8
「……はあ。疲れた」
私は重い足取りで、森の小道を歩いていた。背中のリュックの中で、ポッコが心配そうに顔を出す。
「ノワール様、ため息をつくと幸せが逃げますよ。ただでさえ薄幸な顔をしているのに」
「うるさいわね。……幸せなんて、この国に来てから一度も感じてないわよ」
嘘だ。美味しいケーキを食べた時も、リュミエールとダンスを踊った時も、確かに胸が躍った。でも、今の私にはその記憶さえも重荷だった。
あの日以来、リュミエールとの距離は縮まる一方だ。彼女はアリスという友人を心から信頼し、悩みや愚痴をこぼすようになった。私はそれに「うんうん」と相槌を打ちながら、隙を見ては心臓の位置を確認したり、城の警備体制を探ったりしている。
最低だ。笑顔で近づいて、背中から刺す準備をしているようなものだ。彼女の真っ直ぐな信頼が、私のドス黒い良心をジリジリと焦がしていく。
「もう、限界かも」
「ノワール様……」
城の眩しさに耐えきれず、私は逃げ出した。向かった先は、この国で唯一、少しだけ湿気があって、薄暗い場所。
ガラス張りの温室の扉を開けると、ムワッとした湿気と、土の匂いが迎えてくれた。
「……ただいま」
「おや。いらっしゃい、アリス」
奥の作業台で、テオが顕微鏡を覗き込んでいた。相変わらずボサボサの髪に、土で汚れたエプロン。でも、その飾らない姿を見ると、張り詰めていた糸がプツンと切れた気がした。
私は返事もせずに、近くの丸椅子にドスンと座り込み、テーブルに突っ伏した。
「……水」
「はいはい。水じゃなくて、特製ハーブティーね」
テオは慣れた手つきでポットにお湯を注ぐ。コポコポという音が心地いい。出されたカップからは、レモングラスのような爽やかな香りがした。
「どうしたんだい? まるで日照り続きでしおれたシズク草みたいだ」
「……植物に例えないでよ」
「分かりやすいだろう? で、何があったの? 王子様にいじめられた?」
テオが向かいの席に座り、頬杖をついて私を覗き込む。その目は、すべてを見透かしているようで、でも何も追求しない優しさがあった。
「……いじめられてないわよ。むしろ、優しくされすぎて辛いの」
「ほう。贅沢な悩みだ」
「違うのよ! ……ねえ、テオ」
私はカップの縁を指でなぞりながら、ポツリと漏らした。
「もし、私が……あんたが思ってるような普通の女の子じゃなかったら、どうする?」
「ん?」
「もし私が、みんなを騙してて、本当はすごく悪い子で……毒を持った花みたいに危険なヤツだったら」
言ってしまった。正体は明かしていない。でも、これは私の精一杯の告白だった。
テオは少し驚いた顔をして、それから眼鏡の位置を直した。
「……君は、自分を毒花だと思うのかい?」
「だって、私は嘘つきだし。暗いし、ひねくれてるし。……この国の光には馴染めない異物だもの」
リュミエールのように輝けない。母様のように冷徹にもなりきれない。私は中途半端なグレーの存在。
テオは無言で立ち上がり、温室の奥へと歩いていった。そして、一つの鉢植えを持って戻ってきた。植えられていたのは、黒に近い紫色の花びらを持つ、不思議な花だった。
「これを知ってるかい? 夜想花というんだ」
「……暗い色の花ね。あんまり可愛くない」
「そうかな? 僕は世界で一番美しいと思うけどね」
テオは愛おしそうに花弁に触れた。
「この花はね、強い日光に当たると枯れてしまうんだ。だから、森の奥の、木陰でしか生きられない。……でも、見てごらん」
彼が温室の遮光カーテンを少し閉め、部屋を薄暗くした。すると。紫色の花が、ボゥッと淡い光を放ち始めたのだ。まるで、夜空に浮かぶ星屑のような、幻想的な輝き。
「……綺麗」
「だろう? 太陽の下ではただの黒い花に見えるけど、闇の中でこそ、こうして独自の輝きを放つんだ」
テオは私の方を向き、優しく言った。
「植物にはそれぞれ、咲くべき場所がある。ひまわりには太陽が必要だけど、この子には影が必要なんだ」
「……」
「君がもし暗いと言うなら、それは君が影で輝く花だからかもしれない。無理をして太陽の下で咲こうとしなくていい。君には君だけの、咲き方があるはずだよ」
――無理をして、咲こうとしなくていい。
