序章
一つの墓がある。
それは、ある英雄のために作られた、その功績に比べればあまりにちっぽけな墓だ。
彼は、地球という世界から異世界に呼ばれた、当時15歳の少年だった。
彼を評する言葉は、実に多彩である。
曰く、子犬のように人懐っこかった。
曰く、ちょっと感動するとすぐ涙ぐむ泣き虫であった。
曰く、困った者を放っておけない、筋金入りのお人好しであった。
曰く、神話の如何なる英雄よりも勇敢であり、そして強靭であった。
曰く――
彼は本来、争いを好まない穏やかな人柄だった。
しかし彼は、十本の神剣を振い、手足を千切られようが、心臓を潰されようが、首を掻き切られようが、神獣に魔王、聖女や神だろうと如何なる敵とも戦い抜いた。
……その英雄の墓には、「神護悠 享年16歳」と刻まれている。
優しく泣き虫な、英雄の話を始めよう。
異常な世界が広がっていた。
まるで生物の体内のように脈動するその空間は、常の世界からは切り離された異界である。
その地面も大気も、もはや原子で構成されているかどうかすら定かではないほどにその空間は“外れて”いた。
その中の戦いは、三つ巴の様相を呈していた。
まず仕掛けたのは、枯れ木のように痩せた黒髪の男であった。
斑模様の派手な着物を羽織り、咥えた煙管から紫煙を燻らせながら男は不可思議な球体に胡坐をかき、無精髭の生えた顎を撫でつつ二人の敵手を睥睨している。
その口元が、険呑な笑みに歪んだ。
「……呵呵っ」
星が、落ちる。
紅く罅割れながらも燃え輝くその星は、それ自体が存在するだけで万物を引き寄せる引力を備えていた。
相対する敵手を断じて逃がさぬと言わんばかりに、その凶星は遥か天空から地上の総てを巻き込みながら、堕ちていく。
だが、星が地表に落下することは無かった。
罅割れた凶星の寿命は、その前に終焉を迎える。
――超新星爆発。
超高圧縮恒星の爆弾は、星々の海すら飲み込み消失させるほどの熱と衝撃、そして致死量の猛毒をばら撒きながら、相対する二人の敵手を吞み込んだ。圧倒的という言葉ですら不足する破壊の奔流が荒れ狂う。
光と熱、そして衝撃が駆け抜けたその跡には――
――全くの無傷の二人の姿が在った。
そして当の男もまた、この程度で死ぬはずはないだろうと薄い嗤いすら浮かべながら、呑気にも煙管の灰を落として敵手を見下ろしている。
「呵呵呵っ……よいよい!
たかが超新星如き、防いでもらわにゃ儂もやり甲斐がないでなぁ、まだ愉しませてくれるんじゃろうな、若いの!」
その若々しい見目と声に似合わぬ翁のような言葉を吐きながら、男の呵呵大笑が異界に響く。
それに応えるのは、一人の少女だ。
少女は目を伏せながら、小さな唇で天使のような声を紡ぐ。
「酷いわ、斑の翁様。
私の愛しい騎士達がこんなに痛い思いをしましたのに」
純白の厳かな衣装に身を包んだ、淑やかな少女であった。絶世、と称するに相応しい美貌であり、まさしく聖女という名に相応しい出で立ちである。
彼女は相対する敵手を、まるで運命の恋人を見つめるような慈愛に満ちた眼差しで包んでいる。
そう、彼女は愛しているのだ。
まさしく慈愛の聖女の如く、自分を殺そうとしている敵手ですらもそれは例外ではなかった。
味方であろうが、敵であろうが、聖女の抱く無償の愛に一切の区別は無い。
聖女は、数百人に及ぶ聖騎士団を引き連れていたが、先程の超新星爆発によって悉くが灰燼と帰し、消滅していた。
それは、彼等が己が身を呈して聖女を護った結果である。
部下の総てを失い、白く華奢な肢体一つをその場に晒す聖女は、だが柔らかに微笑んでいる。
その美貌が、陶酔じみた表情を浮かべながら紅潮する。その小さな薄桃色の唇から漏れる吐息が熱く、甘さを帯びる。
「さあ、皆――私が何度でも産み直しましょう」
突如として、聖女の周囲に無数の騎士が現れた。
それは、先の超新星爆発によって跡形も無く消滅させられたはずの、彼女の部下達である。その総てが傷一つ無く蘇り、聖女を護るように布陣した。
