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日奉家夜ノ見町支部 怪異封印録  作者: 龍々
第弐拾参章:世界混濁
71/85

第71話:百、紫苑。菖蒲、

 耳に聞こえてきたのは白い怪異が放っていた奇妙な呪文だった。先程と同じ様に車の窓へと張り付いており、後部座席では紫苑ちゃんが見えない何かに抵抗をしていた。私の時間遡行は成功したらしく、丁度一分前へと辿り着いていた。

 このままカーブを曲がって振り落としても完全には振り切れなかったのを前回の時間軸で確認しているため、今すぐにでも行動を移すべきだと確信した。


「捕まって!」

「っちょっと!?」


 アクセルから足を放すと素早くブレーキを踏み込み急停止させる。そのおかげで白い怪異は止まるのが遅れ前方へと吹き飛ぶ様にして転がっていった。紫苑ちゃんはシートベルトをしていたおかげか負傷している様子は無く、逃げるのであれば今しかないと考えた私はギアをバックに入れ、なるべく速度を出しながら後退していった。白い怪異は一本足しかないにも関わらず、奇妙なバランス感覚を見せながらゆっくりと立ち上がり始めた。


「何なのあいつ……! 普通の奴じゃないっぽいけど……」

「日奉の資料ではまだ確認されてないみたいだけど、ネットで似た話を見た事あるよ~……」

「似た話?」

「そ。山道をドライブしてた親子が、まさにあんな見た目の怪異に遭遇したって話」

「詳しく聞かせて」


 その話では娘にその白い何かが憑依してあの時の紫苑ちゃんと同じ様に「はいれたはいれた」と言い出したらしい。やがてその発言は「テン……ソウ……メツ……」という言葉へと変わっていくそうだ。そしてもし、そのまま49日が過ぎれば二度と元通りになる事はなく、一生正気が戻らないという事らしい。それは女性にだけ取り憑く事が出来、その名を『ヤマノケ』というらしかった。


「そういう事……」

「実は……さっき時間を越えたの」

「じゃあ……」

「うん……紫苑ちゃんに取り憑いてた……」


 ヤマノケは完全に立ち上がると、再び腕や体を滅茶苦茶に振り回しながらこちらに向かって走り出した。普通に走っていても追いつかれた事から考えても、バックしている車に追いつくのが容易い事は明白だった。


「姉ちゃん、来る!」

「……まずいね」


 今過去に戻っても事態を大きく変えられる行動は起こせそうになかった。ヤマノケに対処するためにはあれから逃げ切るか、あるいは倒す必要があった。しかし車に追いつける速度を出せる相手から逃げ切るのは困難であり、今ここで倒すという選択肢しか残されていなかった。しかし私の中ではある疑念があった。それはあのシシノケと同じ様にヤマノケもまた山の神格の一つなのではないかという点だった。


「姉ちゃん降りよう」

「うん……!」


 この狭い車内にいつまでも留まっておくのは不利になると考え外へと出ると、こちらへと走って来ているヤマノケを正面から迎え撃つ様に立つ。


「あたしがやる。姉ちゃんはサポート」

「……危なくなったら逃げるからね」


 紫苑ちゃんは私を守るかの様に前に立つと、まだ自由に動かせる左手をスッと顔の前で構えた。怪異に対する直接的な攻撃方法を持っているのは今は彼女だけであり、そんな彼女を守れるのは私だけだった。もしどちらかが倒れればそこで詰みとも言えるのだ。


「テン……ソウ……メツ……テン……ソウ……メツ……」

「来いクソ野郎!!」


 目前まで迫ってきたヤマノケにその左手が伸ばされ、体へと接触する。触れてすぐその手は引かれ、ヤマノケの体は力を失ったかの様にバランスを崩して倒れ込んだ。紫苑ちゃんは左手にヤマノケの魂を掴んでいるらしく、左手を近くのガードレールから突き出す。


