第1話:湿気の教室
雨粒の一つ一つに意味を込めろとまでは言わないけれど、自分が把握出来る全ての範囲に意味を持たせるようにしろ。
学校の美術室で僕は言葉を反芻していた。
この言葉は自分の中でうまく消化出来ない。
僕は雨粒一つ一つに意味を持たせて、他は雑に意味を持たせず描いた絵など一枚もない。
じめっとした美術室で僕は窓の外を見つめた。
雨は上がったのだろうか?先程まで降り続いていた雨音が耳に届いていないのに気付く。
湿気で窓は曇り、水滴が線になってスーっと滑り落ちる。
湿気が溜まるこの部屋は美術室に向いていないと来るたびに思う。
冷えきった窓枠に手をかけ、カラカラと小気味良い音と共に窓を開く。
外は澄み切った青空とまではいかないが、雲の切れ間から綺麗な青が覗いていた。
冷たい風が美術室へ流れ込む。
「さむっ」
入口から聞き慣れた声がした。
振り返ると眠たそうに瞼を擦る笹木涼平の姿があった。
「窓閉めて、寒い」
その言葉に開けたばかりの窓を閉める。
中の湿った空気は全て出て行かないにしろ、少しは緩和されたはず。
「その窓本当小さいな」 確かに。
他の教室に付いている窓の半分の大きさ、しかも窓はその一つだけの悲しいものだ。
「小さいよね」
同意を持って返す。
涼平とは幼馴染みで、園、小、中、高の今までずっと一緒で、クラスは違えど昔から変わらぬ仲が続いていた。
涼平は僕と違って優秀だ。勉強も運動も人並みにしか出来ない僕と違って、涼平は何事も難無くこなしてしまう。
そこに努力の影があれば悲観的にならなくて済むのだけど、それがどこにも見当たらない。
学校が終わり、家に帰っても涼平のやることは決まっている。
家に帰り、誰も居ないことを確認して、冷蔵庫の中身を確認して、預金を確認して、そして戸締まりをして家を出る。
それだけだ。
手に取るように分かる涼平の行動。学校に居るときの涼平の行動は余り知らないけれど、家に帰った直後の涼平の行動は分かる。
「帰ろうぜー」
あくびをひとつして涼平は言った。
片付けは面倒なので、涼平にも手伝ってもらった。
涼平は慣れた手付きで画材のひとつひとつを片付けていった。
僕に絵を教えてくれたのは涼平だった。
涼平は父親に教えてもらったらしいのだが、事故で父親が死んでしまい、それ以来絵が書けなくなってしまったと涼平は言っていた。
キャンバスを丁寧に運び出し、ふたつ隣りの教室に持って行く。
備品置き場と化した教室。元が何の教室かも知らない古いところ。
それでも美術室とは違い換気もしっかり出来て、作品の保存や管理の場に重宝していた。
「やっぱり樹は才能あるな、色が透き通って繊細で綺麗だよ」
涼平が父親から習った油絵は写真のように色の感じが美しかった
いつか見せてもらった海を描いた絵は言葉を失った。
コバルトブルー、ウルトラマリン、セルリアンブルー、いくつもの青色を塗り重ねたあの絵は今も僕の心に深く根付いている。
「ありがと」
涼平が嫌味を言わないことは知っている。
でも嫌味に聞こえてしまうのは、涼平の努力を知らないから…。涼平が自分よりまだまだ高い位置に居るからだと思う。
自分が好んで描いている海の絵も、あのとき見た涼平の絵には到底及ばない。あの綺麗な青色は涼平独自の色。
そんな独自の色を持っている涼平に
「色」について褒められても自分の色が無い僕には、嫌味にしか聞こえない。
キャンバスに描かれた自分の幼稚な海は差を強く感じさせた。
「帰ろっか?」
道具一式を捨てるように置くと、僕と涼平は教室を後にした。
肩から鞄を下げ、だるそうに廊下を歩く。
涼平は隣りでまだまだ眠たそうで、あくびをまたひとつした。
玄関で靴を履き替え外に出る。雨が枯れた空は、青色が濃さをましていた。
灰色の重たい雲は行き場を失い、そろそろ消えてしまいそうに空を漂っていた。