シキトラ
雷鳴のような雄叫びとともに姿を現したのは一匹の虎だった。虎は忍び足でこちらに近づいて来る。僕らはお互いを庇い合うように退きながら一定の距離を保っていた。
「と、虎。置物かなぁ……?」
「動く置物なんてあるわけないじゃないの……」
首筋の汗はどんどん冷えてくるのに頭の奥底では考えが熱く交差する。
「後ろの、屏風」
「え?」
「その屏風から離れるんだ。早くしろ!」
虎が、虎が喋ってる! そう確信した瞬間、虎が勢い良く飛びかかってきたので僕と春花は慌てて左右に避ける。耳元では爪で風を切る音が聞こえた。ギリギリのところだった。後ろを振り返ると引き裂かれた屏風があった。僕はそれでやっと気がついた、虎は最初から屏風を狙ってこちらに飛んで来たのだと。
「逃げたか」
虎は窓の方に頭を向けると、二つに裂かれた屏風に鼻を近づけるとクンクンと何度も匂いを嗅ぐ。その仕草は猫のようにも見えるがこの大きさと体格は何度見ても虎。信じ難い。
「この屏風はいつからここにあった?」
春花は一切怯える様子もなく答えた。
「先月、父が葛屋さんから買い取ったものです。あの、それよりも……」
春花は屏風の心配をした。この屏風は父が高いお金を出して買ったもので、とても大切にしていたからだ。父は優しいが、この状況を一体どう説明すればよいのだろう? 突然現れた虎に屏風を引き裂かれました、誰が聞いても嘘にしか思えない。
そして、冷静に虎と会話をする春花を尊敬するとともに、僕はとある心配した。虎のことだ。いくら喋るとはいえ、猛獣と同じ部屋にいるというだけで身の危険を感じる。それでも、春花が虎の側できちんと話しているのだから、僕だってしっかりしなくちゃ。
呼吸を殺しながら恐る恐る春花の隣に座ると、きちんと正座をして虎と向き合った。だが、いくら想像を巡らしても今の状況は捕食者と獲物。決心とは裏腹に手の震えが止まらない。
「破れた屏風は時期に元に戻るだろう。だが、絵の中身を奪われた」
「中身?」
春花は破れて二枚になった屏風を見る。確かここには春の陽気描いた美しい絵が描かれていたはずだった。しかし今見る限りでは桜の花びらも歌う小鳥の姿も消えている。真っ白だ。
「どういうことなの?」 「虎が、なんで話すの?」
「……」 言葉が重なってしまったことよりも脈絡の無い質問を唐突にしてしまったことに僕はとても後悔した。
「京、それも知りたいけど今はそっち違う」
「あ、うん」
「落ち着いて」
「は、はい」
春花は僕の震えている拳をぎゅっと片手で包んだ。温かな掌の優しさと強さを感じる。
「俺はある高名な絵師の描いた絵から生まれた虎だ。まあ、精霊みたいなもんだ」
精霊か。それならまあ、納得がいかなくもない。
「絵師は俺の師匠だ、数年前まで一緒に暮らしていた。さっき屏風を盗んでいったヤツは師匠が描いた精霊の龍だ」
そうだったの、と春花は頷いた。それから僕は「じゃあ、どうして龍は屏風を盗んで行ったのさ」と虎に尋ねる。虎が精霊だとわかればもう怖くなんてない。自分でもわからないけれど、幽霊とか未知の物に対してなら僕は鈍感になれるみたいだ。
「龍はある日、春夏秋冬全ての屏風を見たいと言って家を飛び出したんだ。だが、その屏風を揃えれば……」
「……揃えれば?」
虎は五秒ほどの間を置くとゆっくりと噛み締めるように答えた。
「この島を含めた四季島、四島が水没する」
「水没だって!?」
僕は勢いで大きな声を出したが、一階にいる春花の両親を思い出して慌てて口をふさいで聞き直す。どうして? なんで? 答えを知る度に問題が大きくなっていく。
虎の話をまとめるとこうだ。
屏風は島の気候を変える程の力を持っていて、僕らの住むこの『春島』も盗まれた屏風によって支えられていたと。つまり、四つの島の気候を守るためには龍から屏風を守らなければならないのであった。
「四つの屏風を繋げてしまえば、もう二度と引き剥がすことは出来なくなる。先回りして残り三つの屏風を取り返すつもりだ、手伝っていただけないだろうか?」
隣の春花にちらりと目を向けると、やる気に満ちた表情が顔に出ていて僕は笑顔で頷いた。
「僕は京と言います」
「私は春花、よろしくお願いします!」
「よろしく頼む。俺に名前は無い、何とでも呼んでくれて構わない」
すると春花が挙手をして言った。
「じゃあ、虎さんで!」
「そのまんま……」
春花は立ち上がって階段へと続く襖を開けた。
「お父さんに話してくる。でも、どうやって信じてもらえばいいの?」
悩んでいる春花に、虎は自信ありげに答える。
「大丈夫だ。あの屏風を買うほどの目利きの持ち主なら、とっくに屏風の魔力に取り憑かれている。安心して話してきな」
そうは言っても心配なので、僕は春花と一緒に父の部屋へとやって来た。父は話を聞くと、「四季の精霊に選ばれるなんてめでたいことじゃないか」と僕らのことを褒めてくれた。
「本当なら私が行きたかったのだがね、もう四季の美しさを感じられる程の余裕も、純粋さも無い。島がどうなろうとか、そんなの気にせずに季節を楽しんでおいで」
虎は明日の夜に迎えに来ると言って窓から出ていった。僕は自分の家へと帰り、さっそく荷物の準備を始めた。明日からの日々を想像するだけでワクワクする。好きな人との旅行だなんて、考えただけで胸の中でポップコーンが弾けてしまう! 心をなんとか落ち着かせながら寝床に入ると、偽りの無い温かさを感じた。非現実的な今日の出来事が全て現実だったんだということに改めて気づかされ、また興奮してきた。この世界はとても素晴らしい偶然と必然に溢れている。不幸続きだった僕の未来に細やかな希望が生まれた瞬間だった。
次の朝、起きた途端に僕はベッドから跳ね起きて母さんと父さんに「おはよう!」と挨拶する。自分でも驚くほどに爽快な目覚めで思考はスッキリと、窓の外の青空と同じく澄み渡っている。
「行ってきます!」
走り出す足は軽やかで見飽きた住宅地でさえも新鮮味を帯びていて、例えるなら雨上がりの後の『あの』キラキラに染まった風景だ。深呼吸をすると僕は家のベルを鳴らした。
「おはよう、春花。昨日はよく眠れた?」
「ええ。頭の整理が多すぎてもうぐっすり。京は?」
「興奮して寝るのが大変だったよ。でも、ほら」
僕は腕を振る。
「このとおり、元気さ」
出発は夜なのでまずは自分たちの荷物をチェックし合い、足りないものを買いに行った。それから午後になると僕たちは一度それぞれの家へ帰って休息をとった。
夜になり、僕と春花は虎の背に跨がると海の方角へと向かった。たくさんのお店が立ち並ぶ道をすり抜けるように速いスピードで走る。
「きゃあ!」
「ぶつかるよ!」
すると虎は笑いながら言った。
「安心しな、俺は精霊。誰にも触れられなければ見えもしない。さ、もうすぐ海に出るぞ」
それから十秒と経たない内に、海上へと出た。夕暮れ色に染まる空と海、冷えた風が前に座っている春花の髪を靡かせる。
「虎、海の上も歩けるんだね」
「すごいだろう? まあ空は飛べないがな」
「ねえ、虎さん、最初はどこの島に向かうの?」
「夏の島だ。夜には着くだろう」
落ちる太陽を見て、変わり行く世界の色を眺めていると夜はすぐにやって来て、島に到着する僕たちは海岸に下ろされた。遠くの灯台が綺麗に瞬いていた。
「綺麗ね」
「ね」
見惚れていて虎の存在についてをすっかり忘れていた二人は辺りを見回したがどこにも居ず、針の穴すらの気配すらも感じない。
「どこに行ったのかしら?」
すると左のポケットから小さな振動とともに声が聞こえてきて、僕はおそるおそるポケットに手を入れてみる。噛みつかれるのではないだろうか、だが指先に触れたのは虎の美しい毛並みなどではなく、つるりとした勾玉だった。
「勾玉、虎?」
「そうだ。何かあれば、その勾玉で俺を呼びだしてくれ。俺は『秋』と『冬』の屏風の在りかを調べてくる。しばらくはこの街にとどまって、屏風の在りかを探ってくれ。あとな、季節を知ることは、同時に屏風を運命に惹き付けることにもなるんだ。龍は季節をよく知っている、観光気分で季節を楽しんでくれよな」
話しが終わると勾玉は輝きを失い元の色に戻った。春花は「さあ」と僕の手を取って言った。
「まずは今夜泊まる宿を探さなきゃね。行くわよ、京」
海岸沿いを離れ街の明かりに導かれるように僕らは進む。薄暗い道はあまり歩きたくは無いらしい春花で、僕らは少しだけ早足で歩く。
「あそこ、良さそうじゃない?」
「老舗って感じだね。あ、でも予算とかどのくらいあるの?」
「心配しないで。お父さんからも少し貰ったし、虎が良い屏風をくれて売ったらとんでもない額のお金が手にはいったわ」
「師匠の屏風売っちゃっていいんだ、虎」
「世界を救うためなら仕方ないんじゃない? それに龍探しのついでに美味しいもの食べなさい、って言われたからたくさん観光しようね、京!」
「うん!」
宿が見つかり二人は畳敷きの間に膝をついて窓の外の夜闇を見た。
「不思議よね。私達がまさか、こんな旅に出ることになるなんて」
「うん。この先もきっと僕らの知らないことがいっぱいあるんだろうね」
「怖い?」
「ん? 全然! むしろ春花と一緒なら楽しみなくらい。春花は?」
「私も。京はちょっと頼りないところもあるけど、いざと言う時にはすんごく助かってる。いつもありがとう、あとこれからも、ね」
「うん」
僕たちは部屋でちょっと豪華な食事を済ませると温泉に入ることにした。廊下を歩いていると古い木の廊下がギシギシと音を立てたので、「この旅館、ちょっとボロだから温泉は心配だね」と春花は囁いたので、僕は笑いながらそれに頷いた。
「綺麗だと良いけどねー。じゃ、温泉から上がったら廊下のマッサージチェアで待ち合わせね」
「うん、わかったわ。ごゆっくりー!」
「ごゆっくりー」
僕は青い暖簾をくぐると暑い蒸気のたち籠める脱衣場で服を脱ぎ、さっそく大浴場へと足を踏み入れた。
「うわーー! 広い!」
誰もいないけど。
壁に掛けられた時計は午後十時五分を示しており、僕はさっきフロントの人から「大浴場は十一時でおしまいよ」と言われたのを思い出した。
シャワーで体と頭を洗い、せっかくなので露天風呂へ。湯に体を潜らせるとこの旅館は海の近くなのでとても眺めが良く、夜の星もすごく綺麗にはっきりと見える。きっと今頃は……
「春花も見てるのかな」
そう呟いたと同時に少し離れた所の水面から無数の泡がブクブクと立ってきた。暗いのでその下はよく見えず黙っていると、いきなり人の頭が飛び出してきた。
ザバア!
