04
『Speed Pizza』の事務所では、かちゃかちゃと金属音が響いていた。
その音は、この店の配達員の制服に身を包んだ一人の少女が発生源であった。
ポロシャツ風の上着に、女性用ということで短めのプリーツスカート、そこに本人の意向もあって丈の短いスパッツをスカート内に着用している。
全体的にスポーツウェアを流用したようなデザインと材質だが、それが屋外での行動が多い配達員にはプラスだろうと考えられた結果だろう。
シャツのところどころに入れられた切り返しのデザインと、上下で揃えたポイントカラーが凝った印象を人に与えている。
彼女……ルフは今、入念にインラインスケートの調整をしている真っ最中であった。
見かけの軽やかさや疾走感を強調したデザインとは裏腹にインラインスケートシューズはずしりと重い。それを装着してピザの配達を行うのがルフの今日の仕事である。
スケートシューズを履いての走行というものは、不慣れな場合は素直に普通の靴で歩いた方が速いくらいなのであるが、ルフは幸いにも“慣れている”を通り越して卓越しているレベルであったため、機動性を存分に発揮するツールとなっている。
堂々とこれを装備してのピザ配達を過去にも店主から任された事が既に何度かあり、今日の仕事も至っていつもと変わらないものであった。
「久々にこれ履くと結構重いのよね~」
インラインスケートの足首の固定金具をいじりながらルフはぼやく。
確かにローティーンの少女の細い足に、いくら軽量化がなされているとはいえ、多くの部品で構成されたスケートシューズがかける負荷は大きいだろう。
「……それ履いてそこらのフェンスの上を走ったり、歩道橋とか家の屋根とか『ショートカット』っつってガッシャガッシャ走り回ってたくせに、何をいまさら」
そこに異を唱えたのは、やはり店主に与えられた男性用制服に着替えたタクヒであった。
彼もまたルフと同じ事務所内で、制服と揃いのスニーカーを履いている最中であった。タクヒとルフとで装備が違うのにはわけがあった。
実はこのタクヒも以前に、ルフの身体能力に張り合うプラス時給アップを狙い、スケートを利用しての配達が出来るレベルを目指せるかと、試しに履いてみたことがあった。
しかし、どうあがいても産まれたての仔馬の様な状態から脱するのがその時の精いっぱいであった。
それを見たルフの『走った方が確実に早いんじゃないの?』という率直な一言により、タクヒのスケート装備での配達は見送られた。以降、タクヒは地道に走ってピザを届けるのが常となっている。
嘉一の場合、スケートの操作などタクヒの比などではなく、ここまで才能という言葉に見放されたような子供がいるとは、という嘆きの声が今にも天から降り注がんばかりの運動オンチ振りを体現化して見せた。
更にはスパイクヒルズの高低差の激しい地形が入り乱れるという特殊事情により、スケートの加速が制御できず、道路上にあるもの全てを勢いのままなぎ倒す大惨事までをも巻き起こした。
それ以降、嘉一には車輪の付いているものは履くことも操縦することも禁止されている。
「準備できたかー?」
「ばっちりです!」
事務室のさらに奥の方からいかつい店主が声をかけてきた。しっかり稼いで、懐あったかお腹もいっぱい。
そういった思惑もあってかモチベーションが上がっているのだろう、ルフもタクヒもヤル気に満ち満ちて、元気の良い返事を返した。
すっかり準備万端整ったような彼らの反応を確認すると、店主はごちゃごちゃとものを持ってタクヒらに近付いてきた。
「それじゃ、地図と時計と通話インカムな。
インカム本体にはGPSが入ってるから、お前らの現在位置はこっちでもリアルタイムに確認出来るようになってるんだ。
もし何かあったときはすぐに連絡するんだぞ。」
精密機材だから丁重に、などそのほかにもいくつか注意事項を交えながら店主は、二人の小さな配達員にそれらを手渡していく。
しかし、ルフは早々とインカムと時計を身につけ始めたが、タクヒはその小さな機材を身につける気配もなく、両手で持って様々な角度からインカムをまじまじと観察し始めた。
「あれ? 新しい機材入れたんすね……分解してみてもいいっすか?」
「買い取らせるぞ」
新調したてのインカムシステムは、いうなれば店主の先行投資である。
業務の効率化を狙ってそれなりに値の張るものを揃えている以上、ロクに役目を果たす前に壊されてしまってはこの大男といえどもたまったものではない。
