おばさま令嬢の恋歌
これが、恋というものなのだろうか。
一人ぼぅっとそんなことを考えながら、私は今日も商い通りを歩く。
今までこんな人生に何も意味を感じていなかった。後は果てるだけと、諦め切っていた。
なのにこの熱い胸の意味は何だろう。
私はまた彼に会いたいと、そう思った。
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私はかつて、とても幸せであった。
金もある、名声もある、自由も全て欲しいだけある。
歌を嗜むのが好きだった。小鳥のように庭で歌うのが楽しくて、それが毎日の生きがいだったことをよく覚えている。
その歌を聴きに、多くの人がやってきた。
そして「美しい」だとか「素敵」だとか言ってくれるのも、また楽しみの一つ。
容姿も淡麗と評判で、私の元には毎日のように婚談が持ち込まれていた。
二十歳の頃には侯爵の子息と婚約を結ぶなど、それはそれは前途があったのだ。
しかし、不幸は突然に訪れるもの。
父である男爵が、つまらない汚職事件を起こし、爵位を剥奪されたのである。
一気に周りの目が冷たくなり、私と結ばれていた婚約を侯爵子息が破棄。その他の貴族たちも手を引いていった。
歌を観にくる者も激減、やがて誰もいなくなった。資金が底をついて屋敷を手放した挙句、今度は他の貴族に遊ばれてありもしない汚職の噂を広められ、男爵は打首になったのである。
――こんなの、不条理すぎる。
売れる物は全て売り払った。
ひっそりと人目を逃れるようにして街へ降りた私は、身分を隠して生きるようになった。
最初は地獄だった。
汚い仕事を請け持たされ、屈辱と苦痛の中を過ごす。でも慣れてくればお手のものだったし、稼いだお金で家を借りてちょっとした商いの仕事もできた。
……ただ、幸せとは言えない。
人生を半ば諦めていた。もう恋は訪れないだろうし、昔のように歌声を誰かに聞かせることもできまい。
それでもいい、私はそう思って、何年も何年も過ごしていたのだ。
そんなある日、私は彼と出会った。
商い通りの裏路地で厄介な輩に絡まれてしまった私。
金を要求され、出さなければ殺される。
が、私はやっと生計を立てている状態で、チンピラに言われた程の金はなかった。
「さあ出せよ」
ナイフを向けられ、私は悲鳴も上げられずに立ちすくむ。
その時、人生の『詰み』を前にした私の元へ、彼が颯爽と現れたのであった。
「出会うなり声をかけるなどと無礼なのは承知の上だが、この状況は見逃せないな。……やめたまえよ、淑女を脅すなんて醜い」
やや長い茶髪を束ねた、美しい青年だった。
身なりが整っており、至る所から溢れんばかりの気品が漂っている。
「なんだお前?」と言って食ってかかった物盗りを、いとも容易くねじ伏せてしまった。
「君は衛兵の所に突き出すとしよう。これ以上被害者が増えても困るからね。……そこの人、大丈夫かい」
そう言って笑顔を向けてきた彼に、私は辛うじて、「ええ」と頷くことしかできない。
青年のブルーの瞳は私を一瞬で虜にしたし、その声音は柔らかくてとろけてしまいそうだったのだ。
「それだったらよかった。ここの通りは意外に物騒なのだね。勉強になったよ、ありがとう」
「い、いいえ。こちらこそ……」
「では僕はそろそろ行くとするよ。では」
輝くような微笑を残して、青年は強盗を担いで歩き去っていく。
一方の私は、ただ呆然とそれを見送ることしかできなかった。
だがやがて、ふと気づいた。
彼が、何かを落として行ったことに。
屈んで見るとそれは銀色の指輪だった。
すぐさま拾い上げ、彼を追いかけて返そうとした。が、遅かったらしい。もう青年の姿はどこにも見当たらなかったのだった。
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その日からずっと、彼のことが頭から離れてくれない。
指輪を返さなくては、それもあるけれど、本音は違った。