彼等は皆、己を生んでくれた母を見つめるような狂信的な眼差しを聖女に向けている。
聖女は、己が腹を痛めた愛し子を見つめるような眼差しで彼等を愛でながら、ただ一言、
「よしなに」
その言葉に、聖女の部下達は狂喜の雄叫びを上げながら、しかし洗練された軍隊の動きで以って敵手へと殺到していった。
一人一人が一騎当千という名ですら霞むほどの百戦錬磨の猛者であり、蘇りの狂気に支えられた彼等の武威は、もはや常の物差しで測れるものではない。
その先に在るのは、一人の偉丈夫である。
覇王の威風を纏うその美丈夫は、豪奢な衣装に身を包みながら、長い銀髪を靡かせている。
戦神が顕現したかの如きその肉体には、天上の神すら下さんと言わんばかりの覇気が満ち満ちていた。
その威容、さながら魔王の如く。
男は、自身に殺到する聖騎士達を、冷厳とした王の眼で見下ろしている。
「――よかろう、参れ」
男の手には、一つの楯が握られていた。
それは、斑の青年の放った超新星爆発を防いだ神代の楯である。
楯が眩い神気となって消え失せると、次の瞬間、男の手には一振りの槍が握られていた。
それは、海の神獣の骨で作り上げられた神槍だ。
険呑な神気を宿したその槍は、常の精神を持つ者なら視界に入れただけでその心の臓を止めるほどの圧を放っていた。
しかし、聖女への愛に総てを捧げた騎士達は、怯えの一片すら見せずに彼我の距離を詰める。
男は冷笑を浮かべ、槍を番えながら、
「“斑”と同じく破壊を撒くだけでは芸があるまい。
さあどう耐える、どう凌ぐ――魅せろ兵共よ。我を愉しませてみよ」
その槍を、投擲する。
それは、光速にすら達する武威を極めた一投である。その槍が突き進むだけでも極大の破壊を撒き散らし、触れずともただその槍が通過したという事実を以って星をも砕く神域の投擲。単純明快であるが故に、その脅威も明白であった。
だが、その程度ならは聖女に騎士達にとっては大した脅威ではない。
たかが光速で迫る槍如き、彼等にとっては対処も造作も無いことだった。
故に、これがただの槍のはずは無い、この魔王はそんな甘い男ではないと、騎士達はあらゆる可能性に思いを巡らせ、その方策を用意していた。
そして当然のように変化が起こる。
槍が、無数に分裂した。
その総数は、迫る兵の数と全くの同数であり、騎士達の一人一人を正確無比に狙っている。
しかしこの程度ならば想定の範囲内である。彼等の中に、光速の槍すら捌けない弱卒など一人もいない。
騎士達は、槍を防ぎ、避け、あるいは掴みとろうとして――
――その総てが、槍に串刺しにされた。
「……!?」
馬鹿な、と驚愕の気配が騎士達を支配した。
間違いなく対処可能な速度であり、威力であった。
なのに何故、この槍は自らを貫いているのか――それはまるで、この槍に貫かれることが逃れられない運命であるかのようだ。
だがこの程度で、我等は止まらない。
魔王よ、聖女に仕える不死の騎士を舐めるな。
そう、猛き叫びを上げながら、騎士達はその身体を槍で貫かれ、血反吐を吐きながらも突き進もうと足を踏み出し、
ある者は毒によって、
ある者は突然の不運によって、
ある者は己の意に反して自身や仲間の首や心臓に刃を突き立てて、
その総てが、死に絶えた。
投げた時点で当たることが決まっている。
当たった時点で滅びることが決まっている。
男が放ったのは、絶死の運命を宿す神槍であった。
「……残念だ、次手を用意していたのだがな」
男の手には、いつの間にか一振りの剣が握られていた。
それは、男が投擲した神槍に劣らぬ神気を宿す神代の聖剣であったが、披露の機会を奪われたそれは、光となって溶け消える。
しかし、無惨に朽ちた騎士達は、すでに聖女によって産み直され、彼女の傍に侍っていた。
聖女の騎士団は、決して損耗することは無いのだ。
その軍勢は、先程の攻撃を学習し、より精強となっていることだろう。
星を従える斑の男“偽天”。
