立野の動きを止めてしまうように向けた。「立野さんは私に従ってください」

「もちろんです。仲良くやっていけるかどうかは別にして、あなたに従いますよ。蜂が入りこんでしまった原因の数パーセントは私にあるかもしれないですし」

「数パーセントの原因を償うにはこの仕事は危険すぎるけれど。その覚悟があるだけよかった」

 と言うと蜂堂はコーヒーを飲んだ。

「それで私はどうすればいいんですか?」立野は訊いた。

「私たちと同じトレーニングをする時間はありません。だから大急ぎで作成した特別プログラムを行ってもらいます」

「たとえばどんなことをするんですか?」

「あなたが今までにやったことのないことばかりよ」


3 滝下咲子


 翌日、咲子は仙田課長に呼ばれた。やりかけの仕事は課長に任せて、会議室に向った。

ドアをノックしようとしたときに室内から笑い声が聞こえた。ノックをして中に入ると部長と三人の男性社員がいて、笑顔で咲子を迎えた。

「我がリストラ推進部の中心的人物の滝下咲子くんだ」と部長は言った。

「はじめまして滝下咲子です」

「さあさあ座って座って」と言うとインターフォンを取り、「全員揃いました」と言った。

 咲子は椅子に座った。男性社員と軽く会釈を交わした。

 社長が会議室にやってきた。

「やあやあお待たせお待たせ」と社長は笑顔を作ろうとしてたが、目は一ミリも笑ってはいなかった。「さて早速だが、君たちは新設したリストラ推進部、表向きは健康推進部なんだが、今日から配属された。辞令は今日出るんだよね」と部長に訊いた。

「さようで」と部長は奥歯まで見えるような笑顔で頷いた。

「簡単に言えば君たちは我社を救う天使軍団だ」と社長は言った。

 咲子は首をひねりかけたが首の筋肉を硬くして阻止した。

「この現在の暗黒経済状況から日本が抜け出すにはあと何十年もかかる。冬眠状態だよ。会社も体力は限られている。熊も冬眠前にはばっかばっか食って脂肪を蓄えるが、何十年分も蓄えるわけじゃない。会社だってそうだ、我社は業績はいい、勢いもある、だが景気は悪い、厳冬だ。いつ脂肪が切れるかわからない。いつ冬が終わるかもわからない。そこでサイズダウンだ。わかるだろう?」

 全員が頷いた。 

「商品を作り、売る社員も重要だが、君たちの仕事も重要なんだ。辛いこともあるかもしれないが、第一線のセールスパーソン軍団たちも辛いんだ。全員、辛い。みんな頑張ってくれ!」

 全員が「はい」と返事した。

「それじゃ部長、あとはよろしく!」

 社長は走って会議室を出て行った。ドアがゆっくりと閉まり、カチリと音がし、会議室は静かになった。

「よし、自己紹介をしていこう、木田から、右回りに」

「はい。木田康秀です。商品管理課から移動してきました、年は二十八、趣味は」

「名前だけでいいよ」と部長が遮る。「次!」

「小林幹二です」

「吉又公平です」

「滝下咲子です」

「俺たちは必殺首切り人だ」と部長は言った。咲子の胸に重いナタが振り下ろされたような感じがした。

「仕事の手順はシンプルだ。各部署から集められたリストからリストラ候補者を選出し、面談する。これは俺と木田の担当だ。リストラ対象者を決定して社長に報告をすませて、対象者の行動を確認する」

 行動を確認する? と咲子は思った。

「これは小林と吉又が担当する。まあ基本的に少数先鋭だから手が空いた者は手伝ってくれ。さて最後の仕上げは滝下くんの役目だ」

「なにをすれば?」

 部長は口の前に人差し指を立てて「しっ」と言うと、ドアを開けて廊下に人がいないかを確認してドアを閉じて、鍵をかけて、にっと笑った。

「君が対象者に呪いをかける」

「呪い?」と部長を除いた四人が言った。

「呪いですか?」と木田が訊いた。

「ああ」と部長はホワイトボードに“呪い”と書いた。「呪いだよ呪い」そして消した。

 咲子を除いた四人が咲子を見た。

「私、呪いなんて、かけられませんよ。え? もしかして?」

「そうだよ、佐々木くんだよ」と部長は言った。

 咲子と部長を除いた三人が口々に「あああ」とか「あいつのことか」とか「なるほど」などと口にして納得した。

「私、呪いなんて」

「佐々木くんの時のようにやればいいんだよ滝下くん」

「えええ、そんなぁ」

「いいかね、首切りは効率よく訴訟沙汰にならずに、しかも低コストで遂行する必要がある。他社では違法ぎりぎりのブラックなやり方でリストラを進めているが、これにはデメリットがある。しかも潜在的に。会社そのものを緩慢な自殺というものに移行させてしまうわけだ。と社長はお考えになられていた。たまたま“諜報部的な部署”から面白い報告を受けた。呪いの類で一人の社員が会社を辞めた、と」