「だ、大丈夫なの紫苑ちゃん~……?」

「捕まえたよ。……それで、どうすればいいの」

「えっ?」

「こいつ……もしかしたら神格かもしれない。姉ちゃん、どうする?」


 魂に接触出来る紫苑ちゃんは触った相手がどれくらいの霊力を持った存在なのかが分かるらしい。そんな彼女が触って神格に近い存在だと感じたという事は、それに近しい存在あるいは神格そのものという事になる。シシノケを殺害した際に起きたあの事例を考えると、これもまた迂闊に殺すのは危険な予感がした。


「動きを……封じるだけっていうのは出来るかな?」

「……出来なくはないよ。それでいいんだね?」


 そう言うと紫苑ちゃんは空中に放る様な動きをすると左手を横薙ぎに払った。


「これで大丈夫だと思う」

「何したの?」

「あいつの足を切り落とした。これで体の方に戻っても足は動かせない」

「じゃあ今の内に!」

「行こう」


 道路に倒れたまま動かないヤマノケをそのままにして車に乗り込むと、私達は亜実つぐみへと向けて再び走り始めた。山道は市街地とは違い人があまり通らないためか、乗り捨てられた車などはどこにも無くどんどん進む事が出来た。やがて山を抜けて田舎町へと出た辺りで紫苑ちゃんが声を上げた。


「どうしたの?」

「……病院」

「え?」

「東雲病院に行って」

「紫苑ちゃん今は……」

「急いで! あの子が!」


 鬼気迫る表情を見て彼女が何かを感じ取ったのだと察した私はアクセルを踏み込み、速度を上げて急いで今居るこの田舎町から出る事にした。彼女が入院していた東雲病院は日奉一族の一人である真白さんによって管理されている施設である。


「一体どうしたの~……?」

「さっき……姉ちゃん言ってたでしょ。あいつはあたし達みたいな女に憑くって」

「うん」

「さっきあたしはあいつを攻撃した。殺してないけど攻撃したんだ。あの時……あいつ笑ったんだ。魂だけだったけどあたしには分かった。あいつは笑ってた」

「まさか……」


 かつてのシシノケの一件が頭をぎる。あの時シシノケは殺しを行った私ではなく、末っ子である菖蒲ちゃんの事を祟った。確かにあの時見える位置には居た。紫苑ちゃんも菖蒲ちゃんも顔を見られていた。しかし何故あの子だけを狙ったのだろうか。何故私だけを祟らなかったのだろうか。両親を殺した理由は何なのだろうか。あの祟りは、まだ序曲に過ぎないのではないだろうか。


「シシノケの本当の狙いは……私……?」

「……かもね。ヤマノケの本当の狙いはあたし」


 彼らの本当の狙いは自分を傷つけた者を祟る事なのではないだろうか。あえて相手と血縁関係にある人物に呪いをかける事によって、狙っている相手に強い憎しみを抱かせる。そして増幅していった激しい怨みはやがて対象を蝕んでいき死に至らしめる。死んだ人間の体からは更に強い怨みが伝播していき、やがて自らが神として知れ渡り崇められるまで続けるのだろう。あくまで私の想像に過ぎないが、シシノケが直接こちらを狙ってこなかった事を考えると有り得るのではないだろうか。もしこの考えが正しいとすれば、紫苑ちゃんに攻撃されたヤマノケが狙っているのは菖蒲ちゃんだろう。唯一の血縁である私に何も起こっていないという事は、狙われるのはあの子だろう。


「もしあいつがあの時のシシノケと同じタイプなら……きっと同じやり方をしてくる」

「またあの子が……? どうして……」

「分かんない。でも嫌な予感がする。多分あいつはあの子を狙ってくる。さっき笑ってたのも、あの子の居場所がバレたからかもしれない」

「……掴まって」


 最悪の事態を避けるために速度を上げる。本来であれば日奉一族としての任務を優先しなければならない。すぐにでも茜ちゃんの指示に従って亜実地区にある拠点に戻らなければならなかった。しかし、今の私には、私達姉妹には、それよりも優先しなければならない事が出来てしまった。他の全てを犠牲にしてでも守らなければならない家族が居る。