少年らしい知的好奇心も、今のこの場では無意味である。バッサリ切り捨てるような返答をすることで、タクヒにはその好奇心にフタをしてもらうことにした。
店主は持ってきた道具類を二人に手渡し、その場で機械類の操作方法を簡単に説明してやる。
子供という者はこういう時の物を覚える集中力には長けていると良く言われている。
この二人も例外ではなく、ものの5分もしないうちに当面すぐ使いそうな基本的な操作方法を覚えていた。
「それじゃ、ちょっくらいってきまーす」
「おう、気をつけてな」
能天気な声を残して二人の配達員が店舗を出て行ったその後には、所在無げな少年がぽつんと一人残っていた。
「あの~それで僕は……」
どうすればいいのでしょうか、と嘉一は困ったような表情で店主に問いかけた。
実のところ配達に行ってしまった二人への指示や用意やらにすっかり店主は気を取られ、嘉一には一切眼もくれていなかったのだ。
「待ってな、もうすぐ来るから」
嘉一も既にインドアスタッフ用のジャンパーを着込んでいる。
1日中、主に店舗内で働くと言う事から配達員用に 揃えた制服よりも店内用の制服は地味な上、丈夫さにも可動性にもこだわったものではなかった。
それこそファストファッションとして売られている製品とさほど変わった所はなく、制服と言わしめるところがあるとすれば、ただ店のロゴがポイント的にプリントされているというところぐらいのものである。
店主の少々ぞんざいな指示に従い、嘉一は事務所内で待機していた。さして時間も経たぬうちに、嘉一の待つ「もうすぐ」は嵐のようにやってきた。
普段なら軽やかな高い音を奏でるはずのドアベルが、突然けたたましく鳴り響いた。どうやら誰かが勢いよく店のドアを開けたようだ。
「すいません! 遅れました!!」
息を切らせながら店の事務所に飛び込んできたのは、ハチミツのような金色の髪をした若い女性だった。
ここに来るまで、それなりに長い距離を全力で走ってきたのだろう。膝に手をつき背を丸め、肩で息をするほどの状態で、どれくらい急いでいたのかがはたから見ていても良く分かった。
「いや?ギリギリセーフだ」
「……よ、よかった~」
店主がねぎらうように彼女に声をかける。その言葉にホッとしたのか、その女性、いや少女は、かがめていた体を起こした。
歳の頃はだいたい嘉一より少し上くらいといったところ。丸みを帯びた目元と大きな紫色の瞳が優しげな愛らしさのある顔立ちと相まって、とても朗らかで人懐っこい印象を人に与えている。
淡い色の短い髪は良く手入れが行き届いていて、店舗内の照明を受けただけでもきらきらと輝いて見えた。
「じゃあお前ら二人は受付接客と電話対応をしてくれ。
こいつは今日の単発バイトで入ってる、嘉一って言うんだ」
開店準備に追われる店主が、手短に彼女に嘉一を紹介する。
「はじめまして、私はスコール。よろしくね」
スコールと名乗った少女のごく自然な笑顔と、自身の身近にはいなかったような穏やかな雰囲気が、嘉一にはとても新鮮だった。
「よ……よろしくおねがいします」
残された少年にとって、それは思いもよらない幸運だった。
この世は合わせ鏡のようだとは、どこの誰が言い出したかは定かではないが良く言ったものである。
思いもかけぬ幸運に恵まれた者がいるのと同時に、思いもかけぬ不運を引き当てて嘆く者もまた存在する。
ダウンヒルの中心街から少し外れた辺りの裏さびれた地域。ここに来る破目になった不運を嘆くものもいた。
「俺、ここらの路地裏ってあんまり好きじゃねーんだよな。
きったないし臭いし暗いし、昼間だっつーのにカラスくらいしかいないし……」
ろくでもねえ場所だよなー、などと、さも面倒くさそうに黒髪の男は愚痴を言った。
男の名前はレイモンド。コートニー州警察に籍を置くれっきとした警察官である。
今、彼がそこにいるのも、子供のおつかいなどではなくれっきとした職務であるはずなのだが、いかんせんその緊張感はみじんも感じられない。
「いいんですか? あんなこと言っちゃって……」
「何が?」
「エシュさんですよ。」
ぐうたらした空気をふりまく男とは対照的な女性が、そう声をかけた。レイモンドが先の通話で相手方を怒らせたらしい事を指しているらしい。
「もう協力してくれないかもしれませんよ?」
「平気平気、あいつとは一緒に野糞した仲だし」
「先輩……最低です」
彼女にとって、目の前の男……レイモンドが下品であることは、バディを組んだ時からわかっていたことだった。
