9
深夜の王城、医務室。窓から差し込む月明かりだけが、白いベッドを照らしていた。
「……すー、すー……」
規則正しい寝息。リュミエールは、泥のように深く眠っていた。包帯を巻かれた胸元は痛々しいけれど、あの時の傷はもう塞がりかけている。「光の心臓」の治癒力、恐るべしだ。
「……バカな人」
私はパイプ椅子に座り、彼女の寝顔を見つめていた。あんなに強いのに、無防備で。スパイの私を信じきって、友達なんて言っちゃって。
「ノワール様、そろそろ部屋に戻りましょう。衛兵に見つかりますよ」
「分かってるわよ。……あと少しだけ」
私はポッコの忠告を聞き流し、リュミエールの手に触れようとした。その時。
――ガシャンッ!
窓ガラスが粉々に砕け散った。
「きゃあっ!?」
「な、なんです!?」
突風が吹き込む。いや、風じゃない。圧倒的な質量の「闇」が、雪崩のように部屋の中へ流れ込んできたのだ。
「うそ……結界は!? 王城の警備魔法はどうなったの!?」
「破壊されました! というか、溶かされました! これは……!」
ポッコが毛を逆立てて悲鳴を上げる。部屋の明かりが明滅し、完全に消えた。闇の中で、二つの赤い瞳がギラリと光る。
「――待ちくたびれましたよ、ノワール」
氷点下の声。闇の霧が凝縮し、ベッドの傍らに、漆黒のドレスを纏った女が姿を現した。影分身じゃない。この圧倒的な威圧感。魔力の密度。本物の女王オブシディアンだ。
「母様……!? どうして、ここに……」
「お前がいつまで経っても美学とやら拘って、仕事をしないからですよ。しびれを切らして、私が直々に出向いてあげました」
母様がコツ、と床をヒールで叩く。それだけで、私の体は金縛りにあったように動かなくなった。
「う、動けない……!」
「悪い子にはお仕置きが必要ですが……まあ、それは後でたっぷりと。まずは」
母様の視線が、眠っているリュミエールに向けられる。
「いただきましょうか」
「やめ……て……!」
私は必死に声を絞り出した。
「約束が違うじゃない! 期限はまだ……!」
「黙りなさい。お前の裏切りなど、最初からお見通しです」
「え……?」
「あの時、通信を切りましたね? そして、娘同然の魔物たちを焼き払った。……お前はもう、私の娘として失格です」
母様は冷酷に告げると、右手を高く掲げた。その手の中に、どす黒い魔力が渦を巻き、一本の鋭利な短剣を形成する。物理的な刃物じゃない。呪いの魔力で作られた、魂を切り裂く刃。
「リュミエール! 起きて! 逃げて!」
私の叫び声に、リュミエールがうっすらと目を開けた。
「……ん……アリス……?」
「おはよう、光の王子様。そして、さようなら」
母様が微笑んだ。次の瞬間、黒い短剣が振り下ろされた。
ドスッ。
鈍い音がした。血は出なかった。短剣はリュミエールの胸――包帯の上から心臓部へと、音もなく吸い込まれていった。
「あ……が……っ!」
リュミエールの体が弓なりに反り返る。声にならない絶叫。目が見開かれ、そこから光が失われていく。
「やめろぉぉぉぉッ!」
私は金縛りを力づくで破り、ベッドへ飛び込んだ。でも、遅かった。
母様がゆっくりと手を引き抜く。その手には、眩い虹色の光を放つ結晶塊――「光の心臓」が握られていた。
「……美しい。これぞ究極の魔力源」
母様はうっとりとクリスタルを眺める。一方で、心臓を抜かれたリュミエールは。
ドサリ。糸が切れた人形のように、ベッドに崩れ落ちた。死んではいない。胸はかすかに上下している。でも、その瞳は。あの宝石のようなサファイアブルーの瞳は、今は曇りガラスのように白濁し、何も映していなかった。
「……リュミエール?」
私は彼女の肩を揺すった。
「ねえ、嘘でしょ? 起きてよ。ねえってば!」
返事はない。焦点も合わない。ただ、口元がだらしなく開き、空っぽの呼吸を繰り返すだけ。感情も、意志も、記憶も。心臓と共に、すべて抜き取られてしまったのだ。
「あ、あぁ……」
絶望で視界が歪む。私のせいだ。私がもっと早く逃がしていれば。私がもっと強ければ。
「嘆くことはありません、ノワール」
母様が、私の頭に手を置いた。冷たい手。
「この抜け殻は、もう痛みも苦しみも感じません。光の責務からも解放されたのです。感謝されこそすれ、恨まれる筋合いはありませんよ」
「……ふざけるな」
「ん?」
「返せよ……。返せよっ!」
私は母様の手を振り払い、杖を構えた。殺してやる。実の親だろうが関係ない。こいつだけは許さない!
