世界が嫌いでも、お前らは守る
車を降りた瞬間、目の前に広がっていたのは――
「……え、何?」
遊人がポカンとした顔で呟く。
目の前には、片足を組みながらギターを弾き、
気持ちよさそうに歌っている中川薰 の姿。
白地にカラフルな草花模様の ボヘミアン風シャツ、
超ワイドな 茶色のサルエルパンツ。
座っているとスカートにしか見えない。
「……なぁ陽翔」
「ん?」
「どう見ても、遊牧民の吟遊詩人なんだけど。」
「……まぁ、そう見えるな。」
二人は無言で頷き合う。
その足元には、小さなバーベキューコンロ。
グツグツと煮えたぎる豆腐鍋 から、
香ばしい湯気がふわりと宙に舞う。
「おい薰、ここキャンプ場じゃねーぞ!?」
遊人が思わずツッコむが――
「……風がいいな。」
低く、掠れた声が響く。
「そして海は広く、今日の陽光は優しい。」
目を閉じ、ギターの弦を軽く弾く薰。
「これは、歌えという天の啓示だ……。」
「どこにそんな啓示があんだよ!?」
遊人がさらに突っ込むが、
薰は まったく気にせず 旋律を奏で続けた。
「……お前ら、何してんの?」
横から静かな声が響く。
見ると、花莫思 がスケッチブックを片手に、
じっと薰の手元を見つめていた。
「いや、こっちが聞きたいわ!ってか、
お前は何描いてんだ?」
「……ギター。」
花莫思はスケッチブックを少し傾けて見せた。
そこには、柔らかな線で描かれた「薰のスケッチ」。
「おぉ、相変わらずの腕前だな。」
陽翔が静かに頷く。
「お前ら、知らなかったら普通に 芸術系の兄弟 にしか見えねぇよ。」
「だな。」
二人の会話を背に、花莫思は再び筆を走らせる。
「……楽しい?」
「まぁね。」
花莫思が小さく微笑んだ。
――めったに晴れない海上の空が、
今日は 驚くほど澄み渡っている。
遠い海の表面に、濃密な陽光が波のように輝き、
炉の上で湧き立つ 熱いスープの香り が、
海辺から吹く風に乗って漂う。
「天下は爽やかで、宇宙は大きな青。」
ポツリと、薰が呟く。
花莫思は、スケッチブックの隅に その言葉を書き留めた。
風が、ふわりとその言葉を運んでいった。
車を降りた瞬間、夜風に乗って届いたのは――
気怠く、
それでいて温もりのある声。
詩のような囁きは、
まるで陽だまりの光が暗雲を裂くように、
聞く者の身体と魂を優しく貫いていく。
旋律に乗せて、薰の声がふわりと流れ出す
「夜の色、もっと淡くできる?」
「夢の予言、風に透く?」
「塔の頂、手が届く?」
「少年の雷、闇を裂く。」
「僕の期待、光を示す。」
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「……っ!」
遊人の指が サッ とポケットに突っ込み、
いつもの メモ帳 を取り出した。
「詩と歌は、感情の蕾であり、
季節の中でほころび、響きとなる音だ。」
つぶやくように言いながら、
遊人は サラサラ とメモを取る。
「……先輩、風流ですねぇ!」
ペンを止めて、感心したように薰の方を見上げる。
「陽翔、完敗ッス!」
「ハハッ、確かにな。」
陽翔が冗談めかして、
軽く頭を下げる仕草を見せた。
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「ハハッ!久しぶりだな、後輩くん!」
薰が ふわりと 立ち上がると、
ニヤニヤしながら遊人の背後へ スッ と回り込む。
「先輩は事業で忙しくしてるけど、
お前の筋肉も随分デカくなったな?