だが、こうも日常会話に何の気兼ねもなく、ひんしゅくを買うようなことをジョークのつもりで織り込んでこられるのは、正直たまったものではない。
今この路地裏にいる人間の中で誰がいっとう不運だと言うならば、彼女のほかにないだろう。
そんな、レイモンドの無遠慮な発言にただこめかみを押さえる彼女にもれっきとした名前がある。
彼女の名はクエスタ。女性の中では長身の部類に入るくらいの、すらりとしたスタイルの持ち主である。
涼しげな目元はきりりとしており、仕事に差し支えるような華美さがない髪型として選択したショートカットのせいもあって、残念ながら女性的な印象はまるでない。
クエスタとレイモンドがバディになってからまだ日は浅いはずだが、すっかり署内では知らない者はいないほど有名なコンビになっている。
警察学校を卒業したての新人ことクエスタが、実戦と経験を積んできている先輩格だが、何をするにもよく言えば豪快、悪く言えば大雑把なレイモンドを尻に敷いている図は学園コントのようでもあることから目立ってしまうらしいのだ。
さて、話を戻して。現在このコンビがいるところは、彼らの職務上重要な場所である。
ここ最近起こっている州立大学の連続殺人事件で、事件発生の当時に現場周辺で見かけられた不審車両を調査していたところ、今いるこの路地裏に構えられた店で働いている人物が浮上してきた。
これからその人物に聞き取り調査を行い、場合によっては真相究明のために多少荒っぽいこともさせてもらうためにここまで彼らはやって来ていたのだ。
さらに嫌なことに、今日になって例の大学でまた一つ死体が増えた。おかげで高血圧気味の上司は、まだ見ぬ殺人者から能無しのレッテルを貼られた形となり、『何が何でも犯人を一日も早く捕まえるんだ!』とただただいきり立つばかりの状態になってしまった。
街中への出がけにもそんな雷を落とされ、残念ながら幸先は悪かった。
クエスタはレイモンドの隣を歩きながら、ため息をついた。
「そういえば、マジギレするエシュさんに血祭りにあげられる先輩を夢で見ました」
「……それは随分と具体的だね。でも夢だよ、クエスタくん」
クエスタは、エシュを不機嫌にさせた事を気にする風でもないレイモンドに、一応望ましくはない事を告げた。
彼の電話でのぞんざいな対応は、確実にエシュの機嫌を損ねているとクエスタは予想している。
レイモンドという人物は、一度『こうする』と決めてしまった以上テコでも動かない男なのは彼女も良く分かっていた。
今回の依頼品の受け取りは、一刻も早く目を通して捜査に生かさないと誰かが死ぬような緊急のものではなく、レイモンドもこと今、優先順位の高い職務を放ってまで別件資料の受け取りに時間を割くわけにはいかない状況だ。
彼の優先順位は確かに間違いではないし、彼自身が取りに行くのは後と決めた以上覆せる手段はないし、またナンセンスな行為である。
だが、親しき仲にも礼儀あり、と人は言う。何事にも、ものの言い方というものがある。
レイモンドの場合も、もう少し相手に事情を簡潔にでも説明するなりして理解を求めれば、まだエシュの機嫌を派手に損ねることもなかったのではないのか、とクエスタは思うのである。
どうにもレイモンドには言葉が足りないと思う場面が多い。いや、語彙力も足りないのかもしれない。
「血祭りにあげられないように頑張ってください……」
ふぅと、本日何度目かもわからないため息をつき、クエスタはレイモンドの数歩前を歩く。
その短い時間の中でも、さっさと殺人事件の聞き込みを済ませて、それからエシュに依頼の資料を渡してもらう、とクエスタは簡単なスケジュールを頭の中で組み立てている。
(もしエシュさんの機嫌が直らないようなら……先輩をサンドバッグしてもらうことで溜飲を下げてもらうか)
顔色一つ変えず物騒なことも考えているクエスタの思考を知ってか知らずか、レイモンドは暢気に後ろをブラブラと歩いているだけであった。
「いやー、ここらの路地裏も結構変わったなぁ……」
ふと、レイモンドは声を上げ、感慨深く周囲を見回し始めた。
「そうですか? 昔はこれ以上に汚かった、とかでもあるんですか?」
「いんやぁ、今も昔もきったない事には変わりないじゃねえか。
そういうんじゃなくて、いわゆる名物……とかな」
「……名物」
と、クエスタは男につられて呟きかけた口をつぐんだ。
ギャングの集会場、マフィアの根城、ドラッグの取り引き……裏社会の定番スポットと言えば、確かに薄暗い路地裏は欠かすことの出来ないエリアだ。