「うわあ!」
ドキドキ。
「おお、驚かせてしまった」
お爺さんだった。この人、いつから潜っていたんだろうと上半身を見るとなんと背中に甲羅のようなものを背負っていた。
「甲羅……?」
「おぬし、わしのこの甲羅が見えるのか」
「えっ……はい。えと、なんで背負ってるんですか? それ」
「ええっ!?」 お爺さんは僕の発言に何故か驚いたようで「そりゃ、亀だから」とぽかんとする。
「亀ですか」
「亀じいとでも呼んでくれ。ほほっ」
亀じいは背中の甲羅を自慢気に見せつけてくる。最近はいろんなものに出会うなぁ。でも、どうして急に変なものが見えるようになったんだろう? もしかして今まで気づかなかっただけなのかな。
「亀じいはお一人で?」
「いや今日はお嫁さんと二人で来ておる。……もしや、ぬしも嫁さんとか?」
「なぜそれを」
「先ほど呟いていたではないか。『愛しの春花よ』とな」
「えっ、ってそんな恥ずかしい台詞言ってませんから!? あと勢いで言いましたけどお嫁さんではないですから! まだ!!」
「好き人同士なら同じことではないか。それに大切な人の身を想うのは良いことじゃぞ~」
亀じいはブクブクと湯に顔を沈めた。
「亀じいは、お嫁さんとはうまくやっているんですか?」
「ああ、もちろんだとも。君たちは、供に過ごすようになってからどのくらい経った?」
「二年です。でも、なかなか距離が掴めなくて。僕もしっかりしなくちゃいけないのになんだか迷惑かけてるような気が……」
「いいんじゃよ。パートナーというものはどちらかが頑張って背負うものではない。支えあっていくものなのじゃ」
僕は附に落ちて、柵向こうの海を眺めた。月の光が穏やかにざわめく海面に反射している。夜の海は心をいつもよりも少しだけ僕の心を素直にさせてくれるような気がした。
「とは言ってもな、わしがおぬしの歳の頃は妻を喜ばせるために必死だったものよ」
「そうなんですか?」
「ああ、そうじゃ。例えば近くのデパートに行くときもお嫁さんと楽しめそうなイベントを調べたりだとか、行くかもわからない先々の楽しみをひたすら事前に探し回ったりとな。空回りばかりじゃった」
「今は、上手くやっているんですか?」
「ああ。そりゃあもう最高、妻は素敵だ。愛は尽きることない!」
亀じいは元気よく立ち上がると岩を跨いで湯船から上がった。体には数えきれないくらいの古傷があったが、それはすっかりと体に染み付いていてむしろ格好いいと思えた。
「今できることを必ずやり遂げること、それさえしていれば必ず結果はついてくる。頑張るのじゃよ、少年」
亀じいは「またの」と言って露天風呂から出ていった。京は程よい暖かさの湯に身を溶けながらもう一度月を眺めて、亀じいに言われた事をもう一度頭の中で繰り返した。
大浴場から上がって暖簾をくぐると正面のマッサージチェアで寛いでいる春花が待っていた。
「あれ? 春花早いね、待たせちゃった?」
「おかえり。ううん、私がだいぶ早めに上がっただけ。のぼせちゃって。はい、フルーツ牛乳」
「ありがとう」
僕と春花はそれを一気に飲み干すと同時にふうと息を吐いた。口の中に沢山の果実の味が交互に現れてはまた消えていく。それは炭酸の泡にも似ている気がした。
「そういえばお風呂上がりに飲む飲み物って意見がよく分かれるよね。京はフルーツ牛乳でよかった?」
「うん。僕は果物系の飲み物は大好きだからね、よかったよ。ありがとう。春花は? お風呂上がりに飲むといえばやっぱりフルーツ牛乳なの?」
「いや私はココア派かな。あの自販機には売ってなかったけど」
「ココアかぁ」
お風呂上がりに温かい飲み物って美味しいのかな、と僕は考える。冬にアイスクリームを食べたくなる心理と同じなのかな。
「もちろん冷たいのよ? 京がなんか勘違いしてる気がして」
「ああ、なんだ」
飲み終わった缶をゴミ箱に捨てると中の缶とぶつかる音がして、僕はそれを一つの区切りとしてぐっと伸びをした。
「あのね、さっき京があがってくる前に私、館内図見てたんだけどね。ゲームコーナーを発見しちゃったの。ちょっと行ってみない?」
「いいねー! 場所はどこだろう?」
「確か三階だったはずよ」
僕らはエレベーターは使わずに階段を使って三階まで行き、ゲームコーナーに足を踏み入れた。現在の時刻は夜の十一時二十分、この旅館に宿泊している子供を含め、大半の人は部屋で眠っている時間帯だ。それにここは客室の並ぶ廊下側とは反対側で、フロアの隅にあるのでなおさら人の気配が無い。
薄暗いフロアの中でも唯一明るいこのコーナーでは、古びた筐体が場違いに楽しいマーチを独りで勝手に発していた。
「僕たちの他に誰もいないみたいだね」
「ここに零時を持ちまして終了って書いてある。当然っちゃ当然ね」
床は絨毯敷のフロアと違い、そこの一角だけは色とりどりの剥げたタイルが並べられている。
「あ、これ、僕が小学校の時に最新だったやつだよ」
もぐらたたきだ。ほとんど初期の仕様でこん棒のようなアイテムを使って穴から出てくるもぐらを叩く単純なものだ。
「あっ私もこれやったことある! 五十匹叩けばカプセルが貰えるんだったよね?」
「そう! これ、実は僕五十匹叩けたこと無かったんだよなぁ」
僕は色が剥げて錆の多いもぐらの頭を撫でる。
「今なら五十匹、いけるんじゃない? どう、京、勝負してみない?」
「よし、受けて立とう、負けないぞ!」
結果、十五匹対七十三匹で春花の圧勝だった。
「こ、このゲームって七十三匹ももぐら出てくるんだ……」
「出てきてないわよ。実際には五十匹、私は何匹か二回続けて叩いてるから七十三匹なのよ。それより、京クン、弱すぎじゃなーい?」
「息が、切れる……」
やばい、全く当たらなかった。このゲームってこんなに難しかったっけ? 単純すぎて僕が舐めすぎてたのかな?
コトン。機械の下から音がした。
「あっ、カプセルが出た」
春花が開けると中に入っていたのは、変な顔をした謎のキャラクターのキーホルダーだった。
「ぱ、ぱんだ?」
「パンダ? 違うよ京、知らないの? これはこの全国温泉マスコットのシロクロマルマル。かわいー!」
???
「シロクロマルマルはね、島によってバージョンが違うのよ。このバージョンは初めてだー、嬉しいっ」
「そう、よかったね……」
僕にはその猿に似たパンダのマスコットの良さがあまりわからないんだ、でも可愛く見えるならきっと可愛いのだろう。僕はもう一度、春花にシロクロマルマルのキーホルダーを見せてもらう。もしかしたら僕が偏見的な視線でこのキャラクターの良さを見逃しているのかもしれない!
シロクロマルマルの笑った顔と目が合った。可愛い、かわいい、カワイイ、カ……。
やっぱり、今はよくわからない。
「あっ、あれ僕好きなやつだー!」
僕は小さなゲームコーナーの中でもひときわ目立つの台へとやってきた。中におばあさんがいて、ずっと何かを喋っている。この台の内側は駄菓子屋という設定で、おばあさんの近くには様々な種類のお菓子があって小さい頃はずっと眺めていても飽きなかったなぁ。春花が後ろから「なあに、これ?」と近づいてくる。
「エッ」
春花が僕の背中に隠れた。
「えっ、どうしたの、春花?」
ちょっと体を硬直させながら僕の肩越しに話す。
「これ、私トラウマなのよね。ゲームコーナーでやってたら突然停電になって、このおばあさんの声がジジジジジってなって……」
「えっ!? たしかに、それは怖いよね。ちょっとわかるかも」
おばあさんの声は機械的とも人間的とも言えない不思議な音色をしていて、実際に話しているかのようで見方によっては超高性能小人型ロボットにも見えてくる。
「あはははは、でも僕がいるし大丈夫だよ。ほら、お菓子でも取って明日食べよう?」
「う、うん」
お金を入れ、輪にアームを通す。三回やって、どうにかゲットした。
「やったあ! ありがとう京」
「どういたしまして。僕、細かい操作は結構得意なんだよね」
「次は何する?」春花がそう聞いた時、突然フロアの照明がシャットダウンした。
「ひゃあ!」
春花が僕に抱きつく。
「京くん……」
「ん?」
「うしうしうしう、後ろ……」
振り返った途端、春花の後ろのおばあさんの人形にのみスポットライトが点灯、青白い顔が光った。
「いらっ……しゃ……イ」 ノイズ混じりの声。
「ぎゃあああああ!」
春花があんまりに僕の胸の辺りで大声を出したので、僕は瞬時に春花の手を引いてゲームコーナーから離れた。廊下を少し進んだところで振り返ると、未だ機械だけがぼんやりと光っている。
「春花、大丈夫?」
ドキドキ。涙目だ。いったい何があったんだ? すると、ゲームコーナーの方から係の人が慌てて走って来るのが見えた。
「ごめんなさいねー! 零時で終了で、まさかこんな時間に人がいるなんて思ってなかったのよぉー」
そういえばそうだった。腕時計はもう零時を五分ほど過ぎている。
「いえ、こちらこそすみませんでした」
僕たちが部屋に戻ろうとすると係の人は引き留めた。
「待って。これ驚かせちゃったお詫びの印に」
シロクロマルマルのキーホルダーが春花に渡された。またか、と僕は思った。
「ありがとうございます」
「でもスリルあったでしょ? お二人さん、これからもドキドキわくわく、いちゃいちゃ…仲良くねッ!」
おかま口調の店員さんは明かりの消えたゲームコーナーに戻っていった。
「これ、さっき取ったやつと同じシロクロマルマルね」
春花はそう言うも僕にキーホルダーを差し出した。
「はい、これ。京くんにもあげる」
「えっ?」
「二人、お揃いだよ? いらなかった?」
「そんなことないよ!ありがとう、嬉しい!」
それはもちろんのこと、本心だった。好きな人から心を込めて貰ったものは何であろうとも嬉しいんだ。でも、シロクロマルマルのかわいさだけはどうしてもわからなかった。
部屋に戻ると僕たちは一息ついて今日はもう眠ろうかということになる。明日は屏風を探しに街を宛もなく聞き込みをしなければならないから。
「じゃあ電気消すね」
僕は電灯の紐を持つ。春花は毛布の中から半分だけ顔を見せている。丸っこい顔がとても可愛い。
「うん。おやすみ。京」
「おやすみ。春花」
*
僕が目を冷ますと、そこには見知らぬ天井が広がっていた。木の板が祖母の家で遊んでいた頃の懐かしい風景と重なり、心地の良い子供返りに浸りたくなる。それにしてもここは何処なんだろうか? そう考えた途端に僕は僕へと元に戻った。
そうだ、僕は今春花と旅行に来ていたんだっけ。あと、虎と屏風と龍。亀じいもいたっけ? カーテンが遮る強い朝陽が今にもこちらへと這い出してきそうな、薄靄の部屋。座敷には椅子とテーブルがあり、お茶菓子が置いてある。柱は茶黒で、部屋は仄かに畳の匂いがする。
隣を見てみると春花はまだ眠っていた。猫のように両手を顔の前でグーの形にして、すやすやと寝息を立てている。
「可愛いなあ」
そう呟いた瞬間にけたたましいアラームが枕元から響いてきた! 慌てて自分の布団にもぐると息が切れて心臓の鼓動が大きな音をたてる。うるさい、だまれ! 時計に言っているのか自分に言っているのか。どっちもだ。
カチャ。アラームを止める音がした。僕はもぞもぞといかにも起きかけの演技をして春花に言った。
「おはよう」
しかし、返事がない。どうしたのかと僕は薄目を開けて春花を見た。なんとアラームを止めた状態のまま、また寝てしまっていた。僕は慌てて揺すり起こす。
「起きて、朝だよ? カーケーペールー?」
「ちゅーして」
「エッ」
僕は頬にしようとしたが、誤って口にしてしまいしかも勢い余って三秒くらいしてしまった。春花の目を見開いて驚いた顔を見た瞬間、僕は顔をさっと背けた。
「んー、おはよう」
目覚めが良さそうで腕を伸ばしている。起こしておいて何だけど、恥ずかしくて僕がもう一度布団にもぐってしまいたいくらいだ。春花は平気そう。
「いやー、驚いたよ。まさか京くんがあんなキスをするなんて」
「……そりゃ、男だからね!」
「変なところで意地を張るぅ~」
「い、いいから。はやく準備しようよ!?」
僕が自分のカバンから着替えなどを出している時、隣の春花をちらりと盗み見た。すると顔が耳まで熟れた林檎のように赤い! 余裕綽々としていた態度が実は照れ隠しだと気づいてしまい、僕はなおさら緊張してしまった。恥ずかしさを隠すように僕らはそさくさと大浴場へとそれぞれに向かった。朝食はルームサービスで、九時に持ってきてくれるらしいのでそれまでに部屋に戻ってこようと約束をした。
朝の温泉の気持ち良さは偉大だった。硬直した体に残る睡眠後の疲れが一気にほぐれてゆく、自分が本当の自分に生まれ変わるような心地好さに思わず声が漏れる。汗かお湯か、額から顎に流れ落ち、僕は溶けるように温泉の中へとおぼれてゆく。
でも、今回は春花を待たせないぞ! という気持ちが僕の心を奮い立てた。さっぱりとした思考が二人の幸運を呼び寄せるかのように思え、僕は堂々とお風呂から上がった。
ココア派だと言っていた春花の為に一階の小さな売店でココアとフルーツ牛乳を買い、マッサージチェアに座って今日のスケジュールを思い浮かべる。
「まず、屏風を探しに行かないと。でも、宛が無い」
そう、僕らはこの島を何の宛も無く屏風を探すことになったのだ。でもこの四季島は思っていた以上に広くはないはないようだから、どこかで龍騒ぎがあればすぐに耳に届くだろう。
「やっぱり、観光気分で探すしかないのか」
