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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
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この手だれの手アノテーション

作者: 空見タイガ

 新しくやってきたクラスメイトはわたしの隣の席に座った。アノテーションによれば母の子であること、父の子であること、わたしの姉であることは間違いない。しかし、彼女はあきらかにわたしの知らない人だった。

「よろしくね、妹ちゃん」


 見えること、感じることが論理に敵わないとしたら、わたしたちは事実を処理するだけの機械である。そうではない、われわれは人間である、生命である、こよなき魂である、よって経験を第一とすること、愛と神話を携えること、道徳と尊敬を守ること、ありとあらゆる倫理の話が一時間だけあって、あとはアノテーションへの反応速度を上げるためのトレーニングと体育と演習問題で一日、一週間、一ヶ月、一年、三年が終わる高等学校でも随一の変人である先輩までも首をひねり、「紛うかたなきお姉さんですね」といらない太鼓判を押した。

「妹ちゃんが入っている部活に興味があってきたの」

 先輩は部室の隅に置かれていた折りたたみ椅子を持ってきて広げた。

「まあまあ、立ち話もなんだから座ってください」

「ゴキブリを尻でつぶした椅子だと書いてあるけど」

「気にしないでください。この部の活動内容にかかわることですから。きっとお姉さんも気に入りますよ」

 わたしたちは長机を挟んで彼女の対面に腰を掛けた。「圧迫面接め」と姉らしきものは悪態をついて疑惑の椅子にこわごわと座った。

「どうして私たちは椅子に座ったと思います?」

「アホが躍っているからよ」

「椅子こそ大人の陰謀に巻き込まれていない純粋なモノだからです」

「子どもは純粋で大人は不純とかつまんねえ二項対立引きずってんね」

「あなたの履いている六本指くつした」先輩の言葉に姉っぽいものはぎくりとした。「売れ筋、人気商品、あの有名人も愛用……アノテーション上の評価は高かったはずなのに、いざ買ってみると見た目がイケてないし、指が一本余る」

 姉みたいなものは両手でメガホンを作って先輩の隣に座っているわたしに向かって大声。「なにこれ!」

「これが大人の陰謀です。ネタを本気にさせ、正気の頭があれば決して買わない商品を買わせてしまう。私たちはアノテーション詐欺と呼んでいます」

「私たちって、私たち部員何人?」

 わたしがピースをすると姉を象るものは椅子ごと後ろに倒れそうになった。「ふ、二人」

「企業はよい評価のアノテーションをつけてもらうために、莫大な広告費を掛けています。その費用は商品やサービスの価格上昇によって賄われます。ユーザーから集めた多くの金で品質を上げることはしません。消費者はアノテーションしか見ておらず、もし不満を抱いたとしても己の感覚がおかしいと考えますから」

「は、はあ」

「その発想自体も、長年の企業戦略によってじわじわと浸透させてきたものです。目立っているものはそれだけ売れている。売れているものは正義。何もよいところがないのに売れるわけがない。つまり、売れているものには何かしらのよいところがある。こうした考えを消費者たちに植えつければ、あとは広告にお金を費やすだけです。よいところなんてひとつもなくても、アノテーションをよくすればよいものになる……人間は情報を主食とする生き物なのです」

「にゃあ」

「おわかりいただけましたか」

「まったく! 情報が主食だからって何なのよ。主菜は何よ、副菜は」

 先輩は腕に巻きつけていたコンピュータを引き出し、机のうえにさっと伸ばした。いつもの爪を立てるような散漫な打鍵を終えて、彼女は姉風のものに改めて座っている椅子について精査することを求めた。

