03
「おはようございまーす!!」
挨拶とともに3人は、軽やかに店舗の扉を開いた。ドアベルが心地よい音を響かせて、訪れた者を出迎える。
「Speed Pizza」はスパイクヒルに店を構えるピザ専門店である。お気軽に電話一本でお好きなピザをお届けする、街の愛されデリバリー店である。
チェーン展開をしているわけでもなく、特に大きな資本で支えているわけでもない平凡なピザ屋ではあるが、具材の豊富さとオーソドックスなメニューの中にも、美味いなら少し斬新な組み合わせのものも載せてみる寛容さ、味の良さ、そして何よりきちんと火の通っているものを提供してくれるポイントで支持を集めている店だ。
まだ開店まで先だというのに、厨房と事務室とがメインの設備である店内は、生地のイーストが発酵する甘い香りに瑞々しさの残るトマトソース、オリーブオイルやチーズ、そしてサラミの肉と脂と塩気の香りが溶け合い、また具材の仕込みやオーブンの余熱の為に湿度と熱気とにそれらを増幅され、いっぱいになっており、扉を開けた瞬間から、ここに来るまでですっかり腹が減ってしまった子供らの胃袋を刺激した。
「おう、おはようさん。悪いな、朝早くから呼びだして」
奥の厨房エリアから野太い声を張り上げて、むさくるしいまでにガタイのいい男が声をかけてきた。
髭面、サングラス、高身長、筋骨隆々マッチョマン。トレードマークのつもりで頭に巻いたバンダナは、ファンキーかつロックロールに本人はキメているつもりなのだろうが、こちらからすれば持ち前のコワモテ要素をブーストするという意味でよく似合っている。
彼がこの「Speed Pizza」の店長だ。 こんなナリの彼ではあるが、ピザ焼きに関しては一家言ある男ではある。ただ様々な場面においてその外見で損をしていることがあったりもするが……。
外見はアレだがとても面倒見のよい男であり、この3人も今までに何度も日雇いバイトで世話になっている。
更には、労働の後に美味いまかないまで食べさせてくれたという、いつでも腹ペコな3人組にとっては、まさに天の助け、天使のような人である。多少ごついが、腹の虫よりは怖くない。
「ほんとっすよ! 朝っぱっから!?」
タクヒが雇われた立場も良く考えず文句を言い始め、ルフはそれを止めるためとっさに、タクヒに向かって裏拳を放った。見事、それはタクヒが全て言い終わるより前に彼の顔面に決まった。
「何すんだよ! ルフ!!」
「こんっの、いらんこと言い!!」
「だからって殴らなくてもいいだろが!」
「言ってわかる頭じゃないでしょ!!」
少しばかり過激なしつけへの抗議から始まった二人の喧嘩を尻目に、嘉一は店長と話をし始める。
「店長さんもお元気そうで~」
「お前らほどじゃないよ、まじで」
「でも……確かに今日は急な呼び出しでしたね、何かあったんですか?」
「実はな……」
店長の顔には、以前の様な溌剌とした輝きが見られない。
その意味深な言葉の溜めに、嘉一の後ろで取っ組み合いに発展しかかった喧嘩をしていた二人も、その動作を止めざるを得なかった。
「はぁ? バイトがほとんど事情聴取!?」
「悪人面の店長を差し置いて!!!?」
「驚くのはそっちか」
話を聞かせてもらった子供たち三人は揃って驚きの声を上げた。
驚く方向が多少曲がっているような気もするのだが、近隣でもこの店長の見た目の怖さだけは悪い意味での折り紙つきである。
そんな店長を飛び越えた捜査員の目の付けどころに、子供たちの頭は疑問符だらけになった。
「大学の連続殺人でまた犠牲者だとさ、警察もピリピリしてんだろうよ。」
店長は呆れたような響きの言葉とともに今朝の朝刊を3人に渡してみせた。
その新聞の一面にはでかでかとした見出し文で“大学の殺人鬼!!”と書いてあるのを始め、この事件がいかにも異常性のあるものと言わんばかりの、煽りたてるような文章が羅列されていた。
実はここ最近、スパイクヒル周辺は警察の警戒が強まっている。新聞にもあったように、ある州立大学で連続殺人が起こったからであった。