季節の美しさを知ることもこの旅の目的だと虎は言っていた。知識や経験は必ず力になる。
計画を練っていると、やがて春花がお風呂からあがってきた。
「お待ちどうさま。今回は京の方が早かったね」
「まあね。はい、ココア」
「わあ、ありがとうー! どこで買ってきたの?」
「どういたしまして。一階の売店だよ。自販機に売ってないなら、確実かなと思って」
「嬉しい」
僕は春花の喜ぶ顔が見れてちょっといい気持ちになりながら、缶の蓋を開けようとした。
「あっ、待って。部屋でゆっくり飲まない?」
僕は少し考えて、それから言った。
「いいね。あっ、今日一日のスケジュールを考えてみたんだけど戻ってから聞いてもらってもいいかな?」
「もちろんよ」
ほかほかの体で廊下を歩いてきて僕は春花の後について行く。なんだか不思議な感覚だなぁ、と思った。自由に動ける夢の中のようにまるで現実味が一行に湧いてこない。春花の背中を見つめるだけで、心の芯までほんわりと暖かくなった。
横長の低い机に向かい合わせで僕らは座椅子に腰かけると、カシュ、と蓋を開ける音が二回響いた。
「で、今日の予定なんだけど」
「うんうん」
「まず、この温泉街よりさらに奥にある古町に行ってみようかと思うんだ」
「古町? そこには何があるの?」
僕はあらかじめフロントの人から貰っておいたこの島の地図を机に広げた。古町までのルートが赤い線で示されている。
「ここが今僕達が居る旅館。ここからずっとまっすぐ行くと古町に着くんだけど。道中に美味しいお店があるから寄って行こうと思うんだ、どうかな?」
「賛成! ああ、今から想像するだけでよだれが」
春花は「へへへ」と笑いながらそう言った。それを見て僕も楽しい気持ちになってきた。
「朝ごはんがまだだけどね。で、肝心の古町なんだけど」
「うんうん」
僕は缶の中身を全て飲み干すと再び地図に目を向けた。
「この辺は民家なんだ。一軒一軒探すのも骨が折れるし、そもそも龍がどこで何をしているのかもわかんない。だから、さしあたり通行人にでも聞き込みをしながら質屋に行こうと思うんだ」
「質屋! そうね、そこならきっと屏風の情報を掴めそうね」
「うん。虎に聞いてみたんだ、屏風は二年前からこの島を巡っているらしいってね。な、虎!」
僕は勾玉を取り出して虎を呼び出した。
「ん? ああ、そうだ。屏風は人から人へと渡り歩く、って前にも言ったよな。だから必ずその町のどこかにあるはずなんだ」
「ふうん」 春花は頷く。
「俺もやっと残り二つの屏風の場所を見つけたんだ。あとで古町で合流しよう、俺もすぐそちらに向かう」
勾玉の色が元に戻った。そして、ちょうど話が一段落ついたところで朝食がきた。とても豪華で僕たちは息を飲んだ。
「いただきまーす」
朝食を食べ終えると僕らは荷物をまとめて部屋を出た。
「さ、出発しましょう」
フロントで受付を済ませている時、「昨日、一時的な停電があったみたいなんですけど大丈夫でしたか?」と聞かれた。「停電があったんですか?」と僕は聞き返す。
「ええ。確か十一時半頃だったかしら、三階のフロア全体がいきなりシャットダウンしたのよ」
「原因は何だったんですか?」
「さあ、調べてみたんだけどわからなくて。大丈夫ならよかったわ」
十一時半頃、それなら僕らはずっとゲームコーナーに居たはずであれは停電では無いはずだ。
「あの、僕たち停電のあった時間にゲームコーナーに居たんですけど店員さんがゲームコーナーの電気消しに来てましたよ」
「えっ? でもその時間帯なら従業員は全員スタッフルームで休息していましたよ?」
「え?」
僕と春花は顔を見合わせた。春花は女将さんに昨日の出来事をさらに詳しく話す。
「そんなはずないですよ、だっておかま口調の店員さんと私たち話したんですから!」
すると女将さんは困ったように宿泊名簿を確認し始めた。
「でもねえ、おかま口調の従業員もお客さんもいないのよねえ。それに電気関係はフロントで操作しているから」
*
外に出ると初夏の涼しさが程よく路を通っていた。晴天のはずなのに雨の匂いが少しする、きっと梅雨がやって来るのだろう。
「ああ、怖かった」
春花はほっと胸を撫で下ろした。
「まさか昨日シロクロマルマルをくれた人が幽霊だったなんてね」
「私たち呪われちゃったりしないかしら?」
「大丈夫だよ。あの人、良い人そうだったし安心だよ。さ、行こ? 春花」
「うん!」
旅館の近くには大きな川が流れていて、僕たちは橋から下を見下ろした。「白くてなにも見えない!」と春花は笑った。蒸気ではねた髪が可愛らしく揺れたけれど、僕は手で押さえて直してあげた。ついでに撫でてみたかったからでもある。
「ありがとう」
店はどこも閉まっていた。今日はここら一帯は全て休業らしい。古町へと続く階段を手早く降りると、そこは人の多く行き交う大通りだった。とはいえ、これでもまだ人は少ないらしい。パンフレットを見ると地面が見えないくらいに混み合っている。
「今は朝だし、温泉街も休業だから人がこれだけなのね」
「明日からはもっと大変になるかな」
「人がいっぱい居た方が屏風の情報も集まりやすいんじゃないかしら?」
「そうだね。よし、さっそく聞き込み開始だー!」
「おー。そしてアイス屋さんを」
「あはは」
そんなことを言いながらも僕らは何だかんだで真面目に聞き込みをしていた。でも、手がかりは何一つ見つからなくて。
「すみませーん」
観光することにした。
「スーパージャンボ泉アイスくださーい!」
春花と同じものを僕も頼んだけれど、いざそれを目の前にするとちょっとたじろいだ。僕がジャンボを一口食べようとする頃にはもう春花は三口目だった。
「おいしいー」
デザートを前にした女子は獲物に食らい付くライオンみたいだな、と内心恐れながら僕はジャンボを食べた。
「んっ、美味しい! わたあめみたい」
「でしょ? スーパージャンボ泉アイスの裏名はわたあめアイスだからね」
自慢気に言う。
「へー、名前のとおりだね。って、春花なんでそんなこと知ってるの?」
「さっき店員さんと仲良くなって話してたから」
すごい。僕はアイスを頬張りながら感嘆のため息を漏らしていた。人の良さって本当に何気ない所にあるんだな。
「やっぱり質屋かなぁ。屏風があるのは」
僕はアイスのカップをゴミ箱に捨てて立ち上がると、丁度春花も食べ終わり満足そうな表情で席を立った。
「だよね、もうそれ以外考えられないよね。……あ、大変だよ。京」
「どうしたの?」
「質屋さんに売られたのなら、ちょっとでも遅かったら買われちゃうんじゃない?」
「……急ごう」
のんびりとアイスを食べている暇なんて無かったのだ! 僕らは沢山の人とすれ違いながら質屋へと向かった。
「らっしゃーい」
明るい店内にはカウンター越しに珍しいものが見え、入り口付近の壁際にある机上には花瓶やらかんざしやら、様々な物が置いてある。
「すみません、こちらに夏の屏風は置いてありますか?」
「ちょっと待ってな、今探してくる」
質屋の男は三分程すると二枚の屏風を持ってきた。
「うちにあるのはこれだけだ」
夏をイメージした屏風ではあったけれど、明らかに盗まれた『春』とは紙質と違うし絵のタッチも違う。それに二枚のうちの片方はただのかき氷屋の宣伝屏風だった。
「違ったわね」
「あの、ここ最近売れた夏屏風ってあったりしますか?」
「そうだなあ。あ、そうだ。確か先週、温泉街の八助に夏屏風を二枚売ったんだっけかなあ」
「おじさん、八助の家を教えてください!」
そうしておじさんには地図を書いてもらい、温泉街の八助の家には明日行くことにした。明日はちょうどお店の開店日で八助がいる日だ。
「いやあ、質屋のおじさん親切で助かったね」
「そうね。もしかすると京の日頃の行いが良かったからだったりして」
「はは、まさか」
今日一日の目的を果たし、何もすることの無くなった僕たちは古町を観光することにした。だが、午後には灰色の雲がじわじわと押し寄せ雨が降りだしてしまった。慌てて傘を買い、旅館に戻ることにした。旅はまだ長い、風邪をひかないように体調を整えることは大切だと思ったんだ。
ぽつぽつと雨に濡れ出した町の様子はとても色濃くなり、地面や屋根、通りすがる人、空気などの全てが強調される。晴れた町の賑わいの匂いは全て雨の匂いになり、心が洗い流されるようだ。
「観光できなくなって残念ね」
「うん。でも春花と一緒ならいつだって僕は楽しいよ。あ、ほら見て紫陽花だ」
温泉街へと差し掛かる階段の手前では雫の滴る紫陽花が咲いていていた。雨粒で不規則に動いていた紫陽花の葉は傘の下に入るとピタリと動きを止め僕たちを不思議そうに見つめる。
「可愛いわ」
道中で多少の自然観察もしながら旅館に向かっていると、何やら橋の下を覗き込んでいる一組の男女がいた。
「何を見てるんだろう?」
「まさか物でも落としちゃったりとか」
足元で飛沫をあげながら近づいて行くと橋下を見ていたうちの一人がこちらに気づいて話しかけてきた。傘で隠れていた顔がはらりと捲れると、そこには僕の知った顔があった。
「少年、久しぶりだのお」
「あっ亀じい。この間はありがとう」
「おお、役に立っているならよかった」
春花はきょとんとして僕に聞いてくる。
「知り合い?」
「あっ。この人は亀じいと言ってこの前温泉で会ったんだ。亀じい、この子は春花」
「こんにちは」
「こんにちは。こちらはお鶴、わしの妻だ」
お鶴さんはペコリと一礼をした。亀じいは僕にだけ聞こえる声で話しかけてくる。
「この子が春花か。なかなか可愛いお嫁さんだな、少年」
「おっ、お嫁さんとかじゃないですよ! ……まだ」
傘に当たる雨の音が急に激しくなってきて、僕は声を大にして亀じいとお鶴さんに「何を覗いていたんですか?」と尋ねた。するとお鶴さんが白くて華奢な左腕を雨粒に濡らして川面を指差した。
「あれを見ていたの。綺麗でしょう?」
僕と春花は川を見てみる。暗く陰気な夏の川面だと想像していたが大違いで、雨粒に揺れる水面には無数の煌めきがあった。
曇り空のはず、と顔をあげて真っ直ぐに伸びる川の上流に目を凝らした。遠くの空から順々に、グラデーションがかかり夕暮れのオレンジ色の陽光が灰色で満たされたこの町に溢れる色を放っている。僅かに降り続ける雨粒で揺れ続けるモノクロの川面に反射した赤光が、白波に蛍のような一瞬の輝きを与えては水中へと飲み込まれる。
傘はもう要らない。僕ら四人の言葉は感嘆の吐息すらも出ないほどに時が止まっていた。雨も次第に上がりモノクロの町に唯一の炎のような灯火が降り注ぐと僕らは顔を上げて笑い合った。
「いやぁ素敵なものを見られたね、春花」
「ええ。今日が雨で本当に良かったと思ったよ」
亀じいとお鶴さんは二人で旅の途中だと言っていて、明日の早朝に出発するそうだ。「またどこかで会うかもな」と亀じいは言って二人はまた古町の方向へと歩いていった。
僕らは旅館での夕食前に温泉に入って一日の疲れを癒した。夕食はとても豪華で、頬がとろけるかとも思った。幸せな気分で寝床に入った二人は、窓からそそぐ月明かりを瞼裏に感じながら眠った。夢の中で夏の匂いを感じた気がした。
*
「売ってもらえなかったらどうしよう」
昨日、質屋のおじさんから貰った地図を頼りに温泉街の八助さんの家へと向かっていると春花が心配そうに言った。
「その時はこの時さ。お金はあるし。万が一無かったとしても、虎がここを見張っていれば龍は奪いにきずらいだろうし。そんなに気張らなくても大丈夫さ!」
呼び鈴を鳴らすと真っ先に聞こえたのは犬の鳴き声だった。そしてまもなく叱る声がして、足音が大きくなって、引き戸が開いた。
「犬がうるさくてごめんなさいね。何か用?」
「あっあのわたしたち」
春花と僕は物事の経緯を説明して八助さんと話し合いをすることになった。ちなみにこの人は八助さんの義理の姉だそうで、三年前にこの夏の島に引っ越してきて店を開いたらしい。
「八助ー! あんたにお客さんだよー」
「はーい。今行きまーす」
八助さんは見た目からして僕よりも少し歳上で身体が細いが、しっかりと付くべき部位に筋肉がついているような男だった。
「いらっしゃい。僕に何か?」
「実はこの前購入された夏屏風についてちょっと相談があるんです」
虎や龍のことは話してもきっと混乱するか、信じてもらえないだろうと踏んだ僕は、代わりにこの人は遠いご先祖様が描いたと偽って話した。八助さんは優しい人柄だったが、やはり冬の屏風はこの大陸ではあまり流通しないようで手放すのは惜しかった。
そこで僕は考え、屏風を売ってもらう条件として、買ったときの値段よりも少し高く買い取ると提案した。咄嗟の想像力がよく働くのが自分の強みだと春花に昔言われたことがあり、ずっとそれを自分の武器の一つとして生きてきたから今ではそれに磨きがかかっていた。
八助さんは言った。
「人助けだと思えばいっか。よし、その交渉に乗った!」
「ありがとうございます、すごく助かります」
「でも、この前買った夏の屏風は二枚あるぞ。どっちがご先祖様のだかわかるのか?」
八助が持ってきた二枚の屏風にはどちらも美しい夏景色が描かれていて、どちらが僕らの探しているものだかまるで判断がつかない。
「ダメね、どっちが良いのかわからないわ」
「どうしよう……」
「虎に聞いてみましょうよ。ほら、その勾玉で」
「あ、そうだね。こういう時にこそ有効活用しなくちゃ」
僕はおーい、と勾玉に呼びかける。すると虎から返事が返ってきた。