「あれ、ゴキブリのリの字もない」

「私の作ったアノテーションを読みこむように書き換えたんです。これであなたの座っている椅子はゴキブリを尻でつぶした椅子ではなくなりました」

「つまり……元はゴキブリを尻でつぶした椅子なんでしょ?」

「すべての人間が閲覧するアノテーションが清らかであれば、その椅子も清らかな椅子になります。あとは野となれ山となれ」

 姉を名乗る生命体は椅子から飛び跳ねてそのまま壁にはりついた。「ぴぃ!」

「アノテーションの参照先を改ざんしてインチキ評価を正す。それがレピュテーション部の活動内容です」

「犯罪じゃないの! 妹ちゃん」

「いいえ、違います。私たちは正義の名のもとに活動しているのです。あの手この手で……どんな手を使ってでも、己をよく見せようとする人間たちの欺瞞を暴きたい。それに理由はありません。しいていうのなら……」

 わたしと顔を見交わした。そのわずかな無言にはふたりで取り組んだ今までの輝かしい活動――青春――営業妨害の数々を思い出すだけのゆとりがあった。彼女は正面を向いた。

「いやがらせです。私たちはいやがらせで部活をしています」

「最悪な青春!」

 姉を体現するものはわたしたちの背後にまで回って、尻をこすりつけようとしてきた。わたしと先輩はいそいで椅子から退き、部室を出て短いおいかけっこをした。


 短いと思っていたのは、わたしだけだったかもしれなかった。

 アノテーションは正しい関連を示す。綿あめと砂糖を結びつけ、綿あめとおしゃれな男性を結びつけない。しかし、感覚は共有されない。子どもと大人の時間の長さは違う。うれしいときと悲しいときの長さも。生徒が「歯が痛い」と叫ぶとき、そこで共有される正しさは永久に意味を失い、授業は終わってしまう。

 静かな教室に響く、長い伸びだった。姉に似た何かは入部届を記入し終えた。ゴキブリ椅子アノテーション事件から十日が経っていた。

「あの女をギタギタにしてやらないと、お姉ちゃんはお姉ちゃんでいられない!」

 席から立ち上がった姉の陰影は、わたしの腕を引っ張って教室から廊下を経由し部室の前に立った。が、わたしの後ろに隠れて頭でぐいぐいと背中を押してきた。

「妹ちゃんが先陣を切って」

 押されるがままに部室に入ると、先輩は長机と壁のあいだで片手倒立をしていた。試験対策だ。姉のモニュメントは先輩の無防備な下着まるだし姿を見るやいなや、彼女の腕にスライディングを仕掛けた。足を抱えて転がった。

「あなたが入部届を持ってスライディングしてくると予測して、ここに鉄板を仕込んでおきました。アノテーション頼りの人生は事故の連続です」

「おのれえ」

 わたしは悶絶する姉のイメージから入部届を受け取って、倒立をやめた先輩に手渡した。白地にひかえめなピンクのリボン。すくっと立ち上がった姉を模したものが、先輩からじりじりと距離をとっているうちに棚に腰をぶつけて吐き捨てた。「妹ちゃん、騙されちゃダメ。この女はほんとうは人の不幸を笑っているんだけど、アノテーションで淑女風に見せているの」

「それは企業のやることで、人の不幸を笑うのは資本家です」

「ほら、おそろしい!」

 先輩から席につくように促されたわたしたちは、先輩と向き合うようにならんで座った。彼女は腕に巻きつけたコンピュータを操作した。壁の投影がアナログ時計から地図に切り替わる。近くの複合商業施設だ。

