fly me to the moon
易経── 古代中国の占術書。「陰陽」「八卦」などを基に、森羅万象の動きを読み解く経典
「俺、もう本当に……ヒーローにはなれねぇよ……!」
遊人は、その場にへたり込んだ。
まるで力が抜けた子供のように。
いや——空気の抜けたボールみたいに、完全に地面に座り込む。
「……いいの。」
「たとえキミが英雄になれなくても。」
「たとえ、私の“初恋”の天台を守れなくても。」
「私が望むのは、ただ——キミが生きていてくれること。」
結菜は、そっと遊人の首の後ろに手を回した。
指先で、彼の皮膚に刻まれた「☳(雷)」の紋様を、優しくなぞる。
(遊人には、もう頼れるものはない。)
(今、俺はたった一人で……この世界の負け犬ルーザーになった。)
(——でも、今回だけは違う。)
(もし、本当にこのまま負け犬で終わるなら——)
(その瞬間に、人類も終わるってことだ……!!)
遊人の額から滴る汗が、地面に落ちる。
「俺たち……本当に、こうするしかないのか?」
絞り出すような声。
「あそこは……俺たちの“初恋”の天台なんだぞ……!」
悔しさが喉の奥で膨れ上がる。
人類がどうなろうが関係ない。
でも——
あの狼に、結菜の思い出の場所を踏みにじらせるわけにはいかない……!!
「どうすればいい?」
「誰に頼ればいい?」
「この戦争を——この虐殺を——」
「一体誰が、覆せる?」
思考が凍りつく。
答えが、見えない。
何も——何一つ、浮かばない。
まるで意識の底がぽっかりと空洞になったみたいに。
深い、深い虚無だけが広がっていく——。
——そのとき。
記憶の最深部から、微かな声が蘇る。
ティーダ。
「……もし、ティーダがここにいたら?」
遊人は、そっと目を閉じた。
無数の闇に埋もれた記憶の断片の中。
かつて、頼った——“あの姿”を探すように。
そして、ゆっくりと。
目を開いた。
その瞳に映るのは——
無限に広がる、夜空の星光。
「——まだだ。」
「まだ、この戦いは終わらない。」
遊人は夜空を仰ぐ。
銀色の月光の中、黒翼の**喚狩**が遠ざかっていく。
砕けた天井の隙間から、冷たい夜風が遺跡へと吹き込む。
月明かりは、地面に伸びた彼の影を、細く長く引き裂いていく。
まるで——
この世界にたった一人、取り残されたことを嘲笑うように——。
「空中優勢がない……なら、作り出すしかないか?」
遊人は、ぼそっと呟いた。
だが——
人類は核兵器すら作れるというのに。
いざ存亡の危機に立たされた時、物理学の専門家ひとり頼ることすらできない、この現実。
「……これはルーザーの問題じゃねぇ。」
「人類そのものの、悲劇だ。」
遊人は奥歯を噛みしめ、指先に力を込める。
握りしめた禁鞭が、静かに青白い火花を散らした——。
遊人は、考える。
いや、考え込む——いやいや、これはもう「思考の海を泳いでる」レベルだ。
「……どうする?」
「今から遺跡を飛び出しても、空を行く喚狩には追いつけねぇ。」
「それに……たとえ地上を走って追いついたとしても……
その頃には天台は100%、瓦礫と化してるだろうな。」
手を伸ばせないなら、手を伸ばす手段を考えるしかねぇ。
「——道具か?」
「——仕組みか?」
「——それとも……別の方法か?」
今の俺は、開幕の時とは違う。
「禁鞭には雷の力がある——自然の力だ。」
力があるなら、そこには必ず「動力」も存在する。
なら、どう応用すれば、俺は今すぐ“飛ぶ”ことができる……?
ティーダがかつて教えてくれたこと——
古代中国の経典、『易経』(えききょう)によれば——
宇宙の始まりは、一つの完全なる球体「太極」であった。
やがて、太極が分かれ、二つの力が生まれる。
「陰」と「陽」。
陰と陽が交じり合い、
さらに四象が生じ、
四象は変化し、
ついに八つの自然の力へと昇華する。
☰ 天、
☷ 地、
☶ 山、
☵ 水、
☲ 火、
☴ 風、
☳ 雷、
☱ 澤——
これこそが、天地とエネルギーの本質。
たとえ異なる力であっても——
最終的には全て「太極」という宇宙の原点へと帰結する。
——そこで、遊人の筆記癖が発動する。
「……いや、待てよ?」
そう思った瞬間、遊人はさっと背中のポーチから例のノートを取り出し、パラパラとページをめくる。
あった。
田中家の屋根裏で見た、花莫思が描いたピカソの円形多晶面図——!!
あの、カクカクしてるのに球体に見える、立体派の幾何学球。
あの時は「うわ、スゲー」くらいにしか思わなかったけど……
もしかして、これ……使えるんじゃねぇか?