 街を走り続けてなんとか東雲病院へと辿り着いた私達は急いで車から降りると急いで院内へと駆け込んだ。受付には人が居らず、ロビーには患者の姿すらなかった。


「ここの人も避難出来てるみたいだねぇ……」

「あの人は居る筈でしょ。バカネからの指示も受けてるだろうし」


 二人で階段を上っていき菖蒲ちゃんが入院している階へと辿り着くと急いでナースセンターへと向かった。そこには一人で業務を続けている真白さんの姿があった。老体であるにも関わらず疲れた様子を見せずにパソコンやモニターと向かい合っていた。


「真白さん!」

「あんたら何してんだい? 茜から指示が来てないのかい?」

「違う! あの子! 菖蒲は!?」

「あのおチビちゃんなら寝てるよ、相変わらずね。それで? あんたら何しに来たんだい」

「えっとそれがですね~……」


 亜実地区へと向かっている最中に遭遇したヤマノケについて話そうとしていると、突然紫苑ちゃんが病室がある方へと走り出した。焦燥しているためやってもおかしくなかったが、ヤマノケが何を仕掛けてくるか分からない現状では一人になるのは危険な行動だった。


「紫苑ちゃん!!」

「待ちな馬鹿!!」


 慌てて後を追いかけようとしたその時、菖蒲ちゃんが入院している部屋の前に到達した瞬間、紫苑ちゃんの体は何かに弾かれた様に倒れた。明らかに異常な反応であり、急いで駆け寄ってみると意識を失っている訳ではなかった。しかしその顔色は悪く、血の気が引いている様子だった。


「姉、ちゃ……っ」

「紫苑ちゃん! 紫苑ちゃん!」

「退きな!!」


 真白さんは私を押しのけると、その皺だらけの手を紫苑ちゃんの額へと当てた。私自身が直接その様子を目撃した訳ではないのだが、真白さんには『細胞を活性化させる能力』や『細胞の働きを探知する能力』があるらしい。


「……体調がおかしい訳じゃない。それだってのにこれは……」

「ま、真白さん! 紫苑ちゃんは!?」

「科学的に証明出来る病状じゃないね。こんだけ顔色が悪くなってりゃ体のどっかの細胞に反応が出てる筈だ。なのにそれが無い。これはもしかすると……」


 言葉を続ける前に紫苑ちゃんは真白さんを突き飛ばし、ドアにもたれ掛かる様にしてスライドさせた。体の調子が優れない様な動きであり、明らかに先程倒れた際に何かをされたのは間違いなかった。


「真白さん大丈夫ですか……?」

「ったくババアに無茶するね……。紫苑! 戻りな!」

「……」

「紫苑ちゃん!」

「姉ちゃん……まずった……あたし、ミスった……」

「えっ……?」

「あいつは……魂、出すべきじゃはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれた」


 まるで紫苑ちゃんの言葉に無理矢理重ねる様に無機質な声が発された。その声は確かに彼女本人の口から発されているものではあるものの、そこに何か別の誰かの声が混ざっているかの様な不可解な声だった。そしてその言葉は一度私が車の中で聞いたあれと全く同じものだったのだ。そして最悪な事に、突然の事で驚いて駆け寄るのが遅れたせいか既に一分が経過していた。

 紫苑ちゃんはヤマノケの真似をする様な動きをしながら病室へと入り、ベッドで眠り続けている菖蒲ちゃんへと近付いていった。


「はいれたはいれたはいれた違うはいれたはいれたお前なんかはいれたはいれたはいれた出て行はいれたはいれたはいれたはいれた」

「紫苑ちゃんっ!!」


 何とかして彼女を止めようと部屋へと駆け込むと、何故か彼女の体はベッドの横を通り過ぎて窓際へと移動した。ギプスを付けている右腕もお構いなしに動かしながら窓を勢いよく開け放った。


「し、紫苑ちゃん……?」

「紫苑! そこで止まりな!!」

「はいれたはいれたごめんはいれたはいれたはいれたあたしのせいだはいれたはいれたはいれた」


 彼女の次の行動が予測出来た私は目を瞑り、一分前の情景を脳内に浮かべる。上手い対処法が思い浮かんだ訳ではなかったが、彼女を救うにはまずこれしか方法が無かった。真白さんが横を走り抜ける音が聞こえ、何か鈍い音が外から響いたところで私の意識は過去へと跳躍した。