「明日の休日にここを爆破します」

「ほら、おそろしい! なんて言った!」

「休日のショッピングセンターを爆破します」

 姉を装う何かはわたしの左肩をグーで叩いた。「聞いた? 妹ちゃん。家族連れがいちばん多い日にやってはならないこと一位の首席よ」

「もちろんこれは比喩ではありません」そう言いながら先輩は投影を切り替えた。壁に3D回転で踊るレモン。隣の別称姉はぐいぐいと机の上に身を乗り出してゆく。

「食べちゃいたい」

「そう、これは檸檬に偽装した爆弾です」

「オシャレな発想じゃないの。洒落になってないけど」

「ショッピングセンターは……資本主義です」

「アノテーション教育の被害者よ、あたしたちは。だってこんなにバカ」

「私はそれこそアノテーションに関しては主席です。能力のあるものは社会の悪しき流れを瀉血してよくする義務があるのです」

「科学的根拠を出しなさいよ。根拠を」

 先輩と姉の記号は熱心に言い争っていたが「お、覚えてなさいよ」と乗り出した身をただした彼女の言葉で決着がついた。

「妹ちゃんはどうしてこんな怪物と運命を共に?」

 後ろ髪で隠したコンピューターを首からずるっと引っ張って、壁の投影を上書きする。こういうことがあった。


 昇降口から校門まで続く新入生勧誘のチラシ並木たちに混じって、アノテーションで服を着ているように見せかけた先輩が立っていた。

「レピュテーション部は、世界を革命するただひとつの部活です」

 わたしは入部を決めた。


 投影が終わったあと、姉と類似する存在は「どんなに血を流しても全裸が許容される世界は来ないわよ!」と両手で机を叩いた。

「裸体主義という言葉もあります」

「あるからどうしたの」

「妹さんは私の全裸を見破った唯一の新入生でした。彼女の目は資本主義のまぼろしに惑わされません。なぜなら、そのゴーストは多数派の視線によって形作られるものだからです」

 意味するところの姉は「よくわからない痴れ者め」と小声で総括した。

「これはあなたの入部テストも兼ねています。計画を周囲に悟られてはいけません。不穏な言動は差し控えるように」

「部員二人で選り好み! 廃部になればいい!」

「差し控えるように」

 ふたりが争っているあいだに、わたしは鞄から紙の手帳を取りだした。すでにマンスリースケジュールに記入していた「先輩とデート」の前に「姉?と」をつけくわえて鞄に戻すと、言い負かされたらしい姉の文化が机とわたしのおなかの間にうまく入りこんで膝に頭を乗せてきた。「あやして妹ちゃん!」日曜日は姉?と先輩とデート。


 土曜日はダイニングテーブルにアルバムを広げることから始まった。四人掛けの椅子にひとりで座る。わたしには父と母がいるが、いつもいない。

 貼られた写真の数々にはアノテーションが埋めこまれている。いつ、どこで、だれと。覚えているものもあれば、そうでないものもある。わたしと肩を組んでいる知らない女の子は、わたしのクラスメイトと書かれている。

 ページを戻して、家族で揃っている写真を見た。そこには父と女とわたしが写っている。少なくともアノテーションはそう示している。世のすべての家族写真はだいたいそう書いてある。溺愛していても、育児を放棄していても、親は親と書いてある――正確には名前が書いてあり、受容体の持ち主との関係に置換される。

 だから、わたしに姉がいなくとも名前はある。その名前がわたしの姉と紐づいている。最後の写真は中学の入学式に撮ったものだった。アルバムをぱたんと閉じる……友だちと海に行ったときの写真を凝、目に焼き、眺、検証、考察、確認してから。

 

 待ち合わせ場所には姉の真似ごとが立っていた。「妹ちゃん」彼女はわたしを見つけるとその場で三回ジャンプした勢いで背後にあった休憩用の椅子にドンと腰を落とした。「妹ちゃん」すこし間を開けてとなりに座る。たちまち側面がくっつく。

「さっきね、レストラン街でウィンドウ・ショッピングをしてたの。どれもとても巧く作られていておいちそうだったけど、一瞬で偽物だとわかってしまうのはアノテーションのせい?」

「私たちは主にふたつの説をとっています。食品サンプルと書かれていたアノテーションを受け入れたから。あるいは、かつて同じ状況を経験したキャッシュが読みこまれたから」