不死の騎士団を侍る聖女“聖天”。
神代の兵器を繰る魔王“覇天”。
神威の如き力を有する三人は、何れもその表情に余裕を見せている。
それは、未だこの三人が全力の片鱗すらも見せていないことの表れである。
……否、出せないのだ。
それは三つ巴という状況が抱える構造的問題でもあったが、それ以上に彼等の脳裏に在る一つの可能性が、彼等に全力を振うことを躊躇わせていた。
「じゃあ、行ってくるね、皆。
……泣かないでよ朱音。絶対に帰って来るから。うん、約束。
あの三人が相手だって大丈夫だよ。
僕が、勝つから」
そして、その可能性が現実となる。
「……来たかぃ、白いの」
最初に気付いたのは、斑の男であった。
煙管を咥える口を愉快げに歪めながら、その細い眼をある一点へと向ける。
僅かに遅れ、聖女と覇王もそちらへと意識を向けた。
白髪の少年が、其処にいた。
初見で彼を男性と認識することは困難であっただろう。
その容姿はまるで少女のように柔らかく、そして体格は男性とは思えぬほどに小柄で華奢である。
その服装が男性のものではなく、女性のそれであったなら10人中10人は彼を可憐な少女として認識していたに違いない。
少年は、静かな表情を浮かべ、三人の神威の振い手をしかと見据えている。
一見すると頼りなさげな彼の姿を侮る者は、この場には誰もいない。
三人ともが、彼を己と同等の存在として認識していることは明らかであった。
「どれ坊主、少し遊ぼうかい」
斑の男の声と共に、無数の暗黒が生じた。
それは、光すらも飲み込み封ず漆黒の星として完成し、白髪の少年に霰の如く撃ち出された。
――暗黒天体。
それ自体が放つ圧倒的な重力波により対象が逃げることも許さず、触れるどころか近寄るだけでその存在を引き摺り砕く数多の魔星の砲弾が、少年ただ一人を狙って飛来する。
一見すれば隙間はあるが、それは隈無く、光すら逃がさない魔星の重力波の射程圏内である。掴まれば即座に魔星に引き摺り込まれることは明白であった。
逃げ場など、どこにも無い。
故に少年は、何の躊躇も無く襲い来る魔星の雨へと突っ込んだ。
同時に、彼の周囲に十本の剣が顕現する。
彼は、そのうちの二本をそれぞれの手に取り、流星の如く駆けていく。
残った八の白刃は、彼の意に従うようにその切っ先を暗黒天体へと向け、迫り来る魔星を迎撃すべく飛び去った。
白刃は、少年の進行方向の特に邪魔な八の魔星に突き刺さる。
本来、刃は即座に暗黒天体内部の特異点に飲まれ消え行くはずである。
だが、刃を突き立てられた暗黒の天体の悉くが、その動きを完全に静止させた。
まるで時間が停滞したかのように、その重力波すら止められて、暗黒天体は空中に停止している。
少年はその間を縫って駆け、そして両の手に持った白刃で飛来する残った暗黒天体を悉く斬って捨てる。
その白刃を受けた魔星もが、その動きを停止させた。
静止していた暗黒天体に刺さっていた白刃は程なく砕け、暗黒天体は再びその機能を取り戻すが――既に少年の姿は遥か後方、その重力波の射程から逃れていた。
「くっ――呵呵呵呵呵呵ぁ!
暗黒天体を“止める”か! やるのぉ……“白天”! 傾きよるわ!」
己が技を破られた斑の男は、まるで愉快な見世物でも見ているかのように膝を叩き豪笑した。
聖女と魔王もまた少年の接近を認め、己が全力を引き出す準備を始める。
少年は、三人の神威の振い手へと接敵し――戦いは、四つ巴の混沌へと落ちていった。
四つの声が、奇しくも同じ言葉を紡ぐ。
『―顕・天―』
そして、真の神威が顕現した――
……世界は、八大勢力による争いの中にあった。
しかし、その最中に現れた第九の勢力が、世界の様相を一変させることとなる。
その勢力の長の異名は“白天”。
人の身にして神威を振う、“天”の異名を持つ一人である。
“白天”のユウ。
それは、地球と呼ばれる異世界から召喚された少年の名であった。
悠の物語は、彼がまた地球という世界にいた頃に遡る――