操縦桿を握ったのは、花屋の母だった
「――おいおい、マジかよ。
なんでこんな上品そうな後輩が、
俺の前に現れるんだ……?」
俺の目の前で手を振っているのは、
**花莫思**という後輩だった。
つい最近まで海外で過ごしていたらしいが、
この島国に戻ってきた学生、ってことらしい。
「花」って名字、こっちじゃほとんど聞かねぇけど、
遥か彼方の大陸じゃわりとポピュラーらしいな。
で、そいつの見た目っていうと――
高校一年生、身長は165センチくらい。
細身でスラッとしてて、
軽やかな雰囲気がある。
ふわっとした栗色の髪に、
ところどころ茶色のメッシュが入ってて、
なんかこう……小洒落た感が漂ってる。
顔も小さくて、
掌にすっぽり収まりそうなくらい。
しかも、そこに乗ってるのが――
キラキラと動き回る、
粟鼠みたいな瞳!?
「……いや、マジで美少年枠じゃん」
つーか、もし髪が長かったら、
普通に美少女枠だろコレ。
いや、海外だったらすでに可愛い系の美少年確定だし……
下手すりゃ中学生の美少女と間違えられてもおかしくねぇぞ……?
そう思わせるくらいの、
繊細で中性的な雰囲気を持ってるヤツだった。
「――っっ、外、マジで冷えすぎだろ」
陽翔は無言で肩をすくめ、
スポーツ用の半袖シャツを脱ぎ、
江雨の長袖制服に着替えた。
そのままボクシング部の教室をあとにする。
そんな彼に、遊人がダルそうな声で話しかけた。
「お前さ、入学したばっかだろ?
なのに執明とか孟彰楼の連中とつるまねぇで……
俺たち監兵楼の先輩とつるむって……!?」
「将来、大丈夫かよ?
お先、真っ暗になんぞ、君?」
陽翔の冷静さとは対照的に――
莫思は二人の姿を見た瞬間、
まるで大海で遭難して流木を見つけたような顔をした。
そして、早口でまくしたてる。
「そ、そんなことないですよ!!」
「マジで! 先輩たちいなかったら俺……
初日で校内のヤバいやつらに目つけられてましたから!!」
「それに、昨夜のアレ! 知ってますよね!?
ヤバかったですよ!! 朝起きたら、もう……
体が石みたいにガッチガチで!!」
「しかもさ……母さんが……深夜……」
「ロンドン発の飛行機に乗ってて……!」
「そしたら、なんと……!」
「スチュワーデスと一緒に……」
「操縦桿引いて……」
「無事に、飛行機、着陸させたんですよ!!」
「怖すぎて、もう誰に話せばいいのか分かんなくて!!」
「でも、誰も聞いてくれないし……」
「世界中の人が、それどころじゃなくて……」
「みんな自分のことで手一杯で!!」
「でも、田中先輩が『お前ら無事』って言ってたんで……
すぐに様子見に来たんです!」
「本当に……マジで……運が良かった……!」
「ねぇ、先輩……!」
莫思の言葉は止まらない。
まるで、
積もり積もった感情を一気に吐き出すかのように。
――テンションの落差が、すげぇ。
遊人は、ポリポリと頬をかきながら、
ため息をついた。
「……お前、そんなに大騒ぎされると、
逆に罪悪感湧いてくるんだけど。」
自分の冷静さが、逆に浮いてるんじゃないか――
そう感じ始めた。
「学弟……うん、お前さ……」
「世界のこと、本当に気にしてるんだな。」
陽翔は、世界の異変には驚かなかった。
でも――花莫思の反応には、ちょっと驚かされた。
「うんうんうん……分かる、
分かるけど、ちょっと待て。」
遊人は、莫思の額を指でツンツンしながら、
まるで「落ち着け」と言わんばかりに言った。
「さっき、お前……
『母さんが飛行機を操縦した』って言ったよな?」
「うん!」
「でもさ……
お前、前に『母さんは花屋やってる』って言ってたよな?」
「うん!」
「しかも、服の直しもやってるって……」
「うんうん!」
「……」
遊人は、じわじわとこの世界のカオスっぷりが増しているのを感じた。
でも、それが妙に「楽しい」と思えてしまうのが、
一番不条理かもしれない。
――え、俺、ツッコミ役として大丈夫か?