四十歳のおばさんになって恋をするなんて、愚かだってことぐらいわかっている。
だが、どうしようもなく恋しいのだ。もっと言葉を交わしてみたい、その思いはもうとどまることを知らず、私はもうこうなったら彼に会ってやろうと決意した。
しかし、そう決めたものの現実というのは甘くない。
そもそも私は彼の名前を知らなかった。
名前だけではない。どこに住む何者なのか、なんてことさえもわからないのである。
「でも諦めてやらないんだから」
あの笑顔を一眼見るためなら、どんな努力も惜しまない。
私は一心不乱に彼を探し続けた。仕事を休んで、一週間、二週間、三週間、街で聞き込みを続けた。
が、
「知らないね」
「ああ、あの男の子のことかい? なんだか贅沢な服を着てたけど、どこの誰なんだか」
「指輪は売ったら高い値段がつくよ。そんな名前も知らない男に返すなんか勿体ない」
「そんな奴ほっとけよ、おばさん」
と、誰も知らないようだ。
どうしたらいいのかと困り果てて歩いていたその時、突然声がした。
「君、そこの君。ちょっといいかな?」
振り向いた私は、思わず息を呑んだ。
束ねた茶色の髪、端正な顔立ち。そこには、探し求めていた彼が立っていた。
「あ、あなた……」
「僕は今、少し探し物をしているんだけどいいかな? 先日、この街へ来た時に大事な指輪を落としてしまってね。探しているんだよ」
頬が急速に熱くなるのを感じる。
私は慌てて大事にしまっていた銀の指輪を取り出せて見せた。
「こ、これ……、あなたのじゃない?」
すると、彼の顔が一気に明るくなる。
「そうそうそれだよ。……あ、君はこの前の淑女だね。拾ってくれたんだ、ありがとう」
あまりの勢いに気圧される私。
そうしている間にも、青年はこんなことを言い出していた。
「お礼がしたい。どうか僕について来てくれないだろうか? 嫌な思いは決してさせない」
その紳士的な口ぶりにまたもや心を惹かれた私は、何の躊躇いもなくこくりと頷いた。
青年に連れられて馬車に乗り込んだ私の胸はいつになく高鳴っている。これから何か楽しいことが始まりそうな気がした。
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久し振りの馬車に浮かれる私。
こんな体験は二十歳の頃以来だ。家が落ちぶれてからは、一度だってこんな金ピカの馬車に乗ったことはなかった。
「素敵ね。あなた、貴族なの?」
頬の火照りも引いて、ようやく冷静に喋られるようになったので私は少し尋ねてみることにした。
が、彼は微笑しつつゆるゆると首を振る。
「正確に言うと貴族ではないんだ。前は急いでいなかったので自己紹介していなかったね。……僕はこの国の第一王子、ブレンダン・アンベルトだ」
それを耳にした瞬間、私は思わず硬直してしまう。
ブレンダン王子。その名はこの国中に轟いている。若きにして武勇の才があり、とても優しいと評判だった。私とは関係ないなと思っていた彼が、目の前の青年だと言うのか。
しかし青年からは嘘の気配が感じられないし、衣服や馬車を見ても彼の発言は頷くしかなかった。
「ブレンダン様だったんですね。気づかず無礼を働きました。申し訳ありません」
「いいんだよそこまで畏まらなくて。僕、あまり歳上の女性に敬語を使われるのが得意じゃないんだ。気軽にブレンダンと、そう呼んでくれると嬉しいな」
元貴族である私は、己より上級の貴族には敬語を使うのが作法だと知っている。
だが、本人に言われては仕方ないというものだった。
「わかった。じゃあ、私からも。私の名前はグレーヌ・ポラン。あの街で服を売ったりしているの」
「へえ、そうなんだ。平民にしてはと言うのは失礼だけど、君は上品な人だね」
元男爵令嬢であることを明かしたくはあったが、それはご法度だ。
もう二十年も前に滅び、忘れられた家系。わざわざ持ち出す必要もないだろう。