「姉ちゃん……まずった……あたし、ミスった……」


 戻って来たのは紫苑ちゃんがミスをしたと言っていた時間帯だった。ここから彼女が窓から飛び降りるのはすぐであり、まず私がすべき事は一つだった。

 部屋へと入らない様に抱き寄せる。


「紫苑ちゃん駄目! 戻って!」

「姉ちゃん……はいれたはいれた無理なんはいれたはいれたはいれたはいれたあたしはいれたはいれた魂はいれたはいれたはいれたはいれた引っ付いはいれたはいれたはいれたはいれた」


 恐らく本人の意思とは違う言葉の合間に割り込む様にいつもの彼女の声が発されていた。もし私の解釈が正しいのだとすれば、ヤマノケは紫苑ちゃんの魂に固着している状態であり、そのせいでヤマノケの魂だけを体から抜き取る事が出来ないだろう。


「紫苑ちゃん……落ち着いて。私未来から戻って来たの。紫苑ちゃんさっき……窓から飛び降りてた」

「はいれたはいれたそれしはいれたはいれたないはいれたはいれたあいつだけはいれたはいれたはいれたはいれた掴めなはいれたはいれた」

「ちょっと何が起きてんだい!? あんたら何を相手に!」

「真白さんごめんなさい……多分私達が相手にしたのは山神の類です。きっと今紫苑ちゃんに憑いてるのも……」

「……やってくれたね。アタシじゃどうしようもないよ?」

「分かってます……」


 怪我の治療などが専門の真白さんに山神の相手をさせるというのは無茶な要求だった。しかし、こういった怪異を相手にするのが得意な紫苑ちゃんが憑依され、上手く力が使えない現状ではヤマノケをこの体から追い出す方法は無さそうだった。


「紫苑ちゃん、絶対お姉ちゃんが助けてあげるから……もうちょっとだけ持ち堪えて……」

「はいれたはいれた無理はいれたはいれたはいれたあたしもはいれたはいれたはいれた出来ないんはいれたはいれた」

「諦めないでよ……翠ちゃんなら、茜ちゃんならもしかしたら!」

「…………」

「紫苑ちゃん?」

「百、下がりな」

「何言ってるんですか真白さん……!? 放したら紫苑ちゃんが!」


 その時、突然私の足から力が抜けた。立っている事が出来なくなり紫苑ちゃんと共に床へと座り込んでしまった。異常を察した真白さんは私を助けようと手を伸ばしたが、彼女もまた同じ様に近寄った瞬間足から崩れ落ちた。真白さんが倒れる直前、紫苑ちゃんの折れている右手がその足に触れていた。


「なっ……!? 紫苑あんた!?」

「違いますよ真白さん……折れてる腕でここまでする子じゃないです……」

「……まさか」

「テン……ソウ……メツ……テン……ソウ……メツ……テン……ソウ……メツ……」


 最早彼女の意思そのものまで呑み込まれてしまったのか完全に無機質な声へと切り替わっていた。紫苑ちゃんは抱きかかえている私の腕に触れると、力が入らなくなった腕を潜り抜ける様にして病室の方へと歩き始めた。何とか止めようとしても手も足も動かず、バランスを崩して床へと倒れる。


「紫苑ちゃん!!」

「テン……ソウ……メツ……テン……ソウ……メツ……」


 紫苑ちゃんの体は痙攣を始め、またヤマノケの動きを模倣するかの様に腕や体を滅茶苦茶に振り始めた。まだ完全に治療が済んでいない彼女の右腕は本来であれば曲がらない方向にも曲がっており、口から発されている声にはそれによる痛みの様なものはまるで感じられなかった。

 何とか打開策を見つけるために目を瞑って再び一分前の情景を浮かべていると私に呼び掛ける声が聞こえた。その声はしっかりと感情を持った紫苑ちゃん本人の声だった。


「紫苑、ちゃん……?」

「テン……ソ姉ちゃん……メツ……これし……ソウ……メツ……テン……ない……メツ……」

「何、言って……」


 紫苑ちゃんはこちらの問いには何も返さず、左手で自らの首を掴むと引っ張る様な動きをした。すると菖蒲ちゃんのベッドにもたれ掛かる様にストンと座り込んだ。頭はがくりと下を向いており、左手だけは何かを掴んだ様な形で上がっていた。

