12
暗い。寒い。何も聞こえない。
私は、底のない沼の底に沈んでいくようだった。体は鉛のように重く、指一本動かせない。ああ、これが「死」なんだ。意外とあっけないものね。
母様に叱られることも、ポッコの小言を聞くことも、もうない。そして、あの人の……リュミエールの笑顔を見ることも。
(……でも、いいか)
最後にキスできたし。あの子の瞳に光が戻ったのを見届けられたし。悪役の最期としては、上出来な幕引きだわ。
さようなら、世界。さようなら、私の短い青春。
私は思考を手放し、完全な虚無へと身を委ねようとした。
――ポタリ。
不意に、頬に温かいものが落ちてきた。雨? いいえ、もっと温かくて、少ししょっぱい。
……ないで……
声が聞こえる。遠くから、誰かが私を呼んでいる。
死なないで……! ノワール! 置いていかないで!
リュミエールだ。泣いているの? やめてよ。せっかく綺麗なお顔が台無しじゃない。私はもう空っぽなの。魔力も、命も、全部あんたにあげちゃったんだから。
嫌だ……! ボクは、君がいない世界なんていらない!
彼女の悲痛な叫びと共に、頬に落ちた雫が、じわりと肌に染み込んでくるのを感じた。不思議な感覚だった。その雫は、ただの水ではなかった。「光の心臓」を取り戻した彼女から溢れる、純粋な光の魔力そのものだった。
光の雫が、私の空っぽの器に落ちる。そして、私の体の奥底にわずかに残っていた闇の残り火と触れ合う。
ジュッ。
音がした。本来なら反発し合うはずの二つの力。でも、今の私たちは違う。私は彼女のために命を投げ出し、彼女は私のために涙を流している。互いを想い合う心が、光と闇の境界を溶かしていく。
――混ざる。溶け合う。白と黒が混ざり、灰色になるのではない。もっと鮮やかで、もっと優しい色へ。
夕暮れの空のような、オレンジと紫のグラデーション。夜明け前の、青と金が混ざり合う神秘的な色。それが「黄昏」。
ドクン!
止まっていたはずの私の心臓が、大きく跳ねた。
「……っ!」
私はガバッと体を起こした。大量の空気を肺に吸い込む。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
生きている。心臓が動いている。いや、それだけじゃない。全身に、今まで感じたことのない新しい力が満ち溢れている。熱くもなく、冷たくもない。人肌のような、心地よい温かさの魔力。
「ノワール!」
目の前に、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたリュミエールがいた。彼女は私を見るなり、力任せに抱きついてきた。
「よかった……! 本当によかった……!」
「ぐぇっ! 苦しい! 死ぬ! 生き返った直後に圧死させる気!?」
私は彼女の背中をバンバンと叩いた。痛いけど、温かい。彼女の体温と、私の体温が混ざり合って、境界線がなくなっていくみたいだ。
「……心配かけさせて、ごめん」
「バカ! 大バカ者! なんであんな無茶をしたんだ! ボクの心臓なんて、君の命に比べれば……!」
「比べものにならないくらい大切よ。……国の宝なんでしょ?」
「君はボクの宝だ!」
リュミエールが叫んだ。その言葉に、私はフリーズした。た、宝って……。
「……あんた、キャラ崩壊してるわよ」
「うるさい! とにかく、二度と離さないからな!」
彼女は私を離そうとしない。やれやれ。これじゃあどっちが王子様か分からないわね。
「ノワール様! リュミエール殿下! イチャイチャしている場合じゃありません!」
上空からポッコの声が降ってきた。見上げると、戦場の空がドス黒い雲に覆われようとしていた。
「……来たわね」
雲の切れ間から、巨大な影が降りてくる。母・オブシディアンだ。彼女は、私たちが生きていること、そしてリュミエールが正気を取り戻したことを見て、顔を歪めていた。
「おのれ……。失敗作ごときが、私のシナリオを書き換えるとは」
「母様、残念だったわね」
私はリュミエールの手を借りて立ち上がった。不思議だ。あんなに恐ろしかった母様の威圧感が、今はちっとも怖くない。
「リュミエール、行ける?」
「ああ。力が……溢れてくるんだ。君がくれた命のおかげかな」
リュミエールが剣を構える。その刀身には、以前のような青い光ではなく、私と同じ黄昏色の光が纏わりついていた。私の魔力も、彼女の中で生きているんだ。
「小賢しい! まとめて消し去ってあげましょう!」
母様が両手を掲げる。上空の雲が渦を巻き、数百、数千の闇の槍が出現した。あんなのを食らったら、ひとたまりもない。
「ノワール、どうする?」
「決まってるでしょ。……混ぜるのよ」
「混ぜる?」
「あんたの光と、私の闇を」
私たちは顔を見合わせ、頷いた。打ち合わせなんていらない。今の私たちなら、息をするように通じ合える。
「行くよ、ノワール!」
「ええ、リュミエール!」
私たちは手をつないだまま、空へ向かって飛び出した。母様が放った無数の槍。それに立ち向かうのは、二人の少女が放つ、新しい時代の光。
――黄昏の融合。
世界が、優しく美しい色に染まろうとしていた。
上空の風が、不気味に鳴いている。私たちを見下ろす母様の周りだけ、空間が歪んでいるようだった。
「黄昏の融合……ですか。反吐が出ますね」
母様は、ドレスの埃を払うような優雅な仕草で手を振った。それだけで、上空に展開されていた数千本の闇の槍が一斉に射出された。豪雨のような弾幕。一つ一つが、城壁さえ貫く威力を秘めている。
「来るよ、ノワール!」
「分かってる! 黄昏の盾!」
私とリュミエールが同時に手を掲げる。私たちの魔力が混ざり合い、頭上に巨大な半透明のドームが出現した。夕焼け色に輝くその盾に、無数の闇の槍が突き刺さる。
ガガガガガガッ!