「上品かしら? ありがとう。ふと気になったんだけど、あなたが王子様なんだったらこの馬車が向かっているのって」
「アンベルト王城だよ」
――王城へ行くなんて、初めての体験だ。
心が躍る。貴族すら滅多に足を踏み入れられない聖地に、こんな私なんかが行けるなんて。
「喜んでもらえたようで何よりだよ」
それから彼は私に色々と話してくれた。
あの日、王子がちょっと外界を学ぶために街へ降りてきていたこと、偶然強盗に襲われていた私と出会ったこと。指輪を落とし、探し回ったこと。その指輪は成人した証に王からもらった大切なものだったことなどだ。
「だから君にはすごく感謝しているんだ」
「そうなのね。――これは、運命の出会いというやつかも知れない」
そう呟いている間にも、馬車は黒く大きな門をくぐって進む。
門の向こう、そこに聳え立っていたのは金ピカの大きな城だった。
「うわあ……」
目を見張る私は、馬車の窓から身を乗り出して大興奮。
やがて馬車は止まり、私たちは城の前庭に降り立った。
すると、門番と思わしき鎧姿の老人
が現れ、こちらへ歩み寄ってきた。
「おかえりなさいませブレンダン殿下。……はて、そちらの女性は?」
「彼女はグレーヌさんというらしい。僕がなくした例の指輪を見つけてくださったんだ」
紹介され、私は深々とお辞儀する。
服は薄汚れたコートと見窄らしいけれど、昔を思い出しながらお嬢様らしく振る舞ってみた。
「私はグレーヌ・ポランです。少し、このお城へお邪魔させて頂くことになりました」
「おや、そうですか。承知いたしました、さあどうぞ」
城の中へ足を踏み入れる。
レンガ造りの壁にかけられた数々の絵は美しい。敷き詰められたカーペットは真っ青で綺麗で、それらを眩く照らすシャンデリアも、なんともうっとりとする見た目だった。
「お城って本当にすごいのね」
「そうかな? 喜んでもらえて、僕としても嬉しいよ。……こっちだ。会わせたい人がいてね」
王子に先導されるままに、私は歩いた。
やがて彼はとあるドアの前で立ち止まり、軽くノックをする。
「ああ」と中から返事があり、ゆっくりと扉が開く。
広大なホールの中、大きな椅子――玉座がある。そこに腰掛けるのは、高年の男性だ。
「何用だ?」
問われると、王子は「客人です」と私を紹介した。
私は興奮と緊張の中、なんども噛みながら名乗り上げた。
だって、玉座の男性こそがこの国の国王なのだから。
一連の事情を話すと、王は快く私を受け入れてくれた。
「それならば、一晩我が城で過ごして行くといい。褒美はでき得る限り尽くそう」
「あ、ありがとうございます!」
こうして、私は一日を王城で過ごすと決まったのである。
褒美の内容は明日までじっくり考えるとして、私はまず王子に城を案内してもらうことになった。
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彼と一緒に歩くのは、もうそれはそれは言葉では言い表せないぐらい楽しくて、私はもう嬉しくてたまらなかった。
服は小汚いままだったが、気分は完全にお嬢。部屋をみて周り、最後に庭園へやってきた。
庭園中に咲き乱れる、赤、白、青の美しい花々。漂う香は芳しく、とろけそうなくらいに甘かった。
「ここはこの国が誇る、最大の庭園だよ。好きなだけ見て回ってくれていい」
言われるがままに私は、あちらの花、こちらの花を指差しては、「あれは何?」と名前を聞いていった。
そして、私はふと一輪の花を見つけた。
薄紅の、可憐な薔薇。それはかつて私の屋敷に咲いていたものと同じだったのだ。
「その花が気に入ったのかな?」
「ええ。少し……昔のことを、思い出してしまってね」
「昔のこと?」と首を傾げる青年。
私は少しばかりの決心をして、口を開いた。
「私、実は裕福な家の生まれでね。若い時は歌がとっても得意だって有名だったのよ。貴族から平民まで、ありとあらゆる人たちが聴きにくるくらいだったんだから。……まあ、もうずっとずっと過去の話だけどね」