 彼女がやろうとしている事に気が付いた私は地面を這う様にして少しずつ近付く。最早時を越えるための頭は働かなかった。一分前の景色がどんなものだったかも思い出せず、心臓は最悪の事態を予感して激しく拍動していた。


「駄目っ……お願い、駄目っ!」


 あと少しで紫苑ちゃんの所へ辿り着くといったところで紫苑ちゃんの折れている筈の右腕が空中を払う様に動く。それを合図にする様に彼女の両腕はパタッと床の上に落ちた。

 頭の中が滅茶苦茶になった。認めたくなかった。戻りたかった。必死に目を瞑った。景色景色、景色を浮かべようとした。見えない。私の位置。あの子の位置。真白さんの位置。その時の姿勢。何一つ浮かばない。


「ごめん」


 声が聞こえた。もう何年も聞いていなかった声が私の耳に入って来た。頭を上げてみると眠っている菖蒲ちゃんの小さな手が紫苑ちゃんの頭に触れていた。


「許して」

「菖蒲ちゃん……?」

「姉ちゃん。ごめん」


 その声は間違いなく菖蒲ちゃんのものだった。しかしその口調は彼女のものではなく、紫苑ちゃんによく似ていた。廊下から真白さんの声が聞こえてくる。


「どうしたんだい!? 紫苑は!?」

「……紫苑、ちゃん?」

「あいつをやるにはあれしかなかった。あのままだったら、姉ちゃんも菖蒲も殺られてた」

「……」

「あたしの魂ごと殺した……と思ったんだけど」


 少しずつ手足の感覚が戻り始めた。どうやら一時的に動けなくなる程度に紫苑ちゃんが手加減してくれたらしく、先に感覚が戻った真白さんが病室へ入って来た。


「その子……」

「真白さん……し、紫苑ちゃんは……」

「あたしの体は死んだ。戻ろうと思ったけど、上手く戻れない。それに……」

「喋ってるのおチビちゃんじゃないのかい……? その口調……」

「……ごめん。あたしでいられるのはここまでみたい」

「え、し、紫苑ちゃん何言ってるの? 待ってお姉ちゃんが何とかして……!」

「駄目。それじゃあこの子が助からないから」


 紫苑ちゃんが言いたい事が分かった。今の彼女がどういう状況なのかが分かった。

 感覚が戻って来た体を起こし、座ったまま動かなくなった紫苑ちゃんを抱き締める。きっともう彼女とは二度と会えないのだから。もう戻せないのだから。


「大好きだよ紫苑ちゃん……」

「……あたしも、姉ちゃん」


 その言葉を合図にする様に紫苑ちゃんの体はすっと冷たくなった。彼女の人生が今ここで終わったのが体温を通して伝わってきた。

 真白さんは隣に膝をつくとその手を紫苑ちゃんの頭へと伸ばした。数秒触れた後、静かに首を横に振った。


「残念だけど……」

「分かって、ます……」

「……もう行きな。戻らなきゃいけないんだろう?」

「もう少しだけ……ごめんなざい、もう少し、だけ……で、いいですから……」

「……そうさね。決心がついたらすぐに出るんだよ」


 そう言うと真白さんは気を遣ってか部屋から出て行った。部屋に残されたのは血の繋がった私達姉妹だけとなった。姉として妹を守る事が出来なかった私と、姉として妹を守るためにその命を差し出した紫苑ちゃん、そして眠り続けている妹だけがそこに居た。


「ねーね」

「……?」

「ねーね、ここどこ?」


 顔を上げるとベッドの上で上半身を起こしてキョロキョロと周囲を見渡している菖蒲ちゃんの姿があった。長い間昏睡状態だったせいか体の成長もほとんど進んでおらず、喋り方もまた当時のままだった。