「四枚の四季の屏風は元々一枚の屏風だったんだ。師匠はあまり細部や繋がりを描かない作風だったが、絵の中には必ず夏の前後の季節である春と秋の片鱗、もしくはモチーフが描かれているはずだ」
春と秋の片鱗か。虎にお礼を言って勾玉をしまうと再びその絵に目を向ける。
「うーん、春と秋の片鱗かぁ。どんなものだろう……」
「考える前に先に二つの絵を見て探してみましょうよ、京。その方がきっと早く見つかるわ」
僕らは屏風に描かれた絵にぐっと顔を近づけて二つのモチーフを探した。いまは考えるよりも行動、か。今までの旅を振り返ってみれば、春花の意見に僕はよく助けられている気がする。
例えば、僕の長所であるべき部分が仇となって悪い方向に向かっている時なんかには必ず、春花は何かしらの助言をしてくれて助けてくれる。僕が幼かった頃は、まだ変なプライドとかもあってか僕を否定してるんじゃないかって思ったこともある。けれど、春花と日々を伴に過ごすようになった今となっては、そのありがたさをようやく理解できたような気がする。
春花の心の内を全てを知ることはできないけれど、これだけははっきりと言える。春花は僕を信じてくれているし、僕も春花を信じている。もっと奥の深い所までお互いの事を知るために僕らは一緒にいる。
「あった、あったよ! 京!」
僕は春花の指差す絵の部分を見ると、爪の先、小さな桜の花びらが一枚だけあった。
「春花すごいね、こんな小さいのまで見つけられるなんて」
「へへーっ」
僕は春花の指差す花びらをまじまじと見つめた。よく見ればその隣には一羽の小鳥がいて、紅葉をくわえている。これはもう、正真正銘の夏屏風だ。
「これは春告鳥だね」 僕は紅葉をくわえる鳥を指でなぞる。
「ハルツゲドリ?」
「ウグイスの別名だよ。ほら、ホーホケキョって鳴く鳥」
「ああ、あの鳥ね」
そして僕は少しだけ声のトーンを高くして元気よく言った。
「八助さん、この屏風を売ってください!」 「おう! 交渉成立だな。待ってな、今包んでやる」
「あっ、ありがとうございます」
八助に屏風を包装紙で包んでもらっているとき、春花がふと僕の耳元で囁いた。
「京だって物知りじゃん」
にこっと笑う春花はくしゃりと顔を弛めとても可愛かった。八助の家から出ると僕は屏風の包装紙をちらりと捲り、中身を眺める。
「いやあ、それにしてもまさかこんな値段がするなんて」
「ええ、見たことない額だったわよ」
僕は両手でしっかりと屏風を持つ。
「別にいいさ、虎のお金だしね。さーて、夏の屏風も手に入ったし! 虎に連絡を……」
春花にポケットの勾玉を取り出してもらおうとしたとき、どこから地響きが聞こえてきた。
「なに、この音?」
「地震?」
階段の向こうの古町通りを通行する人々はその地響きには気づいていない様子、何か変だ。
「あっ、京! 上見て、上!」
「上? あーーー!?」
なぜ僕は温泉街が昼にも関わらず、暗いことに気がつかなかったのだろうか? 上空を覆い尽くすほどに巨大な龍が僕らを見下ろしていた。夏の青空よりも濃くて暗い群青色の瞳に射抜かれたように僕は立ち尽くした。白い犬のような毛並みを持った蛇状の体、恐ろしい顎。僕たちはこんなやつと屏風の奪い合いをしていたのか。
「京、逃げよう」
春花に手を引かれて古町の通りを抜けるが、龍は小さくなって人混みの隙間を流水のよう縫いながらに追いかけてくる。走る僕らを怪訝そうに見つめるいくつかの瞳と目があった。
古町通りを抜けた先は何もない原っぱだった。その先には森があるが、この中に入れば確実に迷子になってしまうだろう。逃げ場はなかった。
「そうだ、虎を呼んで、虎!」
春花に勾玉を渡すのと同時に白い龍は僕らに追い付き、そして僕の体に巻き付いた。
「屏風を渡せ」
「い、いやだ!」
「傷つけたくはない。頼む」
龍はぬるぬると動く尻尾で僕の腕から屏風を抜き取ると、上空へと飛んだ。逃げられる。
「京!」
春花が僕を抱える。
「今、虎を呼んだから!」
語尾に重なるほどの大きな衝撃音が上空で響き渡ると龍がバランスを崩していた。虎が猛スピードで龍に体当たりしたのだった。一瞬の出来事で、頭での時系処理が逆になったみたいだ。虎が屏風の包みをくわえている。
「京、怪我はないか!?」
「僕は大丈夫ー!」
僕らが話している間に龍は胴体に怪我を負い、よろめきながら逃げていった。虎が追いかけようとしたが、春花が「もういいよ」と言ったのでやめたようだ。
「すまなかった。俺がついていればこんなことには」
「いいよいいよ。僕は無事だし」
しかし春花はすごく怒ったように僕に言った。
「よくないよ。京、あのままだったら大きな怪我をしていたのかもしれないよ? 無事だったから良かったんじゃなくて、危険な目にあったのなら無事じゃない可能性だってあったの。ちゃんとそれをわかって?」
「は、はい」
*
僕たちはまた明日になれば、今度は秋の島へと出発して次の屏風を探すことになる。全ての目的を果たしたこの夏島の海岸で、僕と春花はだらりと寝そべっていた。
「……暑い」
僕は起き上がって燃えるような砂浜に手をついた。真っ白な真夏の太陽がガンガンと鳴っている。
「せっかくだし、足だけでも海に入らない?」
春花の提案で僕らは靴下を脱ぎ、再び砂浜に降り立った。
「あちっ、熱い、熱いっ! ……あっちゃい!」
裸足で砂浜を走る春花は何度も飛びはねながら海まで走った。いつもはクールな春花がちょっと面白く見えたのが、なんかすごく嬉しかった。だからちょっとからかってみる。
「春花ー、変なスキップだねー!」
「ち、違う! 砂が熱いの! 京もはやく来なよ!!」
「あはは、今行くよ。うわっちちち!」
思っていた以上に熱くて、僕は飛ぶ、飛ぶ、飛ぶ。
「あははは! 京だってそうじゃん、変なスキップ!」
ようやく海に近づくと僕はピシャリと水をかけられ、かけ返して。カモメだって笑いながら僕らのすぐ真上を通過して羽ばたいて行く。水飛沫が宙に浮かぶダイヤモンドのように輝くその瞬間に、春花の笑顔が透かして見えた。
海岸沿いの灯台があり、少しすると僕たちはそこへ行ってみようということになり歩いた。途中で虎がやってきて背中に乗って海岸を走った。海風が春花の髪を流し、僕の鼻をくすぐる。こそばゆい幸せのようなものを感じた。
灯台には誰もおらず、僕らは螺旋状に打ち上げられた階段を見上げる。てっぺんの窓からは白光が漏れており、コンクリートでできた灰色の階段や円状の壁を透明な群青色へと変化させている。
冷たい感触を足裏に感じながら僕と春花は階段を登る。そして、振り向きざまに前を行く春花が「てっぺんよ」と僕に話しかけたのとほぼ同時に海風と潮の匂いが鼻孔を優しく撫でた。広い広い二種類の青の世界が眼球の隅から隅までを埋めつくし、カモメは眩暈を起こしたようにこの空を縦横無尽に飛び交って行く。
「涼しいー」
春花は、風で靡く髪を抑えながら先に到着していた虎の背中に寄りかかる。僕もその隣で深呼吸をしながら水平線を見渡した。一隻の大型船が小さな煙を吐きながら海上に白波を立てている光景が見えた。
そして虎は終始無言のまま、自分の首元にぶら下がっているポーチを示した。なんだろう、と僕が開けてみると中には美味しそうな三つのアイスが入っていた。春花は喜んで虎にお礼を言って、一つのアイスを僕に手渡した。どこかで鳴く青いギリギリスの声を耳にしながら、そして溶け出したアイスを必死に頬張りながら。僕らにとっての短い夏は終わっていった。
*
僕たちは夏島での目的を終え、遊覧船で秋島へ向かっていた。船は進み、辺りに見える島々の景色が少しずつ赤みを帯びてきた頃、僕は春花に聞いた。
「ねえ、なんだか寒くない?」
「そりゃそうよ。秋だもの。半袖パーカーでいる方がおかしいのよ。はい、だからこれ、借りてきたわ」
「ありがとう」
春花から渡された上着を着ていると頭の上に何かが落ちてきた。何だろう? 頭の上に手をのせると一枚の紅葉があった。完全な赤色の紅葉だ。
「春花見て、紅葉だよ!」
「あら本当! 綺麗な赤ね。きっと風で飛んできたんだわ」
「ということは秋の島まであともうちょっとだね」
僕たちは春の島の出身で、夏島を含めたその他の島には行ったことが無かったのでとても楽しみにしていた。もちろん写真や本などでは知っているけれど、実際に見て触れるのとでは全然違った。そして、僕たちは紅葉の匂いも嗅いでみた。赤く染まった紅葉は夏の陽射しで焦がされたような匂いがして、僕らはそれがとても大好きだと語り合った。
船は半日ほどで秋島に到着した。半袖のままでは寒いので着いてすぐに服を買い、夕日が山向こうに落ちきった頃に虎と一緒に街の宿に入った。虎は見えないのでどこに居ても問題はない。
夕食を食べて温泉に入ると疲れがどっと押し寄せ、僕らは十二時前にベッドに潜り込んだ。しかし僕はあまり寝付けずに、かれこれ一時間くらいずっと考え事をしていた。ふと薄目を開けるとカーテンの隙間から漏れる光が気になって僕は窓から外の景色を眺めた。遠くの街明かりはそこで暮らす人達の様子を頭に浮かび上がらせる。ここから見る景色はまるで祭り囃子の外のように感傷的で、真上の夜空の星は孤独を感じさせた。僕は街の明かりよりも星の灯りの方が好きだった。過去の努力が今に届くことの証明でもあるかのように、星は昔から僕の希望でもあった。
「……なにしてるの? 京」
春花が起き上がってこちらを見ていた。
「あ、ごめん、起こしちゃったかな」
「ううん、違うの。実は私もあんまり眠れなくて」
僕らは虎の方をちらりと見た。いびきまでかいてぐっすりと眠っている。あきれるほどに爆睡。春花は変な顔、と言い僕らは必死で笑いをこらえた。
「何を見てたの?」
「……星を見てたんだ。なんか、ずっと眺めていても飽きないんだよね。星って」
「あ、それ私もわかるかも。ちなみに私はいつも、宇宙人が来ないかな!? とか、もしも突然ユーフォーが現れたらどうしよう! とかって考えてたりする」
「あはははは。僕もおんなじだよ、それ。恥ずかしくて実は秘密にしてたんだ」
「ふふ。でも二人で見る夜空ってなんだかいつもとは違う感じね。こう、部屋が狭いのも心地良いかなって」
星の僅かな灯火に照らされる春花の瞳が儚く散ってしまう落葉のように見えてしまい、急に不安になった。途切れた会話が落ち着かなくて、また話しかける。
「この旅が終わっても春花は僕とずっと一緒に居てくれる?」
「もちろんよ。どこへも行ったりしないわ」
「よかった……」
気がつけば朝になっていた。雀の鳴き声が開け放された窓の外から聴こえてきて、秋風の落ち着いた土の匂いが海で迷った小船のように漂ってくる。
「朝だよ。おはよう」
隣に春花がいて、虎がいて。また、今日が始まった。
秋島は自然豊かな森がたくさんあり、紅葉に包まれていた。赤トンボが空を一羽飛び、すすきが風で揺れる。涼風は落葉を運び路肩を通る。そしてこの島にら異国の人々が多く訪れ、すれ違う人々の会話が薄い仕切りで囲まれているように耳に入ってこない。
「春花って英語話せるの?」
「うん。難しいのは無理だけどね、簡単なものなら。You can speak English?」
「い、いえす……」
「へえ、そっか!」
春花は僕が英語をあまり話せないことを悟ったように無邪気に笑った。
「簡単な英語とジェスチャーを駆使してやれば一応通じるわよ。もしもの時には筆談、絵とかでもいいのよ」
「へえ」
雑談をしていると僕たちはどこに向かっているのかという疑問がわいてきた。一度港に戻るらしいが、虎は僕たちの少し先を走り民家の屋根からキョロキョロと辺りを見回している。
「あいつ、なにしてるんだろう?」
「呼び掛けて聞いてみたいけど、虎の姿が私たち以外に見えないのが難点ね」
港に戻ると虎が近づいてきて、春花は先程の疑問を聞いた。
「虎さん、さっき何をあんなにキョロキョロしてたの?」
「龍の気配が無いかを確認していたんだ。この島近辺には今のところいない、安心していい」
「ねえ虎、屏風の在処の見当ってつかないの? この島全体を探すなんてちょっと疲れるよ」
「私もそう思うわ。夏島では宛も無いまま行ったり来たりだったし、このままだったら骨が折れるわ」
虎は僕の前髪が浮くほどの鼻息をふうと吹くと自慢気に胸を張り、紅葉に色づく山を示した。ここから見るとまるで苺のかき氷のように頂上が一番赤く、下にかけては緑と黄色のグラデーションが木々に降り積もっている。
「屏風はあの山の頂上にあるお寺に飾られているらしいんだ」
「え、ということはあの山を登るのーー!?」
「もちろん。疲れた時は俺の背に乗せてやる」
「あんまり乗り気じゃないわ」
僕と春花は肩の力が抜けてぐだっとなった。虎はため息をついた。
「紅葉が綺麗できっと驚くぞ。それに中間点には自然の中に建つ天然の温泉がある、夏の島のとは一味も二味も違う」
虎の言葉に少しは惹かれたけれど、まだ山に登ろうという気にはなれなかった。
「美味しいお月見団子が名物らしいな」
「えっ!? お団子?」
春花はそれを聞いた途端、何の迷いもみせずに「行く」と言い、虎の背中に颯爽と乗った。顔つきがもう団子の事しか考えていない。春花は美味しい食べ物には弱いんだ。それから虎は僕の近くに来て小さな声で囁いた。
「月夜の晩に二人でお月見デートするんだろ?」
「なっ……」
ずるいぞ虎。でも、山に登るって話には僕も乗った!