ふぅ、と小さく溜息を吐く。
今、特別な思いをさせてもらっているというのに、あんな過去を懐かしく思うなんて、バカもいいところだ。
だが、王子がこう言い出した。
「本当かい? もし良ければ、僕も一度聞いてみたいな」
正直言って――とてつもなく、驚いた。
だって、こんなおばさんの歌を聞きたいなんていう人間はいないと思い込んでいたからだ。
「え、でも私、もう何年も歌ったことがないし……」
「いいよ」
それでも青年は優しく笑ってくれる。
この時、またもや私は惚れた。惚れた上に惚れたなんて不思議な話だが、もうそれぐらい彼のことが好きになった。
「――なら、わかったわ。ちょっと歌ってみる」
「うん」
私は庭園の中央へ進み出た。
花が囲むステージのようだ。久々のことにかなりドキドキしているが、こうなったならなんとしても成功させなければ。
一礼し、私は歌い始めた。
最初は声がろくに出なかった。
歳を取ったせいで体が硬い。ぎこちないけれど、なんとか踊る。
かつて歌った時のようにフリフリのドレスもない。若さも美しさも枯れ果てている。が、胸の恋情は熱く、熱く燃えていた。
声は徐々にだが透明になってきた。
くるくる、くるくると回りながら、歌い踊り続ける私。
そして、歌声に乗せて想いを伝えることにした。
「愛してる。大好きなの。焦がれてるわ。こんなにも嬉しいのに、こんなにも幸せなのに」
胸の鼓動が激しい。
王子は目を見開き、私をまじまじと見つめている。
「ああ、あなたともっとずっと一緒にいたい。私はあなたのことが、初めて出会ったあの日から好きで好きでたまらない」
「だから」、と私は声を張り上げた。
「私のこの気持ちを、どうか受け取って」
その瞬間、私は全てが停止したように錯覚した。
かなり恥ずかしかった。
こんな四十の女が恋歌で告白するなんて。
でもそれを受けた青年はしばらく黙り込み――、そして、言ってくれたのである。
「実は僕も、君のことが……そのう、少し気になっていたんだ。妙にと言っては悪いけどとても上品だし、綺麗だ。そしてさっきの歌を聴いた瞬間、僕の心はまさに虜になったよ。だから、僕も同じ気持ちだよ」
こんなことって、あるだろうか。
私はもうなんと言ったらいいのか嬉しいやら信じられないやらで、涙が止まらなかった。
いい歳こいて涙を見せるなんて、と嘆きたくなるところだが、そんな私を彼は優しく抱いてくれる。
そんな私たち二人の姿を、周囲の花々が見守っていたのだった。
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「陛下。私、ご褒美に何を頂くか決めました」
「ほほぅ、聞こう」
「それは――、ブレンダン殿下との、結婚です」
王座の間へやってきた私は、王に向かってそう言い切った。
「私は殿下を愛しております。誰よりも、何よりも。先ほど殿下は、私と同じ気持ちだと、そうおっしゃってくださいました。ですから、どうか」
「僕からもお願いします父上。彼女の歌声を聞いたら、きっと父上も認めてくださるはずです」
二人がかりで、王を説得にかかる。
ここを逃せばもう結ばれる機会はないだろう。私は必死に頭を垂れ、懇願した。
だが。
「ならぬ。……ブレンダンにはまだ知らせていなかったが、すでに縁談を持ちかけてきている娘がいる。侯爵令嬢だ。故に、そなたらの婚姻は認められない」
そう言われても怯むわけにはいかなかった。
「僕は嫌です。顔も知らない方と婚約など、ふざけています」
「そこまで言うなら、一度会ってみるがいい。こんな中年の女より幾許かはマシだとわかるだろう。ちょうど今日ここへ侯爵令嬢がやってくる予定だったのだ」
なんというタイミングの悪さ。
私が頭を抱えたくなったその時、衛兵が走り込んできた。
「陛下。侯爵殿とその令嬢がお見えになりました」
「ほぅ。至急連れて参れ」
衛兵が走り戻っていく。
そしてしばらく後、王の間へ入ってきた人物を見て、私は唖然となった。