その言葉が、乾いた心に染み込んでいく。母様は言った。闇こそ至高と。世間は言う。光こそ正義と。でも、この人は。私が私であることを、ただ性質として認めてくれた。
「……あんた、植物オタクのくせに、たまにいいこと言うわね」
「植物から学んでるだけさ。……それに」
テオが手を伸ばし、私の髪についた小さな葉っぱを取り払った。大きな手が、一瞬だけ私の頭に触れる。
「僕は、君のそういう毒っ気のあるところ、嫌いじゃないよ。……温室育ちの綺麗な花より、よっぽど生命力を感じるからね」
ドクン。今度は、心臓が違う意味で跳ねた。顔が熱い。薄暗い温室でよかった。明るかったら、茹でダコみたいになってるのがバレてしまう。
「……ば、バカじゃないの。物好きね」
「はは、学者だからね。珍しい種には興味が尽きないんだ」
テオは笑って、またお茶をすすった。
私は、目の前の夜想花を見つめた。闇の中で光る花。私も、いつかこんな風になれるだろうか。誰かを傷つけるためじゃなく、ただ自分らしく、静かに光ることが。
「……ありがとう、テオ」
「ん? 何か言ったかい?」
「なんでもない! お茶、おかわり!」
私は空のカップを突き出した。ここが好きだ。お城のような豪華さはないし、王子様のようなキラキラもない。でも、この土と草の匂いがする場所だけが、今の私が呼吸できる唯一の場所だった。
そして、目の前にいるこの冴えない植物学者が、私の固く閉じた蕾を、少しずつ解してくれているような気がした。
(……今はまだ、帰りたくないな)
スパイの任務も、女王の勅命も、ほんの一時だけ忘れて。私は温かいハーブティーの湯気越しに、テオの横顔をぼんやりと眺めていた。
「――そこだ! 挟み撃ちにする!」
「了解! ……って、速いわよこいつ!」
王都から少し離れた岩山地帯。私たちは、冒険者ギルドからの緊急依頼を受けて、魔物討伐に来ていた。相手はロック・リザード。全身が硬い岩で覆われた、巨大なトカゲだ。
普段なら王族が出張るような相手じゃない。でも、民の生活を脅かす魔物は見過ごせないというリュミエールの正義感により、私も巻き込まれる羽目になったのだ。
「アリス、左へ! 尻尾攻撃が来るぞ!」
「言われなくても!」
私は地面を転がって回避した。ドゴォォォン! ! さっきまで私がいた場所に、丸太のような尻尾が叩きつけられ、岩盤が砕け散る。危ない。あと一秒遅れていたら、私はペシャンコのミンチになっていた。
「こんの、石頭トカゲ! 私の可憐なドレスが砂まみれじゃない!」
私は岩陰に隠れ、こっそりと杖を構えた。リュミエールは前線で剣を振るっているから、こちらの様子は見えないはず。
(ポッコ、足元! 足元を狙って!) (了解です! 影の泥沼!)
ポッコの援護魔法で、リザードの足元の影がズブズブとした泥に変わる。足を取られたリザードが、バランスを崩して大きく体勢を崩した。
「今だ!」
リュミエールはその隙を見逃さなかった。白銀の残像を残して跳躍する。
「ハァッ!」
一閃。硬い岩の皮膚の隙間、柔らかい首元に、レイピアが深々と突き刺さった。リザードは断末魔を上げ、ドサリと巨大な体を横たえた。
「……ふぅ。片付いたな」
リュミエールが着地し、剣を振って血糊を払う。相変わらず鮮やかな手並みだ。私は岩陰から出て、パチパチと拍手をした。
「お見事ですね、リュミエール様。私、出る幕なかったです」
「はは、君のサポートのおかげだよ。リザードがいきなり転んだから助かった。……君の強運のおかげかな?」
「ええ、まあ。私、運だけはいいので」
嘘だ。私が転ばせたのだ。でも、彼女は疑いもせずにニコニコしている。この純粋さが、最近は逆に胸に刺さる。
「さあ、帰ろう。テオに薬草の採取も頼まれていたんだが、この騒ぎで辺りの草が全滅してしまったな」
「そうですね。また今度……」
私が言いかけた、その時だった。
ズズズズズ……。
不気味な地響きがした。足元の地面が微振動している。倒したはずのリザード? いや、違う。もっと大きな質量。
「ノワール様! 上です! 崖の上!」
「え?」
見上げると、崖の上に潜んでいたもう一匹のロック・リザードが、私たち目掛けて飛び降りてくるところだった。しかも、さっきのよりデカイ。親玉か!
「危ないッ!」
私は反応できなかった。魔法の詠唱も間に合わない。頭上から迫る巨大な影。死ぬ。そう思った瞬間。
ドンッ!
