01
ちっぽけな僕らが生きていくには、
この町は寒すぎて……
戻れない僕らが生きていくには、
孤独は重すぎて……
それでも自由に憧れて
―――そして僕らは、
僕らは世界を生きていく。
彼らのいる街は、ダウンヒルと呼ばれていた。
貧困層と中流層とがお互いに隔絶しない程度にすみわかれ、お互いに干渉しすぎぬ程度に共存している、ある意味ありふれたどこにでもある、そこはそんな街だった。
時はAM5:00。
喧騒渦巻く深夜の盛り場の空気もこの頃には疲れ果て薄まり、かといってまだ人々が活発に動き出すには早すぎる、そんな束の間の静寂が街を覆っている。外を出歩く人物は新聞配達員や牛乳配達員など、朝の裏方くらいしかおらず、街角一つとってみても、朝もやといまだ太陽の出ていない薄暗さとが、この時間帯のはかなさを現していた。
ジリリリリリリリン!! ジリリリリリリリリン!!
そんな長くはないひと時であるにもかかわらず、ある街角のある路地裏では、静けさなど掃いて捨ててしまえと言わんばかりの大音量が響いていた。ダウンヒルの街の中でも裕福ではない層の人間が多く住むエリア故か、そこ周辺の路地は街の中でも特に狭い造りをしていた。おまけにレンガ造りの建物に、それでも舗装されたコンクリート路面と、全ての要素が音をより強く大きく反響させるためにあつらえてあるのではと疑うほどに揃っている空間だった。そんな中での静寂を奪う行為というものは、そこの住人達に朝飯前の運動代わりと称されて袋叩きにされても仕方がないと思えるほどである。
しかし奇妙なのはその音の源であった。たいてい朝の時間帯に大音量をぶちまける定番の顔といえば目覚まし時計のアラームだ。しかしそれらの類はうっかり放り出されない限りは家の中で仕事をしているものである。そこには、そんなうっかり外に出された目覚まし時計などあるわけはなく、今、澄んだ早朝の空気をぶち壊す雄たけびを上げ続けているのは…何故か、地面にまっすぐ突き立てられたスタンドの公衆電話であった。
ジリリリリリリリン!! ジリリリリリリリリン!!
「だぁあああああああああ! うるっせぇええええええ!」
けたたましくなり続ける電話スタンドのすぐ目の前の、小さな廃墟ビルの3階に彼はいた。安らかな眠りを邪魔された可哀想な住人の一人なのだが、受話器を取る者がいなくて泣き叫ぶ公衆電話の呼び出し音に叩き起こされてしまった。まだまだ寒い時期だからと部屋の窓を閉めているにもかかわらず、けたたましいベル音は壁を伝って耳にまで届いて来ていたようだ。
「くっそ! どこのどいつだ! 人様の安眠を妨害しやがって!」
そう毒づきながら、くるまっていた汚い毛布をおのれの体からはぎ取り、コンクリートの床に叩きつけたのは、まだ年若い少年であった。
きり、と上がった太い眉とハリネズミの様に逆立ち気味になってしまう髪の毛と、鼻にうっすらと入った一文字の傷が特徴的な、その年頃に相応の日に焼けた肌をした少年だ。普段はまだまだやんちゃ坊主と言えるだろう、快活な印象を与える少年ではあるが、何しろ今は突然何者かに叩き起こされたことで機嫌を損ねているせいか、目つきが良いとは言い難い。
名をタクヒという。
「妨害しているのは、お前だ!」
少年の絶叫に間髪入らぬタイミングで少女の声が響き、同時に多少のほこりをまとった何かが、バフンっという音を伴って少年の側頭部に思い切り叩きつけられた。予兆も何も感じなかったためか、思いのほかその柔らかい何かからダメージをくらったらしく悶絶してのたうつタクヒに、同じ部屋の片隅に配置されたくたびれたソファから、先ほどのと同じ声が更に文句をつけた。
「ったく、なんなのよ。寝言は寝てから言いなさいよねー」
「ルフ……てんめぇ……」
「自業自得。朝っぱっから騒いでる、あんたが悪い」
そのほこりっぽいソファの上に寝そべっていたのはルフと呼ばれた細身の少女だった。髪は長くしてあるが独特のくせがあるらしく、また起き抜けの寝ぐせもそのままのせいかぼさぼさだ。きょろりとした日頃せわしなく動いているであろうアーモンド形の両目は、猫っぽい印象がある。見たところタクヒとそう歳は変わらないようだ。
「あ、タクヒ。ついでにそれ返して」
ルフに悪びれた様子は全くないばかりか、ソファに寝転んだまま彼女はタクヒに命じた。タクヒの頭に投げつけたナニか……彼のすぐ足元の床の上に転がっている、中綿が随分と飛び出たぬいぐるみを彼女は指していた。
タクヒはしかめっ面を隠すことなく、舌打ちをしながらもそれをルフに向かって投げ返した。
正直タクヒ側としてみれば、気易くものを投げるな、頭を狙うな、なんでこれを武器に選ぶんだ、ジェンダー論を説く気はないが少しは恥じらえ、などなど、多少なりとも言い返してやりたい事項はいくつかあったのだが、なにしろ彼女…ルフは自分よりは弁が立つ。ここで下手に文句を言って行動を改めてもらうには今のタクヒでは難しいだろう。ルフの口撃力で血祭りにされるのがオチだというのは、これまでの共同生活で嫌というほど解っていた。
「ってゆーか、さっきからリンリンリンリンうっさいわね!」
つい一瞬前まで、タクヒの出した大声に怒っていた人物が、今度は逆に大声を出している。この事実に対しタクヒは日常生活の中に潜む理不尽また一つ学習したが、つい先程のやりとりでは自分の主張を引っ込めたタクヒはここで文句の一つ二つは言ってやりたくなった。