 咲子を全員が見た。

「私、そんな怖いことしてませんよ」

「いや、社長の“諜報部的な部署”は優秀らしいからね。きちんと調査したんだ」

「でも偶然かもしれないじゃないですか、たまたま私が」

「今さら」と部長は言った。「たまたまの産物だったじゃすまされない」

「単に君にストーカー行為をしていた社員がある日会社を辞めたのならば偶然かもしれない。ところが違うよね滝下くん?」

 四人が咲子を責めるように凝視した。

「はい」咲子は認めた。

「君は佐々木くんに呪いをかけた。間違ってないよね?」と部長が詰め寄った。

「はい。呪いという言い方は違うんですが」

「まあ呼び方はいろいろでいいじゃないか。君はなんと呼んでいるんだ?」

 咲子は溜息をついた。自分が知らない間にことが大きくなっていた。小鳥が旅客機を墜落させてしまうように。

「ドッペルゲンガーテクニックです」

 咲子を除く四人が深く息を吐きながら感心していた。自然と拍手が沸き起こった。咲子は拍手される覚えもないし、拍手する理由もわからなかった。

「なんといいいますか」と小林が言った。「恐ろしくも興味深いネーミングですね。滝下さんどのように行うんですか?」

「それはどこで身につけられたんですか?」と木田が訊いた。

「修行した? それとも」と吉又が訊いた。

「まあまあ」と部長。「質問コーナーは休憩時間か飲み会の時でいいじゃないか。話を戻すよ、滝下くんがリストラ対象者の首を切って切って切りまくる。切られたダメ社員たちは会社の仕業だと気づかない。気づいたとしても証拠がない。直接、手を下したわけじゃない。いやがらせや脅しを行ったわけじゃない。訴えても負けてしまう。そして会社は冬を乗り切るわけだ。バンザイだ」

「そんなに上手くいくんでしょうか?」咲子は訊いた。

「もしも上手く進まなかったら」部長は笑った。「俺たちがリストラされる」

 部長と咲子を除く三人が会議室の空気をすべて吸ったんじゃないかとうくらいに深く息を吸って、顔面を蒼白にした。

「そ」と木田は静かに息を吐きながら、「れは困りますね結婚したばかりですから、ははは」と顔は笑っていない。

 あとの二人はマネキン人形のように動かなくなった。

「おい君たち」と部長は笑う。「大丈夫だ、滝下くんの特殊能力は本物だから心配するんじゃない。そうだろ滝下くん、みんなを安心させてやってくれ」

 咲子はうつむいた。

「さあさあ」と部長。

「ドッペルゲンガーテクニックは本物で、私が佐々木さんをクビにしました、もちろん遠まわしに」咲子は告白した。

 全員が拍手した。自分のクビが繋がったことと、咲子の告白に対して惜しみない拍手を送った。

 部長の携帯電話が鳴り、拍手は止んだ。

「オーケー」と部長は携帯電話を閉じた。「我々のアジトの用意ができたようだ。行こう」


 咲子は黙って後ろをついていった。ついていきながら、犯罪の片棒を担ぐような気分がした。いや、片棒じゃない、実行犯だ。と思うと、陰鬱な気分がした。それにしても、と咲子は考える、どこからこの話が漏れたのだろう? これはいくら考えてもわからなかった。ストーカー男の佐々木はなにも知らないし、誰にも話していない。そもそもこんな話を誰に聞いてもらうというのだ。信じてもくれないだろうし、気味悪がられて、距離を置かれてしまうだろう。それとも教祖に祀り上げられる? どれもこれも嫌だ。