長い金髪を揺らす、若く可憐な令嬢。
恐らく彼女が問題の侯爵令嬢なのだろう。しかしそんなことはどうでもいい、私の目が釘付けになったのは、連れの男の方だ。
男――侯爵には、私は見覚えがあった。
「ダグラス……」
二十年前、まだ私が歌姫として知られていた頃、婚約を結んでいた相手。それがダグラスだったのだ。
彼が侯爵を継ぎ、娘を作っていたとは驚きだった。その上、それが王子に縁談を持ちかけているなんて。
「おやおやぁ、お久し振りですなぁ。確かあなたは……、歌姫のグレーヌ・ポラン様でしたかなぁ」
こちらをおちょくるように、侯爵は嗤う。
「この方と知り合いなのかい?」
「はぁい、殿下。知り合いも知り合い、昔私は彼女と婚約を結んでいたこともあるのですよ? まぁ、溝鼠だとわかったので縁を切りましたがねぇ」
溝鼠と指差され、私は強く嫌悪感を催した。
当時は相思相愛だった。私も、彼のことをいい人と思っていた。
でも今となってはどうだろう、性格が歪んだ悪徳貴族ではないか。
私は思わず声を上げていた。
「騙されちゃダメよ、ブレンダン」
「おお怖い。殿下を呼び捨てにできる立場ですかなぁ、崩れ男爵の娘風情が」
部屋中に、一気に鋭い空気が満ちる。
それを破ったのは、金髪の少女だった。
「ちょっと失礼するね。まず自己紹介! ティディだよ! 皆さん初めまして〜」
輝かしい程の笑顔を振り撒き、首を傾げる。
その仕草は小動物的で、かなり可愛い。が、侯爵は彼女を睨みつけた。
「ちょっとお前はお黙り。……殿下と陛下、少しこの鼠女について話しておいてよろしいですかなぁ?」
王は興味津々と言った様子で身を乗り出し、王子も少し不安げに私と侯爵を見比べながら頷いた。
ティディと名乗った少女は頬を膨らませて下り、言われた通り黙っている。私も同様に何も口出しできなかった。
「ありがとうございます。……では」
侯爵は、一部を誇張し、歪曲させて語った。
私が彼を裏切ったと言ったが、実際は違う。彼の方から私を見捨てたのである。
父の汚職の一部は冤罪だった。のに、彼はそれを全て現実であるとホラを吹いたのだ。
「違うわ!」と耐えきれなくなた私は叫ぶ。
しかし国王はすっかり信じてしまったようで私を冷たい目で見遣り、言った。
「――それは誠か。確かに昔、廃れたポランという貴族の噂は聞いたことがあるな。……そんな女に息子を渡すわけにはいくまい。ブレンダン、諦めて手を引け。彼女には多少の金を与え、今すぐ帰すとする」
「そんな。ひどいです陛下。私は別に何もしていません」
私の言葉は、もはや王の耳には届かない。
――だが、ブレンダン王子は違う。
「もしその話が本当だとしても、僕は大人しく諦めようとは思わない。僕は、彼女の歌が好きになったんです。だから僕は」
その時、向かい合う王と王子の間に割って入ったのは、侯爵令嬢ティディであった。
「ティディは、正直別にどっちでもいいかなって思ってるよ〜。王子様かっこいいけど、別に惚れちゃうって程じゃないし? 父様が会いに行けって言ったからきたけど、まだ結婚したくない。だってティディ、まだ十七だもん! だから、王子様の好きなようにすればいいとティディは思うな」
「ティディ!」
「なんと」
「君……」
皆が一様に目を丸くする。
私も驚いたが、彼女が私に気を遣ってくれていることはわかった。
この機会を掴めば王族になれるというのに、なんとも損な性格をしているなと私は思った。
「……ありがとう」
「どういたしまして! ねえ、いいでしょ父様?」
彼女の可憐な微笑みが父である侯爵へと向けられた。
顔を真っ赤にして怒鳴ろうとする侯爵だが、王の前ではそれができないらしく寸手で思いとどまったようだ。
「ぐぬぅ。ご、ご判断は、陛下に」
全てを託されたのはやはり国王だ。
どうにかなってくれ、と心から懇願する。こんなに願ったのは人生で初めてだった。
周囲の視線を受けた国王は吐息すると、こんな条件を突き出したのである。
