第7章-EP06 陽光商事を、静かに去る日
【Mission Failed:社長への壁(ホルモン操作では動かないもの)】
昼下がりのオフィス。
翔太は窓際の陽だまりで、ひと口チョコレートを頬張っていた。
「……ん〜〜やっぱホワイトは正義……」
季節が移ろい夏が近づいてきた窓の外は、だんだん日が長くなって今年も蝉の声が聞こえだした。メールも終わったし、あとは定時を待つだけ——だったのに。
「翔太くん」
背後からふわっと届く、完全に仕事モードの声。
振り返ると、スーツ姿の涼子がファイルを3冊抱えて立っていた。
サングラスは外し、代わりに黒縁の眼鏡をかけている。
「これ、会社の定款と株主構成資料、それと——取締役の任免手続きマニュアル♡」
「……なんかヤバい単語が混ざってません?」
翔太は椅子を回転させて振り返る。
その横で、涼子は資料を開いて、重要箇所にマーカーを引きながら淡々と語った。
「いま、社内の空気は“次期社長=翔太くん”って感じよ。私のホルモン操作も、取締役の半分にはもう届いてるし……」
「だから、書類上の手続きだけ済めば、翔太くんはすぐにでも社長になれる——」
「そ、そうなんですか……?(他人事)でも……だったら、すぐ申請しちゃえばいいんじゃ……?」
涼子は一瞬黙って、1枚の紙を翔太の前に差し出す。
「——はずだったのよ。でもこの一文が、全部を止めてるの」
> 『代表取締役の新任は、現任代表取締役の承認をもって成立する』
「……つまり、今の社長が“いいよ”って言わないと、僕、社長になれないってこと?」
「そう。そしてその桜井社長、ここ1週間、姿を現してないの」
翔太が顔を上げる。
「……隠れてるってことですか?」
涼子の声が低くなる。
「私達がなにか動き出したのを察して、“私から”隠れてるのよ。視線も、声も、香りも、全部遮断された密室にこもってる。私のホルモン操作が届かないように、完全にバリアを張ってるわ。桜井社長には前に翔太くんをハニトラ要員(※第四章EP15参照)に使おうとしたときに私が彼をちょっと本気で”調整”しちゃったの。それが彼のトラウマになってるのだわ」
翔太はゾクリとした。それは涼子が語る“社長の防衛手段”ではなく——
本気の涼子の力が、通じなかったという事実に。
「……こんなに完璧な涼子先輩が、手も足も出ないなんて……」
「“人間”には効くわ。でも“制度”には……効かないの。しかもソノカタシロ事案は桜井社長の肝いり案件なのよ、創業家出身の桜井社長をなんとかしないと陽光商事は止まらないわ……」
翔太は黙って、チョコの包み紙をくしゃりと握った。
彼女の横顔が、少しだけ悔しそうに見えた。そして、翔太は静かに口を開いた。
「じゃあ……その制度ごと、壊しに行きましょうよ」
涼子が目を見開いた。
「……翔太くん?」
翔太はニンマリと微笑む。もう逃げるつもりはなかった。
「会社を辞めて、外から買いましょう。陽光商事。僕たち2人で、“社長”というポジションを、奪いに行きましょうよ」
涼子の目が、ゆっくりと赤く光る。
そして、ふっと笑った。
「……ふふ♡ やっぱり、私が惚れた男だわ♡」
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【Final mission as employees:陽光商事を、静かに去る日】
朝の人事部は、いつになく静かだった。
社員たちは書類に目を落としながらも、どこか落ち着きなく、そわそわと空気が揺れている。
その中に、2人の姿があった。黒いスーツに身を包んだ翔太と、同じく黒スーツながら、やわらかく髪をまとめた涼子。いつもの社内と同じ服。
でも、今日は「出勤」ではなく「別れ」に来た。
「……では、受理いたします」
人事部長の岩澤の声が静かに響いた。手元には、2通の封筒が置かれている。どちらも白封筒に、手書きの丁寧な字。
高橋涼子 退職届