「どうかしました?」と小林が訊いた。

「いえなんでも」と曖昧に返事する。

「滝下さんはいいことをしたんだよ。佐々木は君以外の女子社員にもストーキングしていたし」

「そうそうかなりヤバいヤツだったから」と木田は言った。

 咲子は佐々木についてはちっとも悪いとは思っていなかった。しかしこれからリストラする社員は咲子にストーキングしたわけでもなく、咲子も知らない社員が大半なのだ。それを考えると咲子は気が重くなった。会社を救うという大義名分があったとしても、一人の人間として他人の人生を狂わせるかもしれないことに手を貸すのは釈然としなかった。商品を配達するのとはわけが違う。

 咲子は立ち止まった。

「おいどうした」部長が言った。

「私、やっぱりできません」

「できないってなにを?」

「リストラです」

「声大きいよ。滝下くん遅いよ。君には正式に辞令が下る。社長の直名だ。これを断るということは推進部の計画は白紙になるということだ。それは結局、君は会社にいられないということだよ。この不景気な世の中で再就職は難しいよ滝下くん。ここは我慢してくれないか?」

「でも」のつづきが出てこない。四人が咲子を見つめた。

「僕らも」と木田は言った。「君ほどじゃないかもしれないけど、辛いと感じてる。拒否できる立場にはないんだよ、僕たちは」

「滝下さん一人の問題じゃなくなっています」と小林は言った。

 咲子は一人ひとりの顔を見た。自分自身の中でどう処理するかなのだ、と咲子は思った。佐々木だってストーカーの顔を知らない人からすれば私はひどいことをしたと見えてしまう。もう遅いのか。社会人になって何年経つというのだ。部長のいい方は脅しと受け取れるけれども、現実を見渡せばそのとおりだ。リストラの対象者のいるあちら側でなく、リストラ推進部のこちら側にいるだけでも幸福だと考えるべきなのだろう。それに、と咲子は思う、私がここで逃亡でもすれば部長とこの三人は仕事を失うかもしれない。責めるべきはあの社長なのかもしれないけれど、私は微力すぎる。社長をクビにできるほどの力はないだろう。ここは前に進むしかない。咲子は自分にそう言い聞かせた。いつもは聞き分けがないけれど、今回ばかりは仕方ない。それに、ドッペルゲンガーテクニックで佐々木を辞めさせた事実が漏れてしまったのは、いくらかは自分のせいだと思った。尻拭いは自分でしなくてはいけない。

 四人は不安そうに立ち止まったまま咲子を待っていた。

 咲子は一歩前に進み出た。

「子供みたいなこと言ってすみませんでした」咲子は頭を下げた。

 四人は驚いた顔をしていた。

「わかりました。私」咲子は言った。「悪魔になります」

 数秒間、静かになった。

「そこまで恐ろしくならなくても」と木田は言うと、みんなは笑った。


 リストラ推進部の部屋は“健康推進部”とドアに書かれていた。

「いずれ近いうちにバレてしまうだろうがな」と部長は鼻で笑った。

 部屋はこざっぱりしていて、書類棚には社員千百数名の名簿が用意されていた。

「あー滝下くん、そのなんとかテクニックで必要なものはあるか?」部長は自分のデスクに鞄を置いた。「社長直属の部署だから無理は通せる。遠慮なく言ってくれ」

「特にありません」

 

 ドッペルゲンガーテクニックは元々は陰陽師の流れを汲んだ呪術師が行っていた心の病を治療する方法で、紙や木片や泥で作ったヒトガタに心の病を写しとって燃したり河川に流したりしていたんだそうです。

江戸時代が終わって明治になり、西洋医術が広まってからはほぼ消滅しました。

私の祖父が戦時中、陸軍で軍医の一人に教わりまして、戦後になって数年間は呪術師のようなことをして生計を立てていたそうですが、祖母と二人でハンマー工場を初めてからはやめていたそうです。そして私が子供の頃に祖父の家で江戸時代の草双紙を発見して、遊び半分でいろいろと術を試したりしていました。高校生の頃にヒトガタの術を基礎にしてドッペルゲンガーテクニックを開発して、今に至るというわけです。