実際にスパイクヒルの路地裏には昼とて一般人は踏み込みづらい独特の雰囲気に支配されている。
「いや4~5年前は酷いもんだったよ?どっかのマフィアの代替わりだったかな。それのせいで」
概ね複数の派閥が一つの地区にひしめき合う事はあまりない。
仮に協調路線をとっているならいざ知らずだが、たいていは各々の派閥の構成員同士が陣地の潰し合いを始めてしまうからだと言われている。
そして主導権を握った派閥が確定すると、それ以外の淘汰される側の組織の関係者は早々と消え去ってしまう。
始末されたか移動したかは想像にゆだねるにしても、そこで活動している人間の雰囲気は抗争の前と後とでがらりと変わってしまうのだ。
堅気の人間には、全く同じようにしか見えない場所も、『知っている』人間が見れば即、その区画の主導権のありかも新派閥の存在も分かるのである。
「その前の代はドラッグの濫用性を危険視し、密売に手を染めない方針だったのだが、新ボスがそれを撤廃、それどころか広く一般人の世界にも売買ルートを浸透させ始めた。
それ以前までは、マフィアの伝統と格式にのっとり棲み分けってもんを大事にしていた組織だったのが、新ボスは踏みつけて来たのさ。
まるでトールキンが書いた闇の国の軍勢のようにな」
路地裏を歩くレイモンドは、まるで昔話を懐かしむように話してはいるが、その目は笑っていなかった。
そのマフィアのように、多くのマフィアが一般人の間際まで活動範囲を広げるようになったとしたら。
想像の翼を広げクエスタは寒気を覚えた。その状況を許し、いつの間にかマフィアが経済の大半を牛耳ってしまった国は確かに存在する。
今ですらこの国でもマフィア対警察の攻防はギリギリのライン上で繰り広げられている。その拮抗をもし破られることになったらとしたら。
「……ですが、いまここを見る限りでは、そこまで酷いという感じではないようにも見られますが……」
「ああ、その代替わりの後、一年くらいは凄まじいなんてもんじゃなかったんだが……ある日突然街中から、あんなにひしめいていたダーティーそうな奴らがきれいさっぱり見かけなくなった」
「淘汰されたということでしょうか」
「さぁ……、そこまではわからねーな。あの当時、組織内部でクーデターでも起こって粛清されたんじゃないか、って噂はあったけどな。
それにしてはコトの運びが静かすぎた。
逆に俺なんかは、あの大荒れの1年あまりより、この凪の様に静かな今の方が怖いね。
水面下で何やってるんだかって、想像もつかないからな」
昔話もそこそこに、レイモンドとクエスタは目的地のすぐ間近まで来ていた。
路地裏とは言うものの、車一台ならゆとりを持って通れるほどの幅がある。路地裏の更に奥まった所にも商店にとっては、スパイクヒルの端まで行き届いた道路網はとても有用なものだろう。
それでも昼なお暗い、と形容したくなるような、妙に後ろ暗い空気が漂っているのは何故なのか。
「あそこの車、見てください」
「ん?」
クエスタが指摘した先には、一台の小汚いワゴン車がエンジンを切らぬまま、こちら側に尻を向けて停まっていた。
そこはこのコンビがこれから訪問しようとしていた店からものの数メートルも離れていない所であった。
「あの車輌のすぐ近く、重要参考人の勤務店で間違いないようです。それより……」
車の中、運転席と思しき座席で男の頭がちらちらと動いているのが、シートの裏側からでもレイモンドには見て取れた。車中で何か物を落としたにしてはその動き方には違和感がある。
小刻みに頭の影が動き続けている。少し奇妙だ。
「あの動き……コカインか?」
「ここからははっきりそれとは見えませんが、まあ怪しい動きですね」
「って、アイツ……これから俺らが話を聞きに行く奴じゃ……」
何とか目を凝らしレイモンドは、数メートルの距離からバックミラーに映った相手の顔を確認する。
その顔は捜査資料で散々目にした、不審車の運転者として監視カメラに写っていた男の記録写真と酷似していた。
「そのようですね、どうしますか?」
「どうしたもこうしたも……確保っきゃないだろ」
かの男には残念な話ではあるが、この国ではドラッグはたしなむ物などではなく、ただ持っているだけでも重罪人だ。
彼が連続殺人の犯人であろうがなかろうが結局捕まることに変わりがなかっただけの話だったわけである。
レイモンドとクエスタの間の空気が、帯電したようにピリッと引き締まる。独特の緊張感だ。
