第74話:怨み怨まれ
空中へと吊り上げられたかの様に浮遊いている彼の顔は笑っていた。しかしそれは自分の意思で笑っている訳ではなく、恐らくは彼の母親によって無理矢理操られているからそうなっているのだろう。確かに彼女の怒りは理解出来るものではあったが、その怨みをために自らの子供を道具として利用するというのは許される事ではなかった。
まずは男児を取り囲む様に立っている連中をそこから排除するために翠の折り紙が宙を駆けた。その折り紙は亀の姿を模したものであり、それを相手の足元に配置して『亀甲の陣』を展開するとそこに立っていた数人を閉じ込めた。一度に全員という訳にはいかなかったが、閉じ込められた連中は結界の中に閉じ込められたまま空中を飛んでいき、町のビル群の影へと消えていった。
「翠もう一回頼む。アタシはあの女をやる」
「う、うん。でも大丈夫なのかな……あの人多分、霊体だけど……」
「後で助けてくれ。それまでこっちで時間稼ぎしてみる。まずは、この世界と向こうの世界が混ざるのを止める事が優先だ」
近くに立っているビルの屋上を見上げるとそこにはやはり彼女が立っていた。こちらを見下ろしながら笑い、手の甲を打ち付け続けている。この現世で逆さ事を繰り返し行う事によってどんどん常世と現世の境目が無くなっていくのだろう。そしてあの男児を操っているのも彼が強力な呪物だからだ。以前彼らと対峙した際に風呂場に居た彼を見て、彼自身が強力な呪物になっていたのを直感した。しかし彼は死ぬ事も出来ずに自らの呪力に囚われていた。だからトドメを刺したのだ。
地面に突いていた杖を腰元で構え、バランスを崩さない様に右足にしっかりと力を込める。翠のサポート無しでこの技を使うのは初めてだったが、その場から動かずに攻撃を仕掛けてくる訳ではない相手を攻撃するくらいなら問題無さそうだった。
「み、みやちゃん何して……!」
「そっちに集中しろ! 大丈夫だ……このくらいなら」
意識を集中させながら腰元で構えていた杖を右手で掴み、居合抜きの要領で振り抜きながら地面をスッと擦る。これによって地面に大量の熱源を付着させるとビルの方へと滑らせる様に移動させた。ビルの外壁に熱源を移動させるとビルをグルっと縛る様な形で連続して配置する。
「日断……!」
一斉に熱源の加熱を行いビルの外壁を熱によりジリジリと削っていく。本来であれば大量の霊力を必要とする技ではあり、翠の『龍仙の陣』の力無くしては実用化出来ない技だったが、今回の様に余裕があって瞬間的な火力を必要としない場合には使えるものだった。
母親が立っているビルは加熱されている部分だけが徐々に抉れていき、やがて完全に内側まで焼け切れたのかズンッと一瞬沈み、その後道路へ向かって倒壊した。
「だ、大丈夫!?」
「ああ……そっちは?」
「と、取りあえずあそこに居た人達は一旦遠くに飛ばしたけど……まだあの子浮いてる……」
「……じゃあまだ倒せてないって事か」
やはりあの母親は霊体だったらしく死体らしきものはどこにも見当たらなかった。物理的な方法でアレを倒すのは困難であり、翠の『四神封尽』を使ったとしても一時的に黄昏街へ送れるだけであり、『境界』によってこっちの世界と部分的に繋げられている今、それは時間稼ぎにしかならなかった。
裏拍手の音はまだ聞こえ続けており、二つ聞こえる事からやはり彼の母親はまだどこかに居るものと思われた。
「相当な怨みだな……巫女様も余計な事してくれたよ……」
「ど、どうしようみやちゃん……」
突然破壊音が響く。何事かと音の聞こえてきた方を見てみると、そこに立っていたビルの一部に黄昏街で見た江戸時代を思わせる建物がめり込む様に出現していた。無理矢理合体させている様な様相になっており、その周囲にある他の建物にも同様の現象が発生し始めていた。更に空を見上げてみると今居る場所の空だけ黄昏色へと染まっていた。まるで青空の絵に無理矢理橙色の絵の具を塗り重ねたかの様な状態になっており、最早雌黄の情報改竄でも隠し切れないレベルの異常事態になり始めていた。
「ま、まずいよみやちゃん! これって多分……!」
「そういう事だろうな……二つの世界が繋がろうとしてる」
既に彼らの目的はほとんど達成された様な状態であり、このままであれば完全に混ざり合う事になる。相手は霊体であり、こちら側の世界に生きている自分達生者とは根本的に違う存在である。だからこそこちらから物理的な干渉をする事は出来ないのだ。逆にこちらの世界で目視出来るレベルの霊体は非常に強力な存在であるため一方的な干渉が可能なのだ。この霊体に関する研究は一族の間でもほとんど進んでおらず、生者側から死者へと触れる方法というのは開発されていない。唯一例外があるとすれば、魂へと接触出来る紫苑くらいのものだろう。
その時、ふとあるアイデアを閃いた。もし霊力の高い霊体がこちら側に干渉出来るのだとしたら、その逆もあるのではないだろうかという考えだった。つまり異常に高い霊力を持った人間であれば、彼らと同等の領域へと至れるのではないだろうか。あくまで憶測に過ぎなかったが死者も元は生者であり、紫苑の様な例外が居るのであれば可能性はあった。
「翠、龍のやつ頼む」
「えっ!? で、でも……!」
「頼む。もしかしたら倒せるかもしれねェ。少なくともアイツはここで倒しておかねェとまずい……」
「わ、分かった……」
