第4話:冷蔵庫の中身
だけどそんな願いも虚しく、僕の右手はキャンバスに黒を載せた。
止めて…止めて…止めてよ…止めてください…止め…て…止めて…止めて…止め……止めて!!
僕の右手は早さを増し、ガリガリと激しく音を立てキャンバスを黒く染めていった。
パレットは黒で埋め尽くされ、黒の絵の具はチューブを絞り出しても一滴も出なかった。
筆はボロボロになり、抜けた毛がキャンバスの黒に混じっていた。
それでも僕の右手は筆を握り続けた。
涙が溢れる。
頬を伝い顎から零れ落ちる。
助けて…助けて涼平。
ガラガラとドアが開く音がした。
「樹?」
涼平の声に安堵して、振り返ることも出来ずに僕は気を失った。
目を覚ますと床で眠っていた。
腹には毛布がかけられていた。
見慣れない天井、でも独特の匂いと小さな窓から美術室だと分かる。
部屋は真っ暗でよく見えない。
今何時だろう?涼平?
上体を起こし辺りを見回す。
涼平は居ない。
あの忌まわしい黒いキャンバスも消えていた。
静まり返った美術室。
校内全ての時が止まったように静かだ。
窓から月明りが注ぐ。
雨は上がったのだろうか?立ち上がり窓の外に目をやる。
外には水溜まりがあるものの雨は降っておらず、雲の影すら見えない綺麗な満月だった。
ガラガラと扉が開く。
「おっ、起きたか?」
「…涼平」
目を合わすことが出来ない。…怖い。
「お前いきなり倒れるからビックリしたぜ」
「…」
言わなきゃ、自分の汚い感情を…。憎くて悔しくてしょうがなかったって伝えなきゃ…。
「悪いな、今日保健室開いて無くてさ、一応毛布だけ拝借して来たけど…」
「涼平…」
涼平は僕の隣りに並ぶと窓の外に目を移した。
「それにしても今日は月が綺麗だな…、見てみ、満月だぜ」
「涼平聞いて…」
涼平はゆっくり胡座をかいた。
僕は見下ろす形で言葉を続けた。
「涼平あのね…」
「お前…俺のこと憎いのか?」
見透されている。
敵わないなぁ…。
僕はそれが嬉しくて、口元が緩んでしまう。
「俺が憎いなら、殺したいなら殺せばいい。けどな、絵が書けなくなるぞ」
僕は黙って聞いていた。
「俺は親父が事故で死んだとき、まだ絵が書けていたんだ」
涼平の隣りに腰を下ろし
「続けて」と囁いた。
「俺が絵を書けなくなったのは、母親を殺してからだ」
涼平は母親を殺した。
それは罪だけど、しょうがない罪で、涼平は一切悪くない。
生きることを自ら止めた涼平の母親が悪いのだ。
涼平の母は、涼平の父が死んでしまったことから生きる気力を失い、自ら薬を多量に飲み、冷蔵庫に入り死んでいった。
涼平は学校から帰るなり、冷蔵庫に入る母の最期を見ている。
でも止めなかった。
それを涼平は殺したと考えている。
「俺は、あの人が冷蔵庫に入ったとき止めなかったのを後悔していない。残酷かもしれないけど、あの人が自ら望んだことだし、天国で父と会ってればそれで幸せだろうと思ったんだ」
「じゃあ、何を後悔してるの?」
涼平は少し頭を上げた。
宙を目で追い、何かを掴まえたように真剣な眼差しで答えた。
「父を憎んだこと」
月の光が涼平の前髪を照らしている。
僕は全て分かってしまった。
涼平は今の言葉で、僕が全て分かったと分かっているはずなのに、それでも言葉を続けた。
「俺は、勝手に死んで、母を悲しませてボロボロにした父が許せなかった。でも俺があのとき父を憎まなかったら、母は死ななくて、絵も描き続けることが出来たかもしれない」
声がうわずっている。
聞いていられない。
「無理して話さなくていいよ。つらいなら止めてもいいよ。分かってるから、ちゃんと分かってるから…」
涼平の泣き顔は二度目だ。一度目は最初にこの話を聞いたとき…。
涼平は涙を手で拭いながら続けた。
僕はただ隣りで聞き続けた。
月は僕らを見守ってくれていた。