結菜篇 君に結ばれたリボン。鼓動のたびに、愛の蝶が舞う
狼に吹き飛ばされて意識を失った遊人は、
いつしか――結菜との記憶の中にいた。
――吉田結菜?
……誰だっけ、それ?
少なくとも。
あの頃の俺には、まったく印象にない名前だった。
初めて会ったのは――
***
グラウンド。
「……一年? 罰で走らされてる?」
陽翔が額を軽く擦りながら、
俺たちの隣に立っていた少女を珍しそうに見つめた。
「たぶん?」
慎之助が目を細め、一瞥する。
「……なんか、倒れそうなタイプだな。」
俺は何も言わず、ただ彼女を見ていた。
陵光楼のジャージ。
汗で前髪が額に貼りついている。
陽の光の下にいるのに、
どこか影の中にいるみたいな存在感の薄さ。
俺たち三人にとって、
罰としての周回ランは日常茶飯事。
授業中に居眠りし、グラウンドを走らされるのは、
監兵楼の伝統みたいなもんだ。
でも――
転校してきたばかりの一年にとっては、
いきなりこれは少し酷だろ。
結菜の息は荒い。
頭を下げ、両手をぎゅっと握りしめていた。
何かを必死に堪えているように。
俺は無言で、自分のタオルを差し出した。
「……ほら。」
彼女は驚いたように固まり。
数秒後、おそるおそるタオルを受け取った。
「……ありがとう……」
か細い声だった。
風に紛れて消えてしまいそうなほどに。
***
陽翔が眉をひそめ、小声でぼそり。
「こいつ……話すの苦手なタイプか?」
慎之助が眼鏡を押し上げ、得意げに頷く。
「うむ、私の見立てでは――」
「やめろ」
「まだ何も言ってない!」
「お前が分析し始めると長いんだよ」
「仕方あるまい! これは学問だ!」
「お前の趣味だろ」
慎之助は肩をすくめながら続ける。
「さっき、何人かの女子にヒソヒソ話されてた。
それに、軽くリュックを押されてたぞ。」
「……は?」
「でも、彼女は何の反応もしてなかった。」
俺は、ちらりと結菜を見た。
彼女は、タオルを丁寧に折りたたんでいた。
まるで、それを汚してはいけないとでも思っているかのように。
そして、しばらくの沈黙の後。
「……」
結菜はそっとタオルを俺に差し出した。
指先が、ほんの少し震えている。
俺は何も言わずに、それを受け取った。
風が吹いた。
汗のにおいと、遠くで鳴る笛の音が混じる。
……この時はまだ、何も知らなかった。
彼女が、俺たちとどう関わることになるのかを。
「……もし、ある日。
学校へ行く途中で、泡みたいに消えちゃったら……
誰も気づかないかもしれないね。」
……え?
その言葉は、冷たい風みたいに。
俺の胸を、すうっと吹き抜けていった。
言葉を失ったまま、俺は彼女の横顔を見た。
静かだった。
ただ、淡々と。
当たり前のことのように言ってる。
でも――
なのに。
俺は、違和感を覚えた。
たぶん、それは。
俺自身が、ずっと孤児だったからかもしれない。
「誰にも気にされない存在」
その感覚が、痛いほどに分かってしまったから。
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それから。
俺は、グラウンドで彼女に「ついで」と言いながら
、
いろいろ持っていくようになった。
「ほら、水。」
「……え?」
「このタオル、新しいやつ。使えよ。」
「……これは?」
紙袋を手にした彼女が、戸惑いながら俺を見上げる。
「スイーツ。」
俺は、さも適当そうに言った。
「四時江雨の新作。まだ一般販売してないやつ。」
「え? それって……」
結菜は、目をまんまるにして、俺と紙袋を交互に見た。
「持ち出しちゃダメなやつ?」
「声がデカい。バレるだろ。」
「……っ!」
彼女は、一瞬 きょとん として。
そして――
「……クスッ」
笑った。
初めて、彼女が笑った瞬間だった。
***
それから。
詩社の三人は、彼女が**偶然拾った「友達」**になった。
元々、家にこもりがちで。
日光を浴びるのを嫌がっていた彼女だったが。
毎日グラウンドに呼び出されたおかげで――
少しは、健康的になった。
体力もついて、以前より活気が出てきた。
なにより。
彼女の世界は、もうひとりぼっちじゃなくなった。
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「行くぞ!」
「え?」
「今日の詩社の活動が終わったら、アイス買いに行く!」
「で、でも私――」
「却下。命令だ。」
「あ……」
俺たちを見つめる彼女。
そわそわ しながら。
ほんの少し、頬を赤くして。
最後には、小さく頷いた。
少し照れたように。
でも、ちゃんと――
笑っていた。
その日。
陽射しは、温かくて。
そばかすは変わらないのに。
その瞳には、もう空虚な影はなかった。
まるで、小さな奇跡が静かに起こったような。
そんな、瞬間だった。
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初夏の光と影
「……羨ましいな。」
陽翔がアイスティーを一口飲み、
氷をカラカラと鳴らしながら呟いた。
「何が?」
適当に聞き返しつつも、
俺の視線は少し離れた場所にいる結菜へ。
「お前らに決まってるだろ。」
