先に幸せになった方が勝ち
テーマは『勝負』
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「先に幸せになったほうが勝ちだぞ?」
別れ際でさえ、隼人は勝負をふっかけてきた。
去っていく隼人の後ろ姿を目で追いながら、泣いたら負けだと七海は精一杯強がって見せた。
隼人との別れを忘れる為、自分の幸せ――夢であった社会福祉士になり自立すること――を手にする為、七海は五年の歳月をがむしゃらに過ごした。養成施設に通いながらボランティアとして福祉士の仕事を手伝い、休む間も惜しんで夢に向かって邁進したのだ。
そして元来まじめで負けず嫌いの七海は、二度目の試験で資格の取得に成功したのだった。
合格発表の日、ささやかではあるが、七海を祝う会が開かれた。
「――七海は学生時代からモテてたよな。だって俺、お前の事、好きだったもん」
なんの衒いもなくそんなことを言ってのける隆之は、十年来の親友だ。
「モテてたのは確かよね」
そういって七海をおちょくる麻美も、気心の知れた仲だった。
「ま、モテても彼氏持ちじゃどうしようもないけど」
オシボリで口を拭きながら隆之は言う。
頬杖を付いて麻美はしみじみ七海を眺める。
「そんな七海もフリーになって早五年」
「そろそろ次の男、捜したらどうですか?」
隆之はオシボリをマイク代わりに七海に突きつける。
「その話はしない約束でしょ?」
と七海は二人を睨む。
「約束してからもう五年も経ってるけどね」
麻美はいつになく喰ってかかってくる。
「今は男のことなんて考えてられないのよ」
そう七海は一人ごちる。
「でも、お前の夢の道は今回の試験に合格してだいぶ明るくなったじゃないか」
真顔でそういう隆之に思いきりオシボリを投げつける。
「これからが大切な時期なんじゃない。私のことなんてほっといてよ」
七海は憤懣ごとビールを飲み下し、不意に揺れた店の暖簾の方へ目をやった。
「あ、来た来た」
そう言ってそそくさと隆之が向かった先には、五年間、何の音沙汰もなかった隼人が立っていた。
遅れてきた元カレの顔をまじまじと見るのはそれだけで負けているような気がして、七海は一人で憤る。
隼人は案外しっかり年を重ねてきたようで、無駄な肉が落ち精悍な顔立ちになっていた。
「久しぶり。聞いたよ。よくやったな」
喧騒に酔っていた心が冷や水を浴びたように一気に縮まる。
隣にきた隼人の顔を見れず、七海はドギマギして、
「相変わらず、上からモノを言うわね」
と強がるのが精一杯だった。
「変わってないな」
苦笑する隼人の顔を漸く見上げると、自分もなぜだか可笑しくなって、一緒になって噴き出してしまった。
「あなたもね」
そういってグラスを合わせる。
あんなに好きだった隼人と別れて五年。また笑って再会できる日が来たのだ。七海はそう思い、穏やかだがどこか寂しい気持ちになっていた。
「時間と共に大体の事が変わるけど、お前らは変わってないようだな」
五年の間に覚えたらしいウィスキーのグラスを煤りながら隼人は笑う。
「あんたのその悟ったような口ぶりも変わってないわね」
平気で悪態をつく七海に、
「お前のそのドライな物言いもな」
と隼人も負けじと返す。
会わなかった歳月にも関らず、幼馴染みの四人は自然だった。
「なんで一度も帰って来なかった?」
隆之が尋ねる。
「帰ると戻れない気がしたんだ」
「また、気取った言い方」
と言い溜め息をつく七海に、隼人は微笑みを返す。あの優しい微笑みを。
「どうせ女でもできたんでしょ」
本気かわからない麻美の言葉に、隼人は、
「いや」
と短く答える。
「そんな訳ないわよ。あんたみたいないい男、誰がほっとくもんですか」
少しムキに言う麻美にも、
「女の事なんて考えてられなかったんだよ」
と答えた。
そして七海に一瞬だけ目を合わせると、勢いよくグラスを煽った。
隼人と七海は店を出たあと麻美達と別れ、家路の途中にある河川敷を歩いていた。
隼人は酔っているのか、鼻で息を大きく吐いたりして落ち着かない。
「飲みすぎ?」
「ああ、ウィスキーなんて初めて飲んだからな」
「なんであんなに強いお酒なんて飲んだのよ」
三歩先を行く七海は、道路沿いの縁石上を歩きながら何気無く訊いた。
「…俺、こっちに戻ってくるよ」
七海が振り向いた時、隼人は立ち止まっていた。
「就職先も見つかった」
再び歩きだし、隼人はゆっくりと七海との距離を縮める。
「もうこっちには帰ってこないんじゃなかったの?」
「そんな事は言ってない。俺は始めから何年かで戻るって言ったよ」
動転する七海の声に、隼人は優しく言葉を重ねる。
「夢があるって言ってたじゃない。 私、夢を諦めて出戻ってくるなんて許さないから…」
きつく言ったつもりの言葉が余りに力ない事に気付き、七海は思わずその場にへたり込みそうになる。
「ずっと夢だった所で働ける事になって、戻ってきたんだ」
風が吹き、よろけた七海の肩を支えて隼人は言う。
青年の逞しい手が触れた時、七海は衝動的にその胸に身を預けたい想いに駆られた。
五年前のように、ごく自然に。
でも七海は隼人の長い腕をすり抜け、早足で河原に降りていった。
川沿いまで来ると、隼人は例のぎらぎらした顔付きで、勝負な、と言って河岸にある小石を拾いあげた。
彼は大きく振りかぶった後、その小石を思いきり投げた。
「1、23、456!」
隼人はそういって子供のように小躍りしてみせる。二人が子供の頃から何度となく勝負した、水切遊びだった。
慎重に平たく小さな石を選び、七海はサイドスローで投げる。
「1、2、34…」
小石は鋭く回転しながら川面を切って飛んでいく。
「5、6、789! やった、私の勝ち!」
七海は勝ち誇ったような笑みで隼人を見る。
「おかしいな。暫くぶりだから腕が鈍ったのかな?」
言いながら隼人は次の石を拾う。
二人は夢中で、何度となく川に石を投げ込んだ。
水切りに適した石を探し、投げている間は無心になれた。
【幸せって一体、何なんだろう】
暫くして七海の頭にそんな単純な問いが浮かんできた。
私は今、夢に向かって一歩前進した所だ。でも、それは幸せとは何か違う。始めからある違和感はどうしても消えない。夢を叶えることが、私の幸せなのだろうか。
そしてこの、五年もの歳月を離れていた一人の愛する男と一緒にいるだけで、どうしようもない喜びが体の芯から湧き上がってくるのはなぜだろう。
「なあ、あの時の勝負、まだ覚えてる?」
息を切らした隼人が七海を眩しげに見つめる。
「…先に幸せになった方が勝ち」
七海は眼を伏せ、あの時の隼人の微笑を思い浮かべる。
顔を上げると、五年間、幾度となく思い描いた優しい微笑が、そこにはあった。
「その勝負、引き分けにしないか」
沸々と込み上げる喜びに耐え、七海はそっぽを向いてみせる。
「やだ」
抱きしめてもらいたい思いを堪えて、七海は顔を上げ、息を吸う。
「この勝負、私の勝ちね」
「…どうして?」
隼人の問いに満面の笑みを湛えながら振り向き、そして七海はこう言ったのだった。
「だって私、今、最高に幸せなんだもん」