第二章 昭和の守護者たち
**昭和十八年 秋**
東京市内の大学図書館では、朝霧が立ち込める中で職員たちが慌ただしく準備を進めていた。中村信夫は三十五歳、図書館勤務十二年のベテラン司書だった。同僚の森川澄子は二十三歳、聡明で勤勉な女性司書として知られていた。
「澄子さん」中村が小声で話しかけた。「例の件ですが、いよいよ実行に移す時が来ました」
澄子の表情が引き締まった。彼女は中村から聞かされていた計画の重大性を理解していた。軍部による思想統制が日に日に厳しくなる中、自由主義的な書籍は次々と発禁処分を受けていた。図書館からも多くの本が「廃棄」という名目で持ち去られている。
「廃棄リストを確認しましたが」澄子が資料を手渡した。「今回は特に重要な書籍が含まれています。河上肇の『貧乏物語』、福沢諭吉の『学問のすゝめ』の一部、それに……」
「カント、ルソー、ミルの著作まで含まれているのですね」中村の声には怒りが滲んでいた。「啓蒙思想の古典まで危険視するとは」
この日、憲兵隊の黒沢武中尉が部下二名を連れて図書館を訪れる予定だった。黒沢は四十代前半、軍人特有の威圧感を持ちながらも、知的な面も見せる複雑な人物だった。
午後二時、予定通り黒沢たちが現れた。
「中村主任」黒沢の声は低く、有無を言わせぬ権威があった。「リストの書籍を提出していただきたい」
「憲兵殿」中村は毅然として答えた。「図書館は学術研究の場です。思想的な偏見で書籍を排除することは、学問の発展を阻害します」
「君の私的な感情は関係ない」黒沢の眼光が鋭くなった。「国家の方針に従うのが国民の義務だ」
しかし、黒沢の内心は複雑だった。軍人として命令に従う義務がある一方で、彼自身も学問への敬意を持っていた。東京帝国大学で法学を学んだ黒沢は、民主主義思想の価値も理解していたのである。
「分かりました」中村が折れたように見せた。「書庫から該当書籍を持参いたします」
憲兵たちが去った後、中村と澄子は密かに作業を開始した。提出したのは巧妙に作られた偽装本だった。表紙と背表紙は本物だが、中身は無害な内容に差し替えられている。本物の書籍は既に地下の秘密書庫に移されていた。
「これで一時しのぎはできますが」澄子が心配そうに言った。「いずれ発覚するのではないでしょうか?」
「その前に、より確実な隠匿方法を確立しなければなりません」中村の表情は真剣だった。「澄子さん、あなたの数学の知識を借りたいのです」
澄子は女子高等師範学校で数学を専攻していた。当時としては珍しい理系女性だった。
「暗号化、ですか?」
「はい。万が一、我々が捕らえられても、後世の人々が真実にたどり着けるよう、道筋を残したいのです」
その夜、澄子は自宅で暗号理論の研究を行った。ヴィジュネル暗号を基本として、図書館特有の分類法を組み合わせることで、独自の暗号システムを考案した。鍵となるのは、図書館に所蔵されている本の配列そのものだった。
翌日、二人は暗号化された目録カードの作成を開始した。表向きは通常の貸出記録だが、実際は禁書の隠し場所を示す地図になっている。
「後世の図書館員なら、必ずこの仕組みに気づくでしょう」澄子が自信を込めて言った。
「あなたの数学的思考力には本当に感服します」中村が微笑んだ。「我々の意志を未来に託せそうです」
しかし、二人の計画に気づく者がいた。黒沢中尉である。彼は軍人として鋭い観察力を持っていた。図書館から持ち帰った書籍に違和感を覚え、密かに調査を開始していた。
その頃、戦況は日に日に悪化していた。ガダルカナル島の撤退、山本五十六の戦死。しかし、一般国民にはこれらの事実は秘匿されていた。情報統制は書籍だけでなく、あらゆる媒体に及んでいたのである。
中村と澄子は、自分たちの行為が単なる本の保護を超えた意味を持つことを理解していた。彼らが守ろうとしているのは、人間の知的自由そのものだったのだ。