強い力で突き飛ばされた。視界がぐるりと回り、私は地面に転がった。
「ぐぅッ……!」
鈍い衝撃音。そして、何かが砕けるような嫌な音。
「……リュミエール?」
砂煙が晴れていく。そこに立っていたのは、私を庇うように仁王立ちしたリュミエールだった。リザードの爪が、彼女の胸板を直撃していた。彼女は一撃でリザードを弾き返したが、そのまま膝から崩れ落ちた。
「リュミエール! !」
私は駆け寄った。リザードは弾き飛ばされた衝撃で気絶しているが、今はそれどころじゃない。リュミエールは仰向けに倒れ、苦しげに息を荒らげていた。
「大丈夫!? しっかりして!」
「う、ぐ……。かすり傷、だ……。君は、無事か……?」
「私の心配なんていいから! ひどい怪我じゃない!」
彼女の白い騎士服は、胸元からざっくりと切り裂かれていた。そして。その裂け目から、信じられない光景が見えた。
「……嘘」
傷口から血は出ていなかった。代わりに、強烈な光が漏れ出していた。服の下、さらしが破れたその奥。彼女の左胸には、肉の代わりに、拳大の巨大なクリスタルが埋め込まれていたのだ。
ドクン。ドクン。クリスタルは、心臓の鼓動に合わせて明滅していた。虹色の光。圧倒的な魔力の奔流。美しいなんて言葉じゃ足りない。それは、命そのものの輝きだった。
「これが……光の心臓……」
私は息を呑んだ。母様が欲しがるわけだ。これ一つあれば、国はおろか、大陸全土を魔力で覆い尽くせる。それが今、私の目の前にある。リュミエールは意識が朦朧としていて、抵抗できない。チャンスだ。絶好の、二度とないチャンス。
――奪いなさい、ノワール
脳内で、母様の声が響いた。幻聴じゃない。この光に反応して、遠隔通信がつながったんだ。
今すぐ、そのクリスタルを掴みなさい。そして引き抜きなさい。そうすれば、お前は自由です。私の最高傑作として認めてあげましょう
自由。賞賛。もう、あの暗い地下牢で勉強しなくていい。ポッコを人質に取られることもない。
私は震える手を伸ばした。指先が、クリスタルの光に触れる。熱い。火傷しそうなほどの生命エネルギー。
これを掴んで、引き抜けば。すべて終わる。
「……アリス……?」
リュミエールが、うわ言のように私の偽名を呼んだ。焦点の合わない瞳で、私を見ている。
「逃げ……ろ……。まだ、敵が……」
こんな状態になっても。自分の心臓が剥き出しになっても。彼女は、私を逃がそうとしている。
「……バカじゃないの」
私の目から、ポロポロと涙がこぼれた。
「なんでよ……。なんで、私なんか庇うのよ……」
「とも……だち、だから……」
友達。その言葉が、私の汚い心を殴りつけた。
私は、こいつを騙しているのに。奪おうとしているのに。なんで、あんたはそんなに眩しいのよ。
何をしているのです、ノワール! 早くしなさい!
母様の声が苛立ちを帯びる。私は、伸ばした手を――。
ギュッ、と握りしめた。クリスタルを、じゃない。リュミエールの、破れた服の端を。
「……うるさい! !」
私は虚空に向かって叫んだ。
ノワール!?
「今は無理よ! 見て分からない!? 周りには衛兵も近づいてきてる! 今奪ったら、私が犯人だってバレて、逃げきれないわ!」
苦しい言い訳。でも、私は止まらなかった。
「もっと完璧な状況で奪うの! 私の美学に反する真似はさせないで!」
私は通信を一方的に遮断した。そして、リュミエールの胸に手をかざした。
「……ポッコ! 治癒のポーションと、包帯!」
「は、はい! ノワール様、やらないんですね!?」
「当たり前でしょ! こんな傷物、母様に献上できないわよ!」
私は震える手で、彼女の傷口にポーションをふりかけ、包帯できつく巻き直した。眩しい光が、白い布の下に隠されていく。
「……はぁ、はぁ……」
応急処置を終えた頃、ようやく遠くから衛兵たちの声が聞こえてきた。リュミエールの呼吸は安定している。クリスタルが自己修復機能を持っているのか、傷の治りも異常に早かった。
「……助かったわね、あんた」
私は気絶しているリュミエールの額に、ペシリとデコピンをした。
「命拾いしたと思いなさいよ。……次に隙を見せたら、その時は本当に奪ってやるんだから」
それは、誰に対する言い訳だったのか。私は彼女の体を支え起こしながら、自分の心臓が痛いほど早鐘を打っているのを感じていた。もう、後戻りできない。私は今日、母様を裏切り、明確に彼女を助けることを選んでしまったのだから。
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