この街からはそう離れていない場所で起こった事件であったのと、犯人の手掛かりらしきものが見当たらなかったのとで、とうとう捜査官たちの聞き込み捜査絨毯作戦はここ周辺にも範囲を広げてきたのだという。
この広い世の中、物騒な話も少なくない中、殺人事件など日常茶飯事のことなのだが、“最高学府”である大学の構内で、そのような物騒な事件がそう何度も発生しているとなると、話は別物だ。
しかもそれが立て続けに3人目、ともなれば良くあることなどではない。それはある種の恐怖すら伴って人の口の端に上るものとなっていた。
「おっと、もうこんな時間か……」
店長は慌てて、部屋の隅に設置されたテレビを点けた。ちょうど朝のニュース番組の最中で、画面の上部、朝の支度で忙しい視聴者でも確認しやすいようにその位置に表示された時計では、現在午前8時を過ぎたところと示されていた。
残念ながら店長にも、これから営業開始時刻までにやらねばならないことはまだ残っており、長話としゃれこむ時間は無い。
「ルフとタクヒはユニフォーム着て、予約分の配達に出発な」
「了解!」
「へ~い」
タクヒとルフは各々に返事をしながら、ユニフォームやその他の装備品を受け取るべくスタッフルームのドアをくぐり中に入っていく。
当然のように彼らの後ろについていこうとした嘉一の襟首を、突如何者かの手がむんずと掴み引き戻して阻止する。
店長の手だった。
「……で、嘉一は~……待機で」
「ユニフォームのサイズが無かったらLでも大丈夫ですよ~」
待機の理由を自分の分のユニフォームが足りなかったため、と思ったらしい嘉一はとんちんかんな返答をし、なおも彼らと同じ部屋に入ろうとした。
だが結局、店長に何が何でも絶対駄目だ、やめてくれ、お願いだ、と最後のあたりは懇願に近い形で止められてしまった。
自分も彼らと同じ内容の仕事をするもの、と嘉一は思って疑っていなかった。そのためか、自分がスタッフルームに入れさせてもらえなかったことに彼は驚きを隠せなかった。
だが、タクヒとルフには、その原因に思い当たる節があった。
「LとかMとかサイズの問題じゃなくて、配達時の危険度がAAAなんだろ……」
「く……重い……」
一方その頃。忌々しげにつぶやきながら葵は、全く起きる気配のない男の身体を、半ば力任せに引っ張って居間の中まで移動していた。
完全に眠りこけて意識のないエシュは単純な体重以上に担ぐ人間に重量を感じさせているらしく、普段はあまり表情を現さない葵が、ひどく疲弊したような顔をしている。
ずりずりとにじり寄るようにして部屋の中に配置してあるソファまでやっと近付くと、乱暴に背負った邪魔くさい荷物をその上に引きあげ、八つ当たり気味に手を離して放り出す。
どしゃっ、という音とともに、勢い付いた状態でソファの座面にエシュは投げ出された。結構な衝撃があったはずなのだが、よほど寝不足が深刻であるのか、依然としてエシュは眼を覚まさなかった。
ひと仕事を終えた葵は、肩で息をつきながら、こう言う時に人を転がしておけるソファがあってよかった……とも思ったものだったが、その直後にはたと、元々それを持ってきたのはエシュだったと思い出し、若干の自己嫌悪を持つのだった。
この両人の間で過日、とある『取り引き』が行われた。
ところがその後、自分達の間柄をとっかかりに、部屋が殺風景だの生活感がないだの不便だのこれでは女にモテないだの、その他もろもろ、部屋の内装に対しておせっかいな理由と言いがかりをエシュは付け始め、気がつけば部屋の主である葵の許しなしに備品を増やし、いつの間にか葵の自宅はエレグア・グラム邸第二の居間と言っても差し支えがなくなってしまうほどに、葵の生活は侵食されていた。
この現状を再認識するたびに、葵の口からはため息が出るようになった。
それにしても、引きずったり投げ出してみたりと、ここまで粗雑に扱っていても未だに目の覚めぬこの男に、さしもの葵も呆れを隠せなかった。
この男、確実に心臓に毛が生えているに違いない。
葵はエシュをソファの上に置いてから、床にすっかりばらまかれてしまった書類を、これ以上散乱させないように丁寧にかき集めて始めた。