「闇の槍!」
渾身の殺意を込めた魔法。しかし、母様はそれを素手で――いや、指一本で弾き飛ばした。
パァン! 衝撃波が私を襲い、私は壁まで吹き飛ばされた。
「ぐはっ……!」
「親に向かって、いい度胸ですね。ですが、その覇気に免じて、今回は命だけは助けてあげましょう」
母様は「光の心臓」を大切そうに懐にしまうと、再び闇の霧に包まれた。
「さあ、帰りますよノワール。お前には次期女王として、この心臓の適合手術を受けてもらいますからね」
「……は?」
「光と闇を統合し、完全なる支配者となる。それがお前の運命です」
母様の影が広がり、私とポッコ、そして部屋全体を飲み込んでいく。意識が遠のく。最後に見たのは、月明かりの下、虚ろな目で天井を見つめるリュミエールの姿だった。
(ごめん……リュミエール……私は……あんたを守るどころか……)
私の意識は、深い闇の底へと沈んでいった。
翌朝。王城は大騒ぎになっていた。留学生アリスが行方不明になったこと。そして、リュミエール王子が謎の病により、心を失った廃人のようになってしまったこと。
誰も知らなかった。その夜、一人の少女が、世界から光を奪い去ったことを。そして、もう一人の少女が、心ごと闇に連れ去られたことを。
物語はここで、一つの終わりを迎える。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ドクン。ドクン。ドクン。
うるさい。耳元で太鼓を叩かれているみたいだ。いや、耳じゃない。私の胸の奥、肋骨の内側で、異物が暴れている音だ。
「……目が覚めましたか、ノワール」
重いまぶたを開ける。視界に入ってきたのは、見慣れた灰色の天井と、黒いシャンデリア。ここは常闇の国。私の部屋……ではなく、王城の玉座の間だ。
私は、黒曜石で作られた冷たい玉座に座らされていた。体を起こそうとして、違和感に気づく。体が、軽い。まるで羽が生えたように、重力を感じない。その代わり、血管の中をマグマが流れているような、焼けつくような力の奔流を感じる。
「気分はどうですか? 私の愛娘」
母様が、満足げな笑みを浮かべて私を見下ろしていた。その視線は、私自身ではなく、私の胸元に向けられている。
私は恐る恐る、自分の胸に手を当てた。ドレスの上からでも分かる。そこには、かつてリュミエールの胸にあったあの硬い感触――光の心臓が埋まっていた。
「……母様。私、手術を……」
「ええ、大成功でしたよ。お前は適合したのです。闇の血統でありながら、光の魔力源を受け入れる器として」
母様が手を広げる。
「素晴らしい魔力だ。以前のお前とは比較になりません。ただそこに座っているだけで、城中の空気がビリビリと震えているのが分かりますか?」
言われてみれば、周囲に控えている兵士たちが、青ざめた顔で震えている。恐怖? 畏怖? ポッコはどうしたんだろう。視線を巡らせると、玉座の陰に隠れて、ガタガタと震える黒い毛玉を見つけた。
「……ポッコ」
「ひいぃッ!」
私が名前を呼んだだけで、ポッコが悲鳴を上げて飛び上がった。
「な、何よその反応。私よ、ノワールよ」
「ち、違います……! 匂いが……気配が違いすぎます! まるで、歩く魔力炉心みたいで……怖いです、ノワール様……」
ポッコが後ずさりする。ショックだった。唯一の相棒に、バケモノを見るような目で見られるなんて。
「……ふん。臆病な猫ね」
私は吐き捨てた。あれ? 今、傷ついたはずなのに。胸の奥がちっとも痛くない。悲しいとか、寂しいとか、そういう感情が湧いてこない。ただ、事実として認識しているだけ。――心が、冷たい。
胸のクリスタルはこんなに熱いのに、私の感情だけが、急速冷凍されたように動かない。
「さあ、ノワール。その力を試してみなさい」
母様が指差したのは、広間の端にある巨大な石柱だった。
「あれを破壊してみなさい。昔のお前の闇魔法では、傷一つつけられなかった相手ですが」
「……破壊、ね」
私は無造作に手をかざした。杖はいらない。イメージするだけでいい。壊れろ。消えろ。
カッ! !