「さ、はやく行きましょう! 京」
春花は隣国からやって来た王子様のように虎の上から僕に手を差し伸べる。春花の瞳が団子に見えたのはきっと気のせいなんかじゃない。
山の麓まで来ると僕らは虎の背から降りて、「ここからは自分達の足だけで登る」と言った。だって春花と一緒だもん、辛くたって頑張れるさ! 虎は一足先に中間地点で待っていると素早いスピードで駆けていった。
「すごいね、あっという間に見えなくなったわ」
「僕たちも行こうか」
森は枯れかけた黄緑と明るい赤で満たされており、隙間からレーザーのように落ちてくる陽の光がまるでケーキのスポンジの中のような空間だった。
歩いていると、春花はよく僕に「あっリスがいる!」とか「みてみてこの子かわいい」と教えてくれる。
「春花って動物によくなつかれるの?」
「まあまあね。こっちが好きだって表現すれば自然になついてくるよ」
「そうなの? 僕なんて目と目が合っただけで威嚇されるよ」
春花は笑った。
「目線を合わせて見ることも大切よ。ほら、あそこにリスがいるからやってみてよ、京」
不安に思いながらもそっとどんぐりを掌に置き呼び掛けてみる。すると、一メートル程の距離まで近寄ってきてくれた。
「どんぐりを静かに転がして」
「えっ?」
「いいからっ」
言われるがままに僕はその通りにするとリスは転がったどんぐりをそっと二本の小さな手で持った。動作が細かいので少し動く度にいちいち可愛らしい。こちらを向いたリスはやがて音もなく走り去り、茂みの中で見えなくなった。
「あ、そうだったね。確か、野生動物に触るのは良くないんだっけ」
「そうよ、病気とか持ってるかもしれないからね。京は頭が良いのに、意外な部分が抜けてるよね」
ふふ、春花は笑ったけれど僕にはよくわからない。次第に山の木々が黄緑から黄色や赤に変わってきた時、少し先の深い茂みがざわざわと揺れていることに気がつき、僕は春花に「止まって」と制した。「どうしたのよ?」と不思議そうに僕を見つめるが、僕は揺れた茂みから目を離さない。その状態のまま僕は春花に小声で話しかける。
「今、あそこの草むらが揺れた。何かいる」
春花は口を押さえ、上半身だけ身を引いた。
「熊じゃないかしら」
「わからない。でも、もしそうだったとしたら大変だから、ひとまずここを離れよう。春花、僕の手を離さないで。ついてきて」
「うん」
そっと振り返り、来た道を戻ろうとしたその時だった。草むらから何かが飛び出してきた。
「うわあ!」
あまりに慌てていて、僕は春花に覆い被さるような体制でじっと固まった。後ろが見えないのでどんな状況かもまるでわからない、ただ息をひそめてじっと終わるのを待つのみ。胸の辺りで破れそうなくらいに早く刻んでいる心臓の鼓動、春花のこらえるように震える吐息と交わる。
恐怖がグロテスクにも生身に浮き出してしまうようなその感覚はまるで生きた心地がしなかった。
「……そこで何してるんですか?」
後ろから女の人の声が聞こえて顔だけ向けると、そこには赤と黒の帽子をかぶったお姉さんが立っていた。
「君たち、まさかこんな所で」
すっと顔を赤らめたお姉さんに、僕はハテナマークを浮かべると腕に丸く収まった春花に助けを求めるように目線を移した。
「も、もう離して」
え? 自分たちの今の格好を客観視してみる。意味がわかってしまった。
「ご、ごめん!」
急いで腕を下げると後ろに倒れそうになる。
「熊じゃなかったのね」
春花が言うと赤と黒の帽子のお姉さんは謝り、「驚かすつもりは無かったの」と。そして僕は尋ねる。
「じゃあ茂みの中であなたは何してたんですか?」
「これよ」
お姉さんは肩から下げたちょっとゴテゴテとした茶色のバックからスケッチブックを取り出した。ペラペラとページをめくり、「あったあった」と広げて僕たちに見せてくれた。栗の絵だ。美味しそうに熟れた茶色の実がトゲの中から顔を見せている。
「植物の観察をしていたのよ。私たちは四季島を巡ってそれぞれの島の特徴を探しているの。要するに、旅ね」
お姉さんはスケッチブックをしまった。
「私はセチア、よろしくね」
「春花です。あの、さっき私たちって言いましたけど一緒に来てる人がいるんですか?」
「ええ。確かそこら辺に」
木々の間から誰かを探すように見上げているセチアさん。上?
「あ、いたいた。おーいピーコ!」
「ハイハーイ。って誰よこの子たち」
「さっき知り合った子たちよ、京と春花」
木からふわりと降りてきたのは背中に羽の生えた小さな女の子だった。可愛いらしい風貌でハキハキと喋る姿はとても気持ちが良い。
「え、あのピーコさんって」 春花が驚いた表情で言う。
「ええ、私は妖精よ。ピーコと一緒に旅してるの」
「かわいいわ。とっても!」
「んーー、ありがとう春花ー! あなたとは良い友達になれそう!」
ピーコと春花がくるくるとじゃれあって遊んでいる間に僕とセチアさんは歩きながら、この旅でどこを巡って来たのかというこれまでの話をした。
「へえ、京くんたちも四季の島を旅してるんだー!」
「はい、ついこの前までは夏の島に居て今日この秋の島に到着したばかりなんですよ」
「着いて早々、よくこの山に登る気になったわね」
「ああ……はい、色々と事情があって」
「ふうん。でも、どんな事情があれど初めての旅はどうかしら、楽しい?」
「それはもちろん! 春島とは全く別の世界が広がっていて、毎日が新鮮です。なんか、島によって空の色までもが違ってみえる気がしてるんですよね」
僕は空を見上げる。
「わかるよ、それ! なんか違うよねー!」
セチアさんは「良い感性を持ってるね」と満足気に頷いていた。
「って、京くんは春島出身なの?」
「はい、春花もです」
「えーー! 私たち、次は春の島に行くんだよー! ねえねえ、観光名所でも教えてよ」
「もちろんです!」
僕は春花を呼び、セチアさんとピーコさんに僕達だけしか知らない『素敵な場所』のことを教えてあげた。
そして四人で、それぞれに見た四季の様子を語り合った。見えた空の色、人の行き交う商店街の様子、高台から見えた大型船があげた白煙。同じ場所から見た景色でも、僕らとセチアさんチームでは感じ方がまるっきり違うということがわかった。なぜこんなにも違うのかと、僕たちは熱心に考えた。
「私たちはもう大人だけど」
セチアさんは言った。
「あっ、ピーコってもう大人だったっけ?」
「私はもう二十歳よ!」と反論。セチアさんはごめんごめんと笑うと僕と春花の方を向いた。
「やっぱりその歳、その時々にしか感じられない風景とか匂いってあるのかもね。二人の旅の話を聞いてもっと今を大切にしなきゃなあ、って。思ったわ」
春花はセチアさんの話に深く頷いた。
「それは私たちも同じです。セチアさんとピーコさんが夏島を探検したって話、なんだか私達とは別の場所に行ってきたみたいでとっても楽しそうでした。だから、大人になることがちょっとだけ楽しみになりました」
ピーコは春花の肩にピタリとくっついた。
「春花が大人になったらきっとステキな美人さんになるわ! だってこんなにいい子なんだもーん」
デレデレに誉められた春花は「いやー、もうやめてよぉー」と肩のピーコをつつきながら笑った。
僕は和気あいあいの会話から少しだけ抜け出してみて、耳を澄ませてみる。カサカサと葉を踏みしめる音が聞こえる。この世界にはたった四人しかいないくらいに他の音は聞こえない。桃色と赤を混ぜたような風景が燃える心臓の深い所を刺激して、人と人との空気感をより鮮やかに彩っていた。
途中の休憩所でお昼を済ませると僕らは再び山を登り始める。セチアさんとピーコさんとはここで別れた。そんなこんなで春花とくだらない話をしながら山を登ってゆけば、午後三時頃には頂上に到着。僕らの他には誰もいなかった。
「うわー、綺麗ねー!」
遠くに羊の群れが草原でうねる蛇のごとく踊り回り、それぞれに色づく木々に色を吸い取られたような白の街が見える。
僕らは景色に見とれて何度も辺りを見渡したがら、そばの境内を抜けて階段を登った。お寺は想像よりもずっと清潔な印象があり、隅々まで手入れが行き届いていた。「すみません」と呼ぶと神主さんが出てきて、僕らは虎や龍のこと、屏風が狙われているということを話した。神主さんならきっと屏風の存在の意味を知っているだろうし、信じてくれると思ったのだ。そして予想通り、神主さんは僕たちに屏風を譲ると言ってくれた。しかし。
「屏風を譲ることは構わないよ。ただ、秋祭りまで待ってもらえないかな? 祭の日には秋の屏風を毎年飾ることになっているんだ」
春花は「へぇ」と頷き「秋祭りって何ですか?」と聞いた。
「豊作を祈る祭りだよ。明後日からこの境内から山のふもとの港町あたりで行われる恒例行事なんだ」
「面白そうね、京」
「そうだね。じゃあ、神主さん。僕ら、秋祭りが終わった頃にまた来ます」
背を向けて山を降りようとした時、神主さんは「ちょっと待って人」と僕らを呼び止めた。
「もし君らがよければこの寺に泊まっていかんかね? 祭りの用意で若い人手が必要なんだ」
いい話だと思い、僕は春花に「どう?」と聞いてみる。
「いいわね! 神主さん、よろしくお願いします」
僕らは寺に泊まることになった。ご飯を食べてシャワーを浴びて、部屋で春花と話していると神主さんが花火を持ってきてくれて「みんなでやろう」と誘われた。神主さんは大人ながらに遊ぶことが大好きらしい。
数年前に奥さんを亡くして以来、人生は悔いなく生きることの大切さを知ったのだとか。「彼女は苦労や理不尽に抗うように、必死で楽しみも見つけてきた人だった」 手持ち花火の炭酸のような音の中、神主さんは微笑んだ。
僕は終わった花火の燃えかすをバケツに放り込むと静かに顔を上げた。今日は星が降るような夜空だった。いくつもの知らない誰かの人生が空にあるように、僕と春花の出会ったのも広大な宇宙の中のひとつなのかもしれない。
朝、目が覚めてぼやけた街並みを一瞥した後、僕は境内の掃除をしていた。春花は神主さんと一緒に朝御飯を作ってくれている。
みずみずしさが未だ残る枯れ葉の湿った香りが漂ってくる境内。階段の両脇にある紅葉と銀杏並木の枝には小鳥がとまっていて、「ピー」と僕に挨拶をする。可愛いなぁと思っていると春花の呼ぶ声がした。
「ご飯だよー!」
僕は急いで箒を片付けて戻った。焼き魚のいいにおいがする方へと。
朝ご飯を食べ終えると、僕らは露店で必要な物の買い出しに出掛けた。昼は落ち葉を集めて焼き芋を焼き、これがまた美味しかった。出来立ての暖かさと、好きな人とほくほくしながら食べる。心も体も幸せになった。
秋は夏とは違って程よい落ち着きがあって素敵だ。
夕暮れ。露店設置の手伝いに来ていた人たちに「そろそろ完成するから後はゆっくり休みな!」と言われ、僕と春花は今日の業を成し終えた。寺から少し離れた眺めのよい場所に僕らは向かい、置かれていたテーブルと椅子に腰をおろした。
「疲れたね。お疲れさま、京」
「春花もお疲れ。しっかし、秋祭りがこんなに大きな祭りだなんて驚いたなぁ。街並みがまるっきり変わっちゃうくらい、装飾されてるんだもん」
「秋祭りって収穫祭って意味合いが強いのかもね。と、いうことは美味しい秋の旬物がたくさん食べられるわ……!」
「んもー、春花はそればっかり!」
「ふふ、明日が楽しみ」
そんな話をしながら眼下に広がる野ばらを眺めていると、僕はあることに気づいた。
「そういえば虎はどこ行ったのかな? 頂上で待ってるとか言ってたけどあれから見てないよね」
「虎のことなんてすっかり忘れてたわ」
「どこいったんだろーね」
「山で迷子になったんじゃないかしら?」
「えっ、先に行くって言ったのに?」
二人でゲラゲラと笑っていると、「俺はここにいるぞー」という虎の声が聞こえた。姿は見えない。
「どこにいるの?」
