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「ねえ、ポッコ。この世で一番いらないものってなーんだ?」
「はい? 唐突ですねノワール様。一番いらないもの、ですか……。うーん、使い終わった紅茶の出涸らしとか?」
「ブッブー。正解は『湿気』でしたー」
「……はあ」
私は、カビ臭い石造りの壁にもたれかかりながら、盛大なため息をついた。目の前には、ドロドロとした紫色の液体が煮立つ大鍋。そこから立ち上る不気味な煙が、私の自慢の黒髪を、じっとりと湿らせていく。
「あーあ、最悪。髪の毛、湿気でうねっちゃってるじゃん。これじゃあ、もし今すぐに『白光の国』の王子様が迎えに来てくれても、合わせる顔がないわ」
「またそんな夢見がちなことを……。そもそも王子様なんて来ませんよ、こんな『常闇の国』の最深部には」
呆れたように肩をすくめるのは、私の唯一の話し相手にして、お目付け役のポッコだ。見た目はただの黒猫だけど、背中にはコウモリみたいな小さな翼が生えている。可愛くないことはないけれど、口を開けば小言ばかりの、残念な使い魔である。
「分かってるわよ、そんなこと。比喩よ、比喩。乙女の願望ってやつ」
「願望を語る前に、課題を終わらせてください。今日のノルマは『影縛りの呪文』の成功ですよ。女王陛下がいらっしゃる前に終わらせないと、僕までお仕置きされちゃうんですから」
「へいへい」
私は気のない返事をして、杖を振った。この国は、その名の通り「常闇」。太陽なんて見たことがない。空はいつも鉛色の雲に覆われていて、地面はジメジメしている。生えている植物といえば、毒々しい色のキノコか、触るとかぶれる変な蔦くらい。こんな陰気な場所で、来る日も来る日も魔術の訓練。16歳の花盛りの女子がやること? 普通はもっとこう、カフェでパンケーキ食べたり、ショッピングしたりするものでしょ? ……まあ、この国にはカフェもデパートもないんだけどね!
「えい」
私は適当に杖を振るった。杖の先から黒いモヤのようなものが飛び出し、部屋の隅にあった実験用のカエル(ぬいぐるみ)に向かって飛んでいく。しかし、モヤはカエルの手前で霧散し、プスン、と情けない音を立てて消えた。
「……あーあ。失敗」
「ノワール様! 『えい』ってなんですか、『えい』って! もっと丹田に力を込めて、闇の精霊に呼びかけるように詠唱しないと!」
「だってぇ、やる気出ないんだもん。大体さ、『影縛り』って地味じゃない? 地面這いつくばって相手の足止めるとか、絵面的に映えないのよ」
「映えとか気にされても! 魔法は実用性です!」
「私はもっとこう、キラキラしたのがいいの! 光の粒が舞い散るとか、虹色のビームが出るとかさあ!」
「闇の魔女の家系に、そんな派手な魔法はありません! 諦めてください!」
ポッコが毛を逆立てて怒鳴る。私はふん、と鼻を鳴らして、隠し持っていたボロボロの雑誌を取り出した。以前、国境警備の兵士が落としていったものをこっそり拾った、『光の国』のファッション誌だ。
「見てよこれ、ポッコ。今季のトレンドは『パステルカラーのシフォンドレス』だって。可愛い……このフワフワした感じ、絶対私に似合うと思わない?」
「またその本ですか……。見つかったら陛下に燃やされますよ」
「燃やせるもんなら燃やしてみなさいよ。私が氷漬けにしてやるわ」
「そういう物騒な魔法だけは得意なんですから……」
雑誌のページをめくる。そこには、見たこともない眩しい世界が広がっていた。青い空。白い雲。色とりどりの花。そして、笑顔で着飾る人々。ここにはない「色」が、そこには溢れていた。
(いいなあ……)
胸の奥がチクリとする。私はこの国の第1王女。次期女王として、強大な魔力を継ぎ、この暗い世界を統べる義務がある。母様はそう言うけれど。
「私は、こんなジメジメした場所で一生を終えるなんて、絶対お断りだからね」
「ノワール様?」
「決めた。私、家出する」
私が雑誌をバタンと閉じた、その時だった。
「――ほう? 家出、とは聞き捨てなりませんね」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。背筋がゾクリとする、絶対零度のプレッシャー。ポッコが「ひいぃっ!」と悲鳴を上げて、私の背後に隠れる。
ゆっくりと振り返ると、そこには漆黒のドレスを纏った長身の女性が立っていた。氷のように冷たい美貌。感情を映さない瞳。この「常闇の国」の支配者にして、私の母。女王オブシディアン。