翠が準備を進める中、周囲を見渡してあの母親を探す。すると、また別の建物の屋上に彼女の姿はあった。その建物には複数の町屋らしき建築物が融合しており、最早一種の現代アートと言っても過言ではない風貌へと変化していた。夜ノ見町へと続く道の上には今でもあの男児が浮遊しており、笑顔で裏拍手をし続けていた。
龍の形に折られた折り紙が四つ彼女のショルダーバッグから飛び出し、アタシの足元で取り囲む様に降り立った。折り鶴の入った瓶を抱えた翠がそれに意識を集中させ、自分の霊力がどんどん増幅していくのを感じる。
「どうするのみやちゃん……」
「もう少し続けてくれ……念のためにもうちょっと欲しい……!」
研究の進んでいない霊体を相手にしている上に失敗が許されない状況のため、もしもの失敗は避けるべきだった。そのためには自身の霊力をとにかく増やし続ける必要があり、なるべく一撃で仕留めなくてはならなかった。
どんどん体の内側から霊力が湧き上がってくる様な感覚がし、少し立ち眩みがし始めた辺りで杖を突き直して姿勢を正す。
「ありがとう翠……これならいけそうだ」
「む、無茶しないでね……」
自身の右手の平に熱源を集中させた。放仙火の時の様に熱源を三次元に変換する事で、小さな光球を作り出した。それは熱源の塊そのものであり、集中させればさせる程どんどん肥大化していった。そして光球がソフトボール程度の大きさになったところで、右腕を大きく払う様にしてそれを屋上で笑っている母親に向けて放った。
「翠! 防御!」
「えっ!? え、えとえとっ……」
翠に防御用の結界を展開する様に指示を出すと真っ直ぐに飛んでいく光球へと集中する。放仙火とは違い飛行スピードは少し遅めではあったが、こちらの攻撃を避ける様な意思を見せずに世界を混濁させる事を目的としている彼女を狙うにはこれくらいで丁度良かった。
翠が遠くまで飛ばした筈の他の霊体達が戻ってきているのが見える。この技を使う前であればピンチだったが、自分が今閃いたこの技を使うには最適な状態だった。指示通り、足元に亀の折り紙が配置され『亀甲の陣』が展開される。それを合図に塊にした熱源達を一気に加熱させる。
「日爆っ……!」
一瞬にして目の前が真っ白な光に包まれた。翠の結界のおかげでこちらが被害を受ける事は無かったが、地面が轟いている様子から相当なエネルギーが放出されている事が伺えた。ここまで事をしたくはなかったが、逃げても確実に巻き込めるやり方でする必要があった。放仙火を使うという方法も考えたが、以前あれを使った際に意識を失ってしまった事から選択から外れた。今目の前で発生しているこの凄まじいエネルギーよりも、放仙火の方が火力が高い可能性がある。今こうして何とか気絶せずに立ている事がその証拠だ。
「み、みやちゃん今のって……」
「即興で思いついた……放仙火よりかは火力が低いかもしれねェが射程範囲は広い筈だ」
少しずつ揺れが収まり始め、目の前を包んでいた激しい光は消滅した。しかしあれだけ激しい熱エネルギーが放出されたにも関わらず、建築物や道路には何の異常も来していなかった。以前『禁后』を相手に放仙火を使った事があったが、あの後現地に確認に行った事がある。そこには植物一つ生えていない地帯が出来上がっていた。結界で閉じられていた部分だけが砂地になっており、まるで円形脱毛症を思わせる様に不自然な見た目になっていたのだ。それと比べればまだ周囲の状況が原型を留めている方であり、火力が低い代わりに広範囲を巻き込める様だった。
「消えた……?」
「……いや」
これで倒せたものだと思っていたが、裏拍手の音が聞こえてくる。音がした方を見てみると母親や他の霊体達は浮遊している男児の下にいつの間にか集まっていた。彼らは男児に笑顔を向けながら裏拍手を行っており、男児もまた笑い続けていた。
失敗したかと思ったその時、裏拍手の音が段々小さくなり始める。見てみるとどんどん動きが鈍くなっており、ついには悲鳴の様な声を上げながら一人また一人と消滅していった。最後に残された母親はそれでも手を動かしながら男児を見上げていたが、急に男児の手が動き彼女の首を絞めた。
「みやちゃん、あれ!」
「……最後はあの子に任せよう」
男児の表情は相変わらず笑顔だったがその霊体から放たれる妖気は凄まじい量になっていた。彼が持つ怨念は自分達の想像を遥かに超えていたらしく、やがて母親の姿を真っ黒に染めた後に塵の様に消滅させた。怨みを晴らせたのか一瞬にして妖気も消滅し、こちらに顔を向けると笑顔を見せて霧散した。母親の消滅によって儀式が止まったためかビルに融合していた町屋らしき建物は消えており、初めから何事もなかったかの様な景色になっていた。
「……終わった?」
「そうだと思いてェな……どうもアイツよりもあの子の方がずっと怨みが強かったらしい」
何とか彼らの儀式を中断出来たアタシと翠は急いで夜ノ見町へと向かう事にした。町まではもう少しであり何とか今日中に辿り着けそうだった。百さん達がきちんと拠点まで戻れたか少し不安だったが、今は自分達のやるべき事を優先し、電話するのはやめておく事にした。
十数分程足早に歩いていると突然翠が「あっ」と声を上げた。彼女の視線は上空へと向いており、その顔は愕然としていた。いったい何があったのだろうかと視線の先を追ってみると、そこには大空に寝そべる様に浮かんでいる巨大な人型の何かが漂っていた。