いいねぇ、目の保養だ!パチパチパチ!」
そう言うや否や、ニヤリと笑って ヒュッ と背後に回り込み――
バシバシバシッ!! 二頭筋を 全力で 叩き始めた。
「い、痛い痛い痛い!先輩、
それ完全にセクハラですよ!?」
遊人は びくぅっ! と肩をすくめ、
素早く ノートの新しいページを開く。
「《中川薰の暴力的スキンシップ、記録済み》っと……!」
「おいおい、待て待て!なんでそこメモるんだよ!?」
「いや、ここ重要ポイントじゃないし!?」
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「……先輩、聞きますけど?」
遊人が じとーっ とした目で薰を見る。
「その『事業』って、あの……
小町広場のボロい廃バスのことですよね?」
「はっ!? あれは『アトリエ』だ!」
「いやいや、どう見ても廃バスなんですけど!?」
遊人が キツネ耳でも生えたような顔 で突っ込むと――
陽翔は静かにため息をついた。
「……まぁ、薰のことだしな。」
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「俺の自由を愛する心が理解できないとは、
後輩くん、まだまだだな。」
そう言いながら、薰はまたギターを手に取る。
「なぁ遊人くん、お前どうせ大学受験なんて受かる見込みないだろ?」
「で、寮を追い出された後の住処は確保したのか?」
「俺なんてバス一台は手に入れたけどな?」
慎之助がニヤリと笑い、腕を組んで見下ろしてくる。
「どうだ? お前が抱えてる猫に住まわせてもらうってのは?」
「いやいや!俺、人間なんですけど!?」
「普通逆じゃない!?
俺が猫を住まわせるんでしょ!?」
遊人は額に汗を滲ませ、
思わず背中を丸めた。
「いやいや、まずこの猫を家に送り届けるべきだろ?」
「そしたら、お前にも居場所ができるかもしれないしな?」
慎之助がさらにニヤつく。
「吉田家に住むってこと?」
「……今は誰もいないんだけどなぁ。」
遊人がため息混じりに答える。
「お前、本気で彼女が家を捨てたと思ってるのか?」
「この猫、心配だからお前についてきただけだぞ?」
「少なくとも、こいつはお前より全然役に立つ。」
薰がさらっと言い放つと、
遊人の腕の中で眠っていた結菜が「ニャー」と小さく鳴き、
まるで同意するかのように頷いた。
「じゃあさ、もしお前が吉田家に住むとしたら、
それって猫に住まわせてもらうってことじゃないか?」
慎之助がゲラゲラ笑いながら追い討ちをかける。
「結局言いたいのは、俺が猫以下ってことだろ……。」
遊人が肩を落としてボソッと呟く。
慎之助と元詩社長の薰がタッグを組むと、
現詩社長の遊人には太刀打ちできない。
「ほんっと悟りが悪いなぁ。」
今度は薰が目を細めて笑い、
まるで狐耳が生えているかのような表情を見せた。
「それに、お前と結菜だけなら、
基本的に俺たちが口出しすることもないさ。」
「……まさか猫に色仕掛けされることはないよな?」
慎之助は濃厚なスープをすすりながら、
ニヤついて茶化す。
「そんなことが起きる確率なんて、
慎之助がこの三年間で八回目のダイエットに成功する確率と同じくらいだ。」
「それでも、家無しの遊人が猫に婿入りするよりはマシだな。」
慎之助が軽く肩をすくめる。
「お前……!」
遊人は反論の糸口を見つけられず、言葉を詰まらせる。
「遊人! お前の残りの人生は、
猫の奴隷兼シェフとして捧げろよ!」
薰は飛び込んできた結菜を抱き上げ、
すかさず話を引き継ぐ。
「猫専用の雑用係ってところか。」
慎之助も悪ノリしてさらに追撃する。
「少なくとも俺には猫がいる。慎之助なんて、
隅っこで学妹をコソコソ覗くのが精一杯だろ。」
遊人は最後に一矢報いる。
「この二人、口撃のレベルはほぼ互角だな!」
花莫思はクスクス笑いながら、
五人分の麺線と冷ましておいた結菜用の小皿をテーブルに並べた。
彼はその場の空気を和ませるように、
二人の口論を軽く打ち切る。
遊人は、静かに皆を見渡した。
――もし、ここがいつもの屋上だったら?
