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正義について

作者:

当論考はコピペフリーです。

 東洋学も浅い頃には肝心を疎かにして性善説、性悪説を馴染みにしがちになってしまいますが、さあどっちだ、と問うことしなかったのは幸いだったと思います。この質問をするとたいていロクな奴ではないと見なされてしまいますから。

 性善に同意する人に考えらしい考えはありません。願望であったり直情な人情に迫られているもので、性善だったらいいなあ、というのがほとんどです。

 性悪に至っては説を載せた旬子の一編さえ読んでいないのか、性善の対義語かまずは字の如しという知識のまま信じてしまったものです。

 つまりは両者ともに、人間についても、性についても、善についても、悪についてもなんら意見を持っていないように思えます。僕なら、

 ――人間は性善と性悪どちらでもないが、人類は性善と性悪どちらでもよい。

 こう答えます。この一文で使われている人間というのは、個人を抽出可能な束縛の緩い状態です。だからこそ善悪どちらでもないのです。善であることも悪であることも強制されません。まさしく素朴な状態で、善ならん、と志して学問をするきっかけとなるなら、性善であればいいなあ、という願望にも値打ちがでます。一方で、地球上の全個人がヒトという種に凝縮されてある状態を示す人類という語の束縛は厳しく、その目的を一言にするなら生存あるのみ。生存に益するなら善でも悪でもなんでも使わなくてはいけません。そしてその行為は人間の総意の他なく、その善悪を認定するのは何者にもできません。

 この小論を元に正義というものについて論じてみようと思います。

 正義などない、という暴論が蔓延って久しいものがあります。もしや相当に学問の深い方が唱えた説をまったく無知無学の徒が短絡に受けてしまったものなのでしょうか。

 では正義とはなにか。正義に限らず語を語のみで端的に解説するのはなかなか難しいので、手がかりとなる一語を設けます。それは『正解』という語です。このお陰で正義というのを非常に簡潔に解説できるように思えます。

 まず正義にしても正解にしても、正の字がかかることによって、中を得てはいないが候補ではあるという状態の義と解に正当性をもたらすのです。

 ・3+2=4

 ・7-6=4

 ・4×1=4

 この三つの単純な数式すべてに同じ4という解数を設けましたが、式と解が調和している正解は一つです。他の二つは正解とはなれませんでしたが、解であることに違いはありません。むかし学習塾の広告で、日本の計算問題は式を参考にただ一つの正解を求めるけれど、英国では解から多数の式を答えるよう求めている、というようなものがありました。正義を求める東洋と正義に合わせる西洋の違いが特に際だっていて面白いんですが、式と解が調和する問答は決して一通りではないという正義の求め方と通じてはいても、解を求めるようにして義を求めるのは大きな間違いといえるでしょう。

 数式が一つでも解は無数、しかし正解は一つ。これが正義についても当てはまるのです。何かの現実問題があるとして、これが義だこれが義だとそれらしいのは多くありましても、正義とはその中の一つなのです。これで正義は人の数だけある、正義などない、という論が学識不足のとるに足らない説であるとわかります。つまりは数式における解と現実世界での義というのを同期してみると、義がもっとも適切に用いられて調和する状態なのです。正義とはこれを言ったものなのです。問題解決のための正義を知り、実行の際に起こる小問題をもすべて正義で解決してゆける者、これを聖人といいます。

 ところで悪とはなにかというと、実はこれこそが存在しないものと思われます。たびたび耳目にします善と悪の戦いという常套句を換言すると、正解たる義と解たる義のせめぎあいなのであって、その正解も異なる数式に当てはめては解となるし、解も別の数式に当てはめたなら正解となるような、よくある論法に落ち着くものであります。

