始まりの前日
破綻しない程度に
閑静な住宅街の路地裏に、カツカツと渇いた靴音が響く。
靴音は電柱に響き、アパートに響き、民家の窓に響いているが、音の主は全く気にかけない。
いや、気にかける余裕がない、というのが正確なところだろう。
その黒く硬い革靴を履いた男は、冷や汗を垂らしながら引き笑いを顔に貼り付け、虚ろな目で歩いていた。
彼の心情としては、その場から一刻でも早く走り去りたかった。
しかし身体の震えは彼の意思に反して収まる気配を見せず、結果的には歩いてしまっているのだ。
彼は誰にともなく、自らを慰めるかのように、息混じりのか細い声でポツリと呟いた。
「………なんで、俺が」
都市伝説、などという曖昧模糊とした噂の拡がりはそれなりの範囲に及ぶ。
時にそれらが日本中に流行るのには、そこに何らかの面白味や教訓じみた真意が秘められているからだろう。
夕日が儚く照らす歩道を一瞥もせず、そんな考えを頭の中で飴玉のように転がしながらスマートフォンから電子掲示板を覗く。
自分は有象無象の都市伝説にすら劣る影響力しか持ち合わせていないのか。
自信喪失に陥ってしまうが、大多数の人間が同じなのだ、と自らを慰める。
『神無月 勇真』と名付けられてもう十五年。
名前負けしているなぁ、と自分でも思う。
ただでさえ気の弱い性格が、この名前のおかげで一際目についてしまうのだ。
「………どうしたもんかね――っ!!?」
唐突に、脳天を通じて痛みと衝撃が身体全体に走った。
電子掲示板をスマートフォンを通して呆然と眺めながらそんなどうしようもないことに思考を浸らせていた為に、電柱に頭をぶつけてしまった。
辺りを見回したが、幸い誰もいない。
痛みも少し引いてきて、ふぅ、と溜め息をつくと、眼前の電柱に貼られたチラシに目がいった。
『自分を変えたい方大歓迎!! お掃除が主なお仕事です!! シフト自由で時給は破格の一万五千から!!!』
アルバイトにしてはどう考えても怪しすぎる謳い文句の横に、簡単な地図と現在地が描かれている。
どう見ても怪しい。それにしても度が過ぎるほどに。
しかし、それでも今の自分にとってその謳い文句は恐ろしく魅力的だった。
「…………行くか」
気づけば、口から一言溢れていて。
それは他の誰の耳にも届かないけれど、自分の心にだけは届いた気がした。
一つだけ、大きく小さい決心を抱えて、足早に家路を急いだ。
唐突に目を覚ました。
「この子どうする?」
幼い声に乗せられたその言葉を耳にして唐突に。
意識も徐々に覚醒していき、昨晩――いやそれすらも定かでないが――の出来事を鮮明に思い出した。
謂れのない罪状を告げられ、二人組に付け狙われた。その手に凶器を握られて。
深夜で暗く、顔も何も見えなかった。
二人の目に狂気は感じられず、しかし手には間違いなく凶器となり得る刃物が握られていた。
あまりの恐怖に一切合切を無視してぎこちなく歩いてしまった自分が、帰路につく途中にどうなったのか。
記憶が定かでないが、現状を考えるに拉致されたのだろう。
これでも警察手帳に『暦野浩二』と名前が載った、新人警官の一人であるというのに、全く恥ずかしい話だ。
しかしよく考えてみると、自分はこれでも正義感と呼ばれても良い部類の人間のはずだし、昨夜読まれた罪状に心当たりもない。
特にそれが殺人であるなら尚更だ。
そんな全く心当たりのない罪状を読まれれば、逃げることすらできなくなっても仕方がない、と自分を励ます自心を卑怯に感じた。
「俺は………人なんて殺してない」
どうせ無駄だろうと知りながら、ポツリと独り弁明した。
「らしいな」
今風の茶髪に薄く顎ヒゲを生やした青年が返答した。
「だから俺は…………え?」
予想外の即答に困惑する。
この男は何を言ってるのか。
では何故俺は今、捕まっている?
「お前が囮だからだ」
自分の停止した思考を見透かしたように青年が口を開いた。
囮? 一介の警官たる自分が? 唐突な非日常の幕開けに、閉口するほかなかった。
「ハァ………」
帰宅後すぐさまベッドに倒れ込み、溜め息をつきながら考える。
自分を変えたい、そう思ったのはいいものの、あの怪しさ満点なバイトに申し込む勇気がどうしても出ない。
履歴書不要で学歴不問、年齢不問などと謳われていたチラシをスマートフォンのカメラで撮影した。
それに描かれた地図を 見るに、どうやら面接場所に指定されているのは市街地の雑居ビルの三階らしい。
「………行くだけ、行ってみるか」
もう考えるのはよそう、と俺はベッドの上でゆっくりと目を閉じた。
おかしい。
俺は拉致されているはずだ。
では、何故俺はこんな……こんなフワフワなベッドに寝かせられているんだろう。
白い壁紙に囲まれた窓から夜景が見える、小奇麗なマンションの一室。
そんな場所に拉致されているらしいが、パソコンやテレビや冷蔵庫などが部屋中に設置されている。
どうやらバスルームもあるらしい。
身を縛るための鎖や縄もなく、拉致にしてはえらく高待遇で逆に不安を覚えてしまう。
「どういうことだ、これ?」。
把握できるわけもないが、まるで霧を掴んでいるようだ。
おそらくありがちな「怪しい動きを見せれば消される」お決まりのパターンなのだろう。
しかし、それにしても監視カメラらしきものは見当たらない。
そう頭を巡らせていると、背後に人の気配を感じる。
ハッと後ろを振り向くと、視線の先には一人、少女が立っていた。
銀髪の少女は壁に身体を預けながらこちらを向き、そして口を開く。
「あなたまた意識失っちゃってたんだよ~♪」
「おはよ♪ じゃあ概要、説明しちゃおっか♪」
書けたかな……?