「えええ! 君が開発した?」

「呪いじゃん」と吉又が吐き捨てるように言った。

「呪いじゃないんです」と咲子は反論する。「呪いって字が入っていますが正確には違うんです」

「呪いって字が入ってたら呪いの一種だよ」

「吉又くん、滝下くんを敵にまわすのはよした方がいいよ」と部長。

「私、乱用はしませんから、ご心配なく」

「でもなんか信じられないな、陰陽師だとかって占いと同じようなもんでしょ? 本当にリストラできるんですかね」吉又はくすくすと笑った。

「それは現在の僕たちの存在理由にかかわることです。前提を崩すわけにはいきません。まずは信じることです」と木田は言った。

「結果が出ないとここにいる全員のクビの方を心配するはめになるんだ、信じれば救われるなんてことが信じられない。滝下さんなにか見せてよ、全員をアッと言わせたら僕は犬になりますよ」

「もういいだろう吉又くん」と部長が言う。「あまり滝下くんを困らせないでくれ」

「部長も見たくありませんか? デモンストレーションですよ」

 咲子は立ち上がった。

「滝下くん、待ってくれ、帰るとか言わないでくれよ」と部長は言った。

 咲子はデスクのポスト・イットを一枚剥がして、人の形にちぎった。それをデスクに置いた。四人ともがポスト・イットで作ったヒトガタに注目した。全員、瞬きをしなかった。動きはなかった。

「なんだよ、なんにも起こらないじゃないか」と吉又は言った。

「歩いたり、しゃべったりするのかと思ったけど」と木田は言った。

「大丈夫ですかね、我々は」と小林は言った。

「滝下くん、ちょっとくらいなにかあってもいいと思うんだが」と部長は言った。

 四人はデスクの上で車座になっていた。中央には自分たちと同じ大きさのポスト・イットで作られたヒトガタがいた。四人はまったく動かないヒトガタを見ながらぶつぶつと文句を言い始めた。咲子は四人の頭上から一部始終を見下ろしていた。やがて四人はほぼ同時にヒトガタの大きさに気づいた。

「あれこんなに大きいでしたっけ」と木田が言った。

 そして四人ともデスクの上にあぐらをかいていることに気づき、巨大な咲子が笑顔で見下ろしているのに気づき、自分たちがポスト・イットのサイズになっていることを知り、一斉に叫んだ。

 四人が叫ぶと、はっと我に返った。いつもの大きさに戻り、同じ椅子に座っていた。

「みなさん、いかがでしたか?」

 四人はゆっくりと頷いた。

 

4 立野登志一


 立野は蜂堂シズカについて部屋を出ようとしたとき、廊下で爆発音がし、立野は後ろに飛ばされた。立野にコンクリートの粉塵と煙と熱風が吹きつけた。立野はまったく状況がわからないまま、這ってソファの影に隠れた。咳き込みながら、煙を手で払い、ドアを見ると蜂堂は倒れていた。立野は立とうとした。頭に温かい水が伝い、床に落ちたのを見た。血だった。立野は頭を触った。痛みはなかった。ただ熱く感じた。飛んできたコンクリートの破片でも当たったのだろう。立野は蜂堂に這って近づいた。微かに息をしている。動かさないほうがいい、立野は蜂堂に呼びかけた。廊下の向こうに火がちらちらと見えた。蜂堂は瞼を細く開けて立野を見た。

「今、誰かを呼んできます、眠らないで、目を開けていてください」と立野が言うと蜂堂は口を動かした。声は出なかった。

「しゃべらないで」立野は言う。蜂堂は腕を弱々しく動かして立野の体を探す。立野は手を握った。

「すぐに誰かが来ます」

 蜂堂は唇を震わせ、なにかをつぶやいている。立野は耳を近づけた。

「逃げるのよ」

「逃げる? ここからですか?」

 蜂堂は立野を押した。ほとんど力が入っていなかった。なにかを言っているが、なにも聞こえなかった。逃げるのよ。逃げるのよ。逃げる? なにが起きたんだ? 立野は蜂堂の手をまた握った。

「誰か! 誰か来て下さい!」と立野は叫んだ。廊下の煙は天井の換気口に吸い込まれていく。この施設の人々が走り去るが誰も立野の声に耳を貸さない。警報機が鳴り出した。立野の手から蜂堂の手がするりと抜け落ちた。蜂堂は死んでいた。細く開けた目から涙が一粒すっと流れた。

 逃げる? と立野は頭の中で繰り返す。

 廊下の奥から数人の足音が聞こえた。救助の人間か? と思ったが、

「どこだ! 捜せ捜せ!」と罵声に近い声がし、立野は違うと直感する。

「向こうを捜せ! 刃向かう者は撃て! 口をつぐむ者も撃て!」

 逃げる? と立野は思う。

 まさか、俺を捜している?