レイモンドとて人間であり、面倒なことも荒事も痛いことも嫌いなのだが、このように一気に集中の高まる感覚には充実感を認めている。
重要参考人改め麻薬所持犯のワゴン車が停車しているのは、狭い路地裏の中でも更に袋小路になっている一角の最奥だ。
汚らしい裏路地なら遮蔽物には事欠かないようにも思えるが、赤貧洗うが如しといったところか、逆に身を隠せるようなサイズの放置物などほとんど無いのが現実である。
治安が良くない地域だからこそ、放火や器物損壊の防止自衛策として物を置かないようにしているのだろう。二人は手近な建物の角に身を寄せ、目標の様子を窺いながらそれぞれに銃を取り出し不具合の直前チェックを行い、そして安全装置のロックを解除する。
現行犯を取り押さえるにあたって、犯人と最大限に間合いを詰めてから一気にたたみかけ抵抗するいとまを与えないことがセオリーとなっている。
一度取り逃してしまえば、相手に警戒され捕まえることが容易でなくなるのでチャンスは一度きりだ。
だからこそ確実に仕留める方法が採用されているのだ。当然、取り押さえる直前まで、対象者にこちらの存在は悟られないのが理想である。
現在二人が隠れている建物の角からでは、車の内部の詳細を把握するには距離的にギリギリである。
車のエンジンがかけたままなのは、機動性の点ではこちらの分が悪い。だが対象は今、麻薬に夢中になっている。
直前まで気付かれさえしなければ十分に対処できるだろう。
レイモンドは腹を決め、クエスタに無言で指示を出す。彼女もその指示に従いレイモンドの背を追う。
何とかワゴン車の背面側運転席からの死角までたどり着けば勝ったも当然だが……。
そうリアルタイムに算段しながらレイモンドはクエスタを従え、車両との距離を音も立てずに縮めていく。
バキッ
突如、路地裏に不快さすらともなう音が響き渡った。その大きさは二人の空気が一瞬で凍りつき、動きを止めさせるには十分なものであった。
レイモンドの足裏に、靴下と靴底越しに大粒のジャリジャリとした感触があった。どうやら割れたビール瓶の破片を踏み潰したらしい。
振り向けば、クエスタは真っ青になった顔でこちらを見ていた。
進行方向を向けば、その音で我に返ったであろう麻薬男と、バックミラー越しに視線が合ってしまった。
一気に状況は最悪になった。
レイモンドは決断を迫られた。判断が遅ければこのバディは共倒れになる。
まだ目標には距離があるが、確保には不可能なほどではない、駆け寄って何としてでも襟首つかんでしまえば何とかなる、はず。
「動くな!!!」
まだ麻薬男が呆けた面をさらしている間にレイモンドは駆け出す。車に向かって銃口を向けあっという間に車に肉薄する。車の開きっぱなしの窓めがけ、クエスタもそれに続く。
しかし彼らの形相を見て現実に立ち返らされたのか、麻薬男も逃げに転じようとバックで急発進をしてきた。
アクセルをあらん限りの力で踏みつけたようで、ぎゅりぎゅりと不気味な摩擦音を4つタイヤが立てる。
「動くなっていったじゃん!!!」
そう言ったところでそれを聞く人間などこの世にはあまり存在しないのは彼自身もわかっているはずだったが、とっさに頭に出てきた抗議の言葉はそれであった。
迫りくるワゴンの尻に瞬間的に死の危険をレイモンドは感じた。
くるりときびすを返し、体を反転させると、すぐ後ろに控えていたクエスタを庇うように抱きかかえ、その勢いのまま先刻隠れていた路肩の地面へと転がり出た。
そうして猪のように突進してきた鉄の塊をなんとかやり過ごす。
二人を轢き損ねたワゴン車は、制御をしきれず袋小路から弾丸のように飛び出し、T字路の交差部分のゴミ溜めに尻から突っ込んで一度止まった。
一瞬、こちらを轢き直すつもりなのかレイモンドは冷や汗をかいたが、ゴミに半分埋もれたワゴンはその鼻先を変え、そのかわり猛スピードで路地裏から一目散に逃げ出した。
よほど慌てていたのかさっきまで吸っていたドラッグの影響なのか、アクセルの踏み加減もむちゃくちゃなのが、あっという間に遠ざかっていく車体の様子からでも良く分かった。
激しい加速にハンドルも取られているようで、車体はあっちこっちにぶつかっているくせに、致命的ダメージは憎たらしいくらい上手く回避していた。
「……すげー、運転テクニック」
「何を感心しているんですか! 早く本部に連絡を!!」
レイモンドに先んじて現実に立ち返ったクエスタに叱咤されて初めて、彼は今日から向こう3日は残業が続くことに気が付いたのであった。