凄まじい衝撃音。でも、盾は割れない。光が闇を弾き、闇が光を吸収する。互いの属性を補完し合うこの盾は、単一属性の攻撃を無効化する。
「へぇ……。少しはやるようですね」
母様は眉一つ動かさず、つまらなそうに呟いた。彼女は空中に浮いたまま、まるでチェスの駒を動かすように指先を動かす。
「ですが、これはどうでしょう?」
彼女の背後の影が膨れ上がり、巨大な影の手が何本も出現した。それらは槍の雨をすり抜け、側面や背後から私たちを鷲掴みにしようと襲いかかる。
「リュミエール、後ろ!」
「任せてくれ!」
リュミエールが空を蹴る。その背中には、光と闇が織りなす黄昏の翼が生えていた。速い。彼女は残像を残して影の手を回避し、その腕を駆け上がって母様へと肉薄する。
「ハァッ!」
渾身の斬撃。剣に纏わせた黄昏の光が、母様の喉元へ迫る。やったか?
キンッ。
硬質な音が響いた。リュミエールの剣は、母様の喉元数センチで止まっていた。障壁じゃない。母様が、人差し指と中指の二本だけで、剣の腹を挟んで止めていたのだ。
「……遅い」
「なっ……!?」
母様が指を軽く弾く。パァン! それだけでリュミエールは砲弾のように吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。
「リュミエール!」
「次は、お前です」
私が叫ぶより早く、母様が目の前に転移していた。美しい顔。陶器のように滑らかな肌。でも、そこには感情の揺らぎが一切ない。
「闇の浸食」
母様の手が私の肩に触れる。ジュッ! 肩の肉が焼け焦げ、腐敗していく激痛が走る。
「ぐぁっ……! !」
「黄昏だか何だか知りませんが、所詮は不純物。純粋なる闇の前では、薄汚い泥水と同じです」
母様は私の首を掴み、片手で吊り上げた。息ができない。魔力を流し込もうとしても、母様の圧倒的な闇がかき消してしまう。
「が……はっ……」
「さあ、返してもらいましょうか。光の心臓を」
母様のもう片方の手が、鋭い手刀の形になり、私の胸へと迫る。死ぬ。今度こそ、本当に。
――ズドンッ!
母様の背後で爆発が起きた。地面から這い上がってきたリュミエールが、遠距離から光の斬撃を放ったのだ。母様の障壁に弾かれたが、その隙に私は拘束を抜け出し、距離を取った。
「ゲホッ、ゲホッ……! ありがと、リュミエール!」
「無事か!? あいつ、強すぎる……!」
私たちは空中で背中合わせになった。母様は無傷。ドレスにシワ一つついていない。これだけの攻撃を加えても、彼女にとっては「遊び」ですらないのだ。
「……ねえ、ノワール。お母様って、いつもあんなに不機嫌なのか?」
「違うわ。……今はまだ、機嫌がいい方よ」
「これで!?」
母様がゆっくりとこちらを向く。その顔から、フッと表情が消えた。今まで浮かべていた冷笑すらも消え失せ、完全な無になる。
「……遊びは終わりです」
母様が、閉じていた瞼をゆっくりと開いた。
ゾワリ。全身の毛が逆立った。
彼女の瞳。そこには、白目も黒目もなかった。あるのは、底なしの虚無。覗き込んだら二度と帰ってこられない、漆黒の宇宙が広がっていた。その奥底で、赤い光がチロチロと、爬虫類のように蠢いている。
「ひッ……」
リュミエールが小さく息を呑むのが分かった。美しい顔のまま。人間離れした整った顔立ちの中に、あの眼があるだけで。彼女はもう、人間ではないナニカに見えた。
「世界を闇で覆うのに、お前たちのような羽虫は邪魔です。……消えなさい」
母様――いや、怪物が、口を開いた。言葉ではない。キィィィィィィィン……! !
高周波のような音が響き渡る。空間そのものが悲鳴を上げている。彼女の背後から、太陽を覆い尽くすほどの巨大な影が立ち上がった。それは無数の目と口を持つ、不定形の闇。
「うそ……あれが、母様の本当の魔力……?」
「冗談だろ……。あんなの、どうやって倒せばいいんだ!」
リュミエールの手が震えている。私もだ。黄昏の力を手に入れたはずなのに。あの絶対的な個としての闇の前では、私たちの絆さえも飲み込まれてしまいそうだ。
闇が、雪崩のように押し寄せてくる。逃げ場はない。防御も不可能。
「ノワール! 手を!」
「え?」
「信じろ! ボクたちの光を、一点に集めるんだ!」
リュミエールが私の手を強く握った。彼女のサファイアの瞳は、恐怖に震えながらも、決して諦めていなかった。
「……そうね。やるしかないわね!」
私たちは抱き合うようにして、互いの魔力を限界まで練り上げた。迫り来る虚無の瞳。飲み込まれるのが先か、私たちが光を放つのが先か。
世界の命運をかけた、最後の攻防が始まろうとしていた。
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