第四章 憲兵との攻防
**昭和十九年 春**
桜が散り始めた四月、黒沢中尉は確信を深めていた。大学図書館から提出された書籍に不審な点があることを、ついに突き止めたのである。
部下の報告によると、発禁書籍として提出された『資本論』は、実際には経済学の教科書の内容に差し替えられていた。表紙と背表紙は巧妙に偽装されているが、印刷技術の専門家が調べれば一目瞭然だった。
「中村主任を呼べ」黒沢が命じた。
しかし、中村は体調不良を理由に欠勤していた。代わりに図書館を訪れた黒沢は、澄子と対峙することになった。
「森川司書」黒沢の声は以前より厳しかった。「提出された書籍に疑義がある。説明していただきたい」
澄子は内心の動揺を隠しながら答えた。「どのような疑義でしょうか?」
「内容が入れ替えられている。君たちが我々を欺こうとしていることは明らかだ」
追い詰められた澄子だったが、彼女には秘策があった。事前に中村と打ち合わせていた説明である。
「憲兵殿の仰る通りです」澄子が意外にも素直に認めた。「しかし、それには理由があります」
黒沢は眉をひそめた。「どういうことだ?」
「実は、問題となった書籍は既に破損が激しく、保存に適さない状態でした。そこで、内容を謄写して新たに製本し直したのです。原本は既に廃棄済みです」
これは半分の真実だった。確かに一部の書籍は破損していたが、廃棄されたのではなく秘密書庫に隠されていた。
黒沢は澄子の説明に疑問を抱いたが、証拠を掴めずにいた。しかし、彼は諦めなかった。図書館の詳細な調査を開始したのである。
その日の夜、中村と澄子は密会した。
「黒沢中尉の疑いは深まっています」澄子が報告した。「暗号化作業を急がなければなりません」
「そうですね。しかし、最も重要な文書をどう隠すかが問題です」中村が頭を抱えた。
彼らが最も恐れていたのは、単なる発禁書籍の発見ではなく、暗号化された目録の存在が露見することだった。これが発覚すれば、他の隠し場所も芋づる式に発見されてしまう。
「新しい隠し場所を用意する必要があります」澄子が提案した。「図書館の外に」
二人は深夜、密かに最重要書籍を図書館外に運び出した。隠し場所として選んだのは、澄子の実家——現在の結衣の家だった。
澄子の父親は理解ある人物で、娘の活動を支援してくれた。家の床下に特別な隠し部屋を作り、そこに書籍を保管したのである。
一方、黒沢は独自の調査を進めていた。軍人としての義務感と、知識人としての良心の間で葛藤していた。
ある日、黒沢は中村と個人的に話す機会を得た。
「中村さん」黒沢が意外にも敬語で話しかけた。「あなたの気持ちは理解できます。しかし、軍の命令に背くわけにはいかない」
「黒沢中尉」中村も丁寧に答えた。「私たちも国を愛しています。しかし、知識を破壊することが本当に国のためになるでしょうか?」
黒沢は答えることができなかった。彼自身、内心では中村の言葉に共感していたからだ。
「もし戦争が終わったら」黒沢が小声で言った。「これらの本は必要になるでしょう。復興のために」
中村は黒沢の言葉に希望を見出した。「その時は、必ず世に出します」
二人の間に、奇妙な信頼関係が生まれていた。敵対する立場でありながら、同じ知識への敬意を共有していたのである。
しかし、軍部の圧力は日増しに強くなっていた。黒沢の上司からは、図書館の「思想犯」を早急に摘発するよう命じられていた。
澄子は暗号化作業を急いだ。彼女が開発した暗号システムは非常に巧妙で、表面的には何の変哲もない図書目録にしか見えなかった。しかし、適切な鍵を知る者には、貴重な情報の在り処を教えてくれる地図になっていた。
「これで準備は整いました」澄子が中村に報告した。「たとえ我々が捕らえられても、真実は未来に伝わります」
中村は澄子の手を握った。「あなたの数学的才能に救われました。きっと後世の人々が、この暗号の意味を理解してくれるでしょう」
春が過ぎ、夏が来た。戦況はさらに悪化し、空襲の頻度も増していた。しかし、中村と澄子の使命はまだ終わっていなかった。最後の最後まで、知識の灯を守り抜かなければならなかったのである。