佐々木翔太 退職届
岩澤部長は、ほんの少しだけ目を伏せると、
深く、ゆっくりと頭を下げた。
「……お二人がいなくなるのは……とても寂しいです」
「でも……どうか、お二人の未来が……素晴らしいものでありますように……うぅ……高橋さん、僕はあなたに一生ついていく覚悟だったのに……(泣)」
岩澤は悲しさのあまり泣き出してしまった……
翔太は、まっすぐ立ったまま泣き崩れる岩澤を見つめていた。
けれど、涼子が小さく頭を下げたのを見て、思わず姿勢を崩しかけ慌てて一緒に頭を下げた。
「……なんか、俺たち、本当に会社辞めるんですね……」
「うん♡ 今さら戻る気はないわよ?私たちの目標は“社長の椅子”じゃなくて——この会社の未来そのものなんだから♡」
翔太は小さく笑って、目を伏せた。
「……会社を、買いに行くんですよね」
「ええ♡ あなたの名前が、“代表取締役”になるまで、絶対に、止まらないわよ♡」
その言葉を、ただの“野望”だと笑う者はもういない。
社内の誰もが、この2人が本当に陽光商事の未来を塗り替えることを——なぜか確信していた。
2人が人事部を出ていく、誰も声をかけない。
でも、その背中を見送る社員たちの瞳は、確かに濡れていた。そして、エレベーターの扉が閉まる直前。ふと振り返った翔太が、ぽつりと呟いた。
「……ありがとう。俺、ここで……“普通じゃない恋”をしました」
扉が閉まる。
陽光商事、静かなる革命の序章。
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【プロローグ:涼子と翔太のいない陽光商事】
社長室の照明は薄暗く、ブラインドの隙間から漏れる昼下がりの光だけが無人のソファを照らしていた。その奥、重厚なデスクに身を沈めていたのは——
陽光商事・代表取締役社長、桜井達郎。彼の目の前には、白い封筒が二通。
それを見下ろしながら、桜井はポツリと呟いた。
「……ふ、ふは……やった……ッ!!」
笑いながら、額からは脂汗がにじんでいる。
「ついに……ついに“あの女”が辞めた……!もう……あの女に怯えなくて済むッ……赤く光るあの瞳にも……脳に直接響く甘い声にも……!」
かつて一度だけ涼子のホルモン操作を喰らった桜井は、その後も涼子の赤い瞳に睨まれる悪夢に悩まされてきた。
「これで終わりだ……ふふ、俺の時代が、戻ってくる……!そしてソノカタシロの薬効の研究を推進してあの女の呪いを打ち破り、さらに感情制御による人間の戦闘ロボット化の薬を開発して陽光の名前を裏の世界に轟かせてみせる」
そう呟いた桜井の肩が、ビクリと震える。
「……いや、待て……退職ってことは……“外から”来るつもりじゃないだろうな……?」
だがすぐに自分で首を横に振る。
「いやいや、陽光商事は世界的企業だぞ、あの女一人でなにができるっていうんだ……大丈夫、大丈夫だ……!」
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その頃——社内の片隅、備品室で。1人の若手OLが、静かに泣いていた。
「うぅ……うわあああん……!」
遠藤美紀だった。
「なんでなん……なんで急に辞めちゃうんですかああ……!
翔太先輩、昨日まで普通に『チョコうまっ♡』とか言うてたやないすかああ!!」
同僚がティッシュを差し出しても、美紀はしゃくりあげながら泣き続けた。
「……ウチは……っあのふたりがおらん陽光商事なんて……耐えられまへん!」
彼女の目には、涼子と翔太が並んで歩く後ろ姿が焼き付いていた。
・朝のエレベーターで他部署の女子を睨み返す涼子
・その後ろで「いやこわいって!」と笑う翔太
・会議で発言する翔太を、笑顔で見つめる涼子
「あれが、ウチの中の“理想の夫婦”やったんに……」
陽光商事の空気は、まだ静かだった。けれど確かに——あのふたりがいない風景は、
何か、大切なものがぽっかり抜けたように、寂しかった。