「お前が言うな! つかココの電話だろ!? 何とかしろよ家主!」
「まっさかー、うちにそんなハイテクな物があるわけないでしょ。別ん所よ」
「……さいですか」
とりあえずタクヒの記憶が正しければ、『電話』がハイテク機器に分類されていた時代は遥か昔のことだったはずである。
そう、彼らの今いる部屋には、いや今いる建物には電話がない。そういったものが置けないくらい、お財布事情が厳しいのだ。毎日、どこかしらの仕事の手助けに入って、食いつないでいるのが現状だ。はっきり言えば、日雇い。ただ、子供なりの知恵として、あらぬ疑いやトラブルを避けるため、彼らは「何でも屋」と名乗ることにしている。
「まったく……どこのどいつよ、電話鳴らしっぱなしのアホは」
やっと重い腰を上げた家主が、騒音の発信源を見るために窓に近づく。建付けの悪い窓の窓を、重たい音とともに上に持ち上げると、大きな音がさらに大きくなって部屋の中に流れ込んでくる。あってもなくても似たようなものだと思っていた窓ガラスだったが、こうなってみればやはり窓ガラスはあるにこしたことはない。
廃墟の一階部分はかつては喫茶店だったようなのだが、そこにはまっていた窓ガラスはとうの昔に全て破られており、また壁には落書き、備え付けされていたテーブルや棚は見るも無残な状態に破壊されている塩梅で、とてもではないが自分たちの巣とするにはトラブルも雨風も防げそうにない。まぁ、だからといって3階を選んだとしても根本的にあまり変わってはいないような気もするが。
「……なんであそこの公衆電話が鳴ってんの?」
「それは俺が聞きたい」
依然として公衆電話は彼らの眼下でベル音を鳴らし続けている。はっきり言ってやかましいにもほどがある。しかしルフもタクヒも首をかしげるしかなかった。騒音の原因が解っても、理由がわからなければ解決につながらず意味が無い。電話が鳴るということは、電話をかける者がいて……
「しまったぁああああああああああああああ!」
突如ルフが血相を変えて叫んだ。どうやら公衆電話が鳴る理由を思い出したようだ。そしてルフは絶叫の勢いもそのままに、開け放っていた窓のフレームに片足をかけ外へ体を乗り出した。
「ちょっ、おいルフ! 何やって……」
タクヒの制止に耳を貸すことなく、彼女は窓のフレームを思い切り踏み切った。
鳥のように両手を広げ空中に躍り出たルフの体は、重力に従ってコンクリートの地面に吸い込まれるように、落下する。
問題 建物三階部分から、人間が落ちたらどうなるでしょうか。
答え 運が良くて大怪我、下手すれば死亡。
だけど、世の中には例外というものがいる。
地面に難なく着地したルフは何も問題がなかったようで、いまだに喧しく鳴っている公衆電話に走り寄り受話器を取った。
「……マジかよ。ここ3階だぜ?」
一体どこで身につけてきたのか、彼女の特性はこの身体能力の高さの一言に尽きる。一見ひ弱にすら見える、剛性とは無縁の華奢なルックスで、見ている方がハラハラするほどのバランス芸だの落下芸だのを、彼女は時折予測もしないようなタイミングで披露することがある。おかげで周囲の人間も慣れたとはいえまだまだ度肝を抜かれることが多い。
ああ、だから空気抵抗(胸)が少ない体の構造になっているのか。などと思ったことは一度や二度ではないのだが、おそらく言った瞬間確実に人生の強制エンディングになるのは想像に難くないので、タクヒはまだそれをルフに言ったことはない。まだ死にたくはない。
「ルフは今日も元気だねぇ」
そんなルフの朝飯前の曲芸落下にしばし気を取られていたタクヒの真後ろから突如、ほんわか緊張感のない声が降ってきた。
「うおわっ!」
反射的にタクヒが後ろを振り向くと、アルビノ独特の赤い目と羊の様なぽわぽわな髪をした、柔らかな笑顔の少年が立っている。
「嘉一っ! お前いつからそこに居た!?」
「おはよ~、僕も元気だよ」
「……しかも会話する気、ゼロだろ」
嘉一と呼ばれたこのぽわぽわした少年は、ふわふわした見た目と同じように性格もふわふわしている。一緒に過ごしていても、若干世間知らずなところがあり、たまに何を言っているのか解らない事があるのが難点だ、とタクヒとルフは思っている。
タクヒやルフとたまに話が合わない事がある。単純にマイペースと呼ぶべきなのか、それとも実は相当大物な器の持ち主で、多少の話のかみ合わなさくらいならさして問題とは見ていないのか、あるいはそのどちらもなのか。しかし一応共同の生活をするうえでは、せめて会話のキャッチボールくらいはしてほしい、とタクヒはたまに思うのである。そんなわけで会話のゲートボールかゴルフボールの状態は二人とも頭を悩ませている。
「でも、電話が鳴るなんて久しいなぁ」
「あ? お前ら電話って言ってるけど、アレってどう見ても……」
疑問を口にしようとしたその時、階下から二人を呼ぶ声がした。どうやらルフが電話相手との会話を終えたらしい。
「おーい! 二人ともー」
タクヒと嘉一が窓から下へと顔をのぞかせると、コンクリートの舗装道路に立つルフが彼らを見上げ、満面の笑みで手を振っていた。
「急いで、お仕事の依頼だよ!」