陽翔が呆れたように目を逸らす。
「告白の一言もないくせに、
もう夫婦みたいな雰囲気出してるし。」
「……ちょっとは自重しろよ。」
慎之助が眼鏡を押し上げ、
心底うんざりした口調で言った。
「見てるこっちが恥ずかしくなる。」
「おい、俺たち何もしてないだろ。」
「それが一番厄介なんだよ。」
「ははっ……」
隣で薫先輩が軽く笑い、俺を見て言う。
「遊人、お前、まだ気づいてないのか?」
「何を?」
「お前と結菜は、もう“ただの兄妹”じゃないんだよ。」
「……っ」
言葉を失った。
反射的に視線を向ける。
四時江雨のガラス天井から降り注ぐ光。
それが、彼女の髪をふわりと金色に染めていた。
ピンクのフリルスカートが風に揺れる。
紫陽花の群れの中で、静かに本をめくる結菜。
右には向日葵。
左には赤いチューリップの香り。
出会った頃とは、まるで違う。
でも――
俺の目には、変わらず結菜のままだった。
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去年、初夏のこと。
その日、四時江雨は休館日で。
俺たちは中央の円卓に座り、気ままに話していた。
南風が、ガラス張りの空間を吹き抜ける。
結菜の髪を、優しく撫でながら。
「結菜、お前、自分のことちゃんと見たことあるか?」
「え?」
彼女は ぱちり と瞬きをして、
不思議そうに俺を見た。
俺は、薫先輩が適当に投げてよこした一眼レフを構え、
レンズを向ける。
「撮ってやるよ。」
「え、ま、待っ——」
カシャッ——
彼女が反応する間もなく、シャッターを切った。
「えぇ……」
少し首を傾げる結菜。
アーモンド色の瞳に、戸惑いの色。
でも、口元にはかすかな笑み。
陽光が肩に落ちて、温かな輝きに包まれる。
何気なく撮った、一枚だった。
……なのに。
それは、予想以上に綺麗な写真だった。
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彼女はもう。
かつての、あの儚げな少女ではなかった。
その後。
俺は何気なく、その写真をネットのフォトコンテストに投稿した。
まさか。
それが広告代理店の目に留まるとは、思いもしなかった。
彼女が可愛くなって、嬉しくないのか?
「……お前、嬉しくないの?」
陽翔が ニヤニヤ しながら、アイスティーを揺らす。
「何が?」
俺は適当に聞き返しながらも、目線は遠くにいる結菜へ。
「決まってるだろ。彼女、めっちゃ可愛くなったじゃん。」
「……別に。何も変わってないけど。」
俺はベンチにもたれかかり、淡々と答えた。
「ほう?」
慎之助が ニヤリ として、眼鏡を押し上げる。
「そのセリフ、結構カッコいいな。」
「黙れ。」
俺は慎之助を無視しながら、もう一度、結菜を見た。
確かに。
彼女は変わった。
健康的になり、明るくなり。
自信もついて。
でも――
俺にとって、彼女は変わらない。
グラウンドで、
息を切らしながら俺のタオルを受け取った、あの日のまま。
こっそり渡したスイーツに、「えっ?」 って驚いた、あの日のまま。
カメラ越しの彼女は、確かに洗練されていて、
光に包まれていた。
でも、俺が好きなのは。
人前で照れて、目をそらす彼女。
手作りのクッキーを、ぎこちなく差し出しながら。
「……食べる?」って、小さく聞く彼女。
俺は。
どれだけ眩しくなっても――
結菜のことが、好きだよ。
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甘い思い出と夢の外
「……遊人?」
彼女はいつもそうやって、そっと俺を呼ぶ。
俺が考え事をしていると、
決まって 結菜は邪魔をしにくる。
俺よりも頭ひとつ分、小さい彼女。
悪戯するときは、決まって 背伸びをする。
俺の顎の下に、そっと顔を近づけながら。
「……何してんの?」
俺は眉をひそめ、呆れたように聞いた。
「見つめ合いゲーム!」
結菜は ぱっと 笑顔を咲かせる。
大きな瞳をぱっちり開いて。
キラキラと輝かせながら。
まっすぐ、俺を見つめてくる。
……対する俺は。
ただ、毛虫みたいな目で まばたき するだけ。
無言の対決。
静かな空気の中、聞こえるのは。
心臓の鼓動。
カーテンを揺らす、微かな風の音。
先に笑った方が負け。
3秒。
5秒。
10秒。
「ぷっ……」
「……っふ」
「あはははは!!」
またしても、彼女の負け。
いつも。
必ず。
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甘い夢の終わり
その思い出は。
温かい泡みたいに、俺の夢の中で浮かび上がる。
甘くて、陽だまりの匂いがする。
……だけど。
夢はいつか、消えてしまう。
意識が、現実へと引き戻される。
ぼんやりとした感覚の中。
俺は、誰かの視線を感じた。
――この、やけに馴染みのある圧。
……これは。
ヤバい。
俺は 気配を殺し、そっと瞳を細めた。
薄明かりの中、微かに見える。
病室のベッドのそば。
そこに、立っていたのは。
中川薫。
……詩社の創設者であり、悪魔のような先輩。
今ならまだ――
寝たふり、間に合うか?