そうしているうちに、また今度はエシュの着ている服の胸ポケットから軽快な電子音楽が流れ出し始めた。彼はたいていそこに自身の携帯電話を差しこんでいる。
恐らくはそれが、誰かから来た着信を眠りこけているおのれの主人に、必死に告げているのだろう。
「全く、次は何だ……」
一瞬プライバシー保護などという問題も葵の脳内をよぎったが、エシュという男の稼業やその他の付き合いを鑑みると、今来ている連絡は緊急性が高いものである可能性がある。
本人に了解を取らないことに若干の引け目を持ちつつも、葵は携帯電話を相手のポケットから拾い上げ、機械にはめ込まれた液晶画面に映る連絡相手の名前を確認する。
と、そこにはエシュの悪友としてすっかり覚えてしまった名前があった。
『もしもし……』
「エシュ……じゃないな、葵か?」
『ああ、すまないが勝手にとらせてもらった』
「持ち主は?」
『現在、爆睡中だ』
「葵ちゃんナイス!!」
『誰が葵ちゃんだ』
相手の口調は至って軽い。この気兼ねのなさが、エシュとこの悪友との付き合いの長さを物語ると同時に、そこが長い付き合いの秘訣なのかもしれない。
しかし今回は妙なことに、電話に応対したのが電話の持ち主ではなかった、などと普通なら訝しげに思うような事なのに、この通話の相手はむしろ安堵している風である。
『いや~、助かったよ。言い訳のネタが無くてさー』
「……また、何かやらかしたのか」
『過去形じゃなくて現在進行形っつーか……まぁ、伝言頼むわ』
「それは構わないが……」
「おい……電話変わってくれ」
地を這うような声が葵の視野の下から聞こえた。
いつの間にか目を覚ましていた男がそう訴えたのだ。多分電話も向こう側にいる件の悪友にも聞こえたのか、何となく察しがついたのかしたのだろう、電話越しに相手が息を呑む気配がした。
ソファから伸ばした手は、葵の着ているシャツの裾をつんつんと引っ張り、その携帯電話をよこせと主張している。
「……だそうだ。なんとか言い訳を捻りだしてくれ」
電話の向こうからは、大きなため息が聞こえたような気がした。
「資料を取りに来れないって、どういうことだ!! レイモンド!!!」
『今日は色々と立て込んでいて……』
「ヤクの売人ファイル今すぐ作れって言ったの、お前だろ!!」
『いや……あの、なるべく早く取りに行くようにするから』
「情報はすぐに腐るんだよ! いいからはやくこい!!!」
電話を替わってから、ついさっきまでの眠気を残した相好はどこへやら、語気の荒い、かなり早口のやり取りがそこでは展開されていた。
そしてボリュームも相当大きいらしく、狭くは無いはずのアパートの部屋の壁にわんわんと反響している。あまり物事に動じないはずの葵ですらも顔をしかめるほどなのだから、よほどのものだったのだろう。
何とかこの場のとげとげしいほどの雰囲気を紛らわしたかった葵は、そこのあたりに放置されたままの朝刊に目を通し始めた。
『なんでそんなに焦っているんだよ!?』
「……調査中に気になる奴を見つけたんだ。そいつ自体は小物なんだが……。
もしかしたらアイツに繋がっているかもしれない。
だから早いとこ……」
『いやさぁ。
こっちだって色々忙しいんだよ。お前だって元警官なら解るだろ?』
「それとこれとは……」
違う、と言いかけて、エシュは止まった。
「くそ!!」
そしてエシュは悔しげに、手に持っていた携帯電話を床に叩きつけた。
ドカッ、と密度の高そうな音を立てて、その小さな機械は衝撃で飛び出た電池パックをふっ飛ばしながら、外れた部品ともども廊下まで転がり滑って行く。
床も少しへこんだので、いつか全てリスト化して弁済してもらうため、葵はこのことを心に留めておこうと思った。
(友達との喧嘩でも何でも、やってはならない理由はないが、頼むから人の家で暴れないでくれ……。)
葵はまた、深いため息をついた。
「エシュ。最近物騒な事件が続いている。警察も大変なんだろう」
そうエシュに呼びかけ、冷静さを取り戻すよう促してくる葵の言葉に、しかし、ぎろり、とエシュは睨み返してくる。
葵の言う事は正しいのだが、今は己が否定されたような反発心の方がエシュの中では勝っているらしく、素直に聞き入れ難いようだ。