慎之助が食材を用意して、
学長がギターを弾き、
結菜が歌い、
それに合わせて俺はコーヒー豆を煎って湯を沸かす。
今なら、そこに花莫思も加わる。
料理のレパートリーも増えて、
食卓はもっと賑やかになるかもしれない。
……なんとも、不思議な日々だったよな。
でも、もう学長は卒業した。
きっと遠くの街で、
ちゃんとした店を構えるんだろう。
こんな郊外の工場地帯じゃ、
占いや運勢鑑定の客なんてほとんど来ない。
金欠の高校生たちが客じゃ、
どう考えても食っていけるわけがない。
「慎之助は間違いなく、
家業の青果店を継ぐんだろうな。」
「陽翔は……あちこちの工事現場を飛び回るんだろ。」
「結菜だって、世界がこんな妙なことになってなければ、
モデルの仕事を続けてたはずだ。」
……そんな未来を思い浮かべながら、
遊人はぼんやりと空を仰いだ。
「もしかしたら、結菜は将来、星運が絶好調になって……その時には、
もっと広い世界を見ているかもしれないな。」
そう思うと、遊人はポケットからメモ帳を取り出し、
いつもの癖でペンを走らせる。
書いている内容なんて、実はどうでもよかった。
ただ、何かを書かないと、
自分の気持ちを整理できない気がした。
もし俺が――。
もし俺が、まだフラフラしたままの無職だったら?
もし俺が、ずっとこのまま「何者にもなれない」ままだったら?
……二人の差は、あまりにも大きくなってしまう。
いっそのこと、
その差が大きくなってから苦しむよりも、
今のうちに別れたほうがいい。
そうすれば、
未来に結菜を悲しませることもないし、
彼女がもっと輝かしい人生へ進む邪魔をすることもない。
彼女はまだ若い。
透明なクリスタルのように輝く存在だ。
こんな無為無策な初恋の少年が、
彼女の足を引っ張るべきではない。
「……それが、俺が結菜と別れようと思った理由だ。」
「結菜のためだと……信じてた。」
今は俺を恨むかもしれないけど、
いつか彼女は俺を忘れる。
そして、もっといい相手を見つけるだろう。
それに引き換え――
俺の行く先は、まるで霧の中だ。
遊人は、ふと世界がこんなふうに不思議な形で定格されているように感じた。
この奇妙で滅茶苦茶な世界なら、
自分だけが孤立しているようには見えない。
逆に――正常な世界では、
未来を感じられない自分が、
むしろ異様に目立ってしまう。
「……奇怪な混沌が、むしろ救いに見えるなんてな。」
そう思うと、遊人は苦笑した。
それは確かに、無名の悲しみだった。
考えれば考えるほど、胸の奥に罪悪感が広がっていく。
この状況を、どこか他人事のように思っている自分が、嫌だった。
手首に巻かれた電子鞭のケースをじっと見つめながら、
心の中でつぶやく。
「……俺が何も持ってないって?」
「そんなわけないだろ。」
「この仲間たちが、俺みたいな孤児にとって――
世界のすべてなんだから。」
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――たとえ、この世界がどんなに嫌でも。
こいつらがここにいる限り、俺は守るしかない。
「……負け犬だろうと、関係ねぇよ。」
「仲間のためなら、この世界くらい守ってやるさ。」
陽翔だって、孤児のままでいたいわけじゃない。
それでも、二人の弟の未来のために戦ってる。
慎之助も、人生なんてクソだと思ってるくせに――
ボロボロの果物屋を、母親のために守ろうとしてる。
「ちっぽけな夢かもしれねぇけど……
それが、アイツにとって何よりも大事な願いなんだろ。」
結菜も、ただの天然娘のままじゃ終わらない。
きっと、もっと大きな舞台に立つ日が来る。
「……いつか、まばゆいスポットライトの下で。」
「ふと初恋の俺を思い出してくれるかもしれない。」
「それだけで、十分だろ。」
俺には未来がないかもしれない。
だけど――
一緒に笑って、一緒に泣いて。
三年間も授業をサボってきた、この詩社の仲間たちには……
「夢を持って、幸せになってほしいんだよな。」
遊人は、ふっと笑いながらポケットに手を入れ、
メモ帳を取り出した。
なぜか今、書いておかないといけない気がした。
「俺がこの鞭を振るうことで、
こいつらの人生が少しでも変わるなら――」
「それでいい。」
ページを開いて、サラサラとペンを走らせる。
最後に一行、はっきりと書き残した。
「俺が特別なのは、俺が他の誰とも違うから。」
「こいつらを守れるのは、俺しかいない。」
――たとえ、負け犬でも。
――たとえ、無価値なヤツだとしても。
「仲間のためなら――ヒーローにだってなってやるさ。」
it is all about love and brotherhood.