 タタタ、と銃声が聞こえた。立野は身をかがめる。俺の中の蜂を捜しているのだろう、立野は思う。自分自身には価値はない。ドアになにも書かれていないのはこういうことがあるからなのか。立野は蜂堂の襟をつかんで部屋に引きずり入れ、ドアを閉じた。鍵がかかる。しばらくここにいればいいだろう。立野は部屋を見渡す。ドアを吹き飛ばされてしまえばそれはそれでいい。少なくともさらによくわからない連中に捕まりたくはなかった。立野はドアを眺めていた。また遠くで爆発音がし、建物が響いた。いったいなにが起きているのだろう。これはある程度予測されていたことなのだとすれば? 立野は立ち上がり、部屋を調べ始めた。緊急用の脱出口があるのかもしれない。

 蜂堂のデスクとソファとローテーブル、書類棚や床を注意深く調べる。指で触れ、目を近づける。押してみたり、引いてみたりするがなにもなかった。

 また爆発音がした。近づいてくる。一部屋一部屋、ドアを爆破しているのかもしれない。手間はかかるがいずれ獲物を発見できる。立野はドアのそばに横たわる蜂堂を見た。死を覚悟している自分よりも先に死ぬなんて。立野は蜂堂が使っていたカードキーを思い出す。直感が働いた。立野は蜂堂がもう死んでいるのに体に触れるのは気が引けた。指を使ってカードキーを探した。胸ポケットにあった。手の甲が蜂堂の胸に触れた。彼女には恋人はいたのだろうか? とふと思った。こんな仕事をしていたらそれどころじゃないかもしれない。それとも既婚なのかもしれない。

「カードキー借ります」

 立野はカードキーをいろいろなところにかざした。また爆発音がし、悲鳴と銃声がした。立野は集中した。恐怖心はあったが、死に近づいていることに少なからず興奮を覚えた。ここにおとなしくしていればいずれドアは吹き飛ばされ、命を奪われるかもしれない。そうすれば死ねる。けれども心の奥で逃げなければいけない、と声がしていた。声ではないな、立野は精査する。蜂かもしれない。俺の中に飛び込んだ蜂からの囁きかもしれない。わかったよ、蜂堂さん、俺は逃げますよ。

 書類棚、壁、床にカードキーをかざす。ソファをずらし、手で触れ、カードキーをかざす。もしかして的はずれなことをしているのかもしれないな。けれども立野はつづけた。銃声が聞こえ、怒声が聞こえた。戦争でも始まったみたいだな。それなのに俺はまるで床に落ちてしまったコンタクトレンズでも捜しているみたいに床を這っている。

 パチ、と音がした。ローテーブルのあったところだった。もう一度カードキーをかざす。パチ、とまた音がした。しかし動きはない。気のせいだろうか? 後ろで、カチリ、と音がした。振り返ると書類棚の横の壁に部屋に残っていた煙が吸い込まれていた。這って入れるくらいの大きさに壁が浮いているように見えた。

 部屋のドアが叩かれた。なにかを怒鳴っている。開けろ、と言っているのだろう。

 立野はカードキーを口に咥え、隠しドアを引いた。ドアが跳ね上がった。中は真っ暗だった。立野は潜り込み、隠しドアを引っ張り、ピタリと閉じる寸前に爆発が起こった。部屋のドアが爆破されたのだ。隠しドアが閉じると静寂が訪れた。立野は壁に手を触れながら這って進んだ。自分と同じようにこの秘密通路を通って逃げている者がいると思ったが、誰もいなかった。