「あんたに話してないし、聞いてないけど」

 先輩は立ったまま姉の頭をこぶしでこつこつと殴った。「キャッシュとはお姉さんのここに入っているものです。最新の情報ではなく正確とも限りません」

「その説明に小突く動作って必要?」

「つねにアノテーションの情報を取得していると脳に負担がかかります。ですから、意識しないうちに展開の省略が行われています。たとえば、今も大勢の人たちが行き交っています。というのに、私たちは彼らのことを大して知ることなく、まっすぐと目的地にいる待ち合わせ相手を見つけることができました。これは目的に関係のない情報に焦点を合わせまいとする脳の仕組みによるものです」

「座りなさいよ」

 先輩は首を横に振った。わたしがすくっと立ち上がると、姉の分身も肩を斜めにしながら追従した。椅子の前から少し離れて、エレベーター前の壁際に三人ならんで背中を預ける。先輩は人差し指を反らして上の階のボタンを爪で押した。

「さらに、既知とみなせる情報をキャッシュから取得することによって、アノテーションの読み込みが最小限になります。ニュースのタイトルを読んだだけで勝手に見解を述べる人がいるでしょう。彼らがまさにキャッシュ使いの能力者です」

「ゴーストの次は能力者! わけわかんない世界で生きてんね」

「すべて広告代理店のせいです」

「だいたい、それもキャッシュじゃないの。なんもかんも陰謀だと決めつけて」

 エレベーターがやってきた。他の客たちといっしょに乗りこむ。わたしたちは奥の壁にならんで押しこめられ、特にわたしは先輩と姉の空気に満たされ、横、前、横と三方を人間の壁に囲まれていた。

「私はつねに最新の情報を取り入れた上で、詐欺師を詐欺師呼ばわりしています」

「混雑時に反論するのやめてよね」

 目的の階にたどりついて直方体から解放されると、先輩はすぐさま歩き出した。姉のオマージュはセールの文字に誘惑されて足をもつれさせながらもその後につき、わたしはさらにそのステップを真似して歩いた。ふたりでふらついている前方で先輩が立ち止まった。「ここでセーブしますか」よそ見をしていたせいで先輩にぶつかった姉のなにかはわめいた。「もう遅い」わたしたちは書店に入っていった。


 制服がパリパリとしていたころ、先輩は姿勢よく椅子に座ったまま片手に本を持って固まっていた。表紙をまじまじと見ながら「この本の感想には逆接的というワードが頻出します」と対面に座っているわたしには目もくれずに言った。

「しかし、私はこの小説を読んでいて逆説的と感じる箇所はありませんでした。レビュアーに問いただしても何が逆説であるかは説明できないでしょう。逆説的とは日常に使う表現ではありません。だというのに、みなで示し合わせたように彼の逆説的な言葉にグラグラすると書く」

 先輩は本を脇において、とつぜん前のめりになった。胸が机の上に乗る。わたしも前のめりになる。

「理由は簡単です。彼は逆説家だと本編に書いてありました。だから、彼の言ったことはすべて逆説的になります。あるいは、逆説的でないことになります。彼が情熱家であることについて問題にする人はいません。情熱の二文字があらかじめ示されなかったためです」

 鼻と鼻がぶつかるには長机の横幅が長すぎた。しかし、先輩の乳をすべて乗せるには十分だった。わたしもそれで十分だった。

「この本は小説で、多くのテキストによって形成されています。私たちがこれを取りこんで学習するとき、印象という重みによって記憶からどの文章を取りだしやすくするかを決定します。はじめからおわりまでいつでも取りだせるようにと見なされる小説は希少です。本来であれば、ある登場人物を語るには彼を描写するすべての地の文と台詞を引用しなければなりません。なぜなら、そのすべての描写によって彼は生まれたからです。人間が一瞬の生き物でないように、キャラクターもまたひと言で説明できるものではありません。というのに、本文にある逆説家の三文字によって彼はそう語って当然の存在になる。人は彼の名前と三文字しか記憶せず、簡単な文法にあてはめて逆説家の彼が好きだと述べます。それをあとになって読み返したとき、あるいは第三者が読んだとき、そこから彼を復元することはできません。アノテーションはこの残酷さを肯定した、単純明快な虐殺機械です。全文を受けいれて記憶して同じ重みで留めておくことを怠った人間の罪悪です。人間の営みの当然の複雑さを放棄して機械で処理しやすくする業の行く先は、最適化されたコミュニティの流行語を文法にあてはめただけの感想文が指し示しています。文章だけではありません。書く文章によって思うことまでも合理的になってゆくのです。人間をやめないためにも、複雑性をわかりやすいメタデータとして言い換えるアノテーションを許してはなりません。そのためにも、私たちはアノテーションに関わるすべての企業を破壊しつくして多くの世帯を路頭に迷わせないといけないのです」