遊人はゆっくりと掌を広げ、呟く。
「……空中優勢がないなら、まずは“太極”の球を作るか。」
握った拳を、もう一度ゆっくりと開く。
「考えるための基点が必要だ……もしかしたら、太極こそが力の根源なのかもしれない。」
遊人は手を上げ、まるで工作をするかのように、禁鞭を操る。
鞭の軌跡で空間に弧を描く。
一筋、また一筋——
最初は単なる円弧。
次に、残った鞭の長さを活かし、さらに軌道を重ねる。
空間を織り込み、旋回し、絡み合わせ、編み込む。
やがて、複数の円弧が共通の中心を持ち——
一つの立体的な「円環球」を形成した。
それは、まるで宇宙の始まりである「太極の球」そのもの。
禁鞭の線が紡ぎ出した、エネルギーの球体。
まるで巨大な地球儀のように、静かに宙に浮かんでいた——!!
「ヴゥゥゥゥン——!!」
太極球の表面に雷光が流れる。
だが——
それは先ほどのように荒々しく炸裂するものではなかった。
まるで呼吸をするかのように、穏やかに脈動する。
天地の鼓動とシンクロするように——
雷の力が、静かに調和を始めていた。
その時——
誰も気づかなかった。
遊人のリュックの奥底で——
「魔術師」のタロットが、淡く、静かに光を放っていた。
まるで、何かを待つかのように。
あるいは、すべてを見守るかのように——。
だが、遊人はそれに気づかない。
誰も、その微かな光を認識する者はいなかった。
しかし、確かに——
光は、そこに存在していた。
「ちょ、ちょっと待って!? 何これ!??」
結菜は驚きのあまり、猫の瞳をまんまるに見開く。
「ま、まさか……ワタシが……召喚されてるニャーーー!?」
「いや、俺に言われても……!!」
遊人が慌てて手を伸ばすが——遅かった。
次の瞬間、ふわっと軽やかに宙に浮いた結菜は、そのまま雷光に包まれた球体へとポスンッと落ちていった。
そして——奇跡が起きた。
本来ならば、高圧の電撃を放つはずの雷光が、
その瞬間——
まるで意思を持つかのように、穏やかに変化した。
「にゃ、にゃにゃにゃ……!?」
結菜はぎゅっと目をつぶる。
だが、衝撃はこない。
彼女の身体を傷つけることなく——
優しく包み込むように、柔らかな電流へと変わっていった。
まるで、結菜を守るかのように。
「……っひ!? うわ、ビリビリくると思ったのに……?」
結菜は身をすくめる。
だが——
予想していた痛みは、どこにもない。
代わりに感じたのは——
まるで、ふわりと毛並みを撫でるような、不思議な電流のくすぐったさ。
_
「ハ、ハ……これ、なんか癒しのマッサージ機みたい……!」
結菜が半笑いでそう呟いた、その瞬間——
「ぎゃあぁぁぁぁ!?」
「ボンッ!!」
雷光が軽やかな弾力を生み出し、結菜の体をふわっと宙へと弾き飛ばした!
「にゃあああああああ!?」
結菜の小さな身体は、**ぽーん!**と弧を描きながら空中へと舞い上がる。
まるで銀色の月光に吸い込まれるかのように——
天井の破口へ向かって、ポスンッと弾かれていく!
「……は?」
遊人は、その光景を呆然と見上げた。
だが——
次の瞬間。
彼の脳内で何かが弾けた。
「……待てよ?」
心臓が跳ねる。
頭の中で閃いたアイデアが、全身を駆け巡る。
「結菜が飛んだ……?」
ならば——
「反発力さえあれば——」
「天台なんか余裕で届く……」
いや、もっとだ。
遊人はにやりと笑い、拳を握った。
「こりゃもう、《Fly Me to the Moon》を熱唱するしかねぇな!!!」
雷光に包まれた太極球——
それは翼ではない。
だが、それでも——
俺を空へと弾き飛ばすには、十分な力を持っているはずだ。
遊人は奥歯を噛みしめ、一気に地面を蹴った!
目指すは、禁鞭が織り成す「太極球」の頂点——!
「——いっけぇぇぇぇ!!!」
この夜、空を翔けるのは、喚狩だけじゃない。
太極球の「反発力」を利用し、遊人は夜空へと真っ直ぐに弾き飛ばされた!
まるで銃弾のように——。
彼の身体は一直線に天台へ向かって飛翔する。
その瞬間、地上に残っていた**「太極球」**がふわりと崩れ、光の粒となって霧散する。
そして、禁鞭は再び一本の鞭へと戻り、彼の背後を尾を引くように追いかけてきた。
今夜の“口撃戦”——まだまだ終わりそうにない。




