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物語について

作者: シューハ

 私は趣味や性癖を自己主張するための物語が好きではない。やはり物語はいつであれ書き手の希望と共にあるべきだろう。希望とはいかに生きるべきかの問いである。更に希望とはその問いがそのまま答えとなるような問いのことである。このような希望の探求こそが創作家にとって物語を作る一番の楽しみではないか。私は物語を楽しむとき、いつも作り手の希望に自らの心を預ける。私は物語を読むときは無垢となって、作られた人間達の繰り広げる劇に一つの真実を見るのだ。私にとって良い物語とは全て真実である。やはり良い物語は、その全てがこの世の真であるように思われるのだ。

 源氏物語の蛍の巻では、源氏と玉鬘との間に有名な物語論が展開される。私の記憶が正しければ、「どうして女はこうも作り話が好きなのか。」と源氏が口にするのだか、それに対して玉鬘は「嘘に慣れた人からすれば、物語は嘘の作り話に見えましょう。しかし私は物語こそが実に本当のことであると思って読んでいいるのです。」と答える。私はこの玉鬘の口にした物語に対する態度こそ、私が先程に述べた物語に心を預ける術であると考えるのだ。しかしこれは難解な技である。なんせ誠実無垢でないといけない。目の前の物語に対して、いつも真摯に向き合う必要があるからだ。だがその肝心な物語が読むに耐えないものであれば、どうもそれがこの世のことであるとは思えないのである。

 私は何も物語に対するリアリズムの重要性について述べているわけではない。念力岩をも通す、愚公山を移すなどのことわざもある。別に私は物語の登場人物が魔法を使えたって全く驚かない。人間の心には、それほどの力があると信じているからだ。ただ私は物語は自分の人生を映す鏡であると考える。人生とは私が生まれてから死ぬまでの時間であるが、その時間と共にある希望が物語に映っていなければ、その物語はおもしろくないものと言えるだろう。なんせ生の喜びを感じられない物語に物語としての価値があるとは思えない。だけ私は決して物語の悲劇性を否定しているわけではない。悲劇から生の喜びを得られることはニーチェも論じている。現に「自殺を想うことは強い慰謝剤である。これによって数々の悪夜が楽に過ごせる。」と偉人も言っているではないか。死が生のための力となることがあるのは当然だ。そもそも私達は死が存在するからこそ生きることに対して魅力を抱く。だから私の考えている希望とは決して楽観的なものではない。自殺が希望となることがあるのも自然なことで、それこそ希望は個性という言葉があるように人の数だけ存在する。ただその希望は必ず人に対する敬いを持っている。希望は常に人の心を尊敬し大切にする。この死と敬いの関係に見られる逆説も人の個性の数だけ存在するのだろう。


 私は物語について長々と述べた。要するに私は人間、その心に対する敬いがない物語は好きでないのだ。別に登場人物の全員が悲惨な死を遂げたとしても、その作品に人間の心を大切にする思いがあるならば、自分にとっては読むに値する物語となるだろう。私の物語論の基準は抽象的であるかもしれない。結局は読み手の価値観に物語の評価は委ねてしまうのであろうか。ただ物語を楽しむのには間違いなく技術を必要とするはずだ。作者の作品に込める心を読み手自身の胸に浮かべる技も、全ては私自身の手腕に掛かっていると言えるのかもしれない。そうだ。物語とは私自身を映す鏡だが、その鏡に映った私自身の像を認識するためにはもちろん曇りのない視界が必要となる。そのように考えると、全ての良い物語とは、決して一人によって作られるものではないと思えてくるのではないだろうか。

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