楽しそうな口調で春花はキョロキョロと虎を探し始める。
「ここだよ、ここ」 虎の声は上の方から聞こえる。
「あっ、いた!」
僕はお寺の屋根を指差す。
「寝そべってやがる」
「虎さん、もしかして昨日からずっとそこに居たの?」
春花が呆れたように言うと「まあな」と飛び降りてきた。なんてやろうだ、手伝いもしないで。
「屏風は秋祭りが終わったら譲ってくれるらしいわ」
「ほお。そりゃあ良かった」
虎はご機嫌な様子で近くに群生しているススキにじゃれついた。猫かよ。
「ねえ虎? ちょっと疑問に思ったことがあるんだけど、龍は世界を壊そうとしてまで師匠の四季の絵を見たがってるの?」
「ま、まあな。何度言っても聞かないんだ」
「ふうん」
やがて太陽が沈み夜が来ると大きな満月が暗い夜空に現れた。月の光に照らされて、すすきの揺れるテーブルで僕はお月見を楽み、春花はお団子をいっぱい食べている。
「春花は月よりお団子、か」
「まあね! でも月も美味しいよ、見るぶんには!」
兎が跳ねるように春花の手はひょいぱくと動く。
「そ、そうなんだ……。よくわからないけど、よかったね!」
春花は食事の時が一番テンションが高い。普段はクールに僕と会話をしているけど、たまに子猫がじゃらしに飛び付くように興奮したりもする。そう、大人のクールな猫だとずっと思っていた僕にとって子猫の春花はなんだかとっても不思議だった。
別人ではないんだけれど、僕は君の存在を何の根拠も無しに決めつけていたような、そんな気がする。
「月が綺麗ね」
「そうだ、ね」
コオロギが何にも興味無さそうに鳴く。君の洒落た言葉にも反応できないでいるほどに、月に照らされた君の横顔は綺麗だった。だけど、あの夜に見た不思議な愛しさは全くといっていいほど感じられなかった。今の僕たちの距離はこの星と月くらいに離れているのかもしれない。そう、思ってしまった。
昼過ぎ頃から街はパレードのように賑わいを見せ始め、様々な人がざわめきの中をはつらつと歩き回った。沸き立つ群衆の声が潮騒のようにざわめき、どこかでは空の昼花火が打ち上げられて硝煙が上がる。
今年、一番良い出来の作物がたくさん並ぶので、雰囲気よりも味を楽しむ祭りらしい。僕らは露店巡りをした。春花に負けじと食べているとなんだか少しだけ距離が近づいたような気がした。会話もいつもより弾み、食べるものも美味しく感じられた。
カラスの鳴く頃、公園で一休みしていると春花は満足そうに僕に話しかけてきた。
「いっぱい食べたねー。京はどれが美味しかった?」
「そうだねー、やっぱり栗ご飯かな。あれは多分、今まで食べた中で一番美味しいと思うな! 春花は?」
「私はかぼちゃパンケーキかな。シロップが特製だったから一つ買ってきちゃった」
バッグからちらりと見せる。
さて、西の空が一段と赤くなり、頭上の空が赤紫に染まってきた頃、昨日とは違う星が瞬き始めた。僕らは名も無き星には名前をつけ、やがて訪れる静寂と闇に抗うように光を見つけていこうとした。
僕の買った林檎飴は夕暮れの光と星の光を絡ませ、光沢のある藍錆色へと変化してゆく。その美しさと不気味さが僕たちの心に深く染み込んでゆくような気がした。春花にそんなことを話してみると同じだと言って笑っていた。
次の朝、頭が冴えないまま僕たちは神主さんから屏風を受け取ると最後の島、冬島へと出発した。「やり残したことはないか?」と虎に聞かれたけれど、春花は「無いよ」と即答する。僕も同じだった。
「きゃっ、寒いよ!!」
春花は船の甲板へと続くドアを開けるが、すぐにドアを閉めた。ドアについている小さな窓から外を見るとヒラヒラと雪が待っている。灰色の重たげな雲はそのまま落ちてきそうなくらいに厚く浮かんでいた。
「冬島はもうすぐだね」
そう言って振り返ると部屋の隅っこで身体に毛布を巻きつけて震えている春花が居た。
「どうしよう京、寒くて外にも出られないわ」
「それなら着いたら今度は僕がコートを買ってくるよ」
港に停船すると「すぐ戻るから待ってて」と言い残して、僕は港近くの服屋を探した。
ショーウィンドウに並ぶマネキンを頼りにどうにか服屋に入るまでは良かったけれど、女性物のコートなんてどれを買えばいいのかさっぱりわからなかった。店員さんに聞くと「プレゼントですか?」とか「サイズは」って聞かれて、もう逃げ出したくなった。
「こ、このくらい」と思い出しながら手で示した僕に店員さんはにっこりと微笑んだ。外では雪が降っている。早くしなくちゃ。
港に戻ると先程まであったはずの船がどこにも見当たらない。僕は急いで、近くで小舟をいじっていた男の人に船はどこに行ったのかと聞いた。
「船? 君がここに来る五分前に出港しちまったよ」
「そ、そんな! あの船はどこへ行ったんですか?」
男はこちらを見もせずに網をバケツに片付けると、街の方角へと歩き始めたので僕は追いかけながら話を聞いた。
「あの船は島の反対側の港へ向かったよ。ちなみにこの港に戻ってくるのは二日後。それまで待つんだな」
追いかける足が止まり、海風が身体を拐うかのようなに強く吹き付ける。取り残された京は一人空を見上げて言った。
「春花……」
虎に連絡を取ろう、と思ったけるど龍に襲われた時以来、勾玉はずっと春花が持ってるんだっけ。京はぼんやりと落ちてくる花びらのような雪を眺める。そもそも虎はどこへいった、確か船の上で寝ていたはずだ、とすると春花と一緒のはずだから心配は、いらない!
思考がまとまり始め、京ははっと我に返る。まずはこの状況を整理して何が最善の選択肢かということを把握するべきだと京は考えた。町の案内所へと向かい、地図を広げると、どうやらこの島は四つの島の中でもっとも広いらしくここから島の反対側の港までを距離にすると。
「!?」
秋の島四つ分くらいにあたると見た。どうやら冬島は四季の島の中でもっとも大きいようだ。これじゃあ島じゃなくて大陸だよ、とため息をついた。二日間この町に留まり船と春花が戻って来るの待つべきか、それとも僕が反対側の港まで向かうべきか。迷っていた。現在時刻は午前十時になったばかりで、列車の時刻表を見ると、昼の十二時に島を横断する汽車がある。駅のホームには既にかなりの客が切符を求めて押し寄せてきているため、判断は早い方が良い。
もう一度時刻表を見ると、昼の汽車を逃せば次は夜の便しかない。僕はその情報を得た途端、一切の迷いなく券売所へと足を早め切符を手に入れた。四方八方から矢のように飛んでくる人々に、時折激しくぶつかりながらもどうにか駅を出ることに成功すると、落ち着ける場所を求めてとりあえず公園のベンチに座る。それから念のために財布の中身を確認すると僕の全財産は一万三千円あることがわかった。
「一万三千円か」
不安になるような半端な額にも思えたけれど、汽車旅の支度である程度使っても五千円は必ず手持ちに残るので余裕はある。それから、気の持ち方次第で物事が上手く行くこともあるのではないだろうか、と考えてみたりもした。
汽車は一度の休息地点を挟んでそれ以外はほぼノンストップで目的の駅へと走り続ける。「運が良ければ半日でつけるぞ」という券売所のお兄さんの言葉が心を踊らせていたのも確かだったが、まずはこの気持ちを落ち着かせる為に一度喫茶店にでも行って休もうかと思う。歩き出そうとした時、一人の少年が僕に話しかけようと手を伸ばしていたことに気がついた。「どうしたの?」と声を掛けてみると、少年はおろおろとして何かに困っている様子だった。
「何か困ってるの?」 続けて言うと、少年は開けずにいた唇をそっと開いて僕に尋ねる。
「駅の場所、教えてくれませんか? わからないんです」
今行ってきたばかりだったけれど、人に何かを聞くというのはこの少年にとってとても勇気がいることなのだろう、僕は快くオーケーした。
「もちろんいいよ。でも、ちょっと待ってね」
僕はカバンから春花のために買って結局渡せなかったコートを取り出して、少年に着せてあげる。
「こんな雪の中なのにさすがにその格好はダメだよ。風邪ひいちゃうよ」
すると少年は不思議そうにコートを見つめ、顔をあげた。コートはちょっと大きいかとも思ったけれど、意外と着れるものだった。
「……ありがとう」
「どういたしまして。僕は京っていうんだけど、君の名前は?」
悴んだ手に手袋を差し出す。これは少し大きかったかな? でも無いよりは良いだろう。
「アズ。おじいちゃんとおばあちゃんの家に行こうとしたんだけど、汽車に乗るのは初めてなんだ」
僕はアズの言葉に違和感を覚える。
「えっ、初めてなの? 両親は、お母さんやお父さんは」
「ぼくの両親はデートで遠い場所に旅行に行ったよ。ぼくを置いて、三日前から」
「三日前から!? アズを置いて……」
それから僕は勢いにまかせて詳しい事情を聞いてしまった。最近の自分は良くも悪くも相手の事に関してはストレートになってきているようだった。詳しい事情を聞かれて、迷惑か迷惑じゃないかは、やっぱり聞いてみなくちゃわからないからだ。聞かないで損をしたことの経験の方が僕には多かった。
少年は祖父母の家に逃げて助けを求めることにしたのだという。僕はこの子を強い子供だとも思ったが、同時に最低な大人もいるもんだと怒りに震えた。僕はこんな大人にはならない、と改めて強く決意をするとともに、この子がどんな形であれ幸せになることを祈った。
僕は喫茶店へ向かうのをやめ、少年とともに駅へと向かった。冬の寒い一本道の両脇には誰かが道を譲った跡が残されていた。バスの停まる停留所のようにやがてはそれも当たり前のように踏み固められて、地面の一部になるのだろうか。
駅でアズと切符を買ったが、十二時の出発まであと一時間ほどある。おせっかくなので二人でお昼を食べることにした。
「どこにしようか?」
「あっ、ぼくカレーが食べたい!」
アズが立ち止まったのは、赤い煉瓦の積み重なったカレー屋だ。入り口の扉へと続く石畳の側には沢山の花々で彩られており、ラベンダーにパンジーの花、盆栽などがある。京には、ここにやって来ている蝶々のように、僕たちはこのカレーの香ばしい匂いに誘われてやって来たのだと思った。
ポストの近くにある看板を見る。の人気店らしく、『本日予約一杯!』と看板に手書きで書かれていた。
「アズ、ここは入れないよ。予約が一杯って書いてある」
「ええー。でもほら、京さんの名前もここに書いてあるよ?」
「何言って。あ、なんだろうこれ」
看板の下の方に『京』という文字、つまり僕の名前が他の文字よりも大きくあった。注意書きを読むと、『本日、この名前のいるお客様は無料! 一緒にご飯を食べませんか』とある。期限は十一時から十一時半時の三十分間だけと書いてある。
「これは、予約無しで入れるな」
「やった!」
僕は三段の階段をのぼって、アズはそれを全て飛び越えて玄関のベルを鳴らした。出てきたのはコック帽のおじさんで、「君が京、さん?」と言った。
「はい! それであの、この子も一緒に入ることはできますか?」
コック帽のおじさんはアズに尋ねる。
「名前はなんと」
「アズ、です」
「アズ……」
何かを考え込むように顎に手を当てた後、素晴らしい名前だ!と笑った。
「アズ。あまり詳しくは無いが人と人とを繋ぐ言葉だと聞いたことがある。そんな二人なら大歓迎だ。さ、入って入って!」
中に立ち込めるのは濃い目なカレーの鼻先にまとわりつくような匂い。
「ちょうど出来上がったところだったんだ。三十秒待ちな」
「三十秒だって!」
アズは嬉しそうに小声で数える。コック帽のおじさんの方をちらと見ると、おじさんは数えられている事に気がついたのか笑顔で急いでお皿を出して盛り付けた。大きな鍋から溢れ落ちるルゥがトロリとまろやかで、金色に光っているように見える。
「お待たせ。どうだ、三十秒だったか?」
アズは顔をあげる。
「……ゼロ! すごい、ピッタリだ」