 真っ直ぐに進むと、突き当たった。正面の壁を触って調べるとドアになっていた。立野はカードキーをかざした。パチ、と音がして、ドアは開いた。隙間から光が射した。立野はドアを押した。排気ガスとカビと下水の臭いがした。立野は這い出ると体を伸ばした。関節と筋が軋んだ。ドアを戻した。路面も壁も天井もコンクリートだった。路面には消えかかった白線が引いてあった。左右はゆるやかにカーヴし、どちらも傾斜していなかった。どうやら地上と駐車場を結ぶ道らしい。立野は見覚えはなかった。車の中で眠っていたからだ。人けはなかった。隠れるところもなかった。自動車のエンジン音も走行音も聞こえなかった。銃声も聞こえない。壁には表示はなかった。果たしてどちらに行けばいいのか。その時、左から銃声が響いた。立野はとっさに右に向った。カーヴしながら地上に向かっていた。立野は安堵し、慎重に足音を立てずに歩いた。しかし隠れる場所はまったくなかったから、立野は不安だった。追手の車が来れば見つかってしまう。地上に出るまで安心はできなかった。神に祈ってみるか? 立野は笑った。自分はまた余裕がある。螺旋状の通路の突き当たりは自動車が通れるくらいの大きさの鉄扉だった。警備員はいなかった。端にカードキーをかざす端末があった。立野は蜂堂のカードをかざした。ゴン、と一度大きな音を立て、鉄扉はゆっくりと、慌てることなく開いた。立野は苛々しながら、自分が通れる幅に開くのを待った。逃げるのはいいけれど、アパートに帰ってもいいのだろうか? 俺の身元が知られていたら戻っても仕方ない。どうすればいいだろう。

 鉄扉の隙間にが通れる幅に開いたとき、背後から車が走ってくるのがわかった。しかも猛スピードで。立野は端末の「閉じる」ボタンを押して急いで通り抜けた。車のヘッドライトが鉄扉の隙間から見えた。急ブレーキをかけて車は停車し、銃声が響いた。

「ばかやろう! 撃つな! 早く開けるんだ!」

 と罵声が聞こえ、鉄扉はピタリと閉じた。

 鉄扉の外は坂になっていた。立野は足の感覚がなくなると思うくらいに走った。坂を上るとやっと地上だった。鉄扉が開き、車のエンジン音が聞こえ、立野は周囲を見た。建築廃材のパイプが十本ほど箱に入れられていた。立野は車がやってくると箱を坂から蹴った。パイプが大きな音を立ててばらばらに転がった。壁に当たり、路面で跳ね返り、車はパイプを避けようとして壁に衝突し、フロントガラスにパイプが二本刺さった。助手席から男が出てきて銃を向けた。立野は男の顔を見た。目が合った。男は躊躇した。立野の後ろには人が大勢歩いていたからだ。立野は踵を返して、走った。人の間を縫ってとにかく走った。赤信号にぶつかれば道を曲がった。止まれば捕まる、と思った。俺はまだ生きていたいのだろうか? と疑問に感じる。違う。蜂堂シズカの死に顔を思い出した。俺は死を留保しなくてはならないのだ。自分のためではない。しなくてはならないことができてしまったからだ。もしかすると報酬はもらえないかもしれない。かまわない。元々そんなものが欲しくて蜂を耳の中に入れたわけではないのだ。

 立野は走りながら何度か振り返った。追ってくる者はいないようだった。五反田の駅前が見えた。立野は一方通行の路地に入り、小さなビルの前で上着を脱いで座り込んだ。息を整える間も追手が来ているかを確かめた。あきらめてアパートに先回りして待ち伏せているのかもしれない。財布には五千円しかなかった。アパートには帰れない。頼るあてもない。

「俺には蜂がいる」とつぶやいた。

「ああ、そうだよ、君には俺がいる」と頭の中で蜂の羽音混じりの声が響いた気がして、突然に鋭敏で絶対的な眠気が襲ってきた。こんなところで寝てはダメだ。立野は立ち上がろうとした。全身に力が入らない。捕まってしまうぞ、見つかってしまうぞ、どこかに連れて行かれてしまうぞ。頭を振る。瞼が重い。

 気分でも悪いのですか?

 と声が聞こえた。蜂の羽音混じりではなかった。立野は閉じようとしている瞼を開けた。目の前に人が立っていた。逃げなければ、と立野は恐怖にかられる。だが体が動かない。

「大丈夫ですか?」

 女性の声だった。立野は手を前にふわりと上げた。自分でもどういうかはわからなかった。意識が朦朧としてきた。逃げなければ。しっかりしろよ。

 蜂が耳に突っ込みやがったんです。

 蜂は未来で映像を撮ってきたんです。

 俺はそいつを分析しなくちゃいけない。

 でもどうすればいいのやら、わからない。

 おやすみ。

 立野の意識は断片的になった。自分を見下ろす男が二人見え、次に車の後部座席に寝かされ、助手席から自分を見る女の顔を見た。立野は走る車の中で眠りに落ちながら、幸福しかなかった子供の頃を思い出した。

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