もうついていける気がしないんだけど。
「……仕方ないじゃないですか!」
莫思は肩をすくめながら、
少し開き直ったように言う。
「でも実際には、
母が操縦したわけじゃないですよ!」
「母さんはただ……
気絶したスチュワーデスを起こしただけです!」
「……いや、それもヤバいだろ!!」
「……どうやって?」
「……首を掴んで!」
「…………」
「そしたら、スチュワーデスが『操縦しなきゃ!』って覚醒して……
何とか無事に着陸できたんですよ!」
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陽翔は腕を組みながら、静かに言った。
「……まぁ、少なくとも、お前の母さんは……
スチュワーデスに『墜落よりも恐ろしいもの』を見せたんだな。」
「その通りです!」
「言葉を失うけど……」
陽翔は、少し考えてから呟く。
「人間の潜在能力ってのは……
ボクシングや喧嘩の技術と同じで、
実戦でしか引き出せないもんなんだな。」
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「で?」
遊人は少し苦笑しながら聞いた。
「元のパイロットはどうした?」
「……一瞬で鳥になったらしいです。」
「は?」
「で、そのまま飛んで逃げちゃったらしいです。」
「…………」
遊人は肩をすくめた。
「……運が悪いな。
せめて猿とか、飛べないヤツになればよかったのにな。」
莫思は少し沈んだ声で言った。
「……まだ統計中らしいですけど……
地球上の飛行機、
かなりの数が同じ事故に遭ったらしいですよ。」
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遊人は静かに尋ねた。
「……そりゃ、大変だな。
で、お前の母さん、今は?」
莫思はこくりと頷く。
「今朝、空港から帰ってきたばかりです。
まだ驚いてはいますけど……
でも、生活は続けなきゃいけませんから。」
「起きてすぐ、花屋の仕事を整理し始めました。
開店する以上、お金を稼がないといけませんしね。」
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莫思はふと、何かを思いついたように声を弾ませた。
「先輩たち、時間ありますか?
あとで僕の家に来ませんか?」
「母が開店前に、
ちょっと賑やかにしたいって言ってたんです!」
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遊人は少し考えてから、ぼそっと言う。
「あー……とりあえず、
寮の野良猫や犬たちを見に帰りてぇな。
今の状況だとさ、どれが元々人間で、
どれが本当の猫や犬なのか……
もう区別つかねぇかもしんねぇし。」
陽翔も静かに頷く。
「……朝陽と大翔を見に帰る。」
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すると、莫思はパッと明るい表情でこう提案した。
「ついでに『無料の』昼食もどうです?」
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遊人:「……じゃあ、
明日行くのもアリだな。」
陽翔:「朝陽と大翔は、
自分で生きる術を学ぶべきだ。」
莫思は、一瞬気まずそうな顔をした。
――この二人の先輩、
結局「タダ飯」が目当てじゃないか……?
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彼らは階段を降りた。
江雨学園は、四方を咲き誇る花々に囲まれていた。
東に水仙、
南に牡丹、
西にチューリップ、
北に菜の花――
四季を問わず、
この場所だけは、まるで魔法がかけられたように、
その時々の花が絶えず咲き誇る。
まるで、見えない壁に守られているかのように――
この場所だけが、世界の美しさを独占している。
四時江雨。
それは、花の海のど真ん中にそびえる学園。
季節と共に移ろいながらも、
まるで**“花海の天壇”**のように、
静かに佇んでいる。
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「先輩たち、スマホ、ネット繋げてないんですか?」
そう言いながらも、
莫思のスマホは次々とニュースの通知を弾き出していた。
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「……節電のため。」
陽翔は、何の感情も込めずに答えた。
「寮なら充電できるけどさー」
遊人は空を見上げながら、
指をひらひらさせる。
「俺、将来寮を出ること考えてさ、
今のうちから“エコ”に慣れておこうと思ってんの。
省エネ! 環境保護! 地球に優しい生活!」
「まぁ、それはそれとして……」
「学生たちはどうするんだろな?
世界、もうめちゃくちゃになってんだろ?」
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陽翔は、何も言わず、ただ青い空を見上げた。
――世界は、何も変わっていないように見えた。
「えっと……」
莫思はスマホの画面をじっと見つめながら、
ニュースを読み上げる。
「文科省は、とりあえずすべての活動を一週間停止……
ただし、全ての試験は延期って……」
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「うわぁ……外の世界、絶対ヤバいよな。」
遊人は、足を止めて周囲を見渡す。
「この辺はこんなに綺麗なのに、外は……
多分、地獄絵図だろ?」
「……うーん、俺、もう外に出るの怖くなってきた。」
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「そうだ、莫思!」
遊人は急に思い出したように尋ねた。
「お前さ、なんで江雨を選んだんだ?
飛んでくる前のこと、ちゃんと覚えてる?」
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莫思は少し黙ってから、静かに答えた。
「……実は、俺、ロンドンの事故のことも覚えてないんです。」
「え?」
「全部、母から聞いた話で……
俺、あの事故で記憶を失ったらしくて。
気づいたら病院にいて、
そのまま飛行機に乗って、
この島に来たんですよ。」
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「……それならさ」
遊人は少し考えてから、ふと疑問を投げかける。
「なんで執明楼とか孟彰楼じゃなくて、
監兵楼にしたんだ?」
「ていうかさ、お前、監兵楼がどんなとこか分かってる?」
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「え……? なんか、違うんですか?」
莫思はキョトンとした顔で首を傾げる。
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――だが、莫思はまだ知らなかった。
彼が選んだのは、学園の“花畑”ではなく――
全方向地雷原だったことを。