 おっぱい。


 グラビア雑誌に釘付けになっていたわたしを姉の残骸の側面が押していって、雑誌コーナーから飛び出し、十字の通路に出た。そのままどんどんと左に進んでいって先輩のいる新刊の山積みコーナーに到着する。

「ここにはたくさんの本があります。しかし、この新刊の棚にある、平積みしている、ポップの下にある、有名人の書いた目立つ帯がついている、知っている作家の小説だけがすぐに目にはいる」

「帯に人の顔があるだけで買う気がなくなるのよね」

「そのとなりのとなりの棚にある書籍に気付くのはいつでしょう? ……過剰な広告には、他のものを目立たせない効用があります」

「平台のとなりのとなりも平台だから目立つでしょ」

「多くのものがあるとき、人のやることは決まっています。ソート、タグ、ランキングの参照。あるいは、おすすめの検索」

「いつになったら本題に入るのよ。本だけに」

「何を言っているのかよくわかりませんでした」

 噛みつこうとする姉の風貌を確保しているあいだに、先輩は肩にかけていた鞄からレモンをとりだした。

「紛うかたなきお姉さん、こちらが紛うかたなき檸檬です」

 彼女は脱力して大人しくなった。「おいちそう」羽交い絞めを解く。先輩は姉の観念にレモンを近づけたり遠ざけたりをくりかえしながら「この檸檬を置けば、私たちの今日の部活動はおしまいです」と小声で言った。

「どこからどう見てもれもんちゃん。爆発するとは思えない」

「いわゆる情報爆弾です」

「こんなに初耳な所謂は初めて! なんですって?」

 ぴたん。先輩は霊的姉の頬を「にゃあ」レモンでぶった。

「情報爆弾の効用はじつにシンプルです――本来であればアノテーションで真っさきに投影される情報に割りこんで、大量の情報を流しこみます。人間には多くの情報から必要なものを取捨選択して結論をまとめるだけの能力が備わっていますが、アノテーションに依存している現代人はたちまち眩暈を起こすでしょう」

「それが爆弾? なんだか拍子抜け」

「あなたは、どうやってアノテーションを学びましたか」

 姉の投射は目をぱちぱちとさせた。「それはもうがっ」

「学校が最初ではないはずです。むろん、学校でアノテーションの定義や仕組みを教わりました。しかし、アノテーションを語るときにいちいちその前提を確かめ合うことはしません。SF小説は読まれますか。未知のガジェットについて学んだわけではないのに理解できたのはなぜでしょう。これは登場人物たちの会話や作中での使い方を読んで、その雑多な用法を造語とつないだからです」

「こう」

 平台の上でもっと高く積まれている本の上に、先輩はそっとレモンを置いた。彼女から一歩遅れて書店を出る。

「私たちは、何の事件もなく、ただのおしゃべりのようなものでアノテーションの意味を把握しつつあります」

 三人で早足になってエスカレーターで降り、降り、降りる。姉の輪郭は「だからどうしたのよ」と二歩先に下っている先輩に見つからないようにわたしの背中に隠れる。

「大量の情報の多くは何にも関連しません。ラベルもタグもつけられていない、生データ……いえ、人間の生そのものです。あるいは用法が明らかになる前の一単語。どの言葉にも似ていない、類推できないもの。今から彼らは無数のSF小説の一ページ目を読まされ続けます」

「壊れちゃう」

「壊れても叩けばなおります」

「極悪人め」

 わたしたちはいよいよ走りだし、ショッピングセンターの出口にたどりついた。最初に姉の閃光が存在しないゴールテープを切り、次に先輩、続いてわたしが出ようとしたときに彼女が振り向いた。

「私以外の女の胸に目をくれた罰です」

 先輩に押し返される。自動ドアは何ごともなかったかのように閉まって、鳴り響くはずのない轟音が間近で、世界に奥行がなくなって、


 バチン!