「おお、それはよかった。さあ、手をあわせて」
「いただきます」
京とアズもそれに続いて挨拶をした。まずは一口、隣のアズとほぼ同時に食べて、飲み込んだ途端に感嘆のため息とともに声が出た。
「美味しいーー!」
「めっちゃうまいですよ、このカレー!」
京は次々と口にスプーンを運んだ。アズもおいしいおいしいと今まで以上に元気になっていた。
「そりゃあよかった! うちの自慢なんだよ」
コック帽のおじさんもカレーとご飯をスプーンですくう。一口が京の二倍くらいはあるのでスプーンも大きい。
「おじさんってこのお店、一人でやっているんですか?」
「ああ、そうだよ。四年前まではバイトの鉄ちゃんが居たんだが、俺以上に腕の立つヤツでな。世界に行ってみたいと言い出してやめていったよ」
しかしお店の中に飾られている賞状に鉄ちゃんの名前は無く、全てコック帽のおじさんのものだった。
「あの、僕たち看板に自分の名前が書いてあって不思議に思って来たんですけど、あれはいつもやってるんですか?」
「むぐ……。ああ、そうだぜ。昼を一緒に食べる仲間が欲しくてな」
アズは不思議そうな顔をして言った。
「バイトは、もう雇わないんですか?」
しまった、アズにはまだ踏み入っちゃいけないことがわからないんだ。京は内心ドキドキしながらおじさんの方を見るが、おじさんはなぜか薄笑いをしながら照れていた。
「いやあ、実はなー。バイトをとらないのは訳があってな、聞いてくれないか」
コック僕のおじさんは歯切れの悪い言葉で、京とアズに沢山の事を話した。最後にはこう言いながらカレーの最後の一口を食べ終えた。スプーンと皿がぶつかった。
「変な愛着を持てば別れる時がつらくなるからよ、こういう、なんていうのかな。今みたいな一喜一憂の出会いを楽しみたくて名前看板を出したのさ」
アズには少し難しい話だったようでおじさんが持ってきてくれたパフェを夢中で食べていた。京は目の前のパフェには目もくれず、コック帽を見つめた。
「それって、二度とないっていう言い訳で僕たちと距離を置きたがってるようにも聞こえますよ」
「え、いや、その」
「冗談ですよっ! おじさんはそんなつもりじゃないってわかってますから」
京はやっとパフェを一口、また一口と食べ始めた。
「それに俺たちはそこで出会ったばかりなんですけど、一喜一憂だとは思ってませんよ。友達なんで」
友達、という単語を聞いてアズは僕にニカッと笑顔を向けた。つられて僕も照れ笑い。
「それに、このお店のカレーは美味しいのでまた来ます。だからまた会うことになりますよ」
パフェを食べ終えて、それから僕はおじさんに向き合った。
「ま、次に来るときもまた、看板を『京』に書き直してから中に入りますけどね」
僕の言葉に、おじさんはまるで中身が入れ変わったかのように、はっと体を震わせるとお腹を抱えて笑い始めた。その笑い声に京とアズもつられて笑えてきてしまう。
「看板に書いてある名前の人が誰も来ないからってよくいうよ!」
おじさんはようやく笑いが収まると真面目な顔をしてこちらに向き直った。喉にひっかかっていた餅に似た何かが取れたかのように清々しかった。さっきまでの哀愁の張った顔とは違う、屈強で優しい男の顔だった。
「京、アズ。俺は二人を待つことにした。京の言う通り、俺は別れに敏感になりすぎたのかもしれないな。……一期一会にならないことを願うなんて多分初めてかもしれない」
「きっと鉄ちゃんさんもまた来てくれますよ。そうずっと信じ続けている方が、ふとした瞬間に現れたりもするんじゃないですか。僕はそう思いますよ」
「へへ、良い性格してるな、京! さあて、俺も今日を機会にまたバイトを雇うことにしようかな! 誰かを待つことも、誰かと過ごすのも同じくらいにハッピーだって、お前らに会えてよくわかった。ありがとう、京。アズ、また来てくれよな!」
「うん! またね、おじさん」
「おう!」
手をふるコック帽のおじさんは僕が振り返った時にはもういなかった。そして、遠くから聞こえる店のチリーンというベルの音がみんなで食べた美味しいカレーの味を思い出させるのだった。
僕らが駅のホームに着いた丁度その頃に列車は到着した。だが隙間も無いくらいに混んでいてホームは人でぎゅうぎゅう詰めだった。人波に揉まれながらやっとの思いで乗車口にたどりついけれど、乗務員の人からは「あと一人分しか空きがない」と言われ、僕は迷う理由もなくアズを乗せることに決めた。
「アズ、はやく乗って!」
「えっ、でも京は?」
「僕は深夜零時の汽車に乗るから大丈夫!」
発車のベルが鳴り、僕は何度も振り替えるアズの背中をポンと押して列車に入れた。ドアが閉まり、大勢の乗客を乗せた汽車は動き出した。窓から顔を出したアズが手を振った。
「ありがとう、京。よいクリスマスを!」
「アズもよいクリスマスを!」
やがて汽車は雪煙に紛れて見えなくなった。快く見送ったのはいいものの、こんなに混むとは思ってもみなかった。次は夜の夜行列車か。
入りそびれた喫茶店で時間をつぶし、夕方になると僕は街をぶらつき始める。黒いカラスが水色と白でにじんだ空を飛べば、その背景にはほんのりと赤みを帯びた雲が現れる。それは入道雲を上から潰したような形をしていて、僕に夏の記憶を思い出させる。それから、少しずつ深い藍に染まる街並みに小さな光る点と輪郭を描く白い工場の煙。闇のような山……。
僕は喫茶店との行き来を繰り返しながら深夜零時を待った。列車の中で読むために買った本はもう一冊買い足して、少し早めにホームへと急いだ。
「人、いないな」
昼間と比べても半分以下だ。乗れなかった人達はどうしたのだろうか? 駅員に尋ねると「夜は人が少ないんだ。よっぽどの急用が無い限りはみんな明日の早朝の列車に乗るよ」と言われた。
汽車は野太い汽笛と灰色の煙に包まれながら機体を震わせて目の前に停まると、京はすぐさま寝台車両へと直行し眠りについた。朝方には島を横断して反対側の街に着くという。きっと目が覚めたら春花に会えるんだ。淡い期待を胸に抱きしめて僕は目を閉じた。
ガタン! という激しい揺れる音で京は目を覚ました。到着したのかと期待を膨らませて飛び起きたが窓の外はまだ夜で、「なんだ、まだ夜じゃないか」とふて腐れるように布団にもぐると、突然個室の電話のベルがけたたましい呼び鈴を鳴らした。
「うるさいなあ。今度は何」
受話器を手にとる。
「はい」
「車掌です! 深夜に申し訳ありません。実は列車が脱線してしまいまして……」
外に出て確認すると、列車はもう動かないとわかった。
「明日の朝、救助車が来るそうです。本当にすみません」
「この先の街へは?」
「当分の間、列車は動きません。行くとすれば、戻って明後日の船を待つのが一番早いかと……」
翌日の朝七時。コートと荷物を持って汽車を降りると、外で待っていた車掌さんが申し訳なさそうに何度も謝ってきた。
「すみません、救助車はまだなんです。予定では十時頃に到着と言われているのですが」
「あなたたちのせいじゃないですよ、夜中までお勤めご苦労様です。あの、それよりもここは今どの辺りなんですか?」
周りを見渡してもただっ広い雪原と一本の線路、少し離れた線路の両側には林しか見えない。
「えっ、あ、はい! ここは先の街まで五キロの地点であります」
「救助車はこの先には行かないんですか?」
「雪が酷く降り積もっていてね、救助車では行けないんだよ。救助車もこの専用の線路でやって来るしね」
「じゃあ僕、線路を辿って歩いて行きます。ありがとうございました」
明後日の船なんて待っていられない、春花が心配してるかもしれないんだ。京は一人列車から離れて行く。
「あの、お客様、ちょっと待ってください! あの、心ばかりですがよければ」
車掌さんから受け取った袋に入っていたのは豪華な駅弁だった。そして、「この先は長いですから」とお茶やジュースもくれた。
「えっ、こんなにいいんですか?」
「はい! それは乗務員一同からの餞別だと思ってください。では、お気をつけて。春花さんにも会えるといいですね」
「ありがとうございます!」
僕は途方もない線路に沿って歩き出した。それにしても車掌さんはなんでこんなにくれたんだろう? 色々と理由を考えてはみたものの、ラッキーだと思うことにした。ありがたい。
「ところで僕、車掌さんに春花のこと話したっけなあ? まさか声に出てた?」
車掌はこの先に小さな一軒家があるとも京に教えた。一軒家の主はスノーモーピルで街て行き来しているらしく、そこで運がよければ乗せてもえるかもね、と。君ならきっと大丈夫だよ、と乗務員さんたちからも言われた。
たった五キロだ、一キロ歩くのですら余裕なんだからきっと日が暮れる頃には街が見えるだろう。京は楽観的に物事を考える癖があった。
しかし、歩き続けて約一時間後。つい先程までは晴天だったはずの空は急にどす黒い黒雲を連れてきて、猛吹雪となった。雪で司会が遮られる中、必死で歩くも村はまだ見えず、唯一目的地までの道筋である線路だけが頼りだ。
吹雪は強さを増し、足の疲れと、先の見えない展開に精神までもが疲れていた。やがて僕はその場に倒れ込むように座った。もう、ダメかもしれない。でも、春花が。そうだ、一度寝て起きたらまた出発しよう……。きっとその頃には嵐は、過ぎ去っている、はず、だから……。
何も見えず、何も感じない。雪が音もなく身体全身に降り積もる感覚と、どこかから聞こえる風の轟音。やがてそれすらも遠退いてゆくと、突然プツンと切れた。何も聞こえない。
*
暖かさが体にまとわりつくような感覚がして自然と瞼が開いた。目が覚めると僕はベッドの上に仰向けで寝かされていた。横向きになると暖炉の火がぼうぼうと燃えていて、家に帰ってきたのかと錯覚してしまいそうだった。
「目が覚めた?」
足元の方から呼ばれて京はゆっくりと起き上がると、椅子に腰かけたお鶴さんが裁縫をしながら僕に微笑んでいた。
「え、お鶴さん? あの、僕は」
「ちょっと待って、今亀じいを呼ぶから」
お鶴さんは二階へと続く階段に向かって「京さんの意識がもどりましたよー」と叫ぶ。天井からドタバタという足音がして、亀じいが急いで階段を降りてきた。「二段飛ばしは危険ですよ」とお鶴さんが注意する。
「おお、起きたか。京、こんな形でまた会うとは夢にも思わんかったわい」
お鶴と亀じいの話によれば、吹雪の中で倒れていた京をスノーモービルで通りかかった亀じいが助けたらしい。亀じいは街まで買い出しに行く途中で、吹雪が酷くなって引き返そうとした時に僕を発見したらしい。
「京はよく頑張った。あと、一歩でも前に進んでいなければ、わしは京が倒れているのに気がつかなかったかもしれんぞ」
あのとき、僕はずっと春花に会いたいと強く願っていて意識が落ちる瞬間まで歩き続けていたのだった。
「ひたむきに強く、優しく生きること。お甲が大切にしていることですね」
「ああ、そうじゃよ。京にもその精神があることを知って、今、わしはとても嬉しく思っているところなんだ」
なんて答えていいか僕が返答に困っていたらお鶴さんが口を開いてくれた。
「ところで京さんは、どうしてあんなところで倒れていたのかしら?」
すると亀じいも身を乗り出して「あの可愛いお連れさんはどうしたのかね、まさかまだあの雪の中に!?」と。
「いえ、春花は別のところにいるんです」
僕は旅の目的と虎と龍の事について話した。亀じいとお鶴さんなら一応、人間では無いのでわかってくれるだろうと京は思ったのだ。
「と、いうわけで僕たちは虎と一緒に龍を探す旅をしてきたんです」
……。
そこまで話してようやくこの事実に気がつくと僕は亀じいとお鶴の顔を「あっ」という顔で見つめてしまった。
「わしらは虎と龍を知っておる」
鶴、亀、虎、龍。古今東西を司っていたという伝説の生き物の名前だったのだ。どうして最初に会った時に気がつかなかったのだろう? 驚きのあまり言葉が見つからない。