「ティディ嬢がそう言うのであれば仕方あるまい。――ではグレーヌ・ポラン。そなたの歌を一度、聞かせてみよ。歌姫という噂があったらしいな。その歌声が本物であれば、婚約を認めてやるとしよう」
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ドレスを引きずり、私は壇上へ上がる。
こんな立派な衣装を着たのはいつぶりだろう。なんだかとても懐かしい。
「ここで決めなきゃいけないのよね。……頑張らなくちゃ」
これが、人生初の大舞台となる。
国王、王子、侯爵の親子を始め、たくさんの観客が集まっていた。ここで失敗すれば私は人生の落伍者として生き続けることが決定するという、非常に緊張感がある条件。しかしそれすらも私は心地よく思えていた。
「こんなに期待をかけられて歌うのなんて、少し気分がいいじゃない」
軽く頭を垂れると、私は大きく息を吸い、声を響かせ始めた。
朝に美しく囀る小鳥のように、涼しいそよ風のように、歌う。
今度は腕を伸ばし、上下。目が覚めるような青のドレスをふわりと広げ、回るようにして踊り出した。
これはまた先ほどの恋歌とは違う。
あれは告白の歌。だがこれは、一度夢破れた若い女性が、再び想い人と巡り合い幸せになるというものだった。
歌い、踊り続ける。
踊りはどんどん激しくなる。足を上げ、黒髪を振り乱し、右へ左へ後へ前へ。
そんな私を見て、王たちは驚きに声も出ない様子だった。
歌は終盤に差し掛かる。
私はここぞとばかりに前へ出て、王子の前に跪いた。
「あなた、一緒に踊ってくださらなくって?」
「混ぜてくれるのかい? なら」
そう言って、王子もステージへ。
私と彼は手を繋ぎ、そして一緒にステップを踏み始めた。
くるくる、くるくる。
歌うのは私だけ。でも青年はそれに寄り添うようにして踊り、私に微笑みかける。
私も彼に笑い返し、声をより透明にして高く高く反響させた。
「二人の恋情は互いに引き合い、もう決して離れられない。例え、どんな障害があったとしても。……さあ愛しのあなた、私と幸せになることを選んでくれるかしら?」
「ああ、もちろん」
乱舞し、歌を奏でながら二人の距離がグッと近づく。
次の瞬間――私と彼は、唇を重ね合わせた。
「ああ、ああ、幸せだわ。あなたがいるだけで私はもう、何もいらない」
「ありがとう。……ドレス、綺麗だね」
「ええ。いい歳のおばさまがこんなドレス、ちょっと恥ずかしいけど」
ふふっ、と笑い、私は肩をすくめて見せる。
直後広間には、大きな拍手の波が巻き起こった。
侯爵令嬢ティディはもちろん、侯爵も思わず手を叩き、他の大勢から歓声が上がった。
そして肝心の国王は唸り、こう述べた。
「見事であった。王子、ブレンダン・アンベルト。元男爵令嬢グレーヌ・ポラン。――両者の婚姻を、王の名の下に許可する」
「やったわ! やったんだわ!」
あまりの嬉しさに私は思い切り彼に飛びつき、二人一緒に歓喜したのだった。
憎々しげな顔をしている侯爵に対し、こちらを見つめる令嬢の笑顔が、私たちを祝福していた。
「良かったね、お二人さん。ティディもすっごく楽しかったよ」
「ありがとうね、ティディ」
その後宴が開かれて、私たちは夜通しご馳走を頂いた。
愛する人と笑い合っていられる。
今までの人生の中で、一番楽しい夜だった。
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こうして私とブレンダンは結ばれ、今でも平和に暮らしている。
彼との間に三人もの子供をもうけ、私は今幸せの絶頂だ。
今でも毎日のように彼や娘息子たちに私の歌声を聴かせ、皆が喜んでくれる。その姿が嬉しくて、私は明日も生きようと思えるのだった。
ご読了、ありがとうございました。
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