「お、お母様……。いらしてたんですか。ノックくらいしてくださいよ、プライバシーの侵害ですよ」
「王族にプライバシーなどありません。それよりノワール、今の言葉……本気ですか?」
母様がコツ、コツ、とヒールを鳴らして近づいてくる。ただ歩いているだけなのに、周りの空気が重くなる。大鍋の紫色の液体さえも、沸騰するのをやめて静まり返ってしまった。
「……本気だったら、何?」
「愚かな。光の国など、軟弱な者たちが集う欺瞞の世界。あのような場所に行けば、お前は灼熱の太陽に焼かれ、干からびて死ぬだけです」
「そんなの嘘だ! 雑誌のモデルさんたちはみんな元気そうだったもん!」
「雑誌? ……ああ、あれですか」
母様が人差し指を軽く振る。すると、私の手からファッション誌がふわりと浮き上がり、母様の手元へと飛んでいった。
「あ! 返して!」
「このような下俗な書物にかまけているから、お前の魔術はいつまで経っても上達しないのです」
ボッ。母様の手の中で、私の大切な雑誌が黒い炎に包まれた。
「あっ……!」
一瞬だった。パステルカラーのドレスも、笑顔のモデルたちも、一瞬で灰になって崩れ落ちた。
「ひどい……! それ、私がどんな思いで隠してたか……!」
「お前のためです、ノワール。お前は次期女王。闇の魔力を極め、この世界をより強固な闇で覆うのです。光への憧れなど、弱さが生む迷いに過ぎません」
「弱さじゃない! 私は綺麗なものが好きなだけ! 可愛いものが着たいだけ! 太陽の下で、美味しいケーキが食べたいだけなの!」
「黙りなさい! !」
ビリビリと、部屋の空気が震えた。母様の背後に、巨大な影が立ち上がる。本気の怒気だ。ポッコなんて、もう泡を吹いて気絶寸前だ。
でも、今日の私は一味違った。大切な雑誌を燃やされた怒りが、恐怖を上回ったのだ。
「……もういい。お母様なんて大嫌い」
「ノワール、どこへ行くのです」
「部屋に戻るわよ! 勉強なんてやってられない!」
私は杖をひったくると、母様の横をすり抜けて部屋を飛び出した。背後から「待ちなさい!」という声が聞こえたけれど、無視だ無視!
廊下を走りながら、私は背中のポッコを揺り起こした。
「起きてポッコ! 緊急事態よ!」
「ふえ? あ、あれ? 生きてる? 僕たち、消し炭にされてない?」
「されてないわよ。それより、計画変更。今夜決行するわ」
「け、決行? まさか……」
私はニヤリと笑って、窓の外――分厚い雲に覆われた空を指差した。
「家出よ。もう我慢の限界。こんな暗くてカビ臭い城、今日でおさらばしてやるんだから!」
「えええええええっ! ? 本気ですかノワール様! ? 殺されますよ! ? 陛下に絶対殺されますって!」
「大丈夫。母様は今、国境の結界のメンテナンスで忙しい時期よ。今日を逃したら、次は百年後かもね」
「百年後でいいじゃないですか! 安全第一ですよ!」
「うるさい! アンタも来るの! 私の使い魔でしょ!」
こうして、私の――いや、私たちの、命知らずな大脱走劇が幕を開けた。
深夜。常闇の国に「夜」という概念があるのかは怪しいけれど、城の時計塔が0時を回った頃。私は黒いマントに身を包み、愛用の箒にまたがってテラスの手すりに足をかけていた。
荷物は最小限。着替えの下着、非常食の干し肉、小瓶に入れた飲み水。それと、魔術の教科書を一冊だけ(枕にするためだ、勉強するためじゃない)。
「準備はいい、ポッコ?」
「よくないです……全然よくないです……。胃が痛い……帰りたい……」
私の肩にしがみつき、ガタガタと震えているポッコ。相変わらずのヘタレっぷりだけど、それでも逃げずに付いてきてくれるあたり、コイツは本当に私のことが好きなんだなと思う。まあ、置いていったら後で私が何をするか分からない恐怖の方が勝っているのかもしれないけど。
「行くわよ。目指すは東の空、『白光の国』!」
「ひいいっ! 女王陛下に見つかりませんように、見つかりませんように……!」
私は地面を強く蹴った。ふわりと体が浮き上がり、風を切って加速する。眼下には、見飽きた黒い城と、枯れ木の森が広がっている。さよなら、お母様。さよなら、退屈な闇の世界。
私は箒の柄を握りしめ、分厚い雲の切れ間――微かに光が漏れている方角へと、一直線に飛び立った。
これから向かう世界が、どれほど眩しく、そして残酷な場所かも知らずに。
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