「京さん、私たちは虎と龍が生まれる少し前まで、師匠と暮らしていたの。だから虎のこともよく知ってる。待ってて、今、虎に連絡してあげるわ」
お鶴さんは部屋を出ていき、その間に亀じいは師匠が死んだあと、お鶴と旅をした日々のことを僕に話してくれた。
「あの頃はなぁ、お鶴の色々な姿を見てみたかったんじゃよ。だがなぁ、見れば見るほどにそれはそれは美しくて。わしは自分が嫌になりそうだった。理由の無い不安もあれば、喧嘩だって数えきれないくらいにしたの。身が千切れる程の寂しさも感じたのう」
亀じいはお茶をゆっくりと飲み干し、一息をついているとお鶴さんの足音が隣の部屋から聞こえ、慌てて湯呑みを置いて早口で言った。
「でもな、互いを知るために出た旅なのだからそれは当たり前なんじゃ、京。それを全て乗り越えて受け入れた先に幸せが待っておる」
襖が開き、お鶴さんは笑った。
「あら、何の話をしていたんですか? そんなに慌てて」
「いやあ、京が恋に困っていると言っていたのでちょっとアドバイスを、な」
「えっ、ちょ、亀じい!」
「まあ!」
お鶴さんはふふ、と口元を押さえて上品に笑い、亀じいはお鶴さんに沢山の面白い言葉を投げかけて楽しませている。
いつか、僕と春花もこんな風に歳を重ねてみたい。いつまでもこうやって笑いあって、支えあって。誰かを助ける強さと優しさを持つ二人。そういう人に僕はなりたい。
次の朝、春花と虎が訪ねてくると京は真っ先に春花に抱きついた。
「ちょ、ちょっと!」
抱きついてから気がついた、これでは僕が寂しがりやさんだ。京は照れながら落ち着いて離れると「心配した」と言った。春花は「それ、こっちの台詞よ」と笑い、「私だって京が一人ですんごく心配してたんだからね」と揺れる声色で、目元を拭った。そして京は虎にもちゃんとお礼を言った。
「虎、ありがとう。春花をここまで連れてきてくれて、守ってくれて。ほんとうに……」
「お、おう。京が無事でよかったぜ」
虎のふかふかな毛皮に埋もれていると、眠たくなってくる。いつまでもこのままで、と思ってたら、亀じいはパチンと手を叩いて「さて!」を場を改めて仕切り直す。
「無事に再会できたことは何よりじゃ。虎、お前には色々と聞きたいことがある。あとでちょいと来なさい」
「は、はい」
「それとな、おぬしらの探している冬の屏風は実はうちにある」
「ええーっ!?」
僕らは亀じいとお鶴さんに別れを告げて、虎とともに春島へと向かった。夏、秋、冬の屏風を手に入れて。船上で次第に暖かくなる風がこの旅の終わりを意味しているような気がした。春島の港に到着すると、春島はとてつもない嵐に見舞われていた。真っ黒な曇天、強風に流されゆく一羽のカラス。制御できない自然の猛威が島を襲っている。
風で細かく震える灯台下にある小さな家の窓ガラスが、そこにいないはずの幻影を見せ始めるのではないかと恐ろしくなる。風の音が、すごい。
「なんでこんな嵐なのよ!」
「これほど酷い荒天を見たのは初めてだ」
「息が、できないっ」
僕は口元を押さえ、虎は僕らを庇うように風上に立った。
「港から離れよう。ここは高波も来るし危険だ、はやく町へ」
とその時、何の前触れも無く春花が宙に浮かんだ。
「えっ、ええ!? きゃあ!」
走り出そうとした僕もなすすべなく浮かび上がり地面から離れてゆく。虎は「まさか!」と声を上げると、透明な輪郭が二人の周りに見え始め、やがてそれは白い毛並になっていった。
そう、龍だった。
「龍!」
「虎、悪いがこの二人を借りていくぞ」
龍は曇天をも気にしない素振りで低い雲の中を突き進む。その間、龍に掴まれた春花に僕は手を伸ばすとなんとか手が届いて、繋いだ。
「どこに、向かってるのかしら」
龍に連れられて来られた場所は春島の中心にある遺跡だった。ここは普段誰も立ち入ってはいけない場所で、管理すらもされていない。ただ錆び付いた鎖と鍵がドアに張り付いているだけ。龍はその扉を左の鍵爪でいとも簡単に扉を垂直に割ると、僕らを連れてその中へと飛び込んだ。
入ってすぐの所には階段があり、ゆっくりと下ってゆく。やがて足下に仄かな灯りが見えた。僕の後ろでは春花と龍の話し声が聞こえた。
「あそこに行けばいいの?」
「ええ」
僕は階段を慎重に踏みしめてゆく。
「春花、転ばないように気をつけてね」
「うん」
出口へと差し掛かり、眩い光に一瞬何も見えなくなった後、もう一度目を凝らすとそこは海のプラネタリウムだった。ガラスのような膜で覆われた、ホールのように大きな空間から見上げる海中には魚達が泳いでいる。太陽の光が揺らぎ、揺らぎ、夢水色に全ては染まっている。
「うわぁ……」
春花は寝起きのように曖昧な目で辺りを眺めている。海水に浸かった地面には煉瓦などが積み重なっているが、そのどれもが半壊した家々のようにも思えてくる。使い終わった水槽の中にあるオブジェみたいだ。
「こんなところがあったなんて知りませんでした。僕らはこの島で暮らしているのに」
「そうだろう。私もこの世界の全てを知ることはできないから、こうして屏風を集めていたのさ」
「でも、その屏風は島の大事な宝物で無くなったら天候がおかしくなるって……」
「それはあの虎が言ったのか? そんなハズはない、なぜならこの屏風に宿る力はもう薄れているのだからな」
えっ?
「ほら、二人ともこちらに来なさい。君たちが持つ三枚の屏風と、私の持つ屏風を繋げてみるんだ。あ、あの時は奪ってすまなかったな。さあ……」
春花は言われた通りにその屏風を繋げてみた。しかし、その屏風と屏風の間には謎の空白のようなものがあった。次の季節に移り変わる前には、まるで煙のように四季の特徴が薄れていき、それは空白になっていた。
「なぜ、繋がらない……?」 龍は二人を見た。
「もしかして私たち、間違えた……!?」
「でも虎も亀じいも、師匠の屏風で間違いないって言ってたし、本物じゃない?」
二人で考えていると階段の方から聞き慣れた声がした。
「そうじゃよ。その屏風は本物で、繋がらないようにできておる」
「亀じい、お鶴さん!? どうしてここに」
こちらが駆け寄るまでも無く、亀じいはコツコツと下駄を踏み鳴らし、お鶴さんは細い脚を健気に動かしながら歩いてきた。そして、その後ろからは背中を丸めた虎もついてきた。
「やっと皆が揃ったな。ほれ、虎」
虎はゆっくりと前に出てくると、「すまなかった」と二人に謝った。何がわからない京と春花は「え?」と聞き返した。
「俺がお前達が初めて出会った時に『屏風が揃ってしまえば気候変動が起きて島々が崩壊する』と言ったがあれは嘘なんだ」
春花は「どうしてそんな嘘を?」と優しく聞いた。
「俺は、師匠が死んだ日以来から季節というものの美しさがまるでわからずにいた。俺の中ではひとつも季節が変わっていない。俺は四季島を何度も巡ってみたが、その美しさがまるでわからない。孤独だけが、あった」
龍は難しそうな顔をして虎に言う。
「虎サンよ、私の屏風集めを邪魔したのはなぜなんだ? 別にそれとこれとは関係ないのだろう?」
「……タイミングが、悪かっただけなんだ。屏風を集めれば島の季節は流れ始めてしまう、俺は移りゆく時間の中で独りになることが怖かった。龍。お前は師匠の残した作品を見たいだけだったんだよな、本当にすまなかった」
龍は「いいよいいよ、また虎サンと仲良く暮らせるなら私はそれで構わないさ。どうせなら、悩みをちゃんと打ち明けられる仲になれたにゃ……」
語尾の方がゴニョゴニョとなり、龍はうねうねととぐろを巻いた。「かわいいわね」と春花。
「え?」
「だってこの子女の子でしょ?」
そうだったの!?
「乙女心も気づかないなんて。京はほんとうに、素直? にぶい?」
聞かないでほしい。
そして虎は僕らに四季島を旅させた理由を話した。
「人間がどうやって四季を読むのかを知れば、俺も感性を取り戻せる気がしたんだ。二人に渡した勾玉は俺の感受性の箱だ」
春花は勾玉を手のひらに置くと、それを僕にも見せた。勾玉の中には、二人の体験した様々な出来事や感情の欠片が色水のように輝いている。
「自分の都合のために、京と春花を利用したことは許されないことだ。その勾玉の用途は二人に任せる、好きに使ってほしい」
春花は「とんでもない!」と虎に勾玉を返した。
「私たちはこの旅で多くのことを学んだし、出会ったわ。それに京とだって仲良くなれた。だから、虎の都合はどうであれ、私と京にとっては素敵な経験だったのよ? ね?」
春花の言葉に京は頷く。
「あ、僕からも言いたいんだけどさ。虎が師匠の事を思ってきた季節は絶対無駄なんかじゃないよ。ぼ、僕はどれだけ人を思って生きてきたかで季節は変わるんだと思う!」
虎は、何度も何度も心に刻むように頷くとありがとうとお礼を言った。
「お師匠の残した屏風の空白は人の考える心を表しているのかもしれん、か。京、その解釈ワシは好きじゃぞ!」
亀じいのグッドサイン。僕はテレる。
「時間が止まったこの四島はもうじき動き始めます。元々、屏風の微かな力で留まっていたようなものですから」
この水のドームももう少しで消えてしまうらしい。お鶴さんが「ここを出ましょう」と言いかけた時。桜の花びらが一枚、海中を揺れ動きながら落ちてきてみんなはそれを見た。
「おや?」 龍は不思議そうに海面すれすれまで覗きに行くと、また戻って来る。
「この上には桜の木があるようです。せっかくですし、みなで見に行ってみませんか?」
僕と春花、お鶴さんと亀じい。虎は龍の背中に乗ると「しっかり捕まってな!」という威勢の良い掛け声とともに、ドームの天井から水の中を一瞬で突き抜けた。水飛沫が目に見えるほどにキラキラと舞い上がり、嵐と春雷のあとの晴れた空が視界に広がった。
春花と僕は龍の背中から降りると「あっ」と声をあげて喜んだ。ここは、そう。
「秘密の場所だ!」
「ここと繋がっていたのね!」
ここは二人が幼い頃からずっと大切にしてきた秘密の場所。島の外れにある『遺跡』と呼ばれる廃墟群の中でも、この一本桜のある空き地だけは唯一誰にも見つかってはいない。空き地の周りは半壊した家のみような崩れた遺跡に囲まれていて誰も近づくことはできないが、僕と春花はここへの行き方を見つけ出しそれ以来、二人だけの場所としていた、以前までは。
そして桜の木の下ではすやすやと眠る二人組の姿が。
「セチア、ピーコ!」
春花が呼ぶと二人は目を覚まして手を振った。
「あっ来たんだ、待ってたよー!」
ピーコがそう言うので春花は「えっ、いつから?」と驚く。
「一時間前よっ! えっ、どうしてわかったのかってぇー? それは私が妖精で魔法使いだからよ!」
ピーコは超が付く程のドヤ顔で自慢気にそう話した。
やがて、みんなの春風が吹いた。気持ちのよい新しい風に、その場に居た全員が頬を撫でられた。力強く地に根を卸す一本桜はここに来たみんなの出会いと繋がりを祝うように、花吹雪を降らせるとそれぞれから静かな歓声があがった。
「綺麗ね」 呟く春花。
「うん、とっても綺麗」
僕は桜よりも、ずっと隣にいる春花のことばかりを見ていた。すると何やら怪しい気配を感じ、後ろをぱっと振り返る。
「おーっ京君、ラブラブだねぇー!」
セチアさんが僕たちの肩を叩いてニヤニヤといやらしい笑みを浮かべた。
「ち、桜を見て綺麗って言ったんですよー」
「ほんとかなぁー?」 それからセチアさんは「ねえさっきの京の発言、どっちの意味だと思うー?」と声を掛け始め、僕は恥ずかしいけれど春花にこっそりと打ち明けた。
「好き」
「私も」
二人は誰に言われるでもなくゆっくりと目を閉じて空気に混じる春の匂いを探した。咲き初めた蕾から滴る水が爽やかな風に化け、新しい風になる。唇に触れるくらいの優しさ、その感覚を消さないようにそっと目を開く。そこには、大切な人が居た。