一瞬、視界が真っ白になった。虹色の閃光が私の掌から迸り、石柱を飲み込んだ。轟音もなかった。光が収まった後には、石柱はおろか、その背後の壁も、床も、天井の一部さえもが、綺麗さっぱり消滅していた。
「……は?」
私は自分の手を見つめた。何これ。手加減したのに。軽くデコピンするくらいのつもりだったのに。これじゃあ、破壊じゃなくて消去だ。
「くくく……ははははは! 素晴らしい! これぞ私が求めていた黄昏の魔力!」
母様が高笑いする。兵士たちが腰を抜かす。でも、私は笑えなかった。むしろ、吐き気がした。
この力は、私のものじゃない。リュミエールのものだ。彼女が血の滲むような努力で制御し、守るために使っていた力を、私は奪い取って、こんな破壊のために使ってしまった。
「……ねえ、母様」
私は、凍りついた感情の底から、一つだけ問いを投げかけた。
「あの子は……リュミエールは、どうなったの?」
母様の笑い声が止まる。彼女は冷ややかな目で私を見た。
「気になりますか? 抜け殻のことが」
「……私の心臓の、元の持ち主だもの。知る権利はあるでしょ」
「フン。……死んではいないようですね」
母様は空中に映像を投影した。遠見の魔法だ。映し出されたのは、光の国の王城の一室。
そこには、車椅子に乗せられたリュミエールの姿があった。痩せ細り、肌は土気色になり、うつむいたままピクリとも動かない。世話係のメイドが食事を口に運んでいるが、咀嚼もしないため、流動食が口の端からこぼれ落ちている。
「……ッ!」
息が止まった。あれが、あの眩しかった王子様? 私の友達?
「心臓を失ったため、自力で魔力を生成できず、生命維持もままならない状態のようです。……まあ、生ける屍ですね」
「……」
「光の国はパニック状態です。希望の象徴がこのザマですからね。今攻め込めば、赤子の手をひねるより容易いでしょう」
母様は楽しそうに語る。私は、拳を握りしめた。爪が食い込んで血が出るほどに。
返して。返してあげてよ。あの子に罪はない。悪いのは私だ。私がスパイなんて引き受けたから。私が裏切ったから!
(……でも)
声が出ない。逆らえない。私の体内に流れるこの魔力が、母様の支配をより強固にしている気がした。逆らおうとすると、心臓が焼けるように痛み、思考が冷たく塗りつぶされる。
「さあ、ノワール。準備なさい。近日中に、光の国へ総攻撃を仕掛けます。お前が先陣を切るのです」
「……」
「返事は?」
「……はい、母様」
私は無表情で答えた。母様が満足して広間を出ていく。
一人残された私は、冷たい玉座に深く沈み込んだ。
「……ごめんね、ポッコ」
「ノワール様……?」
「私、もう前の私じゃないみたい」
涙が出なかった。リュミエールのあの姿を見ても、泣くことさえできない。ただ、胸のクリスタルだけが、皮肉なほど力強く鼓動を続けている。
――ドクン。ドクン。
それはまるで、お前が奪った命だ。お前が背負って生きろと責め立てているようだった。
私は玉座の肘掛けを掴んだ。パキパキ、と音がして、黒曜石が白く凍りついていく。氷の魔法? 違う。私の心が冷えすぎて、触れるものすべてを凍らせてしまうのだ。
「……冷たい」
私は誰にも聞こえない声で呟いた。世界最強の魔女になったのに。今、私は世界で一番、寒くて孤独な場所にいた。
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