 ところが、僕らは正解を導く手法を学校教育で骨身まで叩き込まれますが、正義に関して教わる機会はほとんどありません。正義などない、と思い詰めても仕方がないのかもしれません。ただこれを学校教育のせいにするのは短絡で、学校というところはその人の才能を発見し伸ばす機関に過ぎないなのです。発見した自身の才能の傾向を伸ばし磨いてゆく行為を勉強といって、これは学問とは一線を引かなければならないものであります。解は勉強にありますが、義は学問にあります。このところを見落とすとせっかくの才能も積み上げた勉強も使い道を得られなくて腐らせることになります。

 それでは学問とは何かというと、自らで自らを完成させる行為と言えるものです。個人に抽出されることにより発覚する才能の根となる、全人間に共通する実力を養うものです。いかようにも分化する万能性を秘めた人間の素朴な本性を豊かにするものであります。学問をせず実力を欠かしたままではどれだけ勉強しても大した者にはなりません。学問とは数多の義を知り、数多の義の用い方を訓練し、小中高大学校で磨き続けた才能を正義に沿って行う日の為に修めておかねばならないものです。解を導くかのように、正解を導くかのように。その学問の舞台となる場こそ家庭なのであります。かつて儒家が学の基を孝悌とした目の付けどころはまったく見事で、既に世間と向き合うもっとも身近な年長者の父と母にどうしたら喜んでもらえるか、これが義を知ることであり、その実践は義の訓練なのであります。父母といっても個人に抽出可能な人間ですから、ご機嫌の良いときもあれば悪いときもあります。そして勉学をする自分自身の状況もまた日々変わるもので、その時々に応じた義を行ってはずれなければ学問もまず半人前といえるでしょう。赤の他人であれば怒らせてしまうか疎遠になってしまうような過ちでも、家族であれば許容してくれる、怒ることで間違いと教えてくれるのですから、あり難いものです。

 ただ最近はちょっと不幸にも、勉強こそが孝行即ち学問となってしまっているようで、子供らは学問の場を学校でも家庭でも奪われて、親の方は親の方でそうした学問をも学校に押しつけておるようです。ただ日本国とは1945年8月15日以来、国家が正義を主唱する権利を失っているのですから、学問の場とはならず正義の正体を見失うものであります。世の一般に言われる正義というものの次元が低いのもこのあたりにあるものと思われます。正解と正義の類似は上記の通りですが、学校教育で導く正解なんていうのは紙上の出来事であり、静止した空間での次元の低い方程式で導き出されるものです。ところが世間というのは生きて動いているもので、今日言えば義止まりだが明日言えば正義、という面白味があります。この要点のいらない勉強ばかりにのめり込んで空虚な自信を抱いてしまうと、学問も問われる実世間で痛い目を見て、ろくな精神修行もしていないようなのは、無気力な奴隷も同然の精神の退廃状態に追い込まれるものであります。そうした連中が反射的に思い浮かべる正義なんていうのは、1+1=2のような低次元なものなんですが、どういうわけかそれを周囲を巻き込んで強いるようになります。それもまた解であり義であることは否定しませんが、正の代わりに猛か暴の字を借りるべきでしょう。いかにも学が足りていません。

 ところで、人間の正義は人類の生存という最優先課題の前にしばしば抑圧されてきました。社会や共同体とは人類生存の単位ですが、この単位が自ら延命を求める場合それまで正義として通用していたものがまず最初に犠牲になります。そうなると、おかしい、という声があがるでしょうがそういう人は正義と義のせめぎあいの線上次元で思考し、生存というのが正義とは次元が異なる命題でありながらヒトはその二つに跨っている存在という正体をよく見極めていないのです。生存の名の下すべてが抑圧されている環境は多くの人々が長く耐えられないほど厳しいものですが、その過酷にも耐える義というのは、一時的ではありますが生存をも包括する強靱なものです。歴史とは生存を包含する義が新たな生存危機と直面しつつ別の義と交代を繰り返す流れをいうのであります。思想家と呼ばれる者たちが世界で同時多発的に出現するのを不思議がる方がおりますが、これは人類生存を司る文明と人間正義を司る文化が適地適時に発達する過程で均衡をとる必然性によって引き起こされる自然現象であります。正義とは本来その二つを調和させる最適解でなければならないのであります。