 わたしの見てきたもの、過ごしてきた時間、しかし忘れていたようなこと、もしも記述するとしたら省略していたものが脳天をつらぬく。今はきっと衝撃で倒れようとしている。無防備にも両手を広げて頭から。その一方で、わたしは冷静になりつつある。頭を打ってたんこぶを作る未来を回避するにはどうすればよいのか。

 ノイズに混じる声を聴き分ける。それはおそらくわたしに向かって伸び、届き、大量の情報とともに雪崩れ込んでゆく。

 

 あの人は写真をプリントすることにこだわっていた。データに集約できないものがあると彼女は言い、わたしの父はデータのほうが分類しやすいと主張した。

「だけど、見返さないわ」

 彼女が家を去るとき、家族アルバムを持っていかなかった。ひとりの部屋で眺めてわかった。名前は受容体の持ち主との関係に置換される。関係性を失えば、互いにとって家族でなくなる。

 きっと見返さないからいらなくなったのだ。

 母にはわたしと同い年の娘がいた。誕生日はわたしのほうが早かった。わたしは姉になって、彼女はわたしの妹になった。少なくともアノテーションはそう示していた。四人掛けのダイニングテーブルについて食事をする。家族の顔を見る。父、母、妹。わたしには父と母と妹がひとりずついる。留年したこともなければ双子でも三つ子でもないわたしは同級生の姉だ。

 家のなかで妹を避けていると、お姉さんなのだから積極的に仲良くしてあげなさいと父に言われた。AはB。BはCをするもの。あまりにも単純な文法だ。わたしは父に従って妹に向き合うことにした。父はわたしとの関係でいうところの父で、娘は父の子どもで、子どもは素直に言うことを聞くものだからだ。

 妹の視線は感じていた。わたしが脱衣所で着替えているとき、彼女はいつも壁に隠れてじっとのぞいていた。二人っきりの時間を狙って、ためらうように。ある日、わたしは上だけ半分脱いだ状態で彼女に近づいた。いきなり声をかけて驚かせてやるために。しかし、妹はきょとんとするだけだった。

 父と母は、わたしが声を出さない理由を反抗と決めつけた。声を出さないのではなく出せないと気付いたとき――迅速な対処だった。診断結果をアノテーションに反映させてから、わたしが話さないことに疑問をもつ者はいなくなった。父と母も原因をあきらかにしようとはしなかった。が、原因はあきらかだった。

 けっして抗ったためではない。むしろ受け入れようとして、向き合ったために、その膨大な情報を処理できなくなった。情報過多を解決するために、わたしの機能の一部は停止するしかなかった。

 かわいそうなのは妹だった。両親はわたしのアノテーションに書かれなかった原因に直面することを避けて、家に留まらなくなった。妹はたびたびわたしの部屋に枕を持って訪れた。彼女は小柄だったからくっついて眠ればベッドからはみでずに済んだ。「あたしね、お姉ちゃんと仲良くしたいの。どうすればいい?」どうすればいい。わたしがまともになればいい。アノテーションが投影する現実を認めればいい、のにできない。