「あや、め、ちゃん……」

「ねーね」

「おはよ~、菖蒲ちゃん……」

「? おはよー」

「よく……よく、眠れた~……?」


 何かが胸の奥から湧き上がってきそうだったが、それをグッと堪えて立ち上がるとその小さな体を抱き締める。太陽の様に温かい体温だった。


「しーちゃんがねー、ぎゅってしてくれたの」

「そっか……そうだよね~……あの子なら、そうするよねぇ~……」

「でもねでもね、しーちゃんどっかいっちゃったの。あやね、しーちゃんよんだの」

「うん……」

「そしたらね、しーちゃんいないけどこえしたよ」


 やはりそうだった。紫苑ちゃんは自分の魂ごとヤマノケを切り裂いた。本来であればそのまま死亡する筈だった彼女の魂は菖蒲ちゃんの中へと入っていったのだ。いつでもこの子の側に居られる様にそうしたのだ。


「しーちゃんね、『ずっといっしょにいるから』っていってたよ」

「そうだね……私も、ずっと一緒だよ~……」


 目元に溜まっていた涙をぐっと堪えて残された最愛の妹を抱き上げる。これ以上は情けない姿を晒せない。日奉一族としての任務を果たさなければならない。菖蒲ちゃんを、紫苑ちゃんを助けるのは私なのだから。

 部屋から出る時、菖蒲ちゃんは動かなくなった紫苑ちゃんをじっと見つめていた。


「しーちゃんなんでふたりいるの?」

「紫苑ちゃんは一人だよ。これまでも、これからもね」


 ナースセンターに戻っていた真白さんに頭を下げるとそのままロビーへと向かった。真白さんは菖蒲ちゃんを連れだす事には何も言わなかった。この状況で一人でも戦力が欲しかったからなのか、それとももう大丈夫だからなのかは分からなかったが、いずれにしても私は妹を救う事が出来た。

 ロビーから出ようとした時、救急隊員によって担架に乗せられた一人の少女が運ばれてきた。顔色が悪く、この状態で運ばれてきたという事は何かの怪異に巻き込まれた可能性があった。


「あれ……二人……?」


 すれ違いざまに一言喋った彼女は何かの歌の様なものを歌いながら階段の方へと運ばれていった。


「ねーねさっきのひとだれ?」

「ごめんね、お姉ちゃんも分かんない。それよりほら、お家行こうね~……」

「おとーさんとおかーさんもいる?」

「……今はちょっと遠くに居るんだ~。色々収まったら、ね」


 ここまで乗ってきた車の後部座席に菖蒲ちゃんを座らせてシートベルトを付けさせると、運転席へと乗り込みエンジンをかける。

 今まで私は自分の力を使えばやり直せると思っていた。もちろん過去を変える危険性は常に隣り合わせだったが、それでも時間遡行能力は私にとっての切り札だった。しかし今日の事でようやく分かった。私のあれはやり直しの能力ではない。過去を変えるための能力ではない。あれは『先延ばしにする能力』だったのだ。


「ねーね?」

「あっ、ごめんね~。お家行こっか~」


 紫苑ちゃんは死亡する運命だったのかもしれない。思えばコトリバコの時も温湖詩歌の時もそうだった。あの子はあの時死亡していた。私が過去へと戻って干渉したからどちらも回避出来た。今回もそうだと思っていた。しかし結果はこうなった。あの子の運が尽きたのかそれとも私の運が尽きたのか、いずれにせよあの子は肉体的には死亡した。先延ばしにし続けたあの子の死が因果となってとうとう追いついてきたのだ。


「ごめんね……」

「いいよ」

「えっ?」

「どーしたの?」

「……菖蒲ちゃん何か言った?」

「ううん。あや、なにもいってないよ?」

「そう……そっか」


 深呼吸をして気合を入れる。

 今は先延ばしにしちゃいけない。私が出来る事をしなければ世界が変わってしまうかもしれない。雅ちゃんも翠ちゃんも碧唯ちゃんも雌黄ちゃんも茜ちゃんも、皆頑張っているのだ。今度こそ、今度こそ私が守らなければ。

 私の成すべき事を成すために、私はアクセルを強めに踏んで亜実地区へと車を走らせた。紫苑ちゃんの覚悟を無駄にしないために。菖蒲ちゃんを今度こそ守るために。

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