「お前はレイの肩持ちかよ、いやになるね」
「別に……」
「どうだか」
そういうわけではない、と続けたかったが、エシュの子供の言動の様な言葉に遮られてしまった。
レイモンドや葵とのやり取りで、すっかり自身の子供っぽさを露呈してしまったエシュは、場をごまかすように勢いよく部屋の窓を開け放し、外へ身を乗り出し、その外にある足場の上に移動した。
その、室内から見れば腰高の位置についている窓の下の外壁には、ちょうどそこから簡単に出入りできるような位置に鉄製のベランダ状の足場がある。
それは小さいくせに見るからに頑強そうな造りをしており、多少の事があっても壊れそうにない代物だ。柵は付いているものの、人一人がやっと通れる程度の狭いベランダには、やはり鉄製の太い梯子が掛かって上下階を繋げている。
その梯子をたどれば、葵の部屋のある階から、すぐ上のエシュの居室、空き部屋、最上階の屋上まで、同じような設備を通して繋がっている。何のことは無い、その正体はアパートの非常用階段だったりする。
ベランダ状のそれは踊り場の役目を担っているものなのだが、彼らは、特にエシュは、細々と物品を置かないではいるものの、そこを通路代わりにして上下階を行ったり来たりしているのである。
そんな外の鉄梯子もそのかかる年数のせいか、薄く錆び色の粉が吹き始めているが、彼らは自己責任で気にしないでいる。
そんな鉄臭いの梯子を登りながら、エシュは振り返り葵に命じる。
「もうあんな奴知らん! 携帯鳴っても取るなよ、絶対に!!」
誰彼がその着信を取る以前に、携帯そのものの電池パックが外れている現在、どちらにしても携帯は鳴らないのではないか、と葵は思うのだが、肝心のエシュがそこに気付いている様子は無い。
様子は無いが、気が立っている今の彼に対し、あえて突っ込みを今入れるのは得策ではない。
「そうだ、エシュ。玄関のカギはどうした」
「あ、聞きたい? 夕飯食わせてくれるなら……」
「その梯子を真っ二つにする前に答えろ」
ふと湧いた疑問で空気を紛らわせてみたが、機嫌を途端に直すまでならまだ可愛らしさもあるが、まさか便乗して夕飯をたかるとは。なかなかふてぶてしい男である。
即座に葵はそのおこがましい要求を跳ねのけた。
「冗談通じねぇな……無くなったんだよ。調査中に」
「要するに落としたのか」
「そうとも言うな」
「そうとしか言わん」
エシュはよっこいしょ、の掛け声とともに上の階に乗りあげるようにして戻っていく。「おれちょっと寝るわ~」などと階下に手を振りながら、葵に届くかなど確認もしないままに暢気な伝言を残していく。
そのまま永眠していいぞ、と、葵なりのユーモアを利かせた返答もあったのだが、そこに反応は無い。
結局、せっかくの葵の冗談は聞かなかったことにされたようだった。
「エシュが元警察だったとは……」
葵は一人残された部屋で、ふとさっきの会話を反芻し始めた。床の上に投げ出されたまま悲しく放置されたままの電池パックを拾い上げ、これまた元の携帯の背面の大穴にはめ込んでやる。
まるで命を取り戻したかのように画面を光らせる携帯をいじり、そしてふむ、と一人呟く葵。
良くも悪くもほどほどに、良い距離を保った付き合いを持っていたはずだったが、その距離の分だけ知らない事は意外と多かったようだ。
ただ、それらに関しては、まだエシュ側から話されることも起こっていないし、特にこちらからも詮索したい意思も特にない。
必要になった時にそういった物事は知ろうとすれば良いだけの話だ。そう葵は思っている。
思考を切り替えるべく目を手元の携帯電話から放し、ふと、あるものに気が付いた。先程読んだままだった朝刊の、その中に挟まった折り込みチラシ。ピザ屋のものだった。
そういえばエシュは、多くの大衆がそうであるように、ピザが好物の一つであったことを、そのチラシから思いだす。
「仕方ない、たまにはあいつの苦労を労ってやるか……」
好物の一つでも腹に入れば、また気力も戻ってくるだろう。
そう思い付き、葵はあるところへの電話番号を確認しようと、折り重なった新聞紙の間から、折り込み広告のピザ屋のチラシを引っ張り出した。