 なぜなら、人間は意図せずに記憶してしまうからだ。アノテーションを受け入れて記憶にするまでにはラグがある。そして、人間はいつも記憶を優先する。

 これが、キャッシュだ。

 けっして何かが増えたわけではないのに、情報は脳を圧迫し続けた。人間は事実を処理するだけの機械にはなれない。最低限の機能を維持するために、わたしは妹を見ることをやめた。フィルタをかけて欲しい情報だけを手に入れるように。彼女を認知しなければ余計な負荷は掛からない。いるはずの妹をいないように見せることは、あるはずの鉄板をないように見せかけるより簡単だ。前者はわたしだけの問題なのだから。

 わたしは姉ではない。

 わたしに妹はいない。

 ごまかしているうちに記憶になって、その記憶から経緯だけが抜けて、当たり前になった日常に彼女が現われた。

 新しくやってきたクラスメイトはわたしの隣の席に座った。アノテーションによれば母の子であること、父の子であること、わたしの姉であることは間違いない。しかし、彼女はあきらかにわたしの知らない人だった。

「妹ちゃん!」

 それは手だった。手ではないかもしれなかった。手であったとしてもだれのものかはわからなかった。アノテーションが起動しないので、わたしは自分だけで情報を処理しなければならなかった。この手はわたしを突き飛ばすかもしれない。あるいは引っ張って沼に落とすかもしれない。でも、だったらアノテーションがあっても同じだ。評価が高くても良いものじゃない。家族と書いてあっても家族じゃない。関係のない人と書いてあっても愛してなかったわけじゃない。

 手をとる。情報を収集して計算して吟味して判断する前に。前へ向かって勢いよく引っ張られる、その先が何であれ。

 この手がだれの手でも、ただ、目前のやさしさを信じる。関係のない人がつけたアノテーションなんて、信じない。


 自動ドアを抜けると同時に、長い思考が消えた。倒れかかっているわたしを抱き留めた彼女は、泣きそうな声で言った。

「泣かないで、妹ちゃん」

 こわごわと抱きしめ返したからだは、わたしより小さくて、でも同じで、同じぐらい震えていて、父が再婚できたのは、母が離婚していたからで、わたしが同級生の姉なら、彼女は同級生の妹だった。

 きっと分かちあえた。わかりあえた。わたしたちは最初から仲良くなれた、のになれなかった。

 きちんと向き合わなくて、ごめんね。

「いっしょにつらいって、悲しいねって、言えなくて、ごめんね」

 

 騒動から走って逃げだしたわたしたちは、いつのまにか河川敷に来ていた。法面を滑るようにくだって高水敷をならんで歩く。わたしと先輩で、妹を挟むように。

「これにて一件落着ですね」

「最初からこのつもりだったの?」

「あなたの足が遅くて警備員に捕まりそうだったこと以外は想定内です」

 妹はわたしの左手をもみもみにぎにぎしたあと、手首をつかんでぐいぐいと引っ張った。

「この悪鬼になんか言ってやって」

「先輩、ありがとうございました。自力で解決すべき問題でこのように助けていただいて……」

「感謝してやがる!」

「いえいえ、あなたの問題は私の大問題です」

 今度は先輩の腕を掴むターンだった。妹は「ま、まあ、話を合わせてくれたことには感謝しないでもないけど」と先輩を上目でぎりぎりと睨みつけた。

「何の話ですか」

「紛うかたなきナントヤラって。察してくれたんでしょ」

「まさか、私はたとえ人のためでも虚偽には手を染めませんよ。お義姉さん」

「いけしゃあしゃあ」

 もうすぐ夜が来る。沈んでゆく日とともに見える家々のあかりがしるべとなる。わたしたち三人は手をつないでいる。夜のあとは朝が来る。じつはつないでいなくても、ずっと前から関連している。

「ところで、あなたはあの恥ずかしいお姉さんキャラを止めたのだから、先輩である私に敬意を示すべきです。資本主義の首をひとつ献上するとかで。高官のあごでも構いませんが……」

 どうか、心から愛せるように。わたしの姉とつないでいた、今は妹と紐づいている、それとはべつに存在している、あなたの名前を大事にしよう。

「たすけてお姉ちゃん!」月曜日からフイちゃんとリンカ先輩と部活。

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