第2話:靄
濡れた帰り道はアスファルトの匂いで一杯だった。
そう言えば…と思い出したが余りにも汚く醜い話だったので口に出すのは止めておいた。
それに涼平の泣きそうな顔は見たくないから。
涼平の泣き顔が見たくないから?汚く醜い話?そう思った時点で僕は最低だ。
分かっていながら言葉にしようとした。
僕は涼平を傷付けたいのかも知れない。
「じゃあね」
と別れた五分後。
涼平はいつもと同じように家にやって来た。
玄関を入り、目の前にある階段を上り、一番奥の部屋、そこが僕の部屋だ。
何をするわけでもない。一緒の時間を過ごすだけ。一緒に漫画を読んだり、ゲームをしたり、二人が別々のことをしたりと、今迄一緒に過ごした時間はかけがえのないものだ。
学校が終わり帰宅すると六時頃で、それから涼平は九時頃まで僕と時間を共にする。
途中、夕食が部屋に運ばれて来た。
「涼平くん今日も食べて行くでしょう?」
母は分かりきっている問いを涼平に投げ掛ける。
「いつも、すいません」
涼平は申し訳無さそうに頭を下げた。
「いいのよ」優しく口にして、
「早く食べなさい」と急かし部屋を出て行った。
いつものやりとり。
僕は慣れてしまった。
母の言葉も、涼平の申し訳無さそうな作戦も…。
…このやり取りはすごく苛々する。
夕食を食べ終え涼平は再び漫画を読み始めた。
僕はそれが当たり前のように過ごした。
いつからだろう?
いつから涼平は家に入り浸るように…、いつから母は涼平を客人として迎えるようになったのだろう?
いつから?
あの日…、あの時あの場所のあの人のあの姿…。
分かっている。
ちゃんと分かっている。
涼平が僕を頼る理由も、涼平が家に入り浸る理由も…。
分かってる。
分かってるけど…。
涼平が悪いわけじゃない。
分かってるよ。
やり場の無い想いはだんだん僕の視界を閉ざしていくのが分かる。
茶碗を片手にため息を吐き、顔を上げる。
疲れているのだと思った。
箸を持ったまま目を擦るが、僕の視界の異常は消えなかった。
何これ?煙?霧?靄?
「うわっ…」
僕の奥から出た声に涼平は反応した。
「どうした?」
漫画を開いたまま、不思議そうな顔でこっちを見ている。
「何か…、視界が暗いと言うか黒いと言うか…、ごめん何でも無い疲れてるみたい」
「…そうか」
涼平は勘が良いから何か感じたかも知れない。
とにかくこれは涼平には見えていない様だ。
視界を塞ぐように現れた黒い靄は、吸い込んだ空気と共に胸の中に広がり、吐き出した息に混じって僕を暗く包んでいく。
怒りなのか悲しみなのか不安なのか嫉妬なのか友情なのか、まとまることの無い感情に靄は生まれたようだ。
一通り漫画を読み終えると涼平はいつもより早く帰った。
「大丈夫か?」と一言残して帰った。
靄は鏡を通して僕の目にハッキリ映った。
靄は蛇のようで頭で一回りとぐろを巻くと左目の辺りにだらりと垂れている。
重さは無い、体調が悪いわけでは無い。気分は前から悪いし、何がおかしい訳ではない。
ただそれはひんやりと冷たく頭が覚める感じがした。
肺の中にはまだまだ靄は渦巻いていた。
靄は僕の全身を薄い黒で覆っていた。
まるで不幸をみずから被っているようで情けなくなった。
朝起きると真っ先に洗面所に向かった。
昨日はあれからすんなり眠った。やはり疲れていたらしい。
一階に降り、鏡を前にして目を疑った。
「…濃くなってる」
全体的に黒が増していた。
昨日はぼんやりと霞れて見えていたのに、今は姿を曖昧にするほどに濃くなっていた。
家から出ると太陽がムカツクほどに眩しかった。
昨日降った雨はどこにも残っておらず、あの雨は僕の心で降った雨だと考えた。
あの帰り道、雨は止み青空が覗いたはずなのに、今僕の心は青空どころか雨すらも降っていない。何もない。真っ暗なだけ景色すらない。黒い靄だ。
何故だろう?昨日のまとまらない想いが一つになっていくのが分かる。
僕は涼平を憎くて憎くてしょうがない。