 それでは現在、人類の生存はなにに依っているでしょうか。それは理数であると思っています。誰であっても平等に感知する数は時と場所の区別なく人間の諸活動をつないでいます。これほど都合のいい媒介材はありません。しかし、その長所を裏返すことで露わになる短所もまた広範に及ぶものであります。理数の短所、それは同期不可特性であります。この論考は義と解を同期することにより成り立たせているのですが、理数と同期できるものはなんでしょうか。1が1という極限の意味しか持たず、他の言葉と対比したり言い換えることができないからこそ理数は理数の面目を保持できるのであります。そうすると人類の生存解の理数と調和する正義は求めようがないのであります。

 まずは理数に基づく単純な数式を三段論法という論式に換言してみましょう。

 ・10は解である。

 ・4+6は10である。

 ・故に4+6=10は正解である。

 次に解と義を同期して置き換えてみましょう。

 ・10は義である。

 ・4+6は10である。

 ・故に4+6=10は正義である。

 ここで一目で分かることは解と義の顕著な相違であります。義を解で説明するのはいいとしても、他の言語や式と同期できない理数の解はそれが即ち義の実践を示唆するものではないのです。そして、10が正解にしろ正義にしろその真性はどのように定義されているのか。理数下であればそれは正解としてそうしておかねばならないものですが、正義となったならどうでしょう。その正義が真性であると証明するのはなんなのか。この点を解明しなくては、正義などない、という論を超えられません。焦慮のあまり問題を同じ次元に揃えて答えを求めたくなりますが、極限の意味しかない理数下でのそれは生存のための生存という不毛な答えしか導けないでしょう。多くの人が耐えられない厳しい環境が人々を奴隷と似た精神の退廃状態に追い込みます。それでは人間の尊厳に背きます。断じていけないことです。そうさせない正義はどうしても必要となるのです。

 そこで双等式を用いて<解=正=義>というような証明式をつくれまいか。解と義が中心の正によって互いを形作る新たな鼎を鋳ることはできまいか。

 正を前提としてその正を実践する無数の解式を有し、それをより多くの人がより使いやすくすることに長けた西洋、

 学問の多寡次第で誰もができるわけではないけれど、義が正しく行われることが期待でき、正に前提を設けず正体を追求できる東洋、

 この二つの方式が勘定も合わないまま混在して、正義を主唱する権利を持たないこの国は、生きにくいと言えば生きにくいけれども、そんなところでもなければやれないこともあります。できないのならできないなりに、人類は人類のことだけを、人間は人間のことだけを、自らは自らの分を弁えて、手に負えないことは手に負えるほどの実力を学問によって養ってから言動を発揮することにより自然とその証明式の一部に留まっているのが正解でしょうかな。

 そうでなくても、うまい料理とうまい酒を父母に召し上がってもらえて、ほどほどの料理とほどほどの茶を妻子と楽しめて、そまつな料理とそまつな白湯でも清話できる友を得られれば、まあ人間に生まれてきた甲斐はあるというものです。

現在ここで停滞中。理数をもっと調査するか、違う観点に切り替えるべきかもしれない。

むかし人に言われたことがある。

「自分がどれだけすごいかまるで分かっていないような奴とつきあっている方の身にもなってみろ」

かなりまじめにこう怒られたっけ(つい最近の知り合いにこれを話したら同感だったのかどうか大笑いされました)。ただそれからも僕は自分をすごいと思って反省するようなことはやっぱりなかった。

今回の論考を終えてやっと「もしかしたら、ちょっとは頭のいい部類なのかねえ」と疑えるようになったけれど、その人が見たら、

「当たり前だ馬鹿!」とか言うんだろうか。

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