第六章 終戦前夜の決断
**昭和二十年 夏**
八月の東京は連日の空襲で荒廃していた。大学図書館も被害を受け、多くの書籍が失われた。しかし、中村と澄子が隠した禁書は無事だった。地下の秘密書庫と澄子の実家の床下倉庫が、空襲からも憲兵からも書籍を守っていたのである。
黒沢中尉は疲れ切っていた。軍部からの圧力は日増しに強くなり、「思想犯」の摘発を急ぐよう命じられていた。しかし、彼の心境は複雑だった。
戦況の悪化は明らかで、敗戦は時間の問題だった。その時、自分たちが破壊した知識や文化をどう説明するのか。黒沢は夜な夜な自問自答していた。
八月十日、ついに決定的な日が来た。軍部から最後通牒が下されたのである。「一週間以内に図書館の思想犯を摘発せよ。できなければ軍法会議にかける」
黒沢は中村との最後の対話を求めた。
「中村さん」黒沢が重い口調で切り出した。「私に時間をください。三日間だけ」
「何のためですか?」
「あなた方が隠した書籍の在り処を教えてください。しかし、それを軍に報告するつもりはありません。戦後まで私が責任を持って守ります」
中村は驚いた。敵であるはずの黒沢が、実は最大の理解者だったのだ。
「なぜそこまで?」
「私も軍人である前に、一人の日本人です。国の未来を考えれば、これらの書籍は必要になります。復興のために、民主化のために」
黒沢の誠意を感じ取った中村は、ついに真実を打ち明けた。隠し場所、暗号化システム、そして澄子の実家に保管された最重要文書について。
「澄子さんが作った暗号は見事です」黒沢が感嘆した。「軍の暗号解読班でも気づかないでしょう」
「彼女は天才です」中村が誇らしげに言った。「数学的才能と図書館学の知識を組み合わせて、独創的なシステムを作り上げました」
しかし、その時、最悪の事態が起こった。黒沢の部下が密告していたのである。軍の特高警察が図書館を包囲し、中村と澄子の逮捕状が出されたのだ。
「逃げてください!」黒沢が叫んだ。「私が時間を稼ぎます」
中村と澄子は図書館から脱出した。しかし、澄子の実家も監視されていることが判明した。最重要文書が危険にさらされたのである。
その夜、澄子は重大な決断を下した。暗号化された目録を自分の体に隠し、文書の現物は更に安全な場所に移すことにしたのだ。
「どこに隠すんですか?」中村が尋ねた。
「私の体の中です」澄子が微笑んだ。「目録カードを暗記して、現物は燃やします。そして、新たな暗号で家の構造の中に情報を埋め込むのです」
澄子の計画は大胆だった。家の本棚の配列、畳の並び順、柱の傷の位置まで、すべてを暗号の一部として利用するのである。
八月十四日の夜、澄子は最後の作業を完了した。真実の在り処は、彼女の記憶と家の構造の中に完全に隠された。たとえ拷問を受けても、簡単には秘密を明かせない仕組みになっていた。
翌日、玉音放送が流れた。終戦である。
黒沢は軍法会議にかけられることを覚悟していたが、終戦と共に追及は立ち消えになった。彼は中村と澄子を探し出し、保護した。
「戦争は終わりました」黒沢が安堵の表情で言った。「これからは復興です。あなた方が守った知識が必要になります」
しかし、澄子には新たな使命があった。隠された真実を未来に確実に伝えるため、より洗練された暗号システムを構築することだった。
「戦争は終わっても、真実を隠そうとする力は残り続けるでしょう」澄子が予言めいた口調で言った。「だからこそ、技術を進歩させなければなりません」
澄子は戦後も密かに研究を続けた。数学とコンピューター科学の発展を予見し、未来の暗号技術に対応できる仕組みを考案したのである。
そして、ついに彼女は究極の暗号を完成させた。量子コンピューターでも解読困難な、時間をかけて自己進化する暗号システムだった。
この暗号の鍵は、澄子の血筋に継承されることになった。DNAの配列と家族の記憶を組み合わせた、生物学的な暗号である。
澄子は自分の孫——結衣が生まれることを確信していた。そして、その孫が必ず真実